岩手県一関市田村町5-42にある「世嬉の一酒造」敷地内には「初恋神社」がありました。
![初恋神社(岩手県一関市)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/24/e77a59596bc5b41a1c7d375bb0e0d686.jpg)
初恋神社の傍らの説明版です。
『 この神様は、氏神様・蔵の
神様・お稲荷様です。社殿は
閑院の宮様が当社にご宿泊の
みぎりに建てた建物の一部
(車寄せ)を用い、平成六年
に建立しました。
この地は若き日の島崎藤村
が恋に傷ついた心をいやし、
自らの運命を切り開き、やが
て文豪へと羽ばたいて行った
飛躍の地でもあります。
この縁から初恋神社のニック
ネームで親しまれています。』
とあります。
※閑院の宮様 ― 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865年11月10日~1945年5月20日、日本の皇族、伏見宮邦家親王第16王子)
![初恋神社(岩手県一関市)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/85/4a0c4de33f0024912b60d8c6abd9837c.jpg)
恋みくじもありました。
![初恋神社(岩手県一関市)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/1e/d19841ec9dd39d720cd2d7c6b8c6340d.jpg)
「世嬉の一酒造」敷地内にある一関の地と藤村との関係を記した説明版には、
「わが国の近代文学にそびえ立つ大作『夜明け前』を著した
文豪島崎藤村(1872~1943)は、明治26年9月
から10月にかけて、一関の豪商「熊文」こと熊谷家に寄寓し、
長男太三郎に英語を教えるかたわら、清遊のときをすごしま
した。ここは、その「熊文」の跡地です。
藤村の一関来遊は、キリスト教伝道の旅で当地に来た友人
北村透谷の紹介によるものでした。当時21歳の島崎は、
明治女学校の教え子で、いいなずけのある佐藤輔子を愛した
ことで苦悩し、さすらいの旅の果てに、一関へ傷心の身をは
こんだのでした。ところが一関は、輔子の少女期をはぐくん
だ地であったのです。この奇しき二重の縁により、島崎と一
関のゆかりは濃いものがあります。
遂げられぬ愛の苦しみだけでなく、文学的にも混迷と模索
の過程にあった時だけに、当地の美しい山水とこまやかな人
情に触れた思い出は、忘れ難く藤村の胸に刻まれたと思われ、
昭和12年にも再訪しています。一関行きのことは『春』や
『眼鏡』に描かれており、太三郎との交友のことは『家』に
も表れています。
一関を去ってから4年後、藤村はようやく自己の文学の夜
明けを迎えます。わが国の近代詩の出発を告げる『若菜集』
の誕生です。一関滞在は短かったものの、抒情詩人として出
発する若き藤村にとって、この北の風土と温かな人情は、彼
の文学の夜明け前の揺籃であったと言えるでしょう。
文学の蔵設立委員会」とあります。
![島崎藤村文学碑](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/16/612574cbd0e0e6d9a9e06874ad1d806d.jpg)
「あゝ 自分のやうなものでもどうかして生きたい」
![島崎藤村文学碑](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/48/d8c310e071de93bebe18cd411e10f4c1.jpg)
中庭に藤村文学碑がりました。
「ここは、島崎藤村の寄寓した豪商
『熊文』の跡地である。
碑文は、藤村、その友北村透谷、
思慕の人佐藤輔子ら明治の青春群像
をえがいた名作『春』より採った。
藤村の文学をつらぬく基調音として
名高い独白である。
藤村、透谷、輔子とも一関にゆか
りがあり、藤村の一関曽遊百年・没後
50年を記念し、この碑を建てた。
1993年 夏
文学の蔵設立委員 」とあります。