(髪の毛の拡大図・・・・かもね)
知識とは単純に考えると、認識したものごとの記憶だということが出来ます。学習や体験から新しい認識が生れます。そしてその度に知識は増えていくわけですが、それを支えているのが記憶の働きだというわけです。
先日、機械と人間の囲碁対決のニュースに触れましたが、ゲームを観戦していると、双方の記憶の仕組みにまずその違いを見ることが出来ます。
機械の記憶は(0と1)の集積です。そこに感情の生まれる余地はありません。なぜなら、自ら「よい」・「わるい」の評価を持つことはないからです。
アルファー碁は、終盤笑ってしまうような、プロだったらけっして打たない一手をうちました。それはつまり機械にとって妙手も悪手も同一の価値だということです。そこにあるのはただ。0と1の計算だけなのですね。現われてくるのは、計算の結果だけなのです。
したがって機械の記憶というのは、その計算の蓄積だけであり、コンピューターの性能は、その蓄積された計算をいかにさばくかというスピードに左右される訳です。
人工知能の中身は、自動計算ですが、その内側を見れば、真っ暗闇だということがわかりますよね。機械に心があると仮定して、その心の中に入っていくと、何が見えるでしょう。「よい」・「わるい」に基づく喜怒哀楽のない心とは、ただ闇があるだけですね。
機械は己を知らないのです。
人間は違います。人間の記憶の本質は、全く機械にはないものなのです。
それはつまり、ものごとを、感情とともに記憶していくことにあります。
この図は、意識から認識が生まれていく過程を図示したものですが、人間の記憶は、まさにこの過程をそのまま経験に変えていく働きをしているわけですね。
私たちは知っています。自分がどのような人生を送ってきたのか。どのような喜怒哀楽を体験してきたか。善悪は何か。愛とは何か。どうしようもない弱さと、比類ない強さを重ね持つ心。
すべてそれは、感情を記憶していく、いのちのシステムから生まれたものなのです。
人間の知識は、常に個人の中で、ゼロから始めるしかないといいましたね。
機械は10を知れば、次は11から始めればいいのに、人間の知能は例外なく最初から同じ道をたどっていかなければならない。それはまさに、このいのちそのものを記憶していくという構造からすれば、必須の重要な課題だったのです。
機械の心が闇だとすると、私たち人間の心の光とは何ですか。
それはただ一つ、「気付き」なのですね。
私たちは、だれもが自分に気付いていますね。何を見、何を考え、今何をしているか。この身に感じるすべてにわたって、私たちは知っています。
この知っているすべてを、眼を閉じているときでさえ、私たちは自分という存在を介して気付いているわけですね。まるで光の中で、己を見るように。
まさにこの光が、機械の闇とは相いれない人間の奇跡だと私は思います。
深い深い気付きに入って行けば、やがて人は、自分が何者なのかに気付く。そんなときがくるのかもしれません。
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