のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

新 心の方程式 物質から心へ(7)

2021-07-18 | 5次元宇宙に生きる(心)

身体に現れる無数の円。

これはスケールの概念によって明確に意識される体内空間の姿である。

一つの人体と見たときに現れる五つの空間が青い円である。

人体の各部位にはスケールの小さな五つの円(黄)が存在し、

その部位の中にもまた小さなスケールの円(赤)が存在しているのである。

この同心円は無限に続く空間の秘密をあらわにしているのだ。

右肩の同心円はその一つの円を分かりやすく取り出しものである。

(スケールの概念の図式化)

 

 

 

認識とは、私たちが知り得るすべてのものをさす。

これを詳しく言い直すと、

論理的なことはもちろん、感覚やイメージ、予感や、絶望、高揚感。様々な不思議。およそ感じられ、想像され、意識される、一切のものが認識なのである。つまり目覚めて眠るまでの意識された生活のすべてが認識によって私たちの気付きになっているのである。

すなわち認識とは、この「私」そのものと言っていいであろう。

(この考察は己を探求するためのものであって、学術書の類には一切とらわれない心の旅であることをここで申し上げておきます。私の立場は、科学も宗教も尊重しながら、しかしそれにとらわれないで自分の中から生まれてくる純粋な風景だけを見つめ、真実に出会おうとしている探求者です。先人の言葉を決して鵜呑みにしない。すると自分の心がマグネシウムのように反応するものに出会うのです。そこに風化されない生のままの風景が見えてきます。己とは何なのかという問いを真心で頷ける心の風景。その在り様を探求することが当ブログ記事のすべてであることを、念のため申し添えておきたいと思います。)

 

さて、認識のことであるが、およそ意識に上ってくる全てのものを、人は「自分にとって良いものなのかどうか」を「自分との関係で理解していく」のが認識ということなのである。

なぜなら人は生きて行くという使命を背負った存在だからである。もっと言えば、宇宙に生まれた生長点なのである。その成長するシステムこそ認識に他ならない。つまり認識は知るのではない。自分を生かすための方便なのである。

たとえば「パン」は食べるものとして認識しているし、「汚物」は触れたくもないものとして認識する。そして路傍の「石ころ」は無関心のまま認識の片隅に押しやられているだろう。

あるいは「空飛ぶ円盤」は、「未確認飛行物体」などと新語を生み出してまで認識しようと働く。これは分からないものに対する認識の強い本能と言えるだろう。

つまり「分からないもの」は、善し悪しが判断できないのだ。しかし生きるためにはその判断は必須である。分からないものを正しく判断しようとする欲求は、強固な認識の力なのであり、認識の素のままの姿と言えるのである。

「分からない」とはつまり「何」という認識なのであり、人の原動力と言っていいのである。

 私たちの認識は、コンピューターのように機械的に認証しているのではない。

すると当然のことながら、様々な認識を記憶して知識に蓄えていく場合を考えても、コンピューターとの違いは明らかだろう。人間の知識にはすべて、(良い/悪い/普通/不明)という「自分の立場に立った評価」がレッテルのようにくっついている訳なのである。これはどんな認識に対しても避けがたい。人間の本能というしかないのである。

そうすると、私たちは認識と知識の個別性をしっかり意識しておかなければならないのだ。同じものを認識しても、その認識は人によってみな違うということである。すると、知識もまた同じことが言えるのである。

 

この事実に行き着いたとき、私たちは人間の二面性を強く意識させられる。つまり自己の心に深く踏み込んでいく裏側で、人は一人では生きられないという事実に気付かざるを得ないのである。

「育みと教え」がなければ私たちには言葉もないし、生きる手段もない。コミュニケーション(対話)がなければ人は互いに理解し合う手段もないのである。延々と受け継いできた言葉、その言葉によって思考を組み立てる。明らかに私達は、人間の歴史を受け継いでここにいるのである。己とは何かという問いかけには、他者との側面を忘れてならないということなのだ。

しかし私たちはそのことを意識しながら、あくまでも個の内側にある世界を見ようとしている。個の内側を知れば、おのずと他者との良き関係が見えてくるのでなないかと思うのである。

 

このことを念頭に置きながら、前回の旅を続けることにしたい。

前回示したのが以下の図である。

この図は、宇宙意識から自己意識が生まれ、認識が芽を出していくという人間完成へのシナリオである。

さらに言えば、空間から物質が生まれて成長するエネルギーの流れだとも言えるのである。空間から物質が生まれているという風景が認識の根底にあるということを強く意識しておきたいのである。

 

ところでこの認識はどのようにして知識となっていくのだろうか。他者の存在を意識しながらその構造を見ていくことにしたい。

 

認識と知識の関係。それを表にまとめたのが下図である。

 この図は、左に認識、右に知識という二本柱を立て、互いに関係しながら成長していく様子を示したものである。

言うまでもなくその根本には意識がある。図の下段の囲みであるが、この意識は宇宙から孤立した自己意識なのである。

つまりこの図は下段の意識から始まり、まず左側の認識が動き出すと、その認識は右側の柱で記憶されて知識となるのである。この記憶が積み重なって知識の柱に図示した段階を踏みながら成長していくのである。

 

図を辿りながらその風景を見て行くと次のようになる。

意識は生まれたばかりの身体を内側から照らしだし、生命のリズムを「快・不快」という色付けで認識し始める。やがて身体に備えられた五感を通して自分の身体を立体的に認識するようになるのである。

