昨日ウォーキングはお休みしました。
ここのところ忙しい日が続き、こんな状態だが、
今日は本格的に歩こうと思っている。
エストニアの作曲家で今日とりあげるのは、
1905年生まれのエドゥアルド・トゥビンである。
エストニアのモチーフによるシンフォニエッタという曲を
今回は紹介したいが、この曲は1940年に初演されている。
第一楽章は、民謡調の主題を中心に展開されるが、
やや哀愁を帯びた主題は印象的だ。
バルト海という位置関係からか、ある時は北欧風の、
ある時にはロシア風の音楽になる。
エストニアの民俗音楽をモチーフに使っているからか
音楽としては聴きやすく、楽しめる。
第二楽章は、ホルンの独奏による主題から始まる。
管楽器がそれに加わり、弦楽器も加わり、
この主題は、何度も繰り返し演奏されながら、
厚みを増し、エネルギッシュな音楽になっていく。
最後は、また弦楽器が醸し出す霧のような幻想的な
静けさの中、ホルンの独奏で終わる。
第三楽章は、舞曲風の民謡をオーボエが吹いて始まる。
曲は二つの主題を中心に音楽は展開され、
ここでも、北欧風の音楽とロシア風の音楽が交錯する。
最後は再現された第二楽章の主題が加わり、曲を閉じる。
調性を最後まで捨てず、民族音楽をベースに作曲した彼は、
エストニアがソ連邦に併合されて後、亡命し、
その音楽活動の拠点をスウェーデンに移したが、
当時の音楽界の流れについていくことはせず、
「時代遅れ」とみなされ、注目されなかったが、
死後ようやく再評価の動きがでてきたようである。
ところで、このCDの演奏をしているのは、
パーヴォ・ヤルヴィの父であるネーメ・ヤルヴィである。
1937年に独立国エストニアのタリンで生まれている。
しかし、ソ連邦に併合後、しばらくとどまっていたが、
トゥビンと同じように音楽活動の自由を求め、
亡命の道を選び、1980年にアメリカに移住したようだ。
パーヴォ・ヤルヴィの人生、いやヤルヴィ家の人生は、
なるほど、そんな祖国の政治状況に左右されたわけかあ。
ここのところ忙しい日が続き、こんな状態だが、
今日は本格的に歩こうと思っている。
エストニアの作曲家で今日とりあげるのは、
1905年生まれのエドゥアルド・トゥビンである。
エストニアのモチーフによるシンフォニエッタという曲を
今回は紹介したいが、この曲は1940年に初演されている。
第一楽章は、民謡調の主題を中心に展開されるが、
やや哀愁を帯びた主題は印象的だ。
バルト海という位置関係からか、ある時は北欧風の、
ある時にはロシア風の音楽になる。
エストニアの民俗音楽をモチーフに使っているからか
音楽としては聴きやすく、楽しめる。
第二楽章は、ホルンの独奏による主題から始まる。
管楽器がそれに加わり、弦楽器も加わり、
この主題は、何度も繰り返し演奏されながら、
厚みを増し、エネルギッシュな音楽になっていく。
最後は、また弦楽器が醸し出す霧のような幻想的な
静けさの中、ホルンの独奏で終わる。
第三楽章は、舞曲風の民謡をオーボエが吹いて始まる。
曲は二つの主題を中心に音楽は展開され、
ここでも、北欧風の音楽とロシア風の音楽が交錯する。
最後は再現された第二楽章の主題が加わり、曲を閉じる。
調性を最後まで捨てず、民族音楽をベースに作曲した彼は、
エストニアがソ連邦に併合されて後、亡命し、
その音楽活動の拠点をスウェーデンに移したが、
当時の音楽界の流れについていくことはせず、
「時代遅れ」とみなされ、注目されなかったが、
死後ようやく再評価の動きがでてきたようである。
ところで、このCDの演奏をしているのは、
パーヴォ・ヤルヴィの父であるネーメ・ヤルヴィである。
1937年に独立国エストニアのタリンで生まれている。
しかし、ソ連邦に併合後、しばらくとどまっていたが、
トゥビンと同じように音楽活動の自由を求め、
亡命の道を選び、1980年にアメリカに移住したようだ。
パーヴォ・ヤルヴィの人生、いやヤルヴィ家の人生は、
なるほど、そんな祖国の政治状況に左右されたわけかあ。