前回の記事に引き続いて、私が体験中である第三の自我について書いてみよう。
まだなかなか言葉がこなれなくて分かりにくいかもしれませんが、
この発見に興味ある方は、しばらくお付き合いください。
前回書いたように、私は今、苦に陥らない心もちが続いている。
その記録がそれから一週間伸びたことになる。
なぜそうなるのかよく分からないという意味のことを前回に書いたが
これからお話しする第三の自我を考えていたら、なんとなく分かってきた。
順番に論理を重ねて行って、出来るだけ理解してもらえるように努力をしてみようと思う。
回りくどいと思われる方は、どうかご容赦下さい。
大まかに言って、自我に対する認識が成長していく流れは次のとおりである。
①、、生まれる。まだ自分に気付かないで生きている時期・・・・・・・・・・第一の自我
②、、自我の目覚めを体験し、自分の身体を個別に意識できる人間となる・・・第二の自我
③、、身体を包んでいる空間に気付き、空間を自分と認識できる人となる・・・第三の自我
簡単に言うと、
①は、ただ存在を生きている時期
②は、物質を主体に認識する時期
③は、空間を主体に認識する時期
②は我々現代人そのものである。この身体だけが自分と考え、時間に追われながら生きている人生である。
そこから③に進化するためには、物質と同じ程度に空間を認識する能力を身に付けなければならない。
五次元とはそれを可能にする思考方法なのである。切り離せない空間を個別化して認識する。
それは時間の概念を越える、新たなスケールの概念に気付くことなのである。
ここまでではばかげた話だと、見限られて終わるだろう。
しかし、
問題は、見ることも触ることもできない空間を、物質のように認識できるのかと言う問いかけなのだ。
そんな問題に本気で付き合ってみようと思う人だけがここに残っている。
そしてこの地点が今回の話しの入り口なのである。
素粒子が浮かんでいる空間がある。
同時に太陽や地球を浮かべている空間が存在する。
この二つの空間を考えると、
それはどこにも切れ目のない一つの空間でしかないことがわかる。
たった一つしかない空間に、二つの空間を区別して識別できるような「顔」がないのである。
つまりこのままでは空間を細かく識別し認識する手掛かりがないのだ。
しかし科学は空間にエネルギーと言う「顔」を作りだしたのである。
空間とはエネルギーのたまり場である。
そのエネルギーは波動によってあらわすことが出来る。
波動とは波である。
波は振幅と波長によって成り立つ。
実は、
この波長がスケールの概念によって認識可能となるのだ。
たとえば波長が何ミクロンの空間とか波長何万キロ、あるいは何万光年の波長をもつ空間
というように、空間を識別できるのである。
するとその空間ごとに浮かんでいる物質の形が見てくる。
素人(モトヒト)の世界とかヒトの世界、あるいは神人(カミヒト)の世界というように。
(素人→ヒト→神人とは五次元を語るための私の造語で、
素人=素粒子の上に棲む、素粒子人
ヒト=素粒子宇宙の身体を持つ地球人
神人=銀河を無数に集合した身体の人
という意味である。実在するしないの議論ではないので、念のため。)
逆に言えばスケールの概念は波長の存在によって保障されるのである。
私の体内には素人がいて、
私のいる太陽系は神人の体内宇宙である。
そんなイメージを思い描けるのは時間の概念ではない。まったく新しい思考の次元、スケールの違いを認識する力が必要なのだ。
スケールの疑念は実際の波長のスケールを思い浮かべて、極大、極小の世界を思い描く。
時間の概念が、時間の流れを思い浮かべて、過去、未来の世界を思い描くのと同じである。
空と言うとらえどころのない空間が、
波長を意識することで、このように空間のスケールの世界を識別できるのである。
素粒子を浮かべている空間は超微細な波長のエネルギーであり
地球の浮かんでいる空間は現に我々が感じる波長のエネルギー場だったのである。
(科学者なら、地球の浮かぶ空間も素粒子空間も簡単に波長計算できるだろう)
波と言うのは、全てが合成されて一つの波にもなるし
一つの波を無数の波に分けることが出来る性質を持っている
空間はどんなスケールの波動にも対応できるのだ。
そこで重要なのはエネルギーである波動である。
波動とは何か。
それを深く探れば、回転運動に行き着く。
エネルギー不滅の法則を満たすためには、エネルギーは無限に続かなければならない。
そう考えるとエネルギーは無限軌道を走る回転運動しかない。
エネルギーとは回転運動のことである。
素粒子も回転している。
地球も太陽も銀河も回転している。
そして波動は回転そのものである。
波は回転運動が螺旋になったものなのだ。
螺旋を進行方向から見たら回転運動をする円に見える。
