のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

花と言い訳 のしてんてんの詩 (1)

2018-04-25 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

2003年に、ホームページ上で発表したのしてんてんの詩です。(2016年に当ブロブでも掲載しました)

あれから15年、自分を実験(感)台にして検証してまいりましたが、今回一つの境地を新たに感じるところがあり、再々掲するととにしました。長いですので、二回に分けて掲載いたします。何かを感じて頂ければ幸いです。

 

=花と言い訳=のしてんてんの詩=

(1)

 野の花が、ひそやかに咲くように、

 人もまたひそやかに生きている。

 だれにも知られず、

 また知られようとも思わない。

 あなたの内面の奥底には、ゆったりと流れる自然があるのだ。

 あるがままに。

 

 人もまた自然のままに生きている。

 まさに、この肉体は自然そのものである。

 心臓が鼓動し、血液は体内をくまなく巡っている。

 呼吸は自然に繰り返され、

 食物は体内で消化されている。

 

 この身体の営みに、人為的なものは何もない。

 あなたは、

 自分の身体を、

 自分の思い通りにすることは出来ないだろう。

 胃は勝手に食物を消化している。

 心臓は血液を送り続ける。

 

  自然に肉体は成長し、年老いていく。

 眠りも目覚めも、自然にやってくる。

 

  あなたは、

 知らないうちにこの世に生まれて来た。

 そして死もまた知らないうちにやって来る。

 あなたは自分の死でさえ知り得ないのだ。

  自分の身体だといいながら、

 あなたは何一つとして、あなたの身体にかかわることが出来ない。

 

 あなたが何を考え、何を望もうが、

 身体はあなたの命令に従うのではなく

 自然の流れに従っている。

 あなたのことなどまるで気にする事なく、

 ただあるがままに、自然の、宇宙の摂理に従って生きているのだ。

 

 野に咲く花のように、

 何も求めず、今ここにあるそのことに満ち足りている。

 そこに永遠の充足と安らぎがある。

  この身体の安らかな自然の流れに、

 何一つかかわれないあなたは一体何だろう。

 

  あなたは、

 あなた自身の身体から切り離されているのだ。

  身体はこんなにも自然で、豊かに流れているのに、

 あなたは不自然なままだ。

  身体はこんなにも充足しているのに、

 あなたは不満をもち続ける。

 

  身体は無心で息づいているのに、

 あなたはたくさんのことを考え続ける。

 あなたは何なんだろう。

 

  あなたは毎日、他人から非難されることを恐れている。

 あなたは毎日、正しい自分を演じようとしている。

 あなたは毎日、あるべき自分の姿を追い求めている。

 

 それなのにあなたは、

 時として、必要なことを忘れてしまったり、

 思い違いをしたり、

 間違ったことをする。

 その度に、

 あなたは、失敗した様々な事柄にいい訳を考える。

 

 他人から、

 いつも自分は有能だと思ってもらいたい。

 自分は正しいと認めてもらいたい。

 自分の力を評価してもらいたい。

 たとえ失敗しても、

 それは仕方なかったのだと知ってもらいたい。

 

 こうしてあなたは、

 失敗する度にいい訳を考えなくてはいけなくなる。

 

 あなたは1日として、のんびりしてはいられない。

  あなたは、他人の目ばかりを気にして、

 毎日を緊張して暮らしている。

 

 

 うまくやれるだろうか、

 失敗しないだろうか、

 あなたはまだ失敗もしていないのに、

 びくびくしていなければならないのだ。

 

  あなたは、

 言い訳をするために、

 少しもゆっくりしていられない。

 

 しかし、

 あなたを疲れさせるこのいい訳の正体は、

 真実を自分の都合のいいように見せようとする、

 あなた自身の努力に外ならない。

 

  言い訳は真実ではない。

  言い訳は真実を隠そうとする、ありもしない幻想だ。

 身体の真実に関われない、あなたに似ている。

 

 実際のところ、

あなたは言い訳そのものなのだ。

  あなたは言い訳そのものから成り立っている。

  その言い訳が、あなたを真実から遠ざけている。

  あなたがのんびりと、くつろいでいられないのはそのためだ。

 

