イメージに溶け込む振り子
前回の記事で紹介した心の振り子のイメージ図がこれです。
この図を読み解くための大切なポイントは、縦の座標であるスケ―ル軸にあるのですが、それが「私」の身体そのものを現わしているということでした。
具体的にいうと、原点が今のこの自分と認識できる現実の世界を表しています。
そして そこから極大に向かっては、私のいる地球を「私」の身体だと認識して見る世界。その地球がいる銀河を「私」身体だと認識して見る世界。というように、「私」の身体を無限に拡大していくことで見えてくる世界を表していました。
この考えは、「私」は地球なくしては生きていけない。だから地球は「私」
地球は太陽系なくしては存在しない。だから太陽系は「私」
銀河も同じですね。そのおかげで生きているということは、その大きなくくりを一つの命と見ることが出来るのですね。銀河から切り離されたら「私」は生きていけないということです。つまり見方のスケールを変えれば、「私」は宇宙と言えるのです。
逆に、原点から極小に向かう座標軸は、この「私」の身体を自分の細胞と認識して見る世界であったり、その細胞を創っている一個の原子を「私」の身体として見る世界など、身体が無限に分割されて極小の大きさになっていくときに出逢うであろう風景を想像してみる座標軸です。
このように、スケールの軸は、無限に自分の身体の大きさが変わると想像したときに見えてくる世界のイメージを表している訳ですね。
さて、今回は、同じ図を下敷きにして、時間軸を心の変化に対応してみました。
これは、私の考えの基本で「心は時間と共にある」という思いから描いて見たものです。時間の代わりに、心に現れる喜怒哀楽を座標の上に現わしてもたのです。
スケールの軸に「私の最大の身体を表す」と書いたのは、先に書きましたスケール軸の説明でも分かって頂けると思いますが、スケール軸は「私」という概念(身体の大きさ)を最大まで示しているという意味です。
私たちの心は、決して人には知り得ないし、人の心を見るすべはありません。しかし私はそれを持って孤独とは考えないのです。
心はきっと、同じ原理で動いている。己の苦しいことは他も苦しいし、喜びもまた同じだと。
それは五次元の概念で見た当然の帰結でもあるのですが、たとえば心を苦悩という大きなくくりで見た時の、私たちの共通の原理を次のように見ることが出来ます。
時間軸の両極を(喜び)と(苦悩)に置き換えただけの図ですが、この図から読み解けることは、喜びにしろ苦悩にしろ、それは大きくなればなるだけ、本体、つまり「私」の身体から心が離れて行くということです。
そして心が本体から離れて行けばそれだけ当然ながら、本体にある自然が歪められる。
たとえば本体の至福を守るために働くはずの心が、金と名誉を得るために本体をないがしろにする現実はそれを証明しているように私には思えます。
しかし私たちの心には、気付かないところで「私」という宇宙の力が働いているのです。
前回それを「スケールの軸=身体という存在の力」と表現しました。五次元の概念から見れば私たちの身体は広大無限の宇宙であることが分かります。そしてこの広大無限の世界を一つにまとめている力が私たちの中に全員等しく働いている訳です。
その力が必ず、身体から離れた心を引き戻す作用を私たちに及ぼしてくれているのですね。
事実、どんな苦悩と言えども、身体に引き戻されないものはありませんね。苦悩を感じてもばそれは時と共に和らぎ、その和らぎが身体に戻ってきたとき私たちは至福を感じるのです。
至福とは、身体宇宙の体感だと私は思っています。原点の今ある大きさの自分だけにとらわれている心では感じられない、全宇宙の体感。それはまさに苦悩を和らげようと働く宇宙の力に身をまかせる姿なのでしょう。
浄土真宗「浄光寺」が近所にありまして、3年ほどその本堂で個展を開催させていただきました。その折に、講話の中で親鸞の教えも聴かせていただいたのですが、私の印象に残っているのは次のようなことでした。
「衆生の最後の一人がしあわせになるまで、阿弥陀様は手を差し伸べて私たちを救ってくださる」それが親鸞の教える阿弥陀経の本懐だそうです。
それはまさに、この宇宙の力そのものではありませんか。私には宇宙の力が阿弥陀様そのもののように思えるのです。
