(心の風景:セラミック造形と木の実)
己を受容すると云うのは、簡単に言えば自分をありのままに受け入れるということになります。
ありのままの自分を完全に受け入れることが出来れば、私たちは皆、釈迦と同じ世界を体験することが出来ると思っています。誰もが、釈迦と同じ人間だと言っていいでしょう。物理学的にも生理学的にも、心理学的にも、私たちと一分の違いもないわけです。
ありのままの自分を完全に受け入れる。
私たちの命はそこから始まりました。母の胎内で進化をし、やがて母なる海からこの空間の中にこの身を切り離された。自然そのもの、ありのままの自分を受け入れていた姿がそこにありますね。
意識にも記憶にもありませんが、私たちが最も信頼できる事実です。穏やかな眠りの体験はそれを物語っているのだと思います。
その穏やかな闇の中から刺激を受け取る感覚が生まれ、体内の感覚に「快・不快」の色付けが自然に起こります。
「何」という問いかけが知能の発達を促し、人間は知性の光を手に入れるのです。今まさに見て感じているこの世界は、闇を照らし出した知性の光の及ぶ世界と言っていいでしょう。
闇の中に懐中電灯を照らしますね。すると光の輪の中に物が見えてくる。人間の知性はそれと同じ働きをしているわけですね。
ありのままの自分とは、闇に匹敵します。私たちは生まれたとき、その闇をそのまま受け入れていました。
しかし知性を得た人間は、手にした光に対する理解が未熟なために、この知性の光だけがすべてであるような錯覚を持ってしまうのです。
知性が見せてくれる己の姿を私たちは疑いなく受容して、己を理解する。それは闇の中に照らし出した懐中電灯の光を自分だと思い込むことと同じことでしょう。
知性が見せてくれる自分の姿がありのままの姿だと思い込んでしまうことで、最初の危機が訪れます。それが自己嫌悪ですね。知性の描く理想と、現実とのギャップに心を添わせることが出来ない、若い心が通る道ですね。
成人した私たちの心は、どうでしょう。
私は相変わらず知性による受容が続いていますね。60年以上その姿をみつめてまいりましたが、闇を懐中電灯で照らすようなことをやめられません。というより、これが知性の限界だと思うのです。
慢性の苦悩が相変わらず続いていますが、これはおそらく発展途上にあるためです。その先にあるのは、闇と知性の融合です。知性に置いた軸足を闇の方に移動させることが出来れば、私たちは知性が生み出す苦悩を客観的に見ることが出来るようになるでしょう。そしてありのままを受け入れるということがすべてのことをプラス思考に変えてくれます。
心はプラス思考によって、己を正しく受け入れることが出来るのだと思うのです。すると己の中に富士や夕陽の美しさと同じものを見ることが出来る。
あるいはこうも言えます。美しいものに魅了されるのは、その美しさが己の中にあるからなのですね。それがなければ風景を受容してもその美しさを理解することが出来ないでしょう。この美こそ己だという理解が、自分をありのままに受容することで生まれるということです。
言葉...とても難しいです。
言葉を発する事で相手を喜ばしたり、傷つけたり、
自分が嬉しかったり、悲しかったり。
言葉は、悩みます。
そして、自分
ありのままの自分を受け入れるのは、なかなか出来なかったりします。
けれど、ふとありのままの自分を受け入れられた時って
とても、気持ちが良いんです。
そんな時は、前向きに考えられますね♪
私も宇宙とまじあってると
心の底から感じたい今日この頃です!笑。
長い時間かかって、自分の居場所というのは、自分を許すこと。自分を信じる事だと気付きました。
自分を許すように相手を許す。そう思えてやっと「ことば」の怖れから解放されたように思います。
そうなると、理路さんの言われるように、ありのままの自分をそのまま受け入れて満たされている気持ちを、時々味わえるようになりました。そうですよね。その時には考え方も前向きになりますし、気が付いたら、それってプラス思考をしているって思うのです。
自分を責め始めるとマイナス思考、自分を許して受け入れたらプラス思考というように、自分のとらえ方だけで考え方自体が根本から変わるということも見えてきました。
そんな風に心をみつめていると、案外面白いのですよ。のしてんてん心の旅から、そんな面白さが伝わってくれたらうれしいですね。
理路さんの心の宇宙にしあわせがありますように。