 ストレスはそこからやって来る。

 あなたが言い訳を考え、自分の人生を繕おうとすれば、

 あなたの身体は自然な流れを歪められ、調和を乱される。

 

 あなたは、

 野の花のような自分の存在に関われない代わりに、

 自分で作り出した不安といい訳によって、

 自然のままの身体を狂わせて行くのだ。

 

 

 

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8 コメント

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雑談に来ました (むっちゃん)
2018-04-25 09:36:15
どーも、マスター。
『喫茶・のしてんてんへようこそ』で、いつもお世話になっております。
今日は雇われママでなく、客のひとりとしてコーヒー飲みに来ました(笑)。

何故でしょう、身にしみました。
コーヒーの苦みの奥の甘みのように。

そして脈絡もなく思い出したのが。
私的にはバリバリ仕事をしていた、若かりし頃のこと。
ソコソコ大きい企業に勤めておりましたので、事業部長(常務とか専務クラス)だの社長だのとは、一般の平とか主任程度の社員はまず身近に会わない、そういうところでした。
それでも3~5ヶ月に一回くらい、そういうおエラいさんが現場へ巡回に来ます。たまたま私が作業しているところへおエラいさんが通りかかり、2~3、質問されました。
私は躊躇なく受け答えし、おエラいさんはそれなりに納得されてその場から離れて次へ行かれました。
私自身はそのことを別に特別だとも思わず仕事へ戻りましたが、後で先輩の男性社員から
「いいよな~、女の人は。出世のこと考えてないから事業部長にも言いたいことが言えて」
と言われ、驚きました。

確かに私は出世に興味ありませんでした。
でもあの。おエラいさんは、現場のことが知りたいから、現場に来るのでしょ?
耳障りのいいことを聞きに来たんじゃない、でしょ?
耳障りのいいことばっかり聞かされ、後で実は違ってた、の方が、おエラいさんにとっても会社にとっても、ひいては自分たちにとっても、良くない、でしょ?

頭の中で疑問符が踊りました。

未だに私は、出世がらみの会社員の裏マニュアル、みたいなものがわかりませんし、わかりたい気もしません。
私は仕事をしに来てるのです。仕事をする限りは質のいい仕事をしたいし、問題は問題として上と共有すべきだと思っております。上とのいいコミュニケーションは、決してゴマをすることではない、とも思っております。

青い、のでしょうけど(笑)。

でも、某大手家電メーカーの経営状態がおかしくなったのも、裏マニュアル愛好者が上っ面を取り繕い続けたせいなのでは?と、ニュースを見ていて思いましたねぇ。
臭いものには蓋、長いのもには巻かれろ的な、日本によくある企業風土と言いますか?
マ、私、外国の企業に勤めたことないので言い切れませんけど。

うわー、横道それまくりですねえ。

要するに?保身の為の言い訳や取り繕いは、結局本体を腐らせる、と。
個人であろうと団体であろうと、その流れは同じなんだろうな、と。

そんな事を思いました。
長々と失礼致しました。
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Unknown (sure_kusa)
2018-04-26 04:02:05
花と言い訳

この詩を読んで、よかったと思いました。
頭をかけ巡る邪念は、この肉体が朽ちた後も残るのかなぁ。
自分の邪念が他人に見られたらヤだなぁ ♪

いっそ、野の花に生まれて来た方が幸せだったのかなぁ・・なんて色々と空想しました ♪
このシリーズ( 2 )も、今から楽しみです ♪
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むっちゃん様 (のしてんてん)
2018-04-26 07:41:39
出世のためには忖度ということなのでしょうね。

最近、すっかり悪者扱いになってしまいましたが、本来日本人的なよき気質を表した言葉だったのだと言われていますよね。

ようは使い方の問題で、これを自分の利益のために使うのか、相手のために使うのか・・・

相手のために使うのも問題ありか・・・

まあ、つまるところ、むっちゃんの結論でいいのでしょう^ね^

己をごまかさないで正しい方向を貫いたら、必ず御利益がありますから。
返信する
sure_kusa様 (のしてんてん)
2018-04-26 07:50:40
頭をかけ巡る邪念は、この肉体が朽ちた後も残るのかなぁ。
自分の邪念が他人に見られたらヤだなぁ ♪

