(11)2009.11.14(四角い絵)
スケッチブックをもてあそぶばかりで
なかなか絵を描き始めない母。
そんな日があっていいんだけれど、絵を描く面白さが伝わらなくて、戸惑った日。
「今日は四角を描いてみようか」
「そうかの」
母は上の空で答える。やっと少しだけ絵が描けると、私は諦めて散歩に誘った。座っているベッドから車椅子に移る。
靴を履こうとするが指の先が靴にうまく入らない。そのうち靴が裏向いてしまう。
「雨になってしもうたな、おばあちゃん」私は笑いながら裏返った靴を拾い上げて履かせてやる。
外は寒いので、園の中を一巡りして、売店で温かいコーヒーを飲む。
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常に順風満帆という訳ではない。
そんな人生は決してないと言っても言い過ぎではないだろう。
喜怒哀楽は生きている証し。
そして苦悩は留守になった自分の今を哀感で示してくれる。
なぜ面白くないのか、
なぜ 興味がわかないのか、
なぜ辛いのか、
なぜ退屈なのか、
母のそんな姿をみると確かに見えてくることがある。
そう、自分がお留守なのだ。
どこを向いても目標を見いだせない退屈の極み、
それは社会のせいでも誰のせいでもない、ただ己が見えない哀しさだ。
空にさまようマーカーに魂がない。
それは母から伝わってくる波動の、私の感性の受信。
それは四角形をしていた。
投げ返す私の言葉に、ようやく母の手が紙をとらえる。
しかし倦んだ心のほぐれるのは時間がかかるのだろう。
この日、母の気力は数分も続かなかった。
こんな日があっていい。大賛成だ。
私は自分を見失った母を丸ごと車椅子に誘い外に出た。
自販機の
ホッとコーヒーがおいしかった。
そして今、あらためてこの絵を見たとき、気付かされたことがある。
「箱に入れられて、外に出られない寂しい花」
そんなふうに見ていたこの絵だけれど、
そうじゃない。
これはベットの上の母の自画像ではないのかと。
そう気付いたとき、私はあらためてこの絵の真価を観る想いがした。
今、母にそのことを伝えられなくて残念でならない。
世界にはこんな有名な絵もあるんだよ。
お家を描きたかったかな、と思えますね。
四角が完全で無いのは、
そのお家から出たいことを表したかったのではないかと。
お母様の絵は形見として大切に保管されているようですね。
私の生みの母は
私が赤子の時に2歳の姉と父を捨てて家を出ました。
それ以来、私は母という存在を全く知りません。
継母がいたのでしたが、
お母さんと呼べなかったです。
懐かしむ、また会いたい母がいることは
私にはよく分かりませんが、
のしてんてん様には
掛け替えのない存在であることは理解できます。
私には、桂蓮さんの心の中が少し見えるような気がします。
もちろん心の様々な葛藤は私の体験と比類するとは思えませんが、私の場合、父がそうでした。
自分のルーツが見えないということは、己の居場所がつかめないということ。どこまで行っても、これでいいんだよとささやいてくれるものがない。
善くも悪しくも、この点を私たちは共有しているのかもしれませんね。
自己探求の根本原因。そしてそれは今になってもっとも貴重な体験を与えてくれるものと理解できるようになりました。
母には一言も父の話を聞かないまま、宇宙を父とする決心で母と向き合っておりました。
母のデッサンは、懐かしいということもあるのですけれど、それよりも私が密かに思っていることは(って言ってるじゃな^い^)
母が無言で残してくれた父の話しなんだと考えることが出来たのです。
お前の父は「宇宙」なんだと云う母のメッセージだと思えるのですね。
そしてこのメッセージは、きっと人の助けになる。そう思える内容を今自然にひきだすことが出来る。
それは伝えなさいと言うサインだと思って、ブログ掲載を始めたのです^よ^
懐かしむ父はいませんが、その奥の大いなる父を、母が与えてくれたように思えるので^す^
あの包まれそうな優しさはお母様からの深い愛情の基で養えた確かなものでしたね。
片親で育った人は
感受性が一倍強い傾向が見られますよね。
一見弱く見えても
肝心な時には頼れるところがありますしね。
私は母無しで生きてきたことに
自負心や自慢みたいな誇り気な自信感があります。
もし、私に母がいたなら
優しくはなれたかもしれませんが、
一人で日本で生き抜けたことはできなかったかもと思ったりします。
私の父は厳格な人で
優しくされたことは無かったのでしたが、
私の名前、桂蓮を名付けた時は
3か月くらい辞書を調べて悩んだと言ってました。
私はそんな父や韓国の文化(自分の意見をしっかり言う)影響からか、自分に確固たる自覚がありました。
それが強すぎて
坐禅を始めたのですけどね。
参考に英語編をクリックしたら
その英語が英語圏では意味の通じない訳でして、
時間がありましたら
診てもらいたい英訳がありましたら
ここに添付してくだされば、
明日、またここにきますので
その時、みてみますね。
「桂」字は、月桂樹にも使われているように香りが良いという意味があるようです。
お父様は、もしかしたら我が子に対して、
「よい香りを出して人を引き付ける魅力的な人に成長してほしい」という願いがあったのではないでしょうか。
その後ろに「蓮」を付けたのは、まさしく釈迦のように悟りを開いた香りこそ最も良き香りだと、進む方向を示してくださっているのかもしれませんね。
「桂蓮」というのは本当にいい名前だと思います。
その悟りに向かう道筋の中に置かれた環境で、片親というのは、桂蓮さんがおっしゃいますようにとても意義あるものなのだと私は思うようになりました。
しっかり意識して、この環境を受け入れ瞑想して見通せば、おのずと悟りの世界に誘われていくのですね。
じっくり、深く、私たちの共通の世界を対話してみません^か^
私のHPの英訳ですが、恥ずかしいかぎりです。活動がHPから日々更新するブロブに重心が移りまして、HPはほとんど休止状態。資料倉庫のような感覚になってしまっています。(更新していく時間がない、技術もない)状態で、すぐには思いつきません。
けれど、貴重な申し出に心より感謝申し上げます。
いずれ、お願いすることもあるかも知れなせんし、むしろ桂蓮さんの感性で、役に立つものがありましたら、いつでもご利用ください。
心を明かしていただきまして
ただ感謝するばかりです。