peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

一関市千厩町清田のマリーゴールド/マンジュギク(万寿菊) 2015年8月28日(金)

2015年09月03日 | 植物図鑑

 2015年8月28日(金)、一関市千厩町清田字境地内にある千厩町13区自治会ふれあい花壇を見に行ってきました。この花壇は国道284号線沿いに造られており、「第40回全国花いっぱいコンクール」で最高賞の内閣総理大臣賞を受賞したり、一関市民憲章推進協議会が主催する「一関市花いっぱいコンクール」などで毎年のように入賞している定評のある花壇です。

この花壇の相当部分に植栽されているマリーゴールド/マンジュギク(万寿菊)/クジャクソウ(孔雀草)が、花を沢山咲かせていました。

岩手県の花いっぱい運動のルーツは昭和45年の岩手国体にあります。全国から訪れる選手団をきれいな花で迎えようと、県内各地で活動が広がりました。大会は、県内選手の活躍と県民みんなの「おもてなし」によって、心に残るものになりました。その後も、盛り上がりをみせた花いっぱい運動などの緑化美化活動は広く定着。40年以上経った今日にまで至っています。(「広報いちのせき・I-Style」2014年10月1日号 No.217より)

 マリーゴールド キク科 マンジュギク属 Tagetes patula

メキシコ原産の非耐寒性一年草で、夏から秋の庭や花壇を飾ります。16世紀にヨーロッパにもたらされました。特有の臭気がある草花で、害虫のネグサレ線虫(ネマトーダ)の防除に役立つので、野菜畑に植えられることもあります。しかし、最近の改良種は臭気も薄くなっています。

園芸種としてフレンチ・マリーゴールド(マンジュギク、クジャクソウ)Tagetes patulaとアフリカン・マリーゴールド(センジュギク)T.erectaの2つの系統が育成されました。(「マリーゴールド」は英名で、マリは聖母マリアをゴールドは黄金色の花を意味しています。)日当たりと水はけのよい土地を好み、性質が非常に強く、花も沢山咲きます。

フレンチ種は、わい性で茎が紫色を帯び、よく枝分かれして高さ20㎝ほどになります。葉は羽状複葉で対生し、独特の臭気があります。花は短日性が強いので春と秋によく咲き、夏は葉が残るだけのこともあります。頭花は直径3~4㎝で、外側に舌状花、中心に筒状花があります。筒状花がよく発達したボール状の品種もあります。花の色は黄色や橙色、赤褐色などがあり、霜が降りる晩秋まで咲き続けます。

アフリカン種は高性(直立性)で高さ60~80㎝になり、上部で少し枝分かれし、夏から秋にかけてよく開花します。頭花は数は少ないが、大形で直径6~8㎝もあります。花の色黄色と橙色が多いようです。[山と渓谷社発行「山渓ポケット図鑑2・夏の花」&実業之日本社発行「花のいろいろ~四季を楽しむ12カ月の花ごよみ」より]


一関市大東町「室蓬カレッジ現代文学講座」第2回 2015年9月2日(水)

2015年09月03日 | 町のイベント

2015年9月2日(水)、渋民市民センター(一関市大東町渋民字小林29-4)で「室蓬カレッジ現代文学講座」(移動研修を含め全6回)の第2回目(9:30~11:30時)が開催されました。講師は朗読の名手・内田正好氏(川崎町在住)。

 

(上)講師の内田正好先生:一関市川崎町在住。一関市三関出身。国学院大学卒業後、国語教諭に。埼玉県と岩手県の各県立高校で教壇に立ち、盛岡南高校、一関一高で校長を務め2006年3月に定年退職。同年から2014年10月まで2期8年間、一関市教委教育委員として活動した。盛岡大学、修紅短期大学の非常勤講師。一関文化会議所理事、副理事長を歴任し、現在理事長。川崎小学校図書館ボランティアなど今も教育現場に携わる。妻と2人暮らし。

渋民市民センター(一関市大東町渋民)主催の「室蓬カレッジ現代文学講座」第2回目は、小野寺苓・著「玉蕾(たまつぼみ)」です。

この作品は、大正5(1916)年3月10日、盛岡市の中心部にあった岩手県立師範学校女子部の寮で、実際にあった生徒の自殺事件を取り上げて小説にしたものです。

(上)平成5(1993)年6月8日発行小野寺苓・著「玉蕾」(岩手日報社)の表紙。帯には’全国の教育界に衝撃を与えた岩手県師範学校女生徒の自殺。事件の真相に迫る”異色小説” ’とあります。

内田先生は、この本の「はじめに」、「第1章 くに誕生」、「第6章 クニ子死す」、「おわりに」などを朗読するとともに、省略したところの概略を話してくださいました。

私は、この本が発行されて間もない頃に読んで大変感動したことを思い出しました。妻も感動したようで、我が家にはなぜかこの単行本が2冊あります。

岩手県東磐井郡小梨村(現・一関市千厩町小梨)出身で3年生である小山くにが、寮の自室の第3号室で自殺をしたのです。北東北の都市で起きたこの事件は、当時4社あった県内の各新聞紙上に大きく取り上げられ、連日、さまざまな憶測を重ねた記事が掲載され、遂には中央紙上に教育評論家が論を展開するなど、一女子師範生の死は教育界に波紋を投げかけた。そして、同年8月末、岩手毎日新聞に遺書が公開された後は、彼女の死にまるわる話は公の場からぴたりと途絶え、いつとはなしにこの事件は人々の記憶から消えていった。(「はじめに」より

著者の小野寺苓さんが、小山くにの生家を訪れたのは昭和50年(1975)。そこで父親(小山真菅)が残した悲痛きわまりない記録の数々を目にしたのである。遺族の許しを得てこの本を出版したのは平成5年(1993)の夏。

著者はエッセイ集『女の名前』に収録した「尋ね人『遠野の消印』」の中で、”女教師養成の歴史、あるいは家庭教育、学校教育。一つの事件は私にたくさんのことを教えてくれた。だが、きっちりとした結論も断定も私にはできなかった。読んでくれる人が考えてくれるだろう。”と書かれていますが、私たち読み手も十分に考えたいものである。

この本を朗読してくださった内田先生が、現在の一関市千厩町小梨小山くにの生家や父親、母親(陽子)と並ぶ洞雲寺のくにの墓、白幡神社に参拝してきたことを話してくださいました。