これは見事な、
さすが素晴らしい感性だと感服いたしました。

人間、チカラを入れるところをすこしずらすだけで、重いものも案外楽に持ち上げられますとね。

思い込みで箒の端を持って横に上げるより、柄の真ん中を持ったほうがはるかに持ちやすい。

邪念は残らないように食ってしまうのがいいでしょうね。見られる前に自分で消化しちゃうんです。昇華昇^華^
返信する
Unknown (トラ)
2018-04-26 09:51:06
私は安心するために、言い訳をして生きることを否定しません。
むっちゃんさんがおっしゃるように、
仕事をすることも安心したいからです。
質の高い仕事をしたいのも安心したいからです
人に対して誠実であろうとすることも安心したいからです。

しかし、自分しか安心できない言い訳は、言い訳になりません。
言い訳をして、自分も他人も安心するのであれば私はそれを否定しません。
自分が安心できずに、他人だけが安心するのであれば、その言い訳はただの嘘に他ならず、
自分しか安心できない言い訳は、ただの自己満足に他なりません。

私自身、嘘もついたし、自己満足もしてきたわけだからそう思えるのです。
言い訳するのであれば、自他共に安心できなければ言い訳にならないと思うのです。
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トラ様 (のしてんてん)
2018-04-27 08:57:52
言い訳ということですが、
私のイメージしてる世界は、おそらく中動態から見た世界なのだろうと思うのです。
つまり
否定、肯定の話しではないのです。

まさにトラさんのおっしゃるように、いかに人は安心を得るのかということです。

トラさんは他人の安心を本当に知ることが出来ると思いますか?

何かを言い訳して私は安心を得る。けれど他人の安心を知るために他人の心を覗くことはどうしたって出来ないのですよ。

ならば、自他共に安心できる言い訳など私たちには一生かかっても出来いないし確認するこすら出来ないのです。

私は自分の人生の中でおそらく何百回と言い訳による安心を体験してきました。トラさんも同じようなご様子ですが、
言い訳の安心と、中動態で生きるような真実のただ中にいる安心とは同じものではありませんね。

つかの間の安心を言い訳しながら生きているのが私たち人間なのではないでしょうか。

つかの間の安心と永遠の安心。
私にはどう考えても、言い訳の安心が永遠の安心(あるがままの安心)とは思えません。

なぜなら言い訳そのものが自然にそぐわない。言い訳する自然など聴いたことがありませんし、
「自分しか安心できない言い訳は、ただの自己満足に他なりません。」
というトラさんの言葉がすべてを語っている訳ですね。
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Unknown (トラ)
2018-04-27 14:20:46
生きるという事に対して、安心か不安か?
どちらの立場に立つかによって言い方も違ってくるのでしょうね。

自己決定や自己責任などの言葉は、生きるという事が不安だと思う立場から見れば、その言い訳として一時的ではあるにせよ、自分だけの安心には充分なり得ると思います。
しかし残念ながら、決定や責任の背後には、自分ではない他人が存在するからこそ成立するのであって、決定や責任を負おうとする自立的な態度はただの自己満足に過ぎないわけです。

不安は己が作り出すものではなく、不安を感じるように己が作られているのであって、元々、安心するようには作られてはいない、と言った方が適切ではないでしょうか。

確かに他人の安心は窺い知れませんが、不安は
関わる事でそれなりに感じることはできると思います。
なぜなら、普通に考えて言葉が交わされる意味は不安の解消という事に比重が置かれているわけですから。
いずれにせよ、自分では思い通りにならず、自分の意思とは無関係な自然の流れとしての身体を持った自分が、生きるという不安の過程の中にいる事を自覚していなければ中動態の意味は掴めないと思うのです。
返信する
トラ様 (のしてんてん)
2018-04-28 07:46:30
まったくその通りです^ね^
当然こまかな表現は違いますけれど、私たちは互いに見えない心に向って、同じものを見ようとする努力が、相互理解の本懐なのかもしれませんね。

互いに、違いの中に同じものを見ようとする努力だけが真実に行き着く道と、私などは思うのです。

闇夜にカラスは見えないように、私たちは不安のオーロラが現れて初めて、中動態というカラスを見ることが出来るのですから^ね^
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