peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

一関市博物館第20回企画展「地を量る」の展示解説会 2013年9月28日(土)

2013年10月02日 | 植物図鑑

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2013年9月28日(土)、一関市博物館(一関市厳美町字沖野々215番地)が、9/21(土)~11/17(日)の日程で開催中の第20回企画展「地を量る~描かれた国、町、村」の関連行事の講演会「伊能忠敬(いのうただたか)測量隊について」が開催されたので聞きに行ってきました(13:30~15:30時)。

 この講演会が終わってから、「展示解説会」が行われたのですが、始めの短時間だけでしたが講師の星埜由尚(ほしの・よしひさ)氏の解説がありました。その後は一関市博物館の学芸主査・相馬美貴子さんでした。

http://www.museum.city.ichinoseki.iwate.jp/icm/01intro/01_02.html [一関市博物館:館長以下職員の紹介]

 現在の一関市に関わる絵図については、一関市博物館が行った大人の調べ学習~「気仙沼街道を行く」(2009年度、2010年度)に参加したりしたので、現在の一関市街地や花泉町、一関市弥栄、川崎町、大東町、千厩町、室根町などが描かれた絵図をかなりの数、何度も見ていましたが、今回の一堂に展示されたものもじっくりと見させていただきました。

 貴重な資料を永年保存し、今回ご提供された所蔵者並びに関係者の皆様に心より御礼申し上げます。

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(下)現在の地図は、北を上にするのが原則ですが、江戸時代の絵図は定まっておらず、紙の四辺に東西南北を記すことが多かったようです。

 絵図は、土地の様子がある程度記号化されて描かれています。元禄年間の生江助内(なまえ・すけない)による郡絵図には、凡例がついています。

 絵図の記号は、統一されたものではありませんが、ほとんどのものは川は水色、道は赤で描かれており、この凡例をヒントに他の絵図も読み解くことができます。

(下)鬼死骸村(おにしがいむら)絵図:一関市博物館蔵(千葉公保氏寄贈)、佐藤勇右衛門・作(肝入・八太郎宛) 文化15年(1818)4月、111×130㎝。

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(上)鬼死骸村(おにしがいむら):現在の一関市真柴、南町、千代田町、台町。北は一関村、南は有壁村。東は牧沢村、西は下黒沢村に接した。

村名の由来は、坂上田村麻呂がエミシの将・大武丸を討ち取り、その死骸をこの地に埋葬した伝説による。その場所は、鹿嶋神社の「鬼石」の下と伝えられ、絵図中央付近の田の中に描かれ、現在も同所にある。村内を奥州街道と迫街道が通る。奥州街道の北辺、一関村との境の千刈田(せんがりた)には、新五十人町として、幕末期には御持筒組26人の足軽が配置されていた。

https://app.blog.ocn.ne.jp/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=38664792&blog_id=82331 [peaの植物図鑑:一関市真柴の旧・奥州街道&サザンカ(山茶花)  2011年11月3日(木)]

安永4年(1775)の「風土記御用書出」には、産物として紅花、栗があげられている。交付の文言がある同様の村絵図が村に伝えられていた。明治8年(1875)に牧沢村と合併して真柴村となったため、現在では「鬼死骸」はバス停に残るのみのようです。

http://www.museum.city.ichinoseki.iwate.jp/icm/02collection/det53.html [鬼死骸村絵図(一関市博物館)]

同じ佐藤勇右衛門作の「西岩井鬼死骸村絵図」[文化15年(1818)4月、108.9×127.7㎝、岩手県立図書館・蔵]もある。

(下)流楊生村東山薄衣村絵図 個人蔵 志田郡三本町伊東彌七・画、安永5年(1776)9月5日 76.8×106㎝

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(上)一関藩領である流楊生村(現・一関市弥栄)と、仙台藩領の東山薄衣村(現・一関市川崎町)は北上川を境として隣接する村ですが、その北上川の中に中川原と呼ばれる川原があります。

宝暦7年(1757)11月に中川原のそばで御穀船が破航したのを契機として、何れの村にに属するかの論争が始まり、それが郡境の論争に発展していますが、一連の論争の中で楊生村から提示された資料の中に、元禄11年4月25日、北上川通りの御郡境見分御絵図を定める際、代官や大肝入らとともに絵図師役人・生江助内が舟で下り、御絵図を指上げたという記事があり、その時に中川原の所属について吟味された絵図の写しが伝わっています。しかしながら、両村の境は、東山と西岩井の境ではあるものの、どちらも磐井郡のうちであり、藩に提出された「郡切絵図」には示す必要のないものであり、実際記されていません。

これらのことから、仙台藩が幕府に命じられた国絵図作成の際、郡境を調整するために作られた「郡切絵図」作成の機会を捉え、本来の目的とは遊離して、郡司が独自の詳細な郡絵図を作成することとなったと考えられます。その意図などは不明ですが、生江作成の郡絵図や村絵図は、大肝入や肝入に保管され、享保年間や文政年間に写を作成して藩に提出されたり、藩政期はもちろんのこと明治時代に至るまで土地をめぐる訴訟などの際には、基本資料として活用されるなど、村人たちにとって重要な役割を担ってきたのです。

 このように仙台藩北部の広大な面積にわたり、しかも後年まで基盤となる絵図を作成した生江助内の功績は大きいものですが、残念なことに、その人物についてはよくわかっていません。磐井郡流に隣接する栗原郡三迫(さんのはざま)武鑓(むやり)村の生江沢(なまえざわ)付近に知行地を有し居住していたと伝えられているのみです。[一関市博物館発行「一関市博物館・第20回企画展「地を量る~描かれた国、町、村」より]