(ラベンダーの放射線・・・・勝手に生えてきて、勝手に株が大きくなって、一年中花が咲いています)
「心」というとなんとなくわかったような気がしますが、実際にはどうもつかみどころのない言葉ですね。それでいて日常会話にもよく使われる大切な言葉に変わりはありません。
広辞苑では次のような意味があげられています
- 人間の精神作用のもとになるもの
- 人間の精神の作用そのもの
- 知識・感情・意思の総体
- おもわく
- 気持ち
- 思いやり、情け
私はこのうち、3番目の意味に注目します。
つまり、心とは知識と感情と意思(自分の思い)の総合的な現われということです。
真実を知りたいという思いは意思であり。その思いに向かって進むところに知識が集まり、その良し悪しの判断に感情が現れる。その一連の関係が心をつくっていると考えられます。それはつまり、人間そのもののことではないでしょうか。
私はこう思います。
人間存在を物として観たら、肉体があり、空間としてみたら、そこに心があるのだと。
心は、一見つかみどころのないもののように思えますが、実はしっかりこの宇宙とつながっているのではないかと思えるところがあるのです。それは言うまでもなく、五次元宇宙で見えてくる空間なのです。
「心は空なり」そんな意味のことをお釈迦様は言ったそうです。その「心」と「空」はどのようにつながっているのでしょうか。釈迦の到達した心と空を、私たちにも観ることはできないのでしょうか。この身を持って体験することは不可能なことなのでしょうか。
私は自分の中にあるかもしれない真実を、絵を描くことで求めてきましたが、深く己を掘り下げていけばいくほど、その先には「空」があるように思えるようになりました。
心の旅は、かつて1500年も前に、釈迦が観た世界に行き着くそんな気がしてなりません。
そう思う最も大きな理由は、私たちが認識することのできる「空間」が、釈迦のいう「空」とよく似ているのではないかと思うからです。
おそらく釈迦は、人間とは何かという思索の中で、この空間の存在に気付いたのではないでしょうか。釈迦は悟りを得ようと苦行を繰り返したと言います。しかし結局それは失敗します。その破綻の末に、突然釈迦は空という悟りを得ました。
これは何を意味しているでしょう。
苦行とは体を痛めつけることで悟りを得ようとする方法でした。煩悩を生み出す肉体から解放される神聖な方法と思われていたに違いありません。
しかしそれは誤りでした。肉体からの執着をなくそうと行う苦行は、逆に肉体への執着を強めるばかりだったのです。肉体から離れようとすればするほど、そのことで心は肉体を意識するようになる。捨てようという思いは、肉体を意識しなければ成り立たないからです。つまり苦行は、常に「有」あるいは肉体の意識を土台にしている。と、におそらく釈迦は気付いたのでしょう。
意識を体から空間に切り替える!!身体にとらわれず、この体を生かしている空間を観る。釈迦の悟りはそこにあったのではないかと思います。苦行からの挫折は、苦しくてやめたのではなく、空間の意味を知ったからこそ、無価値になった苦行をやめたのだと考えられます。
そこから釈迦は空間を観ることを始めた。そう思う事が実に自然のように私には思えるのです。
もしそうなら、私たちが認識する五次元の空間は、釈迦が苦行の末に観た風景と同じだった可能性は高いでしょう。
そうだとすれば、私たちは、薄暗い閉鎖空間のように見える宗教の門をくぐらなくても、自由な己の思いだけでお釈迦様を追体験できるかもしれないのです。
そんな思いを持ちながら、心とは何かという問題に入っていくことにしましょう。
心とは「意思」と「知識」と「感情」の総体である(広辞苑)という言葉に従って、次回からまず意思について考えてみたいと思います。
今回から、カテゴリーを新しく「五次元宇宙に生きる(心)」に変えて発信します。
うまく説明できるかわかりませんが、お付き合いください。
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