縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

脳内イメージはモヤモヤ、リアルはワクワク・・・高橋大輔著「ロビンソン・クルーソーを探して」

2023年01月30日 07時02分46秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
脳内イメージを史実のように断定しているナンチャッテ探訪記「アースダイバー神社編」にモヤモヤしていたので、口直しに椎名誠さんの「十五少年漂流記への旅」を読んだ。椎名さんの一連の探訪記は、文献をきちんと読んでから現地を探訪をした感想を語るというものなので、臨場感があってワクワクする。同じ探訪記でもモヤモヤとワクワクの差は大きいよ(笑)
椎名さんは少年時代に読んだ「十五少年漂流記」「さまよえる湖」などの冒険物語や探検記の感動が、その後の人生に与えた影響を熱く語っている。少年の好奇心を持ち続ける椎名さんの探訪記は好きですねぇ。私も椎名さんに影響されて高校のころから仲間を集めてキャンプしてた。
 
 
「十五少年漂流記への旅」の中で。高橋大輔という探検家が「ロビンソン・クルーソー漂流記」のモデルになった実在の人物の調査をして、住居跡まで発見したと絶賛していたのが「ロビンソン・クルーソーを探して」で、糸魚川図書館で検索してもらったらあるではないか!
文章の歯切れのよさもあって一気に読みおえたが、これぞリアルな探訪記でワクワクしながら読めて読了感はすがすがしい。文庫本もあるので興味のある方はぜひ!
 
高橋さんは学生時代から神話や伝説の検証をするバックパッカーで、卒業後もサラリーマンをしながら文献を精読しては現地を探訪していたそうだ。
 
ロビンソンクルーソーのモデルは、私掠船(国家公認の海賊船)の航海長だったアレクサンダー・セルカーク。その研究資料は海外にもなく、高橋さんは有給休暇を利用しては海外の博物館や研究者などを訪れては断片的な資料を集め、置き去りにされた島を野宿しながら歩きまわって、推理小説のようにその人物像に肉薄していく。
 
中沢新一の「アースダイバー神社編」のように脳内イメージを史実のように書いているわけではなく、300年前の実在の人物を文献と現地踏査で徹底検証して浮び上った人物像だから、まるでセルカーグの息遣いや声が聴こえてくるようだ。
本書には6年がかりの個人的な探訪が書かれているが、この時点ではセルカーグの住居跡は見つけられなかったとある。
 
その後の高橋さんの足跡をネット検索したら、その研究成果が「ナショナルジオグラフィック」に掲載され評判となり、アメリカの探検協会の支援で探検隊を組織して、ついにセルカーグの住居跡を特定できたとのこと。つまり高橋さんはロビンソン・クルーソーに世界一詳しい男だ。
脱サラして探検家になった高橋さんの熱意と行動力もすごいが、なにごとにも誠実な人なのだろう。
 
本書にでてくる海外の研究者たちやセルカーグの子孫も、自分の知る限りではそれ以上のことは言えないといった慎重な態度を持つが、高橋さんの真摯さに協力を惜しまない。
民俗学者の宮本常一も、一時資料を読み込み、当事者インタビューをしながらも「・・・であるらしい」と、安易に断定せずに様々な可能性の含みをもたせてますナ。
 
 