あるいはまた、人間の罪をすべて背負って十字架にかけられたというイエス様もまた、この宇宙の力の別の切り口から見た姿なのかもしれません。
つまりこの五次元による自分認識は、宗教の教える世界を、たとえ宗教を持てない者であっても論理的に見ることが出来るのではないかと思えるのです。
しかし決してこれを言葉通りにとらえないでください^よ^
私の言いたいのは、宗教という人間の心の大きな要から見ても、五次元から見た心のかたちは正しく見えているのではないかということです。
ところで、この身体の自然が持っている力とは本当に見えないのかということなのですが、私の人体実験から観察して来た結果、それはどうやら「イメージ力」そのものではないかと思うようになりました。
苦悩も、喜びも、実は「私」の身体に起こったイメージなのです。
悲しみ過ぎたとき、私たちはそれを苦悩というイメージで身体に感じます。しかし苦悩というものが存在するわけではありませんね。
それを腫瘍のように手術して取り出すことなど出来るものではありません。なぜならそれは作用を受ける力であって、ものではないからですよね。電波の力を受信して共鳴するラジオのように、私たちは宇宙の力に共鳴してこの身体にイメージを引き起こすのです。
それが苦悩の正体ではないかと思っています。
共鳴しやすい人はイメージ力も強い
当然苦悩も大きいと言えましょう。
しかしその苦悩は、あなたを苦しめるためにあるのではない。
妄想で膨れ上がったあなたを宇宙の自然の中に呼び戻そうとする、あなた自身に備わった力の作用だったという訳です。
苦悩のイメージは、様々なマイナス思考を生みだします。あたかも自分の外からやってくる厄介者のように思ってしまいますが、正体を見たら安心出来るのではありませんか。
苦悩がやってきたら、そこ(危険)から引き戻そうとしてくれている力が働いている証拠なのです。それは阿弥陀様と考えることも出来ますし、そんなこととは無関係に私たちにはその力に対して心から感謝出来るのです。
様々なものに向かって私たちは感謝して生きています。両親、友人、家族・・・
思い描く感謝の対象はたくさんありますが、その感謝すべき最も根本にあるものこそ、私たちの身体宇宙のこの力だと言える訳です。
私は、この一文の冒頭に新たな境地を得たと書きました。
その折にも書きましたが、この感謝の対象を動かない至福ととらえていた自分の誤りに気付いた訳ですね。
つまり私の乗っている探査船スケール号が、このように揺れ動く振り子運動を支えてくれている力に、ようやくたどり着いたということです。
次回、恐怖と怨讐について、五次元の振り子から見た風景をお伝えしましょう。
過去記事
心の変化を最小に近づけることにより、身体能力( 細胞 )がより発揮できる状態にするというルーティン。
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のしてんてんさまの、振り子の図解と一致するものを今、感じ取りました。
個人的に、この記事( 2 )は驚く程に読み易かった。
前回の記事( 1 )を読ませて頂いた時、私の気持ちは落ち着かず、ちょっと感情が高ぶっていたのかなぁ・・と思います( 理解度が 4 割 )
もう一度、平静な気持ちのある時に( 1 )を読ませて頂く価値がありそうです。
理解度 8 割を目指して ♪
このシリーズの記事、読み応えが有り、好きです。
ありがとうございます、のしてんてんさま ♪
確かに、アスリートのメンタルを眺めますとその通りですよね。
己を忘れて己になり切る。
すると潜在能力がいかんなく発揮されるというのは、自己宇宙の力を利用しているのかもしれませんね。
気功などにも通じるのではと思っていますが、当の本人は至って運動オンチ。
実証できません・・・トほほで^す^
雑談に来ました☺。
待望の続き、待っておりました。
今まで読ませていただいた限り、私は違和感ありません。
違和感、しっくりこない、がほとんどないですね🍀。『わかりません』のむっちゃんにはメズラシイ。
それが、アタマだけなのか私の全存在なのかは知りませんけど(ダメじゃん💦)。
そもそも、何故『しっくりこない』のか?
