タイルに映った振り子
私の考えでは四次元思考というのは物質(自分)を主人公にした思考のことです。自分がいるということは、その周りに自分でないたくさんの人やものがあるという認識で成り立っている訳ですね。そして自分でないものたちの内側は見えないし分からない。
だから自分だけでなく皆で幸せになろう。すべてがしあわせになるために協力して互いに助け合おう。決して人を傷付けない。みながすべての人のために幸せになる努力する。そんなことが大切なんだ。と理想をふくらませることも出来ますね。
けれど、私たちの幸せはたとえば、愛する、愛される、仲間がいる、成功する、名声を得る、信頼される、裕福になる・・・・等々。何かを手に入れるということですね。
そして不幸とは、その真逆にある喪失感、失敗、阻害、・・・つまり失い、何も手に入れられない=孤独ということなのです。
私たちの生活は、何かを手に入れるためであって、空っぽの何もない自分を受け入れることが出来ない。それは不幸としか思えない一つの恐怖である訳です。
必然私たちは何かを手に入れる競争の中に巻き込まれて行きます。そこでは手に入れる者もいれば手に入れられない者もいる。どうしても幸せと不幸はセットで現れます。
それなら競争せず皆が均等に手にはいるような社会をつくればいい。けれどそれでは競争のだいご味、勝利の喜びが頭切りされて喜びと苦悩が不完全燃焼を起こしてしまう。
では自由な競争を国が保証し、不幸になったものを国が救ってあげればいい。いいですね。けれど国は経済的な支援は出来ても愛を与えることは出来ないでしょう。
つまり不幸になった者の心は、結局その者が自分で救うしかない。誰からも愛されないという最悪の思いが生まれたら、もちろんそれを救おうと手を差し伸べる人は必ずいるでしょう(社会は捨てたものじゃない)けれど、それさえ信じることが出来ないところまで追いつめられたら、それを救うのはもはや自分しかいないのです。
この時、人は物質に反逆しはじめる。
攻撃的な人は、自分の不幸は他人のせいだと考え、復讐しようとする。
内向的な人は自分が生きているのさえ恥ずかしく辛いと思う。そして己の肉体を壊そうとするのです。
四次元思考の悲しく暗く深い谷間の風景ですね。
頑張りなさいと声をかけられても、すべてを失った落ちこぼれだと自分でそう評価している人には心を逆撫でするだけですね。
「誰が私の気持ちなど分かるものか!」そう叫ぶかもしれません。
人の心は知り得ないというのはあたりまえの事実です。しかしそれを最悪の不幸ととらえてしまうのですね。物質思考ではどうしても越えられない壁がここにあるのです。
すべてを失った者に、救われる道はないのでしょうか。
前回私は暗闇恐怖症から立ち直った話を書きましたが、実はそれと全く同じことがここでも起こっているのです。
私が闇を魔物と思っていたように
この者は「何もない自分」を、「落ちこぼれ者」と見ているのですね。いえそれ以上に、自分のことをそういう眼で見られていると思い込んでしまう他人の眼差しがキリの刃のように心を突き刺さすのです。しかもそれを自分の頭で考えているのですから逃げ場所はありません。
「人の気持ちを正確に分かる者などいない」これは誰にでもあてはまる真実ですね。
けれどそのことには気付かず、それを自分が阻害されているためだと思い込んでしまうのです。
闇を受け入れるとそれは悪魔でもなんでもないただの空間であったと知るように、「何もない自分」を受け入れ、ただ眺めていれば、「何もない自分」というのは実は自分の中にある空間のことなのだと気付くのです。
「何もない自分」、それは夜空に拡がる空間と同じもの。そう理解できるのですね。
最悪の自分をそのように受け入れたとき、それは最善の真実に昇華します。
「何もない自分」というものが、何か恥ずかしくむなしい最低のものという意識から、実は最高の悟りの境地であったという転換がここで起こるわけです。
「何もない自分」の真実に気付いたら、心はそこから広大な宇宙とつながります。まさに図のスケール軸の全体を見るのですね。
そうなったら孤独とは、自分が宇宙そのものである証しだったのだと理解が広がります。人間関係や自分自身に信じられなくなった心が、信じなくていい「吾は空なり」というべき宇宙と出遭うのです。そうです、空なる吾はただここにある。信じる必要のない存在なのですね。
すると、まるで巌牢に閉じ込められているような密閉された窒息感が、一瞬で広大な空間の中に解き放たれるのです。
四次元思考から五次元思考に昇華する構図がここにあります。
「私には何もない」という意識は、上の図で言えば心が時間軸の原点に戻ったことを意味します。今この瞬間のことです。そこがスケール軸に入っていく唯一のチャンスと言えましょう。
原点に帰った心だけが、時間軸からスケール軸に視野を移せるのですね。
原点に立ち帰った心が、「何もない自分」に気付き、それを否定しないで受け入れるとき、「何もない」という意識が物質から空間に切り替わるのです。見る意識を物質から空間に向け変えるだけで私たちは自分が宇宙と同根であるという実感を持ちます。そこから少し考えるだけで、この空間は眼に見えなくても自分の身体の中にまで及んでいるという事実を知ることになるのです。