歴史修正主義にもの申す・・・中沢新一著「アースダイバー神社編」その2

2023年01月26日 08時27分51秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

「アースダイバー神社編」がトンデモ本だと投稿したら、予想外の反響があり、さる研究紙から寄稿をとのお声がけ。

そこで資料集めとして、海にむかって現地を撮影したのが最初の写真。
中沢氏が「胎児の形をした渚の配石遺構」と書いている場所が中央に4本の短い柱が建っているところ。500m先にある海の手前に標高18mの海岸段丘がそびえており、ここが渚だろうか?
青い勾玉は、縄文晩期の胎児形勾玉モデルで、これを中沢氏は「生々しい生き物の形」と書いている・・・。
こちらは弥生中期の北部九州の定形勾玉モデルで、こっちをイズモでつくられた定形勾玉として、キティちゃんのようにかわいいと書いているが、縄文の胎児形と弥生の定形のどっちがキティちゃんだろう?これは個人の価値観によるが・・・。
そして下段右端が、間延びしたコの字をした古墳時代の山陰系の勾玉モデルで、こちらは玉類243点をつなげた「大首飾り」のなかの赤瑪瑙勾玉。前期の勾玉らしく丸みがあるが、中期以降は扁平で雑なつくりになるので、私は博物館からの注文でもなければつくらない。素材も赤メノウや青碧玉であってヒスイではない。
 
以上をみても、中沢氏が「アースダイバー神社編」で書いていることは、脳内イメージに都合よく史実を切り張りしてつくった夢物語だとわかってもらえるだろう。
 
誤解してほしくないのは、私は歴史解釈は自由でも歴史と個人の歴史観を混同してはいけない、と思っている。事実を歪曲した創作を史実のように書いては、歴史修正主義ではないか?
 
中沢氏がトンデモ説をひろめるスピリチュアルおじさんの類いであろうが、私の知ったことではない。ただアメリカ大統領選のあとに、「選挙が盗まれた」と大衆を扇動して国民に分断をつくったポピュリズム政治に似た危うさを感じるのだ。
 
あるいは戦前の八紘一宇を旗印にした侵略戦争を、アジア解放の聖戦であり、アメリカの陰謀でやむにやまれず始めた戦争だったとひろめる人々。そして戦時中に大本営発表を信じた人々。
 
こういった歴史修正主義の言説を真に受けていると、今が戦前になる危険が高まるのではないか?そのことを杞憂して、史実と違うぞ!と言っているのである。中沢氏の著作が面白いと思ったら自分で調べればいいのだ。その態度が戦前にならない訓練になるのだから。
 
 
*定形勾玉の写真は、丁子頭勾玉になっていますが、注文主の意向で後から定形勾玉の頭部に刻みをいれて丁子頭勾玉にした結果です。
 

トンデモ説の条件・・・中沢新一著「アースダイバー神社編」

2023年01月22日 07時24分03秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
トンデモ説の多くには、①つごうのいい情報だけを切り張りする②情報を検証しない③独善的に断定するといった特徴があるように思う。
ヒスイ・縄文・ヌナカワ姫と、わたしのライフワークに関したことが載っているからと京都在住の先輩から贈られた「アース・ダイバー神社編」がまさしくこの条件を備えていた。
 
ヒスイ加工遺跡として知られる寺地遺跡の配石遺構を、渚に作られた胎児のインスタレーションと断定し、「コシの勾玉工人たちは、渚につくられた胎児の形の配石の中で、まいにちまいにち胎児の形をした勾玉を磨っていた」と、渚と胎児にこだわって紹介しているが・・・。
寺地遺跡の配石遺構が胎児の形にみえるとすると、相当に想像力のある人だろう。こちらの図版は後述する「縄文のメドゥーサ」より
 
寺地遺跡は海岸から500mも内陸だから渚とはいえないし、遺跡と海岸の間には標高20mはある海岸段丘が障壁となっているので海の気配など感じようもない扇状地の遺跡だ。それに寒冷期の縄文晩期の遺跡だから、渚は現在より100~200mは後退していたハズ。
 
ちなみに発掘報告書では、配石遺構からは焼けた人骨やサメの椎骨の他にヒスイ原石も出土してはいるが、出土状況からモノ送りの祭祀場と考えられ、ヒスイ加工位置は多数の剥片と砥石の出土と、工作ピットらしき遺構をもつ竪穴住居内と報告されているはずだ。
 