多分、ですけど、今までのお話では
『選ばれた感性の持ち主だけが知覚出来る、選ばれた刹那』の至福、というイメージがありました。
いえ、おそらくマスターは違うとおっしゃるでしょうし、違うだろうなと私も(アタマでは)わかります。
でも私の中の、獣というか幼児というか小学生というかがいつも、シラ~とし、ソッポを向くのです。
そんなややこしい、むつかしいこと、知らん、と。
そんな至福、生き物にはありえへんもん、と。
でも今回のお話は、獣も小学生もふんふん聞いてる感じです(笑)。
死は幸福や不幸にとってどの様な意味があるのでしょうか?
幸福を如何に増やしていくのか、あるいは不幸を如何に減らしていくのか、それらのことが人生の意味であり、目的であるということに、多くの人達は否定しないはずです。
幸福という資産を増やし、不幸という負債をなるべく回避する為の努力が、人生という事業における欠くべからざる態度であり、それが常識です。
しかし、費用と時間がかかるわりには、大して割りに合わないのが人生ではないでしょうか?
生きることは事業ではないことは明白です。
事業には死ぬことは含まれていません。
生きることは過程です。
経験することです。
真鹿子さんの言葉を借りて言えば、
唯一無二のこの一瞬であり、
生まれたて時の先端を産声あげながら経験するということです。
幸福を経験したいのでもなく、
不幸を経験したくないのでもなく、
何かを経験する、という一点に集約されることです。
まさに閃きの門であり、異次元ゲートなわけです
もはや、スケールなどは要らない、振り子もいらない、五次元だろうが、六次元だろうがかまわない。
何を経験し、何を経験するのか、ただそれだけのことです。
この瞬間!常に最新最先端!萌芽びっしり!
幸福や不幸、安心や不安、快や不快などと言った随伴現象でしかない心など、そこには微塵もありません。
そこにあるのは仏様の心だけです。
自分の見ているもの「至福」を固定化する間違いを犯していたのですね。
それが、
『選ばれた感性の持ち主だけが知覚出来る、選ばれた刹那』の至福・・
というイメージを招いたのだろうし、私の中では、賽の河原のような繰り返しの風景を見ることになってしまったのでしょう。
気付かないところで、人はたくさんのこだわりを持っているのでしょうね。
気付かなければそれは自然に見えますが、こだわりはこだわりということを学習いたしました^よ^
自分の中で、思い当たるものがあれば幸いです。
そこに至れば不要の長物。何の意味もないものです。むしろある段階からは邪魔になる代物。その通りです。それ以上の答えはないでしょうね。
再度お尋ねしますが、
思考は破棄できると思いますか?
もちろんこの命を生かしたままで。
マスターと私の答えはおそらく同じでしょう。
思い当たること、を、ちょっと自分の中で探ってみました☺。
自分のことは案外、自分でわからないものです、いっぱいありそうですけど浮かんできません。
でも、茶碗なんぞを洗いながらボーッと考えている時にひとつ、ふと思ったのが。
『理解したいと向き合うけど、理解出来ないと鬱陶しくなる』という癖、でしょうか。
そりゃ、おそらく誰でもある程度はそうでしょうが。
以前読んだ梨木香歩のエッセイ にあった『理解出来ないけど寄り添う』という度量の広さ、いいなと思いながらもなかなか軽やかに実践出来ないのは。
この癖がこだわりになっているのかも……と思いました。
まあ、他人様に訊くようなことではないでしょう。
そう思った、ということは、そうなのでしょうね。
自分を見つめていると、案外そういうふうにふと気付くことがあるのです。
もちろんそんなことで解決することは無いかもしれませんが、そんな気付きが増えて行けば結構自分が新鮮に思えるものです。
自分と遊んでやる。そんな気分も生まれてきます^よ^
ところで鬱陶しいのは、理解したいという気持ちが作りだしているのかもしれませんね。
人は自分の子供だって分からないんだから、理解したいと望まないで、未知の相手からの発見を楽しむ。
そう考えを切り替えてみたらどうでしょうか。気付いたら考え方を変えてみる。それがよければラッキー。悪ければ違う道をトライ。
そうやって自分のよき方向に進んでいけば少しづつ自分の成長が実感できるはず。
知ら^ん^け^ど^