五次元宇宙モデルは、人体モデルでもあるのだが、
上の図は人体の空間が意志を持って存在していると思われるような、
空間の円(球)が内在していることに注目してみた。
それが上の図である。
赤い線は実際の見え方を強調するために描いたのだが、
素の画像を観ると、円がチラチラと明滅しているのが分かるだろう。
良く見るとその円の中に小さな五角形が三つ入っているのである。
これは三つの五角形が接して出来た円で、
その五角形の頭の部分が三つそろって円の中に存在していると
見ることも出来る、象徴的な現れである。
宇宙モデル(人体)はこのように三つの五角形のかたまりがあって、
そのかたまりの中に互いの頭を寄せ合って円を共有しているのである。
涅槃に入った三世諸仏(般若心経)の空観を連想させる。
得阿耨多羅三藐三菩提
人体は最初からこの空に満たされているのだ。
さて、前回の記事を、図で示してもう少し具体的な心の構造を見てみたい。
すべての根底には、宇宙(空間と物質)の世界がある。これがこの旅の主題である。
空間と物質があって、たったそれだけの仕組みを使って人は自分を確立していくのである。そのドラマのシナリオを示したいのだ。
上の図がそのシナリオである。前回の記事をまとめるとこのような図になるのである。
この図の白地はすべての根源である空間を表している。すなわち宇宙空間そのものであり、議論の流れからこれを宇宙意識と呼ぶ。(図では宇宙的意識と書いている)
人はこの宇宙意識を図のようにとりこんで自己意識の領域を作っているのである。水面に出来る泡と同じだと考えていいだろう。
この自己意識とは、前回触れたとおり、素粒子を人型に引き寄せている力のことであり、この力は宇宙の中で自分という領域をつくる。すなわち自己意識はこの身体を維持している限り、宇宙の中で孤立した力なのである。その孤独を体現したのが私達のこの身体である。どう見ても私達はこの身体を限りにして空間に浮かんでいるのである。
空間に浮かんでいるというのは、自分の全周囲には空間しかないという意味である。
現実には地上に立ち、人と手をつなぐことが出来る。これを持って空間に浮かんでいるとは理解しがたいことなのだが、スケールの概念でみればすぐにわかることなのである。
大きな目で見れば我々は地球と共に空間に浮かんでいる。たまたま地球の引力に捕えられているに過ぎないのである。
また一方、小さな目で目れば素粒子宇宙に浮かぶ私達は、たとえ手をつないでいると見えても、素粒子間にある空間をなくすることはできないのである。
すなわち私達は空間に浮かんだ身体を生きているのである。宇宙にできた泡と考えてもいいだろう。
重要なことは、この自己意識のことである。泡のように出来た自己意識空間は、図のように完全に閉じているのではない。宇宙意識に向かって開いているのだ。それが前回触れた身体の不安定性なのである。つまり、身体は宇宙意識と交渉を持たなくては身体を維持出来ないのである。これが呼吸や食、眠りなどにみられる、躍動する命の風景なのである。
さて自己意識の表層には感覚がある。図の斜線で示した部分だとすると、ここに身体の皮膚がある。
視覚や触覚、聴覚や味覚、様々な感覚が、宇宙意識(外界)と交渉を持って、身体的「快・不快」を生み出し認識世界が芽を出すのである。
やがてこの自己意識と感覚が、知性「何?」と結びつ着くことによって精神的「快・不快」が生まれ、この知性は認識世界を飛躍的に拡大させるのである。
上の図の認識と書いた丸い世界のことであるが、この認識の円が下図に示す認識限界の図と重ねて理解すると、心の拡がりの流れが分かるのではないだろうか。
今回の本題はここからなのだが、
下の図は意識と認識を並立して描いた図である。これは自己意識から認識が生まれていく過程をさらに踏み込んで整理したものなのである。
人は図の下から上に向かって成長していくことを表している。
左半分の枠に意識の流れを示し、右には成長する認識の姿を描き出した。
図の左下の囲みが自己意識である。その中で宇宙意識と関係を持ちながらつながっていく意識の流れがあるのである。
自己意識とは身体をつくっている相関性のことであり、それは人型に閉じた相関性と考えることが出来る。
この自己意識の根底には核意識(宇宙意識)があり、この二つの意識が並び合って「ゆらぎ」が起こっているのだ。
「ゆらぎ」から目を右に移すと、認識の枠に「快・不快」がある。「ゆらぎ」が宇宙意識と関係して「快・不快」が現れ、意識に登ってくるのである。その関係を呼吸を例にした下図に表した。
生れたばかりの自己意識に現われる「快・不快」は、図のように宇宙意識を「快」と認識するゆえに、自己意識の揺らぎが「快・不快」を表すことになるのである。その感覚は、全体的な生命感であり存在感として感受される。すなわち「これ」という形で、一切が未分化のまま、存在感だけがあるのである。認識が芽吹く前の姿と言えるだろう。それはこのように「ゆらぎ」の中から起こるのである。
