再び 雪のサザンカ
前回かなりややこしい話で申し訳ありませんでした。説明下手と不足のため誤解も多々あったと思いますので、少し捕捉をして、あらためて別の切り口でイメージについての考えを紹介します。(まだこりてないの?)
前回、ダブルイメージの画像を、これが言葉を持たない古代人の見ている風景だと言いましたが、これは明らかに私の説明不足でした。(今頃?ぷんぷん)
古代人だって同じ風景を見ているのは変わらないですよね。けれど、彼らが見ている風景は、今私たちが見ているダブルイメージの画像のように、何が何だか判別のつかない模様として見ていると言いたかったのです。この判別できない模様(風景)を体験的に理解して頂こうという思いからでした。言葉不足をお詫びいたします。
今回、それを別の道筋で検証してみたいと思います。(やっぱ懲りてないんだよこのヒト)
もう一度この写真を見てください
私たちはこの図を見て即座にこの風景の意味をとらえることが出来ますね。意味をとらえることが出来るということは、その風景に何の疑問も生まれず安心して見ることが出来るということですよね。
そこで、この風景を利用して心の引き算をしてみましょう。みなさんはイメージを働かせて情況を想像してみてください。
①、 もし仮に、「サザンカ」という言葉を知らなかったら、あなたはこの写真を見てどう答えますか?
大概、その名を知らなければ、もっと大きなくくりの言葉を使いますね。
たとえば「赤い花がある」と。
②、 では、色を区別する言葉を知らず、「花」のようにものを区別する言葉を知らないとしたら、あなたはどう表現します?
個別の名前を知らないということは、そのものの持っている雰囲気(感じ)や形を使って表現するしかありませんね。たとえばこうなります。
「寒そうなマダラ模様の中に一つだけ丸い温かそうなものがある」 (なるほど)
③、 それではさらに抽象的な言葉や情景を表す言葉を知らない者にとっては、この風景をどんな形で表現でますか?そんな人間になったつもりで想像してみてください。
抽象名詞も形容詞も知らないという言うことは、寒いという体感があってもそれを使って表現出来ないということですし、サザンカや松の形は云うまでもなく、その形そのものの存在を予感させる言葉もないわけですから、おそらくこの者が出来る最高の表現はこうなります。
「いや~な感じのところに一つだけ気持ちのいいのがある」 (そうか!)
④、 では調子に乗ってきたところで、この「いやな」とか「いい」という、「快・不快」を表す言葉がなかったらどうですか?
ことばがなくても、心地いい・わるいは体感していますね。呼吸や、空腹⇔満腹など、日々快・不快を繰り返していますし、冷たい外気と温かいねぐらというような(+)⇔ (-)のイメージはしっかりあるでしょう。その上でサザンカの花を見てこういうかもしれませんね。
「気になるものがある」 (花は快、プラス感なんだね)
⑤、 ではもし「有る」という言葉を知らなかったら?
