美術館のサポーター控え室の本棚には、
関連の本や、今は一般公開していないVIDEOとかあって
ノートに必要事項記入するだけで
お隣の県立図書館に足を運ぶまでもなく
比較的自由に借りることが出来ます。
で、志村ふくみさんの本を2冊。
字のサイズ・数から言えばさらっと読み終えるとおもいきや
特に『母なる色』の方は、時間が掛かりました。
□ □ □
以前、別の本を読んだ時の印象より
ストロングな文章。
凛としているというより
どっしりと根を張った木のような
重みのある強さ。
その根は、さまざまな分野の養分を吸収して
今も、遠くへ遠くへ成長を続けていて、
豊かな感性や知的な思考は広がる枝。
そして、作品は花。
大きな桜のような人だと感じました。
今日、返却する前に、特に心に残った部分を抜粋。
『母なる色』 P64~
(四)山の手帖ー密なる通路
「ここに独りでいること、-それ自体が、喜びなのではないのさ。
ここにいることで、今をいきているという
意識が鋭くなる、それが喜びなのさ。
そのためには独りの方がいいのさ」 (『伊那谷の老子』加島祥造)
この言葉はそのまま私の生活を語っているような気がする。
老境に入る、とか、死が近づいている、とかの意識もまた、
生きているという意識が鋭くなることかもしれない。だから、
特別孤独になる必要はない。ともいえるが、やはり身近な
人達や交際のまっただ中にいるいるとつい意識は鈍くなる
ような気がする。そんな中でますます意識を鮮明に生きてゆく
ことができればそれは達人だろう。
私は時々この山の中の家へ来て生活しはじめると、何となく
自分の輪郭がはっきりみえてくるような気がする。
自分ばかりではない、身近の人達も、仕事のことも、
行く末のことも、鳥や草々や川の流れのことまで鮮やかな
光と影を伴ってみえてくる。そしてそれが善いことも、
悪いことも、喜びも哀しみも、ある均衡を保って私の中で
みえてくる。これは私が七十という歳月を生きてきたからだろう。
満ち潮があるように、豊かに実りの時があれば、どこかで必ず
潮は干いていて、木の葉が散っているはずだというあたり前の
ことを、幾度となく限りなく見てきて、身に楔が打ちこまれる
ようなこともあって、そこから芽が萌え出るようなことも
あって今の、こういう状態がやっと均衡を保って自分に
与えられているのかと思う。
月の中天にかかる森のうしろにして、蜘蛛の巣が空間に
かかっている。風に揺らぐでもなく、儚げでも、寂しげでも
なくただ空間に銀の糸を、これ以上の精微な紋様は考え
られないほどのたしかな存在でかかっている。それがどこかで
私の内部と通路を密にしているような気がする。
全身で共感を感じるようで、いや、私の気持ちなどは
浅くて、わかるような気がするけどまだまだ薄っすら
表面的に感じているだけだとも思う。
ジンワリと、大事に心に留めて・・・年月がたってから
また、味わってみたい一節だ。