この自己意識が起こす命の運動を「満たされた意識」と考えると、この満たされた波動を打ち破るものが現われてくる。難しく云っているが、平たく言えば身体にやってくる光や音のことである。
様々な刺激が外からやってくる。すると、この満たされた意識が破られるのである。この破られた意識を捕えるのが感覚に他ならない。様々な刺激に対応して視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、などの感覚が形成されていくのである。(図の中段にある囲み)
そうすると、感覚は外界から刺激を受けて波紋を広げていく破られた意識と考えることが出来るのである。これは生まれたばかりの自己意識を満たされた意識と考えたときにはっきり見える感覚の風景である。
外からの刺激で揺れる意識、これが認識の成長に力を与えるのである。
目があいた赤ん坊に、柔らかな光があたる。それは今まで闇の中に現れていた身体感覚とは明らかに違うだろう。光を受けて覚える「快・不快」は目を中心に起こる。
母親の胸の温かさを体験する。その柔らかさ、まどろみ。それは肌の触覚が引き起こす意識の破れなのだ。
排泄物の不快に、柔らかい布をあてがわれる快感。空腹と授乳。そして優しい声。
全ての育みから受け取る刺激を通して、赤ん坊は「これ」という風景から母親を「有る」という認識で見るようになるのだ。つまり、母親を次第に背景から区別でするようになっていくと考えられるのだ。
「これ」という認識の種子が、感覚という地表から頭をもたげて、双葉が顔を出すのである。それが「有る」という認識に他ならない。
「有る」という認識は、未分化の世界から母を認識し、次第にその数を増やしていく。手に触れるものを何でも口に入れて体感しようとする。これは理解するという原型が食べるということなのかも知れないと思える面白さであろう。
いずれにしても、未分化の世界を、様々な刺激が感覚を働かせ、赤ん坊の「有る」という認識世界をひろげてゆくのである。
ではこの「有る」という認識が、「何?」という問いかけに成長するのはどんなタイミングなのだろうか。
そこに私は、自我の種子が動き出す瞬間を観るのである。
赤ん坊は育みを受けて「有る」という認識を持つようになる。
自分と関係の深いものから徐々に認識できるようになると、あるときふと、母を待っている自分の意識に気付くのである。それは単なる感じであるが、明らかに母を見つけたときの感情といないときの不安感。その落差を知るようになる。そこに精神的「快・不快」の芽生えを見ることが出来るのである。
すなわち、母は「快」として認識されたのである。「有る」という認識が、自分の身体を離れた精神的「快・不快」を生み出していくという興味深い風景が見えるであろう。
当然そこから、赤ん坊は母を期待するという意識を持つだろう。私はそれが自我の種子となっていくのではないかと思うのである。
すなわち「快」を呼び込み、「不快」を避けようとする意識が芽生えるのである。これこそが自我だと考えられるのだ。
笑う、むずがる、泣く、叫ぶ、はしゃぐ。
これらの行動に結びつくものが、身体的「快・不快」から次第に精神的「快・不快」へと広がって行く。
自我とは、この精神的「快・不快」を呼び起こすものに他ならないのである。これが何を意味するのかと言えば、自我とは意識の中に広がる全ての認識世界そのもののことなのである。
図の最上段に、私空間の完成とあるが、この話は後日として今回は触れない。
先に「快」を呼び込み、「不快」を避けようとする意識こそ自我だと書いたが、その自我は「何?」が芽を出すと、やがて言葉を習得して爆発的に成長する。成長した自我は、認識が認識を生み、その広がりは果てしなく続く。知の世界では科学が最先端にあり、徳の世界には宗教が顔を出す。そこには「快」を求め「不快」から逃げようとする自我の姿をはっきりと見ることが出来るのである。
そこからさらに高みを目指そうとする自我がある。覚醒して涅槃に入る自我。これを人間の最高の境地だと考えることも出来る。その涅槃とは何なのかを最後に触れてみよう。
涅槃とは、「快・不快」に対する発想の転換である。見方を変えることなのである。
物質を主人公にした世界観から、空間を主人公にする世界観への転換だと言えるだろう。
この空こそ私なのだという理解に至ることなのである。
そして五次元思考はそれを可能にするのである。
次回は、この認識が知識となって蓄積され、私たちの今をつくり出してきた実際的な風景を見ていくことにしたい。
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