現在の八千鉾神と奴奈川姫の二柱を祀る「奴奈川神社」は、延喜式に記述される以前には、奴奈川彦と奴奈川姫の二柱を祀る「柳形神社」で、江戸時代には「柳形明神」と呼ばれていたという主旨の口碑にやっと辿り着いた。
なんと、私が小学6年の時に出版された「糸魚川市史」に詳しく出ていて、納戸から発掘した(笑)
青木重孝先生の監修による自然科学から人文科学までが詳細に書かれた大変な労作で、40年前の糸魚川市の文化行政の熱量に驚くが、多方面の人材が揃っていたということだ。
また感心するのが、現在のように観光収入増大が望めるなら何でもアリ!というノリではなく、学術的にきちんとした物を残さないと後世の恥である、といった感じの著述者たちの気骨を感じる処。
ヌナカワ姫伝説の多くは、後世の両部神道や白山修験の影響を受けているので鵜呑みできない旨を青木先生も指摘しておられるが、私もあくまで考古学的な考察の肉付けとして捉えている。
ヒスイ再発見の経緯から、「長者ケ原遺跡」や拙宅下の「笛吹田遺跡」など、主だった遺跡の発掘資料なども紹介されていてる。
市民にも分かりやすく書かれているので、12歳当時の私はこの本で郷土史のお勉強をしていたのですな。
興味ある人は糸魚川図書館で借りれられるし、自宅のどこかで眠っているかも?