軽トラに乗って、三内丸山遺跡に保管して貰っていたシーカヤックの引取りの旅から戻った。
行きは海旅では訪れるとこの出来なかった内陸の遺跡や埋蔵文化財センター、博物館のフィールドワーク。
何時もながら頭が下がるのは、各都道府県の埋蔵文化財センターや教育委員会の学芸員さん達の対応である。
素人の質問に丁寧に答えてくれるのだ。
例えば秋田県埋蔵文化財センターを訪れた時のこと。
展示品を見学していたら、学芸員さんが「何かお調べですか?」と優しく声をかけてきた。
「海のヒスイ・ロード」の事を話すと、奥からヒスイに詳しい学芸員を呼んでくるからと、栗澤先生を連れてきてくれた。
右側は秋田県埋蔵文化財センターの栗澤光男先生。突然の訪問にも関わらず、わざわざ暑い収蔵庫に入ってヒスイ出土品や報告書を出してきてくれたので、恐縮した。
栗澤先生の「秋田県のヒスイ出土遺跡」という報告書は事前に読んでいて、「海のヒスイ・ロード」では秋田の寄港地として参考にしていたので感激、そして恐縮する。
縄文晩期(三千~二千五百年前)のヒスイ出土品。
晩期のヒスイ出土品を手に取って観察するのは初めての経験。
勾玉の孔の開け方は、現在とは逆で、裏側から孔開けしている出土品が多いようだ。
栗澤先生は私の話を聞くと、あの報告書は古いですからと恐縮されて、せっかく遠くから来られたんだからと、収蔵庫の奥からヒスイ出土品を沢山出してきてくれて説明までして頂いた。
収蔵庫は鉄骨造で蒸し風呂のように暑いのだ。
そしてあろうことか、周りの学芸員さん達に声掛けして、「この人は新潟から三内丸山遺跡までシーカヤックで旅をした、糸魚川市のヒスイ職人さんです。滅多にないことだから話を聞きましょう!」と、ちょっとだけヒスイや海旅の話しなどさせて頂いた。
私レベルの素人の話しでも、東北の学芸員さんにとっては、ヒスイの現場の話しは新鮮で面白いらしい。
例えばヒスイに光を透過させて鑑定や写真を撮る方法や、具体的な採取、加工方法など。
山形県、青森県でも随分と色んなことを勉強させて頂いた。
ここに協力していただいた学芸員さん達に、改めてお礼申し上げます。
三内丸山遺跡でシーカヤックを引き取った後は、日本海沿岸を南下して海旅を逆に辿る。
青森県の七里長浜は25キロもある砂浜だから、シーカヤックで漕ぐだけでは面白くないところ。今回は軽トラ旅だから、海岸を丹念に歩いて面白そうなモノを見つけた・・・それは赤い土質が露頭した崖地。
近くには遮光器土偶で有名な、縄文晩期(三千~二千五百年前)に栄えた亀ヶ岡遺跡がある。
崖地の近くの小川にオレンジ色の泥が堆積していた。落ちていたペットボトルを拾って泥を採集。
このまま顔に泥を塗れば、「もののけ姫」のフェイスペインティングである。
すなわちこの泥は、酸化鉄を大量に含んだ泥であって、精製すれば縄文人が好んで使用していたベンガラという顔料の出来上がり。
亀ヶ岡遺跡には、赤漆を塗った木製品や土器が大量に出土しているのだ。
彼らはベンガラを塊りで採集して使用していたから、同じベンガラではないと思うが、この辺りの土壌には鉄分が多いのだろう。
ベンガラ素材を採集した海岸には、黒曜石も落ちていた。
黒曜石は縄文人は矢尻や石槍、ナイフなどを作っていた石材で、溶岩が急冷して出来た天然ガラスである。
七里長浜の黒曜石は、近くにある岩木山の噴火の恩恵である。
黒曜石の他は、珪質頁岩などの石器素材も簡単に拾えた。
海岸で採取した漂石だから、拳大より小さく表面も青白く荒れているので、興味がなければ黒曜石には見えないだろう。
漂石では小さすぎて打製石器を作るのは難しいだろうから、亀ヶ岡の縄文人は、もっと大きい原石を谷筋などの露頭から採取していただろうと思う。
こんな感じでゆっくり新潟に帰っていった。
旅の途中で、 新潟県庁の広報部からで予期せぬ連絡・・・新潟県のラジオ広報番組で、泉田県知事と対談して欲しいとのこと。
最初は友達のドッキリ電話かと思ったが、後から県庁からメールがきてホンモンだと分かった。
8月12日に新潟市に到着して、県庁にある知事公室で泉田県知事と対談。
泉田知事は、国会や県議会で毅然とした態度で答弁する姿とはまったく別の、気さくで快活なスポーツマンタイプの人だった。
この振幅の大きさに知事の器の大きさを感じたが、事前に渡された質問表無視で冗談ばかり言う知事に乗せられて、私も発火法実演や石笛演奏などしてしまったので、編集する人は大変だろう。
放送は以下
放送局;FM PORT (http://www.fmport.com/ )
番組名;「ヒロ&ヒロの新潟ステキ☆プロダクション」
放送日時;8月24日11:45~12:00
そんな訳で8月13日に糸魚川市に帰った。
三ケ月もほったらかしになっていた本職のヒスイ加工販売に復帰しなけりゃならんのだが、旅の資料纏めと報告書作りも急がねば。
高校時代の恩師で、糸魚川で郷土誌を発行している蛭子先生から、原稿用紙50枚くらいの論文書いて欲しいと頼まれているのだ。
それと・・・詳細は未定だけど、今度は佐渡を目指さないか?という話しも浮上してきた。
佐渡の小木からも縄文中期(五千~四千年前)のヒスイが出土しているのだ。