
深く自分の内側を探って行くと
いかに自分の意識が
固定観念を持って眺めているかが分かる
というよりも
私達の考え方は
固定観念を作りだすためにあると言っていいかもしれない。
それが生きる術なのである。
固定観念がなかったら
私達は人間として
生きていけないのだ。
それが宇宙の中で
人間として存在するための
智慧なのである。
つまり
固定観念は
人間そのものと言える
物質の限界が身体だとすると
思考の限界は固定観念なのである。
思考、すなわち精神。
すなわち空
それが身体の反語としての空体。
結局こういうことだ。
物質面での
人間の領域は身体であり
空間面での
人間の領域は固定観念
そして
人間はこの二面性を併せ持って
自らの人生を考えているのである。
*固定観念の最たるものは言葉。なぜなら意味を固定しなければ言葉は成り立たない。そして言葉がなければ思考すら出来ない。
想い巡らせて欲しい。言葉がなかったら人間はただ宇宙の波動を感覚で受け止め体感して漂うだけの存在となってしまうのである。
自宅でゲノム編集
https://m.youtube.com/watch?v=Yilbh1qxbsw
己を見つめなければなりませんね。
またある時は波の様に
ワルツとクイックを同時に踊りながら
スピンをしている
自己という不確定性原理
粒子であり波である自己の内側はそのどちらでもない1なる存在であるはずです。観測しない自己こそ絶えない向上心の向こうにある真の姿でしょう。
その疑問そのものが迷いなのです。固定観念の中にある自己に気付くことですね。
観測が現われるもっと前のことですね。
次元が違うのです。
要するに使い方であり用い方であり、方法に過ぎないわけです。
私に対してあなたが勝手に陥っていると判断したことは、私からすればあなた自身の観測の仕方であり、あなた自身の認識方法の結果です。
一元論に陥いる、一元論を用いる
二元論に陥いる、二元論を用いる
判断を導く為の選択方法が一つだけでは間違った認識に陥いることになりかねないと思いますがどうなんでしょうか?