「史跡寺地遺跡」の配石遺構の平面図だけを引用されている寺村光晴先生は困惑するだろう。
 
配石遺構がなんの形に見えるかは個人の自由だが、自説のように書いている胎児とする論説は、昨年亡くなった図像学で縄文文化の解明にとりくんでいた田中基さんの「縄文のメドゥーサ」の丸パクリではないか。田中さんの了承を得ているのだろうか?
わたしは観念論は好まない実証主義者なので、図像学で縄文文化を読み解く田中さんの研究には敬意を示しても興味はなく、頂き物の「縄文のメドゥーサ」は申し訳ないが寺地遺跡のところしか読んでいない。現代人が縄文の図像を読み解いても、当の縄文人はなんて思うだろう?という想いがあって、読み進めることができないのだ。
 
発掘に関係した考古者が胎児に酷似していると感じたと書いているが、主観的な感想をいわず物的証拠を客観視するのが考古学だから、報告書には無論そんなことは書かれてはいない。考古学者の誰が胎児と感じたのか明記して欲しいものだ。
 
また著者は「縄文時代のコシの糸魚川でつくられた胎児形の勾玉が、弥生時代のイズモで定形勾玉となった」とも断定しているが、コシとイズモという文脈はネットで拾った「古代のラブロマンス」の類いに、整合性を無視して考古学の知見を切り張りしたのだろう。
 
定形勾玉は弥生時代中期の北部九州が産地とする蓋然性が最も高く、そもそもイズモで勾玉つくりが本格化するのは古墳時代からだし、ヒスイ加工も確認されていない。
定形勾玉の特徴は、ちいさめで球形をした頭部が頸部にえぐりこみ、円形にちかい胴部断面が尾部にむかってスマートになる形状。こちらの勾玉は大分県の天岩戸神社に奉納するという依頼主の希望で丁子頭勾玉にしてあるし、予算の関係で白地に緑模様のヒスイを使ったが、本物の北部九州の定形勾玉は深緑のロウカンヒスイが多い。
 
イズモの勾玉は山陰系と分類される、ひと目で定形勾玉との違いが見分けがつくコの字形をした独特のものだし、素材も碧玉・瑪瑙・水晶だから、あまりにもデタラメすぎる。
山陰系勾玉の典型が、間延びしたコの字をした赤瑪瑙や青碧玉製。こちらは「松阪市立松浦武四郎記念館」の依頼でつくった玉類243点を繋げた「大首飾り」複製品の赤瑪瑙勾玉のひとつ。古墳時代前期なら写真のように胴部断面が円形に近く丁寧に作ってあるが、中期以降は需要量が増えたためか粗製となり平べったくなる。
 
著者は大衆受けするなら、事実関係はどうでもいいと考えているのだろうか?ファンタジー小説ならいいのだが、紀行文のような体裁で考古学資料を虫食い・切り張りしてつくった論説を、史実のように断定してしまうのは歴史の捏造といえないのか?
 
宗教史と文化人類学の大学教授の肩書をもつベストセラー作家であっても、これでは巷にあふれるスピリチュアルおじさんたちのトンデモ説と同じではないか。
 
著者にとっては神話の神々すらも商売のネタとも感じる。神なるものへの畏れや対象物への誠実さもなく、先人の研究成果に敬意を払わず使い捨てにして創作した妄想世界の夢物語が「中沢学」なるもの、とわたしは感じた。
 
追記
Facebookに投稿したら、90年代にバックパッカー旅を書いてベストセラーとなった「ゴー・ゴー・インド」の著者で、旅行作家の蔵前仁一さんが同感!とシェアしてくれた。蔵前さんも最初の「アースダイバー」がベストセラーになった時に誇大妄想の書としてブログで批判したと教えてくれたので、興味ある方は下記ブログ「旅行人編集者のーと」をご一読のほどを
https://kuramae-jinichi.hatenablog.com/entry/20071103/1203074813?fbclid=IwAR1WbmzCo-ftBPaWrosXymm_ozDBWUGVZlMKkAkd4DNn7qNAWAJ4cVHjFKg
 
 
 
 