そこで思い描く世界がスケール軸であり、このスケール軸そのものが自分自身だったのだと気付くのですね。すべてを失って初めて見える自分の姿と言えるでしょう。まさに吾は空なりです。
スケール軸にしばらく心をとどめていれば、やがてこの空間の力が心身を癒してくれるでしょう。
原点は空間と物質が交わるところ。その交わりが「私」のこの身体と心を創っているのです。
そのことを理解し、原点に心を置く努力をすれば、私たちは初めて、本当に四次元の社会を楽しむことが出来るでしょう。
誤解を恐れずに言えば、金持ちは金持ちの幸せを楽しめばいいし、貧乏人は貧乏人の幸せを楽しめばいい。ということですね。
人は今立っているその場所で、その場所にしかない幸せを手に入れることが出来る。それを見つけることは可能なのだと思うのです。
分かって頂けるでしょうか。
私たちはここでようやく吾は空なりという理解と共にスケール軸を手に入れることが出来るのです。
残念ながらスケール軸の空間思考は、社会にはなじみません。しかしそれは個人の中に永遠の居場所を与えてくれるのです。
一方時間軸の物質思考は社会を動かす機能的な役割を果たしてくれます。欠点はあっても、それを越えるものがないかぎり、もっとも人間的な、人間固有の思考だということに変わりはないのですね。
絶え間ない戦争、悲劇的な愛憎劇を繰り返しながら、しかしそれが我々愛すべき人間の偽りなき姿ですね。失敗があってなお美しいのが人間社会のいとおしいところでしょう。その社会が自然に生み出してきた思考、それが物質思考(四次元思考)だということを忘れてはいけないのです。
つまり、空間思考と物質思考は、けっして相反するものでも、対立するものでもないし、そう受け取ってはならないのです。
この二つの思考は共存しているのです。
五次元の図はまさにそのことを表している訳ですね。
ふたつの思考は原点で一つになる。
そしてほかでもない、その原点に「私」たちがいるのです。
空間思考でしっかり自分をつかまえ、物質思考で広く社会とつながって行く。
原点の「私」はその能力を十二分に備えているでしょう。
私たちがすべきことは、常に原点を意識することです。
原点を意識するということは、時間の世界とスケールの世界を両手に持つ言うことであり、まさにこれが五次元に生きるということに他ならないのです。
もうお気付きかもしれませんが、
この五次元に生きるということこそ、私たちがすでに見てきた「五次元と振り子(2)」で紹介しました、物質思考と空間思考による心の振り子に他ならないのです。
しっかり空間思考が出来て、スケール軸をつかまえることが出来れば、時間軸の生活はけっして破綻することはありません。時間軸で疲れた心は必ずスケール軸の力によって癒されていくでしょう。
時間軸で見ている風景はタイルに映った振り子。スケール軸では振り子を映したタイルの本体が見える。すると振り子がどんな動きをしようが、振り子がユリの花になろうが安心してその映像を楽しむことが出来るのです。永遠の本体に映し出される自分が主人公のドラマですね。
過去記事
はっとさせられました。
原点についてもう一度、視点を変えて考え直そうと思いました。
ブックマークに書いてくださった、『心理学に基づく坐禅の研究』
私は何かを忘れていましたね。
それに気がつきました。
気が引き締まりました。
今夜、原点についてもう一度、考え直してまた、伺います。
同じ、心を追求するものとして、私は正直今、桂蓮さんの言葉に感動しております。
真実の響きがこんなに心を共振させるのかと驚きながら自分の心を眺めています。
金剛界だけではだめなんですね。
胎蔵界と交わる中心に身をおきたい。そんな思いを重ねてみたいです^ね^
雑談に来ました☺。
『五次元』『スケールの概念』等の用語?に一種の拒否反応があった、私の中の獣や幼児たちにもわかる(受け入れ易い)お話をありがとうございました☺。
いえその、別に私にだけ講義(雑談?)して下さった訳ではナイのはわかっておりますけど(笑)。
否応なしに時間の中で生きざるを得ない、人間(生き物)だという自意識が私は強いもので。
純粋な理論、イデア的な話はどうも、昔から拒否反応があります。
哲学の為の哲学。論理の為の論理。そんなにおいがすると、どれほどそれが美しくても私の中心へは響いてきません。
美しくない雑多なあれこれを含め、生きているのが自分という人間(生き物)でしょうし。
時間と空間の座標軸が交差した『私』の原点をつかまえ、歩いてゆく。自分のペースと歩幅で。
他と比べる必要もないし、そもそも比べようがない。
とてもシンプル。拍手👏。
瞬間というのは
論理でも哲学でもないもちろん宗教や化学でもない。
生身の生きているこの自分のことなのですね。
それを丸ごと受け入れるということが、原点にとどまって世界を見ることにつながる。
創作もここから生まれると思っています。
原点の自分が喜ぶ作品を、期待しております^よ^
『心理学に基づく坐禅の研究』はブログの原点であったのに、いつの間にか、自己弁明みたいな記事になっていたことに気づきました。
原点にもう一度、戻って頭を洗っていく必要があろことも新たに気づきました。
私の原点...
