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越後最西端の要害「勝山城」は戦う城にあらず?

2020年05月25日 07時56分34秒 | 糸魚川自慢
親不知の入口に聳える標高328mの勝山は、上杉謙信時代の越後領内最西端の要害、勝山城(落水城)が、越中に睨みを利かせていた糸魚川の隠れ史跡。
北陸を掌中に収め、いよいよ越後に迫った豊臣秀吉と石田光成の主従が、上杉景勝と直江兼続の主従と同盟と越後禅譲の会談を勝山城で行った伝説があるが・・・。
山頂の城郭部分・・・狭っ!30~40坪くらいしかないのです。
 
この城は山頂を平らに造成した主郭と、尾根筋を削った蟻の門渡り状の険しい登山路の所々に堀切(横方向の溝)の遺構を持ち、中世の山城の体裁を持ってはいる。
山頂から糸魚川、上越市の春日山城方面を望む
 
しかし戦国武将のつもりで観察すれば、山頂には湧水池や井戸の跡がないことと、外曲輪(主郭以外の防衛拠点)もない狭い主郭部分だけなので籠城に耐えられないのではないか?
 
だから一定兵力が常駐した「戦う城」ではなく、能登方面を監視し、上杉家居城の春日山城のある東方面に火急を知らせる狼煙台の役割が主であったのではないだろうか。
 
快晴だと能登が一望できるにしても、昨日は日本海に雲が垂れこめ視界が利かなかったことから、勝山麓の海岸部に監視所と馬屋、船着き場がなければ軍事施設として役にたたないだろう。
この日の能登方面は海面が雲に覆われてなにも見えなかった。こんな日和に舟で攻めて来られたら大変だから、越中側には懇意の廻船問屋といった内通者や、修験者や遊行者、漁師に身をやつした間諜もいただろうし、県境の「市振の関」付近の漁師たちには、敵軍の動きに異変ある時に通報すれば褒美をとらす、というような連絡網もあったと思う。
 
万が一、突如と勝山城に大兵力が攻めてきたら真南に位置する黒姫山方面に抜ける間道から逃げ、越中境から上路経由、大沢区、青海に抜ける古道(現存)に出て、次の砦まで連絡する防衛システムだったのではないだろうか。
 
このルートは現在は地元の人しか通らない林道であっても、途中にある大沢区は律令時代の「青海の驛」のあった交通の要衝で、ヌナカワ姫伝説の本場でもある。
 
そんな実情を想像すれば、秀吉一行、または秀吉の直参クラスの武将が舟で勝山城前の海岸に乗りつけ、勝山城警備の侍に景勝との面談を取り次いだ・・・春日山城まで40キロ以上も離れているので、早馬または早舟の知らせが着くのは翌日。上杉家臣団が対応策を協議して景勝一行が親不知に到着するのが早くてその2~3日後。実際の会談は、勝山城から東2キロ弱の青海川左岸にあった城将の館で行われた、と推定している。
いずれにせよ世に「勝山会談」と伝わる歴史遺構であり、登山はかなりきついが往復2時間もあれば可能で、また晴れてさえいれば山頂の展望は絶景なので、歴史好き・城好き・登山好きにはおすすめ。
 
実は勝山登山は高校生の時以来の40年ぶりで、当時は四つん這いになって登る鎖場もあったくらい険しい登山だったが、現在は要所要所に単管パイプ製の梯子が固定してあるなど、ずいぶんと登りやすくなっていた。
 
登山の後は、直下の海岸でヒスイ拾いや海水浴もできますぜ。