柳家小三治の「玉子かけ御飯」に思う・・・鳥インフルエンザで126万羽が殺処分

2023年01月17日 07時31分49秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
新潟県で発生した鳥インフルエンザで、126万羽もの鶏が殺処分されたとの報道に心をいためる。
そこで柳家小三治が、卵が貴重品だった時代の哀切を噺のまくらで語って語り草となった「玉子かけ御飯」を読みたくなり、講談社文庫「ま・く・ら」をひっぱりだした。
噺に入るまえに日常から落語の世界に誘導しやすい短い小噺をふるのが本来の「まくら」だが、ネタをきめずに高座にあがる小三治の「まくら」は噺とは関係のない日常雑記が多く、お客さんの反応を見ながらネタを決める。
 
「むかしは玉子なんてぇものは金の宝石でしたよ。
なにかのはずみで1個だけ手に入るってぇとたいへんな喜びようでね、7人家族で平等にわけて食わないといけねぇから、玉子かけ御飯で食うしかねぇの。
どうするかってぇと、ドンブリ鉢に玉子を割ってから、まずお醤油で倍に増やします(笑)
 
どろんとしたゼリー状態だと均等に分けられないから、箸をつっこむてぇと、水みたくなるまでカッカッカッと情けも容赦もあるもんかってぇくれいにかき回すのよ。
 
そうですねぇ、20分くらいもかきまわしますってぇとねぇ、さしもの玉子もすっかり諦めて、水みてぇにサラサラになんのよ(笑)ひとりじゃくたびれっちまうから、家族7人で交代して20分!その様子を家族みんなで固唾を飲んで見守ってるのよ・・・」
 
だいたいこんな感じだ・・・玉子かけ御飯は立派なごちそうです!by小三治。
雑多なお客さんが来て、時間制限のある寄席の「まくら」は5分~10分程度がふつうだが、小三治のファンだけが集まる独演会では「まくら」が延々と20~1時間も続き、「こんなこと喋っているうちに、あたしの持ち時間は残り5分になっちゃいました!」と「まくら」だけで終わることもあり、小三治ファンはそれも楽しんでいた。話芸の達人、小三治の「まくら」の傑作をあつめて出版した「ま・く・ら」はベストセラーになった。
 
 
さてさて、わたしは1個の卵を家族でわけあった時代と、好きなだけ食える時代の卵は同じ味?同じ栄養?と愚考する。
 
「卵は物価の優等生」という言葉が、養鶏家を苦しめ、鶏の殺処分に至る事態の呪縛となっていないのか?
大量生産・大量販売・価格破壊の時代に、小三治の玉子かけ御飯のエピソードを再読すると色々と考えてしまう。これはヒスイ業界も同じ。
 

 


同じ失敗を繰り返す日本の組織・・・「大本営参謀の情報戦記」

2022年11月20日 07時08分57秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
戦前の日本は情報収集と分析を軽視し、必敗の太平洋戦争を自ら開戦してしまった。
 
幸か不幸か、明治期に大国相手の日清・日露の戦争に辛勝した結果、皇国史観にもとづく精神論ばかりが重視され、無敗皇軍神話が喧伝されたのが昭和のはじめ。
 
日露の陸軍もそうだったが、昭和の帝国陸海軍はいちど作戦が成功すると、同じ作戦を何度も繰り返すことを米軍の情報将校らが分析して、裏をかかれてはの失敗を繰り返していたので、米軍も日本軍の硬直性に飽きれたというのは有名な話し。
 
「大本営参謀の情報戦記」の著者の堀中佐は、ミッドウエイ開戦の後に情報参謀に任命されたが、情報課の仕事は欧米の雑誌を翻訳して報告書を作成するだけで、分析されることもなく、作戦に反映されることもない閑職であることに愕然とする。
 
そこで日米両軍の作戦履歴と暗号電文の解読を独自に取組んだ結果、米軍の作戦を次々と的中させるようになり、「マッカーサーの参謀」と称賛されるようになる。
 
そして南方諸島で採用されては玉砕をくりかえしていた「水際作戦」から、「洞穴陣地で持久戦」へと転換させ、山下泰文大将をはじめとした南方軍指揮官から信頼されるようになった。
 