「ある」という意識は「無い」ということとセットで成り立っていますね。これを有無の概念と言いますけれど、この場合、サザンカの花を認識するためには「有・無」のイメージを知らなければ成り立たないのです。
つまりこの有無の概念を持たない者は、風景からサザンカや松といった固有のものを取り出して見ることが出来ない。見える風景をひとかたまりで感じているだけということになるのです。
そうするとこの者が目にしている風景を表現するとすれば?、
「これ・・・」
というほかはないでしょう。 (何も言ってないのと同じだね)
「これ」とは、目の前にある風景を何も考えず、ひとかたまりの模様として眺めているだけなのです。サザンカや松などはその模様の中に溶け込んで、それを個別で認識することは出来ないのですね。
結局こんな感じ↓に、見慣れた風景はどこにもないということになるのです。
実際には「これ」という言葉もないでしょう。つまりこの者は光の明暗を見て何かを感じているだけなのです。これがイメージの原型だと私は思っています。(言葉のないイメージだけの世界)
前回、これは原始の人間が見ている風景だと言いましたが、実はこの風景を、あなたも私もかつて見てきたはずなのです。
そう!産れまれ出たその時、赤ん坊から乳幼児の時代、私たちは確かに風景をこのように未分化のまま見ていたのです。はじめて世界を見たとき、それは光だけの世界でした。
その十月十日も前から、外界より自分の身体の生命活動に伴う「快・不快」をベースにして己の内側のイメージをつくりあげていくわけですね。そこから進化が始まるのです。
実際私たちは母親の胎内で原始を体験し魚類から哺乳類へと進化していきます。まさに私たちは太古から現在までを一貫して生きているわけですね。
そして私たちに強い現実感を与えているこのイメージ力もまた、その進化の過程で生み出されたものでしょう。というよりイメージとは私たちの命の実感であると同時に、宇宙の本質とつながるものと私には思えるのです。
しかしやがて知性(何?)が生まれ、人は育みと教えを受けて言葉を習得する。(言葉はもともと己の中にあるのもではありませんね。教えによらなければ自分のものにならないということも興味深いことです。つまり、イメージは自分そのものですが、言葉は借りものだという)
知性は「何?」という問いかけが生まれると同時に、急成長してゆきます。感じている様々なイメージの世界を言葉が細かく分割して世界を理解しようと働くのです。
知性は未分化(未知)の世界を言葉で埋めようとします。その原動力は、未知なるものに対する興味と恐れに他なりませんね。ですからまだ言葉の及ばない領域を魑魅魍魎の世界と感じたり、神秘の世界と思うのでしょう。
やがて私たちはイメージより言葉(論理)の方に重きを置くようになります。論理は確かなもの、イメージは不確実なものという訳です。知性が強くなると本末の転倒が起こるのです。
なぜそんなことが起こるのかと言えば、言葉の力だというしかありません。
未知の理解できない不安の世界は、言葉によって説明のつく世界、根拠のある事態に変わります。そして人はその言葉を信じることで安心を得てきたのです。イメージは揺れ動き不安定ですが、言葉はしっかりと論理の上にあって動かない。
言葉信仰は人間にとって当然のことなのですね。
言葉(知性)は私たちの宝ものであることは言うまでもないことですが、世界は言葉とは比較にならないほど大きいということもまた事実だと言わなければなりません。
この世界をまるごと理解できるものがあるとするなら、それはイメージしかない。イメージで理解(体験)して、それを言葉で現わすという道筋が大切だと思うのです。
今日の 真鹿不思議のドア はこれ
分かり合えるということは本当にうれしいことですね。
それを踏まえて、トラさんに示して頂いた「中動態」の概念はまさに宇宙の思考だと思えるのです。
この言葉で、私はトラさんが見ようとしているものが同じ何だと確信したのです。
これからも、互いに螺旋をえがきながら進んでいきましょ^う^
認識されたものが世界
世界を味わいながら残された世界を認識する。
・・・なるほどよく分かりました。
手段こそ違いますが向かう先は同じであることが理解でき、私にとって大変励みになりました。
お付き合い頂いたことに改めて感謝いたします。
自立させるといううこと、
親からすれば、子が社会の中で生きていけることを確信することが何より重要なことですよね。
そのために心配する、これ親の宿命みたいなものですから、悩みは悩み。正しく悩んであまり難しく考えないで行きましょう^よ^(正しく悩むって何?なんていわないで、プラス思考しましょ)
わたし事ですが、かつて我が息子、電車やバスに乗っても、窓から外を見ることがなくテレビゲームに張り付いていました。こんなことで良いもんかと思っておりましたが、結局その性癖そのままで自活するようになりました。
親が子供の心の中に入り込んで細工することは出来ません。その代り心は自然に育つもの。それを信じてやることが親の務めだと思いますよ。
大丈夫。
大丈夫だよ、むっちゃん。
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上のトラさんの文は思考経路が分かりやすくまとめられていて、とても素晴らしいですね。私もそう思いま^す^
その上で、この双方を良しとするなら、対立は統合する世界に見えてきますね。
言葉が私たちの認識する「世界」を膨らませてきたということ。
そしてその営みを保証してきたのが、「世界」が言葉を内包しているということ。そうでなければ言葉が「世界」を描きだせませんね。
そう考えると見えてくるのが「世界」という言葉です。対立が統合に円弧を描くとき。「世界」の意味が変わっているのに気付きませんか?
