(25)2010.2.27(額入り)
今日の絵は直線が多かった。
迷いもなくすいすいと線が引けた。
それが画面を越えて拡がりすぎ、それから先が進めなくなった。
「なっとうしたらええんなら?」
「好きなように描いたらええねん」
さりげなく突き放してみる。
「なっとう描いたらええんか思いうかばなだょ」
「おもわんでええさか、手うごかしてみいな、それで線が引けるやろ」
何度も同じ話を繰り返して、やっと絵の中に入り込む一瞬がある。
その瞬間が最近多くなってきた。
少しずつ母が自分の絵に近づいてきた証拠なのだろう。
それでも今日は「あかん、絵にならんわ。」と母が投げ出す。
「なにゆうてんねん、ええ絵や、見てみいな。」
私は母がギブアップした絵を額に入れて見せた。
「ほんにな、こうするとようなるなぁ」
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母が絵を描き始めたのが2009年の1月だった。
この記事は2010年の2月だから、1年以上お絵かきが続いてきたということになる。
読み返してあらためて思うことだが、
母の心は、すっかり絵を足場にして考えるようになった気がする。
心というものは続けることで、そこに足場が出来る。
知らないうちに、疑いなくそこに立っていて、そこから自分を眺めるようになる。
人の心というのはそういうものなのだろう。要は積み重ねだ。
相変わらず、どう描いたらいいか分からんというけれど、
母の見ている眼は作品に向かっている。
自分の生み出した世界を見、楽しもうとする心が生まれているのだ。(今日の絵は面白くない。それはいい絵を描きたいという思いの裏返しなのだということが分かる)
母の「なっとうしたらええんなら?」は明らかに
どう描いたら自分の心が喜ぶ絵になるのかという意味に変わっている。
一年前の「なっとうしたらええんなら?」は
どうしたらお前(息子の私)の気に入るようになるんだという意味だった。
この差は心の世界ではとてつもなく大きいと言えるだろう。
他人がみたら何の変哲もないことだけれど、みすぼらしい老婆(母だから許してくれるでしょう)にしか見えないけれど、
心にとったら、そんな他人などまぼろしに過ぎない。
額縁がそんな心に
ほんの少し励ましを与えてくれた気がする。
…自分の想いの為に絵を書く、想いを形にする(…なんとなくですが、今回の絵は一本一本の線が長いものが多い気がします。黒もピンクも、紙を大きく使った線が多い、と。)
…のしてんてん様の母様の絵画とのしてんてん様の言葉でできたこの記事。温かみと、心と…いいなぁと想いました! 感謝を。
心の居場所というものは、年齢に関係なく新しい開拓が出来るということを教えてもらったような気がします。
ただ与えられただけの絵が、自分のものになったということに喜びを感じたいと思います。
紙一枚にも無限の可能性があることを気付かせていただいてありがとう。