カンフーの気の遣い方は私にはいまだ新鮮だ
それは今までの私のアプローチからは
真逆の立ち位置にあるからだと
最近思うようになった。
何が違うのか
書こう
:
五次元は
思考から始まった。
思考が宇宙と己の存在を明らかにする
すると、様々な思いすべての思考を成り立たせるためには
空間の存在がなくてはならないことが分かってきた。物理学もそうだ
つまりその先になって初めて、気の存在が具体的な形で思考に現れてくるのである。
ところがカンフーは
その気が真っ先に取り上げられて、身体に現れる実感を自分と受け止めるのである
それは思考ではなく、体験なのだ。
気の体験が論理を上回るのは容易にわかる
私にとって幸運だったのは
思考の探求が、空にたどり着いたためかどうかは分からないが、
苦悩に堕ちない状態が久しく続く。その後で、カンフーに巡り合ったということだ。
おかげで論理と体験が同時にやってきた
五次元思考の正しさが
体の振動で
わかるのである
体験としてやってくる至福
胸いっぱいになるこの喜びを
論理に落とし込んだら
素粒子と地球が
同時に意識されていることがわかる。
それは四次元思考ではなしえないのである。
五次元思考のスケールの概念がなければならないと思う。
これは私の体験からにじみ出てくる現実なのだ。
気の流れは身に染みてくるものがありますね。
私の場合だと、
私はコア(腹筋)が弱くて使えず苦悩してたときがありました。
去年の夏あたりです。
私は普段は無口ですが、個人レッスンの時には
思っていた疑問を全部ききます。
先生にコア筋肉の使い方が分からないし、
分かってきても感じられないと、
感じるにはどうすべきかとききました。
先生はコア筋を使った場合と使っていない時の筋肉の差を
私に直接触らせるのです。
先生の筋肉を直接触ると
見ていて、想像する時の感じの差が
激しく驚きます。
気の認識や感覚は
他人の感覚を自分の感覚体系を通ってくるので
理解したつもりでも
それはその人が感じる気でなく
自分がそうであろうと推測した気にすぎません。
その人の感じる気と
私の感じる気が交流すると
第3の気になり、
Aが言っているもの、Bが受け取ったものは
同じCにならないのです。
Aの気
Bの気
AB両者に同じ温度、強度を共有するには
肌を通して伝わる直接伝達が有効かもです。
いつか、機会が巡ってきたら
そのカンフの人の
気を直接肌で感じるように頼んでみてください。
例えば、こぶしを捕まえてみるとか、
触って、のしてんてん様が思い描いた気が
似たような強度、温度であれば
多分、天才的な共感力を持っていると言えるでしょう。
自分の中にあまり余計な結論を作りすぎない、それも気を放つ一つの余力かもです。
追伸:私のブログに鋭い解釈のコメントを残してください本当に励まされました。
本来ならそこに続けてコメントお返しすべきですが、
同感や感謝のことばだけしか出てこないようで、
何も書けずにいました。
無視ではないことを伝えるためにここに補足しておきます。
ご存じの通り、私は思考からやってきた者です。それがここにきて「空」に行きつきました。「空」が私の意識に触れてくる姿がつまり「気」なのです。
理論的に「空」は私自身であり、その存在を直接的、現実的に触れるものが「気」であると理解できるようになりました。
ところが思考、つまり理論による理解は「気」を第三者的にとらえることしかできない。それが私のジレンマでした。
そこにカンフーが現れたのですね。私もカンフーを知りませんが、桂蓮さんとほぼ同じレベルで、カンフーと気の関係を理解できる気がするので^す^
実際に触れてみて、私は自分の論理では第三者的にしかとらえられなかった「気」を、自分の肉体と全く同じレベルで自分自身だと捉えられることが分かったのです。
桂蓮さんの言われるように「Aが言っているもの、Bが受け取ったものは
同じCにならない」これが真実だと私も思います。
そしてその事実から考えれば、私が彼の真実を探ることは不可能だしその必要はない。そう思います。
つまり、自分の考えが正しいか間違っているかを、彼の中に探すのではなくて、ただひたすら自分の気を受け入れるしかないわけです。正否をひっくるめて自分であるという思いを持つことなのだと思うのですね。
「気」をつかむことで自分を超越したり成長させるという考え方や意識は四次元的なのです。
五次元でいえば「気」は私そのもの。気によって超越したと思うのは実は本当の自分に出会っただけの話なのですね。
その仮定したXから出た(出たとする)Y変数をかけると
-1✖-1=➕1
? ✖ ?=ー?
昨日観たトーキュメンタリーに出てた数式を見て
宇宙の調和を一瞬で感じましたね。
虚数の変数を虚数で掛けると-1になるようですね。
のしてんてんさんが証明したい、或いは判明したい次元は、私のような現実主義者には
虚数のような、非現実のような
無体性がありますが、
虚数は飛行機の飛行経路を計算する上で
最も必修らしいですね。
虚数無くして飛行の通行、運行もあり得ないようです。
話が飛んでしまいましたが、
マイナスの世界は見えなくても
確かに存在しています。
ゼロは見えなくても
確かに存在してますよね。
それら見えないもの
つかめないものを
物体、つまり画面に線として
存在させる役名、いや使命を担った者
それ、芸術家の宿命というものでしょうかね。
私が発信している暗黒面は人間の認識能力にあるものです。それは案外簡単なもので、
大きさを認識する力の裏側にあるものなのですね。
誰もが皆自分の大きさを知っています。しかしそれは認識によって作り出されたもので、実際に大きさが存在するのではないという気づきが大切だということなのです。
実在するものと、認識とは違う。その違いを見極めることで真実が見えてくる。それが五次元のアプローチなのです。
それが芸術家の宿命かどうかは分かりませんが、どんな方法であれ真実にたどり着くことが大事だと思いま^す^