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複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

第三の自我 体験記(五次元思考)

2023-01-22 | 5次元宇宙に生きる(心)

 

第三の自我発見と言うたいそうな表題を冠した前回記事の手前、私の体験を書かずにはおれないでしょう。

と言うのも、まだ私にはその資格があるようなのだ。

苦に陥らないという状況がまだ続いているのである。

と言っても数日前、大きな苦のエネルギーが現われたことがある。

どんな苦なのかと言う、私のプライバシーに触れるつもりはないが、

ともすれば自己否定の伴う苦の、救いがたい闇が私に現われたのである。

今までなら決まって、

その苦にまみれて胸の痛みと石牢に閉じ込められたような窒息感におののいていた。

その苦が過ぎ去るまで耐えるしかなかった。

つまりそれを私は苦に堕ちると表現しているのだ。

 

だが、うれしいことに、

その苦は私にとって極めて客観的に思われた。

五次元のイメージが私を救ってくれているのが分かった。

私にやって来ている苦は表題の図の「哀」にあたるとイメージしたのだ。

するとその対極に「楽」がある。

心に現われた苦がどんなに強くても、その対極に楽があって引き合っていると思うと

そのイメージが、苦に執着する心を和らげてくれるのだ。

引き合う力の真ん中を中心にして私の感情は回転してゆく。

このイメージが苦を客観的に眺めることになる。

この客観的と言う言葉が重要なのだ。

感情を客観的に観るということは、

四次元の心を離れたということなのである。

ものごとを観、感じている本体のことを主体と言うが、

つまり、観る者=主体、観られるもの=客体と言うことなのだが、

本来、主体だった四次元の心(感情の流れ=苦)が客体に替わったのである。

観る者が、観られるものに替わった!

 

では観る者はどこに行ったのか。

そこに、探し求めた答えがある。

言うまでもなくこの時、主体は心の回転軸、すなわち五次元に移ったのである。

要するに四次元の認識が生み出す喜怒哀楽の波を

五次元の認識が主体となって眺めるようになる。

これが次元を超えたという意味なのである。

 

この認識の仕組みからその進化の流れを整理しておくと次のようになる。

①三次元が主体の人間は、まだ客体が現われないために自我も目覚めない。

②四次元が主体の人間は、三次元を客体にして自身と世界を認識する。

③五次元が主体の人間は、四次元を客体にして自身と世界を認識する。

 

こうして見ると、

人間の進化というものは、つまり認識の次元を上げて行くということになるのかも知れない。

そう考えると、私が苦に堕ちなくなったというこの実感を

なんとなく理解できるような気がするのだ。

いつの間にか③に足を踏み入れたのかも知れないということだ。

 

ただし私の場合、

分かるのは四次元の自分を客観的に観ることが出来るということだけで、

五次元が主体であるのかどうかまでは分からない。

と言うより、もし分かったと思ったら、

その時点で五次元さえ客体になってしまうだろう。

分からないけれど在るもの

これが五次元の主体なのである。

 

私はただ感じるしかない。

しかしこの感覚はいずれまた別の機会に譲ることにしよう。

 

この主体をイメージとして思い描くなら

次のように考えられる。

 

図の赤い螺旋のように自分の心を思い描くと、

螺旋の中心が黒矢印のように認識できる。

その矢印に意識を向けると、私は太い矢印そのものになった気分になる。

すると自然に、私の頭から足元にかけて、天地を貫くスケールのイメージが矢印に見えるのだ。

この矢印は、無限に小さな世界から無限に大きな世界を同時に含んだ世界であり、

その全ての世界は今この時に同時に重なって実存する存在なのである。

その存在は極大に向かっても極小に向かっても

無限の彼方に消えて行くスケール軸で表され、

人間には到底認識不可能な存在と言うしかない。

五次元の主体は分からないというしかないのである。

そんな主体が五次元世界を描き出すのだ。

 

そんな経過をたどって、私は苦をやり過ごす。

苦に陥らないというのは苦を無にするという意味ではない。

むしろ逆に、苦を受け入れ、そこに続く喜怒哀楽のすべてを、やってくるままに受け流していくのだ。

心の螺旋運動をイメージすると客観的にその流れを見ることが出来る。

それが心にこだわりを持たないという

般若心経の主題が意味するものではないかと

私は図を描きながら気付いたのである。

 

見てのとおりこれは論理である。

絵に描いた餅に過ぎない。

(絵かきが言うのだから本当です)

この餅は貴方の胃を満たしはしないが、

それどれの背負って生まれてきた本物の餅に気付く。

そのための、なにがしかの方便となるだろうと思うのだ。

 

 

再掲した図を見ながら、その意味するところを書いてみよう。

興味ある方は以下も読み進めて頂きたい。

 

この図は、人間の成長を段階的に表したもので、

認識の三段跳びとタイトルを付けたのだが、

その通り認識の成長を表している。

ホップ・ステップ・ジャンプ

である。

 

 

ホップの意味は特に言うべきこともないのだが、この世に生み出された実在そのもののことである。

その実在から認識が成長してくる。それが人間のスタートと言えるだろう。

つまり認識こそ人間そのものなのである。

人間は実在を背負いながら、認識を成長させていく稀有の存在だと言えるだろう。

 

その認識が成長して、まずとらえたのが時間である。

実在の三次元に対して、認識が発明した時間の概念を付け加えたという意味である。

これによって認識は、四次元世界を描き出すことが出来るようになった。

それが赤い螺旋の矢印で表した図なのである。

 

時間とは物質に対する変化の認識であり、刻一刻と変化する世界を連続する一つの現象だと理解したのだ。

この認識が科学や経済を生み出し、世界を発展させたのは言うまでもないことだが

その裏側で、様々な苦悩を生み出したのだ。

その苦からの救いを求めて、様々な宗教が生まれたのも、認識の成長願望だと思えるのである。

 

認識の成長願望が最も顕著に表れているのが科学に他ならない。

空間に対する認識の挑戦は、時間軸を螺旋に変えるまでになった。

自転しながら公転する。

これは物質が意志を持って動いているのではない。

むしろ空間の力であると考えた方がより合理的であり、空間は何もないのではなく、むしろエネルギー体なのだと理解するのである。

それが見えぬ空間の実体、見えぬ実存の姿なのであろう。

 

認識の成長願望が作り上げた宗教と科学が

共に空に意識を向けた時、次なる認識の成長が始まったのだ。

それは次元を超えた成長だったのである。

 

それが図の黒い矢印なのだ。

回転するエネルギーの中心に、動かない場所がある。

それを空間の実体だと知る。

これは認識の次元を超えた成長を表しているのである。

 

五次元(スケール軸)による世界認識。

このスケール軸の認識こそが

次元を超えると云い得るものなのである。

 

今まで宗教や哲学でしか言い表せなかった世界観が、

五次元認識によって

誰もが認識できるようになる。

これが人間の第三の進化だといえるのだ。

 

その進化が

第三の自我への気付きとなるのである。

 

 

 

 

 


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