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(前回の続きです。::初めての方へご案内。この物語は、皆様とともに心の旅をするという想定で進めています。 お時間がありましたら、カテゴリー5次元宇宙に生きる(空間) から初めて、5次元宇宙に生きる(心)、そしてこの5次元宇宙に生きる(神) へと読み進めて頂ければ幸いです。::)
認識は、思考と気付きという相反する二つの要素から成り立っています。思考による虚構の空間と、それを見つめる実在の目。
この時、虚構の空間が「私」であり、実在の側にある目を「神」だという考え方を私はとりません。
そう考えることは、「私」と「神」の間に歩いては渡れない溝をつくってしまうからです。そればかりか、「私」を、仮の存在であるとか、迷う子羊というような考えを導いてしましますし、何よりそれでは、いつまでたっても実在の持っている至福を味わうことが出来ないことになるのです。
つまり、思考が見せる「私」は虚構の「私」であり、それを見つめているものこそ実在する「私」というふうに考えたいのです。簡単に言えば、スクリーンに写っている自分と、それを見ている自分という関係と同じと言えるでしょう。
幸いこの問題は、虚構と真実が癒着したまま一つになっていますね。それは実際のところ、このセットが一つの存在だという証しだと思うのです。
そう考えると、当然「私」の正体は実在にある。私を見つめている目を持っている実在こそ「私」なのだということが出来るでしょう。同時に、虚構の「私」も重要な働きをしているわけで、虚構だといってないがしろに出来るものではないでしょう。この問題はさらに深く、別の機会に考えてみたいと思います。
仮に実在が神だというなら、「私」は神であるというだけであって、そこに特に大きな意味があるわけではありません。実際、この心の旅の中でも、時に応じて神という言葉も使いますし、その方が理解しやすいこともありますので、ことばにとらわれないことが肝要です。
それより、このように5次元宇宙の概念から世界を見ると、世にいう幽体離脱も論理的に説明することが出来るのが面白いところです。
それは、実在の目を幽体という言葉で置き換えるだけでいいわけです。実在の目に軸足を移して、これが「私」だと意識できたとき、私たちは自分の思考を見下ろしている体験を持つことが出来るのです。
その時、「私」の背後に感じる実在は、私の身体ではなく、宇宙空間そのものなのです。全宇宙の物質を浮かべているただ一つしかない空間が「私」の身体であり、それこそが実在であるという理解は至福を伴います。それはおそらく、満たされた空間エネルギーの波動なのでしょう。
これは5次元の概念が見せてくれる、もっとも深い存在の姿といえるのです。
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