認識による「快・不快」の色付けは何度も繰り返される。そのことによって、経験が蓄積され、記憶として残るようになるだろう。それが知識の始まりだと思うのである。

感覚は外界からの刺激を受けて、未分化のままだった外界を少しづつ分化させていくだろう。

何の区別もなくただ「これ」という認識で見ていた赤ん坊の世界から、自分の命に最も優しい特定の者(母)との体験の気憶が蓄積される。すると、母だけを認識する力が身に付いて行くのである。未分化の世界から母を特別に切り取って意識するようになる。それが「有る」という認識なのである。

有無の理解が生まれると、記憶の働きによって、物の動きを認識するようになるだろう。つまり空間や時間を意識できるようになるわけである。

むろん赤ん坊が具体的に空間や時間を認識するわけではない。物が動くということを知るということである。動きとは空間と時間の中で行われることである。つまり、そのことに無知だとしても、動くという認識の中にすでに空間と時間の認識が潜んでいるとみていいのである。

 

やがて赤ん坊は母親を待つようになる。それは自分の知識の中に母親が存在することを意味する。それは同時に身体的「快・不快」から精神的「快・不快」が生まれた証拠でもあろう。

身体的「快」を与えてくれる母親の記憶が、母の姿を見るだけであっても「快」を感じさせるのである。

それは「不快」の場合も同じことが言えるだろう。

つまり、実際的な身体の「快・不快」だけを感じていた時代から、まだそれは起こっていないのに記憶に蓄積した知識が、母の姿を見るだけで「快」を思い出したり、不安を与えた者に「不快」を覚えるようになる。

つまりそれが精神的「快・不快」という訳なのである。

 

この精神的「快・不快」は生まれた瞬間から知識として成長しはじめる。

知識とは、記憶によって蓄積された認識なのである。

 

「何?」という認識が生まれると、「問いかけ」が始まる。これによって知識は育みと教えを受けながら蓄えられていくのだ。こうして知識は「学習と経験」を繰り返して成人に達するのである。

しかしそこで終わるのではない。「分からない」ことに対する「問いかけ」は成人して初めてその本領を発揮する。図には書いていないが、「学習と経験」が「研究と探求」によって新たな知識が自己増殖し始めるのである。

こう考えてくると、知識欲は精神的「快・不快」に基づく人間の心の本能であり、空から生まれた人間がその根本に持っている、空そのものへの回帰本能だと言うことが出来るかもしれない。

 

しかしおそらく人間はいまだ未熟なのである。

なぜならこの精神的「快・不快」は、もともと身体的「快・不快」から生まれたものである。しかしそれを転倒して精神的「快・不快」を優先してしまうのだ。それは例えばゲームを楽しむあまり寝食を忘れるということや、どうしても苦悩を抱えてしまうという人生を思い描くだけで十分であろう。

身体的「快・不快」はいのちの営みに応じて現れる。つまりそこには実体としての身体がある。

しかし精神的「快・不快」は、もともと記憶の働きで生まれたものなのであるから、その実体は認識なのである。実体が認識だとするなら、そこに現れる「快・不快」は当然のことながら人によってすべて違ってくるのだ。そこには苦悩を持つ者から一切の苦悩を度して悟りを得た者まで、大きな差異が生まれているのである。

 

ところで精神的「快・不快」のことなのだが、これは身体的認識から精神的認識に変わったこと意味する。この二つの認識にある大きな違いは知識を考える上で重要なことなのでここで触れておきたい。

身体的認識とは、身体を「良い・悪い・普通」の三つの判断基準で知ることであった。それに対して、精神的認識は状態を「良い・悪い・普通・分からない」という四つの判断基準で認識しているということなのである。

つまり精神的「快・不快」を生み出す認識には「分からない」という判断基準が新たに増えていることに注目しなければならないのである。

この「分からない」という認識が「何?」を生み出し、知識が爆発的に増えていく要因となるのであったが、同時にそれは精神的「快・不快」が、個々一人一人の考え方によって大きな違いとして現れてくるのだ。そのふり幅は、すでに書いたように、地獄の餓鬼から彼岸の菩薩まで存在するのである。

 

人々の心の中にこの差異が存在するという事実が、人間の未熟を物語っていると私は思うのである。

知識を持った人間は当然のことながら精神的「不快」を嫌がり「快」だけを追い求めるようになる。当然のことであり、そこに何の問題もない。

問題は何をもって「快・不快」とするのかという、認識の方法にあるのだ。

それを掘り下げて考えれば、己とは何かという問いに対する答えの違いに行き着くのである。

すなわち自己を、

①物質(色)として認識するのか。  

②空間(空)として認識するのか、なのである。

 

①では物質の変化から生まれる時間が認識を支配する。それは四次元世界を舞台にした風景なのである。過去に後悔し未来に不安を持ち、心は今に落ち着くことがない。いつか成るという幻想を抱くと、人は永遠に今を生きることが出来ないのだ。苦悩はそこから次々と生まれてくるのである。

②では空間の持っている唯一無二の属性に触れて自分は今にしか存在しないことに気付く。空間の属性とはスケールの概念によってあらわになる。すなわち五次元世界の風景を認識することなのである。

 

時間の概念で自分と世界を認識する者は、欲しいものを手に入れようと働く。

一方スケールの概念で自分と世界を認識する者は、欲しいものはすでに手の中にあることを知るのである。

 

 

 

 

 


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