そう言えば月は地球を螺旋に廻っている。
地球は螺旋に太陽を回っている。
自転と公転を合わせると螺旋軌道になるのは私にも分かる。
全ては回転で成り立つエネルギーであり、
それは波長のスケールで区別して認識できるのである。
つまりこれが空間を主体として認識するという意味なのである。
さて、ここでようやく、
私が苦に堕ちない境地に立ったという話である。
苦も楽も、心の全ての現象は物質ではない。
物質ではないということは空間の属性と言えるのである。
空間はエネルギーである。
エネルギーは無限の回転によって成り立つ。
すると心もまた回転していることになる。
表題の図をもう一度見てほしい。
図の赤い線が心の回転をモデル化したものである。
その上に緑の線で示したように対極の感情が向き合って回転円の上に並んでいるのである。
心はこのように回転して動いて行く。
結果それが螺旋になるのだ。
苦はこの回転運動の中に必然的に現れる感情の一つなのである。
その喜怒哀楽に苦しむのは、囚われるからに他ならない。
苦に囚われ、喜びに魅せられ、グルグル回転運動をしているのだ。
賽の河原の悲劇は、この回転運動をただの円運動としか理解できないレベルが味わう地獄なのだ。
悟ったと思う尻から落ちて行く経験も、まさにそうだと分かったのだ。
何度も何度も同じ経験を繰り返す。
しかしそうだと分かったなら、
私達は重要な深い事実に気付くのである。
それは人間の喜怒哀楽もまたエネルギーの波動だということなのだ。
何度も何度も同じ経験を繰り返す正体は、心のエネルギーだったのである。
終わりなく繰り返すのは回転運動の特性である。
しかしこの時、
この時まさに気付いたのだ。
水の入ったバケツを振り回すと分かることだが、
私はその中心にあって、バケツを引き戻そうと力を出している。
その力でバケツは無限運動を繰り返す。
そうだ!!
心に現われる喜怒哀楽の回転運動にも中心があるではないか。
その中心は
繰り返す回転運動の度に少しづつ前に進んでいる。
スクリューやプロペラと同じ原理がそこにあるのだ。
すなわち螺旋なのである。
螺旋の正体は、その中心にあって回転運動を与えている力なのだ!!!
それこそが
私と言う空体の真の姿なのだと
今の今、気付いたのだ。
すなわちこれが
第三の自我に他ならない。
第三の自我とは、もう少し砕いて言えば、
生きる上で必然的に起こってくる感情、喜怒哀楽を
自分につなぎ止めているエネルギーであって、それは心の芯に他ならないのである。
なぜかは分からないが、心は間違いなく自らに起こってくる感情を、
必死で捕まえて引き戻そうとしている。
回転するものにはすべて回転軸がある。
勢いよく回る独楽は不動の姿勢を保ち続ける。
この回転軸こそ第三の自我なのである。
この第三の自我に出逢ってから
今に至って
私は苦に陥らなくなった。
私はどんなに偉い聖人でも、自分のことであっても、鵜呑みにはしない。
正しいかどうかは私のすべてをかけて、自分の意識の中で検証するしかないと考える。
その検証が一ヶ月と二週間続いたが、この境地は崩れないし、
この足場を固めてさらに這い上がって行こうとしている気力を感じている。
私の手の届かないところから流れ込んでくる何かがある。
その力が、
何故落ちないのかと言う私の疑問に
正面から答えを与えてくれそうな気がするのである。
次回まで私の心が堕ちなければ
なぜ苦に堕ちないのかを
私の論理に置き換えて
表現してみたい。
もちろん堕ちれば
どこかに誤りがあることを認めて
今、心に有る答えは陽の目を見ることはない。
またやり直すだけだ。
そこには限定的空間(肉体とか)も超えられ、時間も超えられるので、苦からの解放もあるのでしょう?
苦というのは、空間、時間への囚われ以外の何ものでもないことが分かります。
素人、神人という仮称は面白いですね。自己内、内在的なことも、超越的、普遍的なこともホントは一つになっているのでしょう?
私の場合、ずっと感覚的なのですが、より概念的?な説明も大変参考になります。
今後の研鑚、多いに期待してます。
現臨に向き合って、精神的なことは五次元と言う認識方法が役に立つかも知れない。そう確信して、眠り以外の意識の中で目下検証中ですが、肉体にはどんな影響を及ぼすのか、これも未知数で、体験しなければならないことでしょうね。
半分冗談ですが、
本題はとてもうれしいのです。
自分の力で現臨=空体と寄り添っておられる方から、このような評価をいただけるとは、期待以上のことです。
この心もちに居座ることなく、その謎を解き明かす(不可能ですが)その意志を持ち続けるための、何よりもの力です。
共に歩めるという想いは風景を二倍にしてくれます。
ありがとうございまし^た^