(心のかたち・・・・箱虫といいます。のしてんてんの箱を切り取って生まれました。)
先日このブログにいただいたコメントの一節です。
言葉...とても難しいです。
言葉を発する事で相手を喜ばしたり、傷つけたり、
自分が嬉しかったり、悲しかったり。
言葉は、悩みます。
私たちにとって「ことば」とは何なのかと云う思いに応えてくれるメッセージですね。良きにつけ悪しきにつけ、「ことば」は人間の象徴です。
しかし何度も見てきましたように、真実はことばを超えたところにあるのですから、人間は常にこの真実と言葉の間を振り子のように揺れ動くことになるのです。喜びと同じ数だけ悲しみがある。そんな風にも思えます。
そんな心模様をながめていると面白いことがわかります。この波のように繰り返される喜びと悲しみの正体は、思考方法が切り替わっている結果だったのです。
つまりそれがプラス思考とマイナス思考です。己を肯定する思考と否定する思考と言い換えてもいいでしょう。
言うまでもなく、真実に近づく思考に私たちは喜びを感じ、その逆の思考には悲しみを感じるのです。
そういうと、最愛の人の死を悲しむのは真実ではないのかと反論される声が聞えそうです。しかし考えてみてください。「死」こそ人間が作り上げたことばの産物の親分のようなものです。私たちのマイナス思考の中核ではありませんか。
真実の中には「生」も「死」も存在しません。あるのは永遠の肯定です。
5次元宇宙を思い描いてください。スケールの世界を思い描くのです。すると「私」のこの身体は、真空の中に浮かんだ素粒子のかたまりですし、私たちの立っている地球は、神ヒトの体を創っている素粒子の一つだという空想が出来ますよね。
その認識を広げていくと、私たちは皆、ただ一つの空間に浮かんでいる素粒子の集まりなわけですね。この世界のどこに生と死があるでしょうか。あるのは空間の中で、素粒子の集合が変わっていくだけですね。
しかも、私たちが踏んづけているこの地球は、神ヒトの体を創っている素粒子だという理解も重なって、大胆にも私たちは自分が神そのものの体の中に棲み、なおかつ自分自身が神であるというイメージさえ持つことが出来るのです。
これは言葉ではなく、真実にたいして抱く最大限の世界観だと言えるでしょう。
真実に身を置くと、私たちは存在するだけで満ち足りている。足りないものは何一つないということが見えてきます。永遠に空間は在り、ものは永遠にあり続ける。質量保存の法則というのを高校で習った覚えがありますが、五次元宇宙を思い描くだけで、無機質だった科学が深く心に結びついてくるのです。
そしてそこにあるのは、肯定ですね。五次元はこのように存在そのものに入っていく思想であって、私たちに真実を気付かせてくれるのです。
それは四次元の時間の概念とは対照的です。
この五次元の絶対的な肯定は、私たちに最高の喜びを与えてくれるに違いありません。その喜びを一瞬でも味わうことが出来れば、私たちはありのままの自分を受け入れることに希望を抱くことも出来るのです。
こうして己を受容する力は徐々に成長していくでしょう。
やがて「ことば」から解放される時が来るかもしれません。そうなったら私たちは、悩みを持たないで「ことば」を道具として使いこなせる新人類に進化するかもしれないのです。
己に対する受容は苦悩を踏み台にして成長します。
その成長は、苦悩の殻を突き破って芽を出す双葉のように、初々しく輝くのではないかと思えるのです。
ただ、この若葉は、何度も何度も、しおれ、枯れてしまいます。つかみとった喜びにしがみつきたいと思う心が若葉を殺すのです。
ですが、真実に軸足を置く限り、やってくる苦悩の実から若葉は何度も芽生えてきます。
私たちの心からいつか、その喜びへの執着さえも消える時が来るでしょう。
その時、私たちの自己受容は、宇宙そのものに到達するのではないかと思えるのです。
そうなったら、私たちは気付くかもしれません。
至福とは、宇宙の波動だということを。
真実の中には「生」も「死」も 存在しません。あるのは永遠の 肯定です。
これ、なんとなく分かります。
分かったと言っても、子供の時には、死と言うものが怖く考え、悩んだこともありました。
が、今は、「生」も「死」も 存在しない。
そう感じる事が出来ました。
まあ、自決は良くないですけどね!
なんだろう?ある女性、もう高齢の方だったのですが
糖尿病で足を切断した人がいました。皆には、好かれてなかったのですが、私はその人から何かを学びたいと賢明に足を運んだことがあります。
そしてその人が言ったことが今でも忘れられません。
「私はいつ死んでも後悔はしていない。むしろ、死ぬ瞬間はどんなものかとさえ思うと死ぬことも楽しくなる」と
すごく人生を戦ってきた人です。もうその方は、亡くなられてしまいましたが、私はその人の言葉が忘れられません。
そして、たまに自分の死はどうなるかな?とまで、シナリオ作りながら楽しんでる事があります。頭、おかしいかもしれませんが、笑。
違うんです。「生」も「死」も 存在しない。それを心で感じたからなんです。
けれど、やっぱり大切な人の死は、悲しいですよね!
なんか、のしてんてんさんの伝えたい事と違ってたら修正して下さい。
けれど、「生」と「死」を考えた時、本当に人間が作り出した言葉であり、この宇宙から考えたら私達も同じ物質なのが分かります。
なんだか、言葉で表すのは、難しいですね!
死が近づくまでには、心でちゃんと感じとれるようにしておきます。笑。
大きな目で観れば、生と死は人間のつくり出した幻想だと言えますね。
でも人間のかたちでいられるのは今だけですよね。だから今この瞬間は尊いのだと思います。わずか100年足らずの間、私たちは人間を体験できると考えたら、本当に精一杯この人生を楽しみたいと思えるんです。
楽しみましょうね。