安堵町 歴史民俗資料館 ~「灯芯ひき」と「天理軽便鉄道」
近場であるのに行ったことがないというスポット、奈良県生駒郡安堵町へプチトリップしてみた。
安堵町は奈良盆地のほぼ中央、大和川と富雄川が合流するあたりに位置する、のどかな田園の中にある。
「安堵」という、心安らぐような地名だが、実際には地勢的にも昔から水害に苛まれた地域であったろうことは容易に想像できる。
白壁の重厚な造りが特徴の「安堵町歴史民俗資料館」は元庄屋の今村氏の邸宅を活用した展示施設。
奈良県再設置運動(明治時代に一時消滅した奈良県を再設置に導いた運動)に尽力した、今村勤三の生家だ。
江戸時代から伝わる古文書や、日々の生活で人々が使用した民具の数々が展示されているが、町の伝統産業であった「灯芯ひき」の展示に特化した資料館でもある。
安堵町では低湿地を生かした藺草(いぐさ)栽培が盛んだったという。
近代陶芸の巨匠、富本憲吉は安堵町の名士。
「灯芯(とうしん)ひき」とは、藺草(いぐさ)の「ずい」を専用の道具を使って取り出す、江戸時代より続く安堵町伝統の技術のことで、「灯芯」は寺社の灯明や、和ろうそくの芯などに用いられる。
今や安堵町以外では、全国的にも見ることが難しく、日本の灯りや伝統祭事を支える貴重な技として脈々と受け継がれている。
「灯芯ひき」体験会が催されていた。
もうひとつの見物は「天理軽便鉄道」のジオラマで安堵駅周辺。
天理軽便鉄道は大正4(1915)年大阪から天理へ向かう天理教信者の短絡線的需要を見込んで開業。
国鉄関西線法隆寺駅前の新法隆寺から東へ天理まで運行していました。
当初はコッペル機(蒸気機関車)が小さなボギー式客車をひいて一日13往復。
新法隆寺・天理間9㎞の所要時間は34分だったということです。
6年後の大正10(1921)年には大阪電気軌道(のちの近鉄)に買収され、その一年後には平端・天理間が標準ゲージにされ大阪から天理へのメインルートは西大寺経由になり、762ミリのまま取り残された平端~新法隆寺間は1945年に営業休止し、昭和27(1952)年に正式に廃止となりました。 (ウィキペディア)
廃線跡が今でも田園風景の中に残っているという。
まるで、ボンネットバスのようなガソリンカー。
菜の花畑の向こうに聖徳太子の巨大な案山子が立っている。
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