一見してヒスイ原石に孔を開けただけのような姿の石笛、実は葡萄ヒスイと呼ばれる原石を半分くらいまで削り込んで造ってある。
葡萄ヒスイは、不純物である黒い角閃石が混じった圧砕ヒスイで、極端に柔らかい角閃石部分が凹んで葡萄のように見えるヒスイ原石。
完成した時、その姿、存在に圧倒されて、売り物扱いしただけで罰が当たるような気がした。
ワタシが作った石笛ではなく、ワタシという主語のない、やって来た石笛。
珠玉と銘打って、非売品扱いにした。
「物作り」と「モノ造り」の違いが、朧気ながら解りかけてきたのか?
天然石笛があるのに、何故、人為で石笛を作る必要があるのか?
それは物質からモノへの変容・・・私は芭蕉の造化という言葉に答えを求めている。
古典教養や花鳥風月に通じ、尋常ならざる感覚の鋭いあるお方に、珠玉を観て頂いた。
私が人生最大の師匠と仰ぐお方。
珠玉を手にした師匠、「具象が残っているだろ?抽象を目指さないと・・・例えばこの部分とこの部分。」と、禅問答のような事を仰る。
なるほど、とは思うが、今の私には具体的にどうすればいいのか解らない。
禅問答が続くが、この石笛がやって来てから何かが変わった。
目指すのは長次郎!
先は長い。