 
ポツダム宣言受諾後に、対独戦に勝利したソ連が兵力を満州に移して侵攻する情報もあったそうだが、堀中佐が「奥の院」と批判する大本営作戦課が情報を握りつぶしたことが、怒りをもって書かれている。
 
同じ大本営陸軍参謀本部といっても、実質は作戦課が唯我独尊で軍隊を動かすエリートで、情報課は軽んじられていたのだ。
 
都合の悪い情報は隠蔽する日本の組織のありようは今も変わらないが、もしソ連の侵攻情報が日本軍を統帥する「大元帥」たる天皇まであげていたら、30万人とも50万人とも推測されている在留邦人がソ連軍の暴力に曝されることもなかったかも知れなし、その後の中国残留孤児問題もおこらなかったかも知れない。
 
天皇と鈴木内閣は、極秘裏に和平交渉の仲介をソ連に依頼するプランを進めていたくらいだから、ソ連軍の満州侵攻は晴天の霹靂だった。
 
天皇は絶対の現人神であり、余の命令は天皇の命令であると将兵を死地に追いやっていた作戦課のエリート軍人たちこそが、最大の不忠者・国賊だったのだ。これが当時からいわれていた「昭和の陸軍の下剋上」
 
そして満州事変からの15年戦争を主導し、国家をミスリードした大本営作戦課の軍人たちは・・・戦後に自民党議員、自衛隊の幕僚、大企業の役員になったりと、それぞれ栄達している。

香典には名前と金額を明記しましょう・・・親父の葬儀

2022年11月17日 07時50分52秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
香典をだす場合は、内封筒に名前と金額を明記しましょうネ。
香典を作って集計したら、計算が合わないわ、空の香典封筒があるやらで、大変だったのだ。
 
別々だった自宅と斎場の受付記録も、一括管理した名簿を作成。親父との関係、連絡先、金額を記録しておかないと、義理が果たせなくなることがあるし、法事で慌てなくて済む。
 
我が家は親戚が多いので、これまで関係性もよく知らずにオジサン、オバサンとだけ呼んでいた遠戚も多く、連絡先も知らずに代替わりしたからなおのこと。
 
親父の葬儀がきっかけで浮かび上がったファミリーヒストリー。これも故人の贈り物のひとつ。
 
葬儀からこのかた、喪主のつとめとして、これまで読むことのなかった新聞の訃報欄をチェックするようになった。
 
 

親父の最後の弟子・・・親父のバタフライエフェクト

2022年11月10日 07時45分09秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

新聞に親父の追悼文を投稿してくれた人がいると、親戚や近所の人が掲載紙を何人も持ってきてくれた。

何度も取材を受けているローカル新聞なので顔馴染みの記者が気を利かせてくれたのか、私宛に掲載紙からも郵送されてきたが、よくも私の親父のことだとよくぞ解ったものだ。ローカル新聞ならではの小回りの良さか。ちなみに掲載紙は「糸魚川タイムズ」
 
葬儀が終わってから、近所の夫妻が弔問に来た。
 
親父はまだ元気なころ、お向かいの小学校でボクシングをボランティアで教えていたことがあり、息子さんも習っていた。その息子さんは引っ込み思案なおとなしい子供だったが、ボクシングが面白いと拙宅で個人レッスンもしていたので、親父の最後の弟子ということになる。
 
その子が来年は高校受験で、環境問題を学びたいからと九州の難関校を受験したいと言ってきたそう。
 
ご夫妻は、あの大人しい子が自分の意志を明確にできるようになったのは、親父からボクシングを学んだお陰ですとお礼を言ってくれたので、お袋は泣き崩れた。
親父を師と仰ぎ、敬慕してくれる人がいる。バタフライエフェクト・・・疾走するロッキーの後ろをついてくる子供たちみたいではないか。
 
