(上)線路が龍の形をしていることから「ドラゴンレール」として親しまれている大船渡線(一関~盛間、気仙沼~盛間運休中)ですが、別名「なべづる線」と呼ばれています。この大船渡線の一ノ関駅と摺沢駅間が開通して90周年というので一関市博物館と市立芦東山記念館で関連した特別展が開催されているのですが、今回は芦東山記念館主催の下記の講演会について報告します。
講師の菅原良太(すがわら・りょうた)氏は、一関市千厩町千厩在住(39歳)の郷土史家で、平成25年から一関市文化財調査委員をしています。立正大学文学部史学科卒(平成11年3月)、岩手県文化財保護指導員(平成27年から)、東磐史学会会員。
講演「なべづる線と大東地域」:講師の菅原良太氏は、東磐史学会発行の『東磐史学』平成21年度 第33号と第34号に「なべづる線沿革史」「続・なべづる線沿革史~政治と国有鉄道大船渡線~」を寄稿していますので、詳しいことを知りたい人はそちらをご覧ください。
一関から東磐井郡への鉄道建設計画まで:明治中期まで…陸上交通の主役は人・馬。明治27年(1894)ころ気仙沼街道(県道)が開通し、車両の通行が可能になった。客馬車が薄衣と気仙沼間を運行した(公共交通機関の始まり)。
鉄道建設計画:明治期に2回にわたり民間での鉄道建設が計画されたが、私鉄会社のため十分な資金が集まらず挫折している。
1回目は磐仙鉄道で、明治29年(1896)頃より一関・気仙沼の有志が計画(北方・中央の両計画あり)、明治30年(1897)3月11日 創立認可願を逓信大臣に提出(発起人…摺沢村の佐藤精・佐藤秀蔵ほか総計24名・沿線有力者)。明治32年(1899)11月、敷設予定線路を大船渡まで延長願提出。明治33年(1900)4月13日、仮免状下付(一関~気仙沼~大船渡)。明治36年(1903)1月26日「本免状の申請せざるに付き失効」(官報)。
2回目は磐仙軽便鉄道で、明治44年(1911)からの軽便鉄道ブームの時代背景のもと、明治45年(1912)4月5日、敷設免許申請願を内閣総理大臣に提出しています。発起人:地方の有力者と中央の経済人で構成、発起人総代は摺沢村佐藤秀蔵→のち荒井泰治(仙台)。
ルートは磐仙鉄道とほぼ同じ一関~摺沢~気仙沼と千厩支線。大正元年(1912)9月25日 敷設免許状下付。再度の敷設工事延期願提出(経済不況や八十八銀行問題のため)。大正4年(1915)8月28日 免許証返納。
このように明治期に2回にわたり民間での鉄道建設が計画されたが、どちらも千厩を通らない発起人の地元を通過するルートだった。
この当時の宮城県知事と発起人間のやり取り。明治45年(1912)5月。
「一関~気仙沼間は薄衣・千厩・折壁と直線に県道が通っているが予定線路は長坂・摺沢・奥玉とだいぶ遠回りしており、一関と気仙沼を連絡する線路としては非常に不適当である。このような線路を予定線とした理由はいかなるものか?」。これに対する発起人の応えが下記の「~千厩は単に官公庁の所在地で多少人が集まる程度の町だから支線くらいで十分だ」というものでした。
国による鉄道計画:大正4年(1915)10月に磐仙軽便鉄道の計画が頓挫して「遂に其実現を見るに至らず爾来其声を聞くことなくして」(『岩手毎日新聞』大正7年1月19日)数年がいたずらに経過した大正7年(1918)1月、政府鉄道会議にて一関~気仙沼間国有軽便鉄道敷設案可決…当時は一関~千厩~気仙沼間直通の計画?(距離31マイル=約50㎞)…経由地を明確にせず摺沢と千厩の間で誘致運動始まる。
時代背景:政友会・憲政会の政党政治と党勢拡張。大正7年9月、政友会総裁・原敬(はら・さとし)内閣組閣。大正9年(1920)5月の衆議院選挙の際第七区(両磐地区)地盤の柵瀬軍之佐(憲政会)の対抗馬として摺沢横屋の佐藤良平が出馬し見事当選。岩手県下選出議員7人全て政友会所属議員で固める。「この時、鉄道問題をエサにして政友会に投票させることに成功した?」
大正10年(1921)頃には摺沢経由のルートで建設することがほぼ決定し、今から丁度90年前の1925(大正14)年7月25日に、鉄道交通の要として大船渡線一ノ関~摺沢間が開通したのである。
(上)大船渡線一ノ関摺沢間開通記念絵葉書、大正14年(1925)、左上は北上川橋梁。(下)大船渡線開通時の摺沢のにぎわい。
摺沢より先は当初奥玉経由で折壁へと向かっていたが、猛運動により千厩経由となり、更に千厩駅は市街地により近い位置へ設置されることになった。そして昭和2年(1927)7月15日には摺沢~千厩間が開業した。
一方、大原町の有志は鉄道建設の望みを捨てたわけではなかった。昭和2年(1927)4月、政友会内閣成立(田中義一首相)。岩手県第六区(胆沢郡)選出衆議院議員志賀和多利が鉄道参与官に就任。昭和2年8月、摺沢~大原間の国有鉄道敷設の計画具体化する?(新聞記事参照)
昭和3年(1928)2月の衆議院選挙で大原町の有権者の大部分が候補者・志賀和多利に投票した。
昭和4年(1929)、第56回帝国議会に摺沢~大原線を含む鉄道敷設法改正法律案が提出されたが、貴族院で審議中に会期終了で廃案となる。
「(摺沢より大原に至る鉄道は)六哩(マイル)一分と云う極く短い鉄道でありますからして、どうも国に於て之を是非ともやらなければならぬかと云うことは非常に疑があるのです…是は鉄道省の参与官の志賀和多利君の選挙地盤でありまして、昨年の選挙の時に此地方に於て自分の方に投票すれば、其線路を付けてやる、斯う云うことを申されたと云う事実があるのであります…(大船渡線は)丁度鍋弦線と云うことを俗に申して居るのでありますが、鍋弦のやうに政友会の時に摺沢の方の北に曲げ、憲政会の時に千厩と云う南の方に下って来て居る、之に依って鉄道の延長が六、七哩(マイル)延びたことになります…斯う云う詰り政党の最も露骨なる鉄道に及ぼす害悪の最も甚だしい例が此処に現れて居るのです」貴族院議員・佐竹三吾(元鉄道省監督局長)答弁(昭和4年2月26日、第56帝国議会 貴族院議事速記録)
「地方産業の振興文化の開発は一に交通機関の完備にあり交通完備は鉄道に依らざるべからず茲に於て政党政派を超越した大同団結をなし時の田中内閣に請願す鉄相小川平吉氏議会に提案衆議院を通過したるに貴院に於て佐竹三吾等の党略的反対を蒙り審議未了となりしは本町の爲め遺憾に堪えず…」大野清太郎編、千葉忠質翁自叙伝 (『大原町誌(補遺)』)