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弥生時代の上越は出雲だった!?・・・斐太遺跡群と斐太神社の関係

2020年05月31日 08時39分51秒 | ぬなかわ姫

二千m級の山が急激に落ち込み、海に至る糸魚川の地勢は、狩猟採集に適して縄文文化が栄えた土地だが、お隣の上越市は稲作に適した広い扇状地を持ち、弥生文化が栄えた。

八千鉾神とヌナカワ姫を夫婦神として祀る神社が、沿岸に数社あるだけという点に疑問を持ち、祭神の分部を調べて気付いたのが、ヌナカワ姫を祀らず、出雲系の大国主命・事代主神・建御名方神だけを祀る斐太神社の存在。

ヌナカワ姫が八千鉾神と連合して、北陸一帯から山形まで支配下に置いていたとする説を唱える人たちは、なんで国内最大級の玉作遺跡にヌナカワ姫を祀っていないのかを考えたことあるのだろうか?私はここが気になる。
斐太神社のある丘こそ、弥生時代最大級の玉作遺跡の斐太遺跡群(吹上遺跡・斐太遺跡・釜蓋遺跡)の中心的な斐太遺跡がある場所!
 
そこで以下のようなストーリーを考えている。
 
東征をする出雲勢力は、天然の良港のない糸魚川を通り越して、最初に上越市の居多ケ浜から関川を遡って弥生時代中期頃に吹上遺跡で稲作を広め、越後方面統治の橋頭保とした。
 
糸魚川の河川は急流で暴れ川であるに対し、上越市の関川は緩やかな大河だから舟で内陸に入りやすい。
現在の関川河口部から高田平野を望む。ちなみに関川河口は、人買いに騙された「安寿と厨子王」が舟に乗った場所であり、上杉謙信の軍港もあった場所であるらしい。
魏志倭人伝の「倭国大乱」の時期に相当する弥生時代後期に、政治的緊張が高まり、吹上遺跡の主体は斐太神社のある丘に高地性の環濠集落を築いた。それが斐太遺跡で、ヒスイ原産地のヌナカワ郷に進出して、一連の悲劇のヌナカワ姫伝説が生まれた。
 
ちなみにこの丘は、上杉謙信の居城、春日山城の信州側に備える支城であった「鮫ケ尾城」があったことから分るように、高田平野の重要拠点でもあった。
 
糸魚川から遠く離れた斐太地域では、ヌナカワ姫を祀る必要がなく、反抗勢力が存在した沿岸部に、八千鉾神とヌナカワ姫は夫婦神であるとして宣撫プロパガンダとした。
 
上越市の沿岸部に位置する居多神社に、八千鉾神とヌナカワ姫を夫婦神として祀ったのは、律令時代の国分寺のような役割であったのではないか?ただし斐太神社の創建が平安時代となっているので、決定的証拠という訳にはいかない(笑)
 
しかし、奇しくも江戸時代の終りの大地震で倒壊した居多神社を遷座した場所が、少し内陸の丘に位置する五智国分寺すぐ近くというのも面白い。
戦乱の収束に見通しがたった頃に、現在の新幹線駅のある平地の環濠集落である釜蓋遺跡に移った。
 
やがて古墳時代になり、支配者は出雲から大和勢力にとってかわり、斐太神社の周辺には、140基を超える観音平・天神堂古墳群がボコボコできた。
 
この説にはまだ不備があり整合性は付いていないが、ラブロマンスだけでない、ヌナカワ姫伝説の諸説を考古学的見地と織りなしたホームページを作り、多くの人に知ってもらう所存。
 
すでに10年くらい前に作った縄文とヒスイに関した「縄文時間」というホームページを持っていて、それなりに人気があるらしいのだが、ヌナカワ姫の部分にも重点を置いてリニューアルします・・・暇だから(笑)