なんでしょう。
北藪様の絵を東京で肉眼で拝見した時、
『原点に辿るための精密な工程』のような
緻密な努力を目を通して
肌で感じてました。
揺るぎの無い、妥協の一切無い、心の原点を
眼で確認しました。
今までその実感したことを言及しなかったのは
それを軸に考えを深めたかったからです。
今の私は正確な通訳家になるために
実力を磨いています。
その準備ができたら
GOサインが出せたら
報告にまた参ります。
共通とはつまり万人に通じる真理。
万人に通じるというのは、「私」がないということではないかと。
「私の原点」を求めるというのは、「私」に執着する契機を含んでいて、結果そこに至るための努力につながります。
しかし原点は努力ではない、もっとも解放された、湯船に浸かっているような、存在そのもののことではないでしょうか。
今この瞬間にある、努力の要らない自然は「私」の執着を離れてはじめて出あえるような気がします。
「私」とは私になろうとする時間軸の思考。とても貴重な情熱ですけれど、その情熱を最大限に引き出すためにも、己に執着しない「空」に身を預けることが大切ではないでしょうか。
原点とは、「私」の生まれる前の「空」そう心得ています^よ^
瞑想とは、時間軸の概念を「 無 」にする、即ち布スクリーンに映る振り子の影の鑑賞・・かなぁ。
なんて、いろいろな解釈を当てはめて遊んでみたりすると結構楽しい時間が過ごせますね ♪
この御記事も、私の中では保存版にしたいものの一つです ♪
>瞑想とは、時間軸の概念を「 無 」にする、即ち布スクリーンに映る振り子の影の鑑賞
想いがストレートに伝わるのは本当にうれしいです。
思えば、笑いにその要素がたくさんあることに気付かせていただいたお師匠様ですから、
心のスクリーンに映る 細めの大仏 (細眼×細身〇)を眺めて、これは映像だと言い聞かせている姿をつい、思い描いてしまいま^す^(こ、これ・・)
心ゆくまでお楽しみ下さいませ
…五次元と振り子シリーズ、見て考えて、自分に当てはめて考察して、一度砕いてまた練って…それを5日して
「この概念の正誤はわからない、でもそれ以上にこの概念は…”正誤抜きに!…いい、おもしろい、興味深い概念”」
だと心から想いました。
…真剣に考えた結果、私は悩んで沈み、…それでもこれは面白い概念と想い、それは表現にしたかった。
他の方とは自論・経験や粋さ・巧みさは私にはありませんが…それでも表したい想いがあり、
「この概念を持って、日常を過ごすと…ふと人生が面白くなるきっかけになる…そんな感覚がする!」
薄っぺらいですが、書きたくなってしまいました。のしてんてん様の心の動くこの記事に今できる限りの敬意を込めて…。
折師さんの心を伝えていただいて、ただ感謝するばかりです。
「正誤は分からない」これが私たちの人生だと思います。
何も分からないということを知ったうえで、体験だけが開示される心です。その心を楽しみたいのです。
生きる上で苦悩は必要かもしれませんが、必要以上の苦悩はいらない。
横から見たら苦しいことも、下から見たら楽しいかもしれない。そんな思考の転換が心を救ってくれることもある。そう考えたいのですね。
折師さんの幸せを呼ぶ折り紙さん達に乾杯!で^す^
書きにくいコメントをこうして書いてくれたことに、私こそ敬意をおくりたいと思います。
ありがとうございました。