一つは認識があろうがなかろうが存在する世界=(言葉は認識されたものとして現れる)であり
もう一つは認識が描きだす世界=言葉は認識の仕方あるいは道具)ということですね。
この構図は、はっきりとある事実を表しています。
つまり、
宇宙の中に私が存在しているのだということです。
このとき、
宇宙とは(認識された世界+認識されない世界)のことであり、
私とは(認識主体)を意味します。
私が長年言い続けていることは、この認識主体を味わいながら、認識されない世界をいかにして体験し認識していくかということなのですね。
その時五次元は重要な概念となると思っているのです^よ^
軽~くお叱り?を受けましたねぇ。
『自立』も『お世話』も、主に精神面というつもりでした。
うーん、表現力不足をお詫びします。
ア、精神面を支えている生身の身体を食わせていくには労働が必要、しかしそう簡単に労働出来るような御時世でもないぞよ、あんたの息子を追い詰めるなこのノーテンキな馬鹿たれが……とのお叱り?をまた受けてしまうでしょうか(笑)。
上手に依存するのは、自立してないと無理~。
そんな感覚、漠然と昔からありまして。
要するに、上手な依存を含め自分なりにたくましく生きていっておくれ、が、私のハハとしての希望です。
そうそう、簡単に死ぬつもりもないっすよ(笑)。
でもいつ死ぬのかは、人知を越えた部分の話。
たとえハハが突然ポックリ逝っても、彼は彼なりに生きていって欲しいのです。
あー、なんか恥ずかしくなってきましたねぇ。なんででしょうか?
柄にも無いこと、言ってるからでしょうか?
自立とは職業を持ち生活する事が可能になるという意味において確かに間違えではないでしょう。
しかし、自立はそもそも労働に依存しているわけですから、厳密な意味においては成り立たないでしょう。
自立とは大変便利な言葉で、労働裁量性や非正規雇用といった企業にとって有利になる制度を条件なしで可能にする自己責任という意味がつきまとっていることも間違えではないでしょう
依存する為の手段は自立するほど容易ではなく
他人の支えが無くては成り立たないものです。
万が一の時にはちゃんと依存できることが必要です。
支えとなるべき親はそう簡単に死ねはしないと思うのです。
何せ歳いってからの出産・子育てですので(関係ない?)、通常のお母さんのように?彼我一体、私の幸せは息子の幸せ、息子はワタシのモノ的な執着は、弱いかなと思わなくもないんです(笑)。
執着に見合うお世話とか、いつまでも出来る訳ない。体力的にムリですので。
私は絶対と言えるくらい、彼が還暦を迎えるまで生きていないでしょう。
意外と体力ありませんので、お迎え早いカモ?とも(笑)。
長くお世話できないのだから、彼にはしかるべき時に自立して、楽しくたくましく人生を歩いていっていただきたい。
彼の自立のサポートを全力でしたい。
自分の寂しさを癒す為の存在にしたくない。
産んだ時から漠然と思っておりました。
な、なんかカッコよさげなのがヤですけど。
では、ご旅行お気を付けて。
いってらっしゃいませ🍀。
「世界」という言葉が、認識の仕方においての到達点だとするならば、
《世界は言葉と比較にならないほど大きい》
と言えるでしょう。
しかし、
「世界」という言葉が、認識においての到達点だとするならば、
《言葉は世界と比較にならないほど大きい》
と言えるのではないでしょうか。
世界が言葉を包摂するのか、言葉が世界を膨らませるのか、「世界」という言葉が意味するものは、認識の仕方なのか、それとも、認識されたものなのか、いずれにせよ、可感的認識能力を持つ主体が無くては成立するものではないでしょう。
逆ではないでしょうか。(トラさん)
「逆もまた真なり」でしょう^ね^
ものごと(世界)を見るというとき忘れがちな、しかし一番大事なことがありますね。
何だと思います?