生きていた時より身近に感じている。

親父の七回忌に聴く加山雄三 の オヤジの背中・・・親父の葬儀

2022年11月05日 07時28分56秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

加山雄三 Kayama Yuzo / オヤジの背中

 

オヤジの死から1週間目の朝、加山雄三さんの「オヤジの背中」を聴く。CDには1番までしか収録されてい名曲のフルバージョン。
でも歌詞は1番がいい。
 
オヤジの 背中を 見つめて生きてきた
 
時には 厳しくて 離れてみていた
 
ある日は 喜びに 揺れてた 背中よ
 
いま見えるよ 目を閉じれば ただ ひたすらに 生きてた姿が
 
男たちは その人生を語っているよ 背中で
 
短い言葉、加山さんの声と歌い方、アレンジが見事にマッチした、世のオヤジたちの哀愁と賛辞を歌いあげたバラード。
 
葬儀の翌日からお袋が寝込んだ。嫁入りしてから65年間の苦労の連続から、解放されたのだから無理もない。
 
寝起きが大変そうなのでベッドを買ってやり、親戚や姉貴たちが面倒をみに来てくれて、やっと昨日から動けるようになった。
 
オヤジは教えてくれたねぇ・・・親を大事にするなら生きているうち。
 
 

文化の日に、日本の文化とは何かを愚行する・・・親父の葬儀

2022年11月04日 07時03分58秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
親父が在宅介護をしていた時期に、車椅子で玄関を出入りするために自作した段差解消スロープを解体した。
度重なる誤飲性肺炎で体力が低下して入院した時点で、恐らく退院する時には必要なくなると解体を考えたし、お袋も解体してもいいと言っていた。
でもねぇ・・・生きてるうちに解体するには偲びなく、邪魔にしながらもとっておいた。葬儀がケジメとなって解体。
 
私が喪主となる初めての葬儀は、セレモニーホールを利用しながらも、なるべく自宅で弔う時間を多くして、昔ながらの葬式の再現を親族に頼んだことは以前に書いた。
 
女たちは郷土料理作りと弔問客の接待、男たちは納戸から来客用の座布団や食器類を探し出し、親族への連絡や弔問客受け入れの準備に嬉々として取り組んで、なんだか祭りのようだった。
 
昔はこうだったよなぁ、と、みんな懐かしがっていたし、セレモニーホールでも「なごやかで温かみのある、いいお葬式ですねぇ・・・」と、スタッフがしみじみと言っていた。
 
私が子供の頃の葬儀は、親族の若手が年配者から色々と教えてもらいながら、式次第のいろはを継承できていたように思うが、近ごろは若い者が仕事だから、県外居住だからと、葬儀に出てくるのは同じ顔触れの年配者ばかり。
 
私の親の世代は、出産、結婚、死までの人生の節目は、一族総出で助け合い、自宅で行うのが当たり前で、冠婚葬祭に限らず、盆だ正月だと来客が多く、郷土食の作り方や昔ばなしが自然に継承されていた。
 
当然ながら、ハレとケの時は民族衣装たる和服を着ることが多く、自分で着付できるのも当り前だった。
 
さて今日は文化の日だそうだが、民族衣装を自分で着ることのできず、結婚式や葬式を業者にゆだね、郷土料理を作れない日本人が大多数となった今日、日本に文化といえるものは残っているのだろうか?と愚考する。
 
外国人観光客に日本文化の素晴らしさをアピールしようという声を聴くたびに、ところであなたは死者の着物を左前にする理由を知っていますか?
通夜と葬式の違いを説明できますか?
着物を自分で着ることができますか?と質問をしたくなる。
ひと昔前の日本人なら誰でも知っていたし、できたことばかり。
 
耳学問(みみがくもん)という言葉がある。
 
本で得た知識ではなく、人から教えてもらう知識、知恵のことで、聞きかじりの知ったかぶりを自嘲する時にも使うが、昔は生活全般の知識や知恵はマニュアルではなく、耳学問で継承されていた。
 
