(9)2009.11.1(秋の色)
「何描いてええんかわからんわ」スケッチブックの上で手を止める母。
「どっからでも線をひいたらええねんで」
「そうかの・・・」
二人のお絵かき教室はいつもここから始まる。辛抱強く待っている間、マーカーを宙に浮かしたまま何かを描いている仕草が続く。頭のイメージをどこかで具体的なものにつなげようとしているのかも知れない。
「おばあちゃん、手動いてるやろ。それをそのまま思い切って紙の上に置いてみ」
素直にマーカーの先が数センチ上空から紙面に着陸した。その一瞬から魔法のように母の絵の世界が広がる。
そんな母は若い力で満たされたように見える。次々と線が生まれ、線が赤や黄色で染められてゆく。母の中にあるふるさとの秋、それは私と共にあったふるさとを通り越して更に遠く、母の生まれた地の色なのかも知れない。
----------------------------------------------------------------
何かを描こうとする。絵を描く前にそんな意識がある。これは当然のことだし、それが本来の絵のあり方だとは、私も思っています。
たとえばリンゴを上手に描けたら嬉しいし、下手だったら人に見られるのも嫌ですね。
上手になりたいというのが、絵に興味を持っている人の思いではないでしょうか。
絵にほとんど興味のない母にも、その思いがあったのです。
でもそれだけだったら、絵が上手に描けない人は、一生絵を好きになれないんです。
それはきっと間違っています。
絵は器用な人のためだけのものじゃないんです。
絵の一番いいところは、言葉にできない心の思いを表現できることです。
上手に描くという思いにとらわれなかったら、人は誰でも、絵のもっともおいしいところを食べることが出来る。
そう、母は教えてくれているのだと思うのです。
西に絵なんて描けないと思っている人がいたら、駆けていって手が動くんだから大丈夫と言い。
東に自分の絵なんて、道端のゴミみたいなもの。何ていう人がいたら、行ってこれはあなたの命なんだと教えてあげ。
南に人に見せるのが恥ずかしいという人がいたら、それで人が救えるかも知れないと伝え。
北に絵なんて描いている暇がないという人がいたら、トイレットペーパーにだって絵は描けるよと教えてあげたい。
(似矢沢賢次)
一瞬にして疲れが消滅。
あまり乗り気じゃなかったけど、元気のいいお妻に手を引っ張られて来てよかったなぁと。
こんな経験が思い出されました。
先ずは踏み出すことだなぁと思いました。
…「絵を上手く書く事と、絵を書いて幸せになれる事…どちらがいいか…?」後者、と。
前半の部分を、のしてんてん様が書くからこその伝えたいものを感じました…。
”絵の一番いいところは、言葉にできない心の思いを表現できることです。”
これが本当に、絵の尊いところだと想います…この言葉しか浮かばないのですが”心象”、まさにこれを表わせる素晴らしい表現のひとつ。
そして最後の(似矢沢賢次)
…”良い遊び”と。言葉遊び,そして上手さも。
…よく機械関連で「遊びを入れろ(多少の不具合や誤差を受け入れられるよう締めすぎない)」とありますが、それに通じる…良さが。
こういう記事、とても良いと想いました!(想うがままに自由奔放)
この記事とのしてんてん様に…感謝を!
横に奥様がいればなおさらのこと、
そんな思い出が蘇ってくるなんて、母の絵も捨てたものじゃないということです^ね^
ありがとうございました。
とにかく足を踏み出すということです^ね^
世の中は広い、だからどんな面から見ても自分より優れた人がいる。
そう思ってしまうと、結局自分のすることは何でも二流、取るに足らないことなんだと思ってしまうのですね。
けれど本当はオンリーワン。
自分のすべては、どこをとってみても貴重なもの、価値あるものなのですよね。
そのことを理解するのに、絵を描くということが役に立つともいえるんです。
自分の描くものが唯一無二のものと思えるような心を創る修行となるのです。
自信を持って線を引く。
これは素晴らしい心の修行なのです^ね^
きっと、記憶力がいいのでしょう。
絵が上手く描けない人は
きっと、バランス感覚が鈍いからかも。
私はどちらかというと
絵が上手い方です。
美術部しか入れなかったし、
授業で描いた全てが
教室の壁に飾られてましたね。
人は私の絵を怖いと言っていましたが、
美術の先生はただいいね~というだけでした。
心理を専攻していた時、
箱庭療法があって
私が置いたオブジェクトを見て
クラスメート達は
怖いと
先生も怖いと
当時は怖くさせたことが嬉しくて
いた時、意気揚々でしたが、
卒業して15年ほど経った時に
本棚の片隅で見つけて
見た時、
怖いと思いました。
本当に怖かったのね。
二度と観たくない作品でしたね。
コメントを読みながら
なぜか
その時のことを思い出したので
お母様の作品とは関係の無いコメントにも拘わらず
投稿しますね。
絵が上手ということに加えて、自分の精神世界に敏感だというのだと思います。
シュールレアリズムの絵画や、ミヒャエル・エンデの絵のように、
自分の心の中を見て、それを風景として描くということが主題なのでしょう。
深く心象風景を描くというのは、そのものにとっては実に自然で切実な、ある意味居心地のいい絵であるわけなのですけれど、他人が見ると、「怖い」と思えるのはよくあることです^ね^
怖いと感じるのは、実のところ観て怖いという人の中にもそんな世界があるということなのでしょう。褒めるべきは内なる世界を外に現わした感受性と表現力だと思います。
私が興味深いのは、桂蓮さんご自身が、長じて、今、怖いと感じるということ。
過去から今の間に、心の中の何かが成長して、何かが声を潜めた。それを見極めるチャンスが、自分の過去を今にひきだすことで生まれるような気がします
自分が自分に贈ったメッセージです^ね^
母の絵も、ある意味同じにおいがあるのかもしれません。
というのも、描いているとき一切まわりのことを意識しないで、自分と純粋に対面している。そんな時間の共有ですね。
その場所では、絵の上手な桂蓮さんも、下手くそな母も、全く同じレベルの幸せを感じていると、私は信じたいのです。
今もその頃の作品が残っていればラッキーです^ね^
こんにちは!
似矢沢賢次先生のお言葉も
すばらしいですけれど、
お母様の絵画も、何とも味わい深く
常に新鮮ですね♪
瞬間瞬間無心に描いていらっしゃるからだと思いますがまさに一瞬無限大絵画!
今未来過去一瞬無限大絵画!
さすがにのしてんてん画伯のお母様だと敬服しております。
これからもお母様の絵画☆
鑑賞させていただきますね。
関西平和美術展も楽しみです。
ご盛況お祈り申し上げます☆
私も参加させて頂けますよう
がんばりま^す^!
古びて行くものもまた意識なのでしょうけれど、今を生きるという思いがこの意識をかえてくれるのだと思います。
母にとって、ベットの上での生活は、退屈極まりないものでした。どこをみまわしても古びた日常というような感じで、新鮮なものは何もなかった。そう感じさせられました。
その古びた生活の中で、母が見つけた新鮮なもの、それが自分の命だという思いではなかったかと思うのです。
その命が線を引くという単純な行為の中に感じとっていた。
そう思えるのです^ね^