つまりそれは、見るものの立ち位置、その目の原点です
私たちの感性はその原点からしかものを見ることは出来ません^ね^
何を言いたいのか(そだね~・それはもういいって!)というと、
一つの見方は、必ずその真逆に別の見方があるということです。
面白いのは、その双方の見方を真と認め合うと、相対立するはずの思考が互いに螺旋をえがきながら昇華していくということです。(弁証法みたいなものかな)
寅さんの(ち、違った)勇気ある進言が大きな震源となって、ダイナミックに回転運動をつくってくれる。素晴らしいお付き合いをしていただいていることに感謝申し上げま^す^。^
そのたびに私たちの思考は深まっていくということですね。人間の人間たる所以でしょうか。
言葉は人間の最大の宝もの、あるいは人間そのものと言っても過言ではありませんから^ね^
興味があるということは才能の裏返しで、それがどんな才能につながるのかは、本人には全くわからないし、ましてや親と言えども本人から遠い者に分かりませんよ^ね^
そんな中、むっちゃんの子育ては一つの伝説となりますよ。子供のためにも、是非書き残しておいてあげてください。
文筆を通して己に興味を持ち続けるむっちゃんだからこそ出来る子育てだったのかもしれません^ね^
もちろんこれからも続きます。
無機質への興味を傷つけることなく、有機的な愛を注いでやる。
ほれ、カーリングのブラシのようなものかな。(そだね~)
むっちゃんママ 大合格花丸で^す^
私に合格もらってもシャー内科(そだね~)
ところでむちゃん、かわかみれい個展第3弾、6日~7日(小旅行しますんで)です。私の勝手で予定くみました。
こちらのママもよろしく^ね^
(そだね~、あんたが言うな)
逆ではないでしょうか。
まあ、外へはまったく出ないという訳でも。
幼児の頃から、気候や天気のいい週末、お弁当を持って泉南方面の大きい公園(泉南里海公園など)へ連れていき、半日みっちり遊ぶなんて事をよくやっていましたし。
今でも行きたがります。
遊具や波打ち際での水遊びも好きですが、一番好きなのは公園近くの踏み切り、というところが、個性的と言いましょうか変人と言いましょうか(苦笑)?
エンエン、見ていたいよう。
電車好きなのではなく、あくまで踏み切り。
付き合いましたよ(と言うか、今でも)、エンエン。
遊びに来て、のべ1時間以上は踏み切り見学。
カンカン鳴りながら遮断機が降りる、その一連の動きが面白い様子。
ひたすら踏み切りの前で突っ立ってるのは中々、辛い。通りがかりの人に、胡散臭そうに見られますし(ナンじゃあの親子、渡るの渡らんの?的な…笑)。
遮断機が降りる様を間近で見たいのか、ジリジリと線路へ近付こうとするのもオトロシイ。
さすがに幼稚園生時代ほどの熱意はなくなりましたけど、踏み切りだの警報器だのパトランプだの火災報知器だの、好きですね。
防災エリアメールだの緊急地震速報の警報音だのが鳴ると、飛んで来ます。
動物にも植物にも、基本興味を示しませんねえ。
無機質なものが好きな様子。
まあ、一緒に歩きながら、海で魚が跳ねたねえワカメが浮いてるねえ 、あれはトンビかな?セミが鳴いてるね花が咲いてるね、木の葉が染まってきたねえ秋だね、などと、無視されても言うようにしております(笑)。
聞いてないようで聞いてるようです、確かに。
何はともあれ、彼は彼なりに興味向く部分を伸ばし、明るくたくましく生きていって欲しい。
ハハの願いはそれに尽きます☺。
オタクが居心地良いとなかなか外に出ようとしませんよね。
なんとか外に引っ張りだすことが出来たら風通しができていいと思のですよね。
外食とか、買い物に付き合ってもらうとかして、途中の公園をあるいて見る何て出来たらいいですね。まだ梅の花も残っているでしょうし、サザンカも咲いているかもしれません。
お母さんがうっとりしていると、案外子供は見てるものです^よ^
ところで、マリオの死亡集っていうの、語感から想像するに、マリオの操作失敗例みたいな動画かもしれませんね。
それなら、マリオの失敗を見ていたら笑えますよきっと。
お母さんも出来るだけ子供の世界に入って観るのもいいのじゃないかなぁ
マリオだったら、一緒に楽しめるんじゃないの?