冠婚葬祭は昔から受け継がれてきた生活様式の根幹、すなわち知識や知恵といった「日本らしさ」を、年長者から次世代に伝える耳学問の機会ではないだろうか。
4月10日は糸魚川「けんか祭り」・・・写真は糸魚川観光協会からの借り物。背中を見せているのは我が寺町区の漢たちで、すっかり淋しくなった幼馴染たちの後頭部が人生の荒波を乗り越えてきた歴史を物語っている(笑)
 
幸いなことに、私の生まれ育った地域は男たちが熱狂する「けんか祭り」があり、年長者が若者に故事来歴や祭りのしきたりを伝承できている。若者は百戦錬磨の年長者を尊重し、年長者は元気な若者を頼りにするから、地域の結束は固い。
 
祭りに出るようになってからは、誰に教えられることもなく自然と墓参りするようになったが、これこそが500年間続いている「けんか祭り」の内実で、ごく自然で無自覚な祖霊崇拝の儀式なのだと実感する。
1964年、親父が30歳の時の「けんか祭り」当日に、天津神社すぐ横の糸魚川小学校講堂にリングを特設して、早稲田大学と明治大学の交流戦を開催。東京の大学のボクシング部の交流戦を田舎に呼べたのは、親父の人脈の広さを物語る証し。親父も出場してKO勝利したそうで、中学時代に担任だった荒木先生から「あの時の山田さんの息子か!俺が中学くらいの時に見たぞ!」と驚かれたことがある。
 
着物や神社仏閣は、その知識と知恵が昇華したカタチ。
 
外国人に紹介する日本文化は、カタチだけでなく、個々が生活経験に基づく実感を語ることも大事で、それが文化の内実と言えるのではないか?
 
葬儀の後、親戚の長老格にそのことを力説したら、次回から自分は後見人として参列し、息子に仕事を休ませて葬儀の手伝いを代替わりさせるよ、と言ってくれた。
 
葬儀執行の次世代が育っていないと、ちかい将来に檀家制度は崩壊する。そして観光客の賽銭で運営できる古刹はともかく、田舎の寺は維持できず、鎮守の杜の古社、歴史ある寺院が廃屋となっていくのではないか。
 
我が家の檀家寺の住職は有髪の50代だが、副業を持たない専業の僧侶で、檀家ではない人からも葬儀を頼まれて多忙なようだ。
 
その評判を聞き及んだお金のない人から、5,000円しか払えないのだがと葬儀を相談され、きちんと葬儀を執り行った有徳の人。
 
昔ばなしに出てくる山寺の和尚さんのような、立派な僧侶がまだ存在することに驚くが、50年後はどうだろう?
 
時代が変わった、変わるもの・・・たった一言で済ませるにしては、あまりにも重い内容ではないだろうか。
 
車で2時間くらいの長岡市に住む甥っ子一家を工房に案内した。
親父のひ孫たちは、サンドバッグ遊びに夢中になった。故人を偲んだボクシングごっこ・・・ヒスイや縄文にも興味をもって、私を先生と呼ぶようになった。
 
夏になったらカヌーに乗ったり海に潜ったり、ヒスイ加工、土器つくりを教えてください!と嬉しいことを言っている。親父が大好きだった「けんか祭り」も見物に来いよ、縁故者は神輿を担げるからな。
 
そして法事もな。いつでも遊びに来て、親父に線香をあげてやってくれよな、と伝えた。
 
核家族化や少子高齢化の時流もあり、わたし如きが葬儀の文化を次世代にバトンタッチができる訳ではないが、少なくとも親父は喜んだ思う。
 
昭和の男が昔はよかったと遠吠えする。チャールズ・ブロンソン主演の「狼の挽歌」という映画を思い出しましたな。

 