私ぐらいになると、もうコントローラーを持つだけでキーの多さに羽に喰ってしまいますが、むっちゃんならまだまだいけるでしょ^う^
最後のボヤキ?、思わず笑ってしまいました。
そーなんですよね。
我が子であっても、ナニに興味を持つのかさっぱりわからないんです。
こちらが面白かろう思っても、イマイチ、ばっかりで。
まあ、チマチマ色々と体験する機会は与えよう、くらいは思っていますけど。
しかし、カウントダウンの動画や、ゲームのキャラクターがゲームオーバーになるシーンを集めた動画(スーパーマリオ・死亡集、などという動画)を繰り返し繰り返し見せられても、リアクションに困ります〰。
ドコがツボなのかわからないんです(苦笑)。
最低限にしか否定しないよう、気を付けていますが。
おかーさんは悪いけどようわからん、とか。
まあ、手探りでやっていくしかない、というところでしょうねぇ。
さすが主婦の味。ありがとうございました。
お煮込みのとおり、4月の創作展に向けての準備です。集大成は、この心にこそ必要なことで、理想は自分を悟りにまで導きたい訳です。
その中には当然、美人好きオトコの悟りもありますし、ダメ亭主の悟りも含まれております^よ^
どんな些細な己にでも、その必要性を見つけてやる。
当然人間として最低な蔑みの対象となる自分にさえ、必ずあるはずの意味と巡り合う。
そんな修行と言えばいいでしょうか。(言葉にするとかっこよくなるのが嫌なんだけど、要するにスケベ親父にはスケベ親父の真実があるってことですワ)
そんなことで、私の子育てをお尋ねですのでお答えしますと、
子供には放任主義を想わせて、こけたらいつでも手が出せる位置にいてやるみたいなことかな。
なるべく興味はのばしてやりたいですよね。ハラハラしながらですけど。
興味を誘導するようなこともしましたけど、大概失敗でした^ね^
ゲストとホスト、一粒で二度美味しい?贅沢を味わう機会を与えていただき、有り難いと思っております、むっちゃんでございます。
前回、ナンだか七めんどくさい話が始まったなあ、などと思っておりましたが、要するにマスターが今までこのブログで発信してこられた事をまとめる、見直す、そして次につなげる、と。
その一連の流れをこの『イメージについて』のコーナーで扱う、と。
そういう感じでありましょうか?
『わかりません』のむっちゃんにも、ようやくその概要が見えてきたような。
安心してコーヒーをいただけそうです(笑)。
雑談ですが。
私の弟に赤ちゃんが生まれ、楽しくも大変なお父さん一年生を彼はやっている訳です。
漏れ聞くところによるとズリバイを始めた甥っ子、掃除機が大好きで、掃除を始めると突進してゆくのだそう。
ウチの愚息も機械モノが大好きで、数多くの家電製品をやたら触っては息の根を止めてきた(笑)恐ろしいヤツですが、さすが従兄弟、傾向が似ていますねえ。
それはともかく。
彼らにとって『掃除機』は『轟音をあげて動き回る面白いモノ』なのでしょう。
こころゆくまで『轟音』を鳴らしたり切ったり、色々と吸い込ませたりしたくてウズウズする、とても魅力的なナニか。
『掃除機は掃除をする為の機械。基本バッチいからしつこく触らない!(故障するし)』などという大人(親)のリクツなんざ、彼らにとっては意味ないでしょう。
その好奇心を大事にしたい反面、家電を壊されたらフトコロが痛むとか、埃を嘗めたら健康上問題がとか、そういう部分との兼ね合い、親十年生(もうすぐ十一年生)の私ですが、まだいくらか迷いがありますねえ。
マスターはその辺、どうなさっていました?
ア、もっとアーティステックな話の方が、こちらのコーナーには相応しかったカモ。
子育て相談してどーする。
失礼しました〰。