遺言が「ロッキーのテーマ曲を流して出棺しろ!」・・・親父の葬儀

2022年10月30日 08時17分18秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
住職から親父の葬儀についての要望を聞かれたので、私が産まれた時に親父は拳と命名するつもりが、乱暴者になると困ると周囲から反対されて修としたそうなので、せめて本人の法名に拳の文字を入れて頂くことは可能でしょうか?と聞いたら、住職は笑って快諾してくれた。
つけて頂いた法名は、「釋 阿拳」(しゃく・あけん)
釋は釈尊の弟子という意味、拳という漢字には一生懸命という意味、阿は阿弥陀如来の阿であると同時に手放すという意味があるとの説明をして頂いて、親父にピッタリな法名だと一同納得。
遺影はダイニングでお袋と並んだ写真をトリミングしてもらった。喪服をコラージュしてもらうより、ざっくばらんに日常着のままの方が親父らしい。
 
葬儀の打合せの席で、元気なころから親父がお袋に
①俺が死んだら通夜の席で国体の時に出したラブレターを孫に読ませろ!
②出棺の時は映画「ロッキー」のテーマ曲を流せ!
 
と言っていたのが遺言といえば遺言と聞き、自分の葬式を笑いのネタにする野放図さに「ダボだっちゃ~!」と一同爆笑。ダボはバカ・アホという意味の方言で、使われ方はバカより軽くてアホに近い。
「カカカカッ、親に向かってダボっちゃあるかや!」と、親父も笑っているに違いない。
大上段に構えた四角四面の真面目さは気恥ずかしくて、江戸っ子気質に似た照れの裏返しの諧謔は親父も私も同じ。
 
 
ちなみにラブレターはボクシングの恩師の代筆で、「教子さんへ・・・僕はいま、兵庫の小川のせせらぎが聴こえる宿でこれを書いています・・・」と、親父のボキャブラリーではあり得ない言葉の数々が綴られていて、先輩方にからかわれながら試合の緊張をほぐしていた様子が想像できる。
1953年兵庫国体の前夜。青春まっただなかの明19歳の秋。
 
それならと、ボクサーが引退セレモニーの時に鳴らすテンカウントの代わりに、鈴(りん)を10回たたいてから出棺しようではないか!と提案したら、姪に「ホントにやるの?バッカみた~い!」と一笑されたが、やるの!親父が喜ぶからっ!(説得①)
 
鈴を鳴らす役を頼んだ叔父は、檀家代表を務める熱心な浄土真宗信者なので、法名といい、テンカウントといい、ホントにいいの?考えなおした方がよくない?と首をひねっていたが、いいの!親父が喜ぶからっ!(説得②)
 
「ロッキー3」の「アイ・オブ・ザ・タイガー」をエンドレスで流した一般弔問には、かっての糸魚川ボクシングクラブの練習生たちが数十年ぶりに集まってくれた。
 
子供のころに遊んでもらった10代、20代の兄貴たちが、白髪の爺ちゃんになっていたが、すぐにわかった。親父が集めてくれた懐かしい顔、顔、顔、顔の数々。
セレモニーホールのロビーには故人の生涯を紹介する飾りつけ。弔問客を案内してはラブレターを読んでもらった。
 
葬儀の後の棺に花を入れる際は、シンミリと「ロッキーのテーマ」のスローテンポなピアノバージョンを流した。
鈴のテンカウントの後にいよいよ出棺。
 
トランペットのファンファーレで始まる、お馴染みの「ロッキー」のテーマ曲が流れて笑いが起こると思ったら、みんな泣いた。
 
親父の行動原理には野心や損得勘定というものはなく、人を楽しませることが好きで、好きなことや仕事に一途に取組んでいるうちに、自然と人が集まってくる生涯だった。
 
その姿と、ロッキーが走る後ろから子供たちが追いかける場面に重なったから、泣かれるのはごもっとも。
 
通夜直前から豪雨となり、夜通し続いて出棺直前に快晴となり、葬儀がすべて終わってから雨がシトシト降り出した。
「ほれ見ろっちゃ・・・日頃の行いエエそいね、大雨で清めてからエエ天気、最後は涙雨だわ」
 
親父、天気まで味方したと絶対自慢してますよね。
 
山田さんなら絶対してますネ、絶対・・・住職と笑いあった。