peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

岩手県紫波町「紫波フルーツパーク」のゴーヤ/ニガウリ(苦瓜) 2017年9月15日(金)

2017年09月21日 | バスツアー

(下)果皮が濃緑色をした中長タイプの最も普通に見られるゴーヤ/苦瓜(ミガウリ)和名ツルレイシ。 

2017年9月15日(金)「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その6)

ブドウ狩りの後は、近くの「農楽交流館」に移動して、ジンギスカン焼肉とおにぎりの昼食です。「紫

波フルーツパーク」醸造の赤や白などのワインがサービスされたので、何杯も飲んでいる人がいました。

昼食の後は、紫波フルーツパークのワイナリーの見学です。この入口にある売店(販売所)でも「自園

自醸ワイン」の試飲ができましたので、ここでも何杯も試飲している人がいました。

次はワイン工場の見学です。

紫波フルーツパークには、緑陰植物としての鉢植えのゴーヤ/苦瓜(ニガウリ)が、花と実を付けていま

した。

 ゴーヤ/苦瓜(ニガウリ)ウリ科 ニガウリ属 Momordica charantia

和名ツルレイシ。熱帯アジア原産の一年草。東南アジアでは重要な野菜で、日本では沖縄や九州で

栽培されてきた。開花期:6~9月。高さ:つるが長く伸びる。植え付け適期:5月上・中旬に苗を定植。

日照:日なた。土壌:適湿で、肥沃な土。果皮が白く、いぼが丸みを帯びているシロニガウリ(白苦瓜)

は苦味が少ない。濃緑色のものも、白色のものも、熟すとオレンジ色になる。ビタミンCミネラルの

含有量が極めて高いので、健康野菜として人気が高まり、最近は全国的に出回る。「ゴーヤ」という

縄での呼び名も、よく知られるようになった。独特の苦味があるが、豆腐や豚肉との相性がよく、炒め

物に向く。利用部位:果実。出回り時期:夏。食べ方:炒め物、酢の物、ジュース、ゼリーなど。[山と

渓谷社発行「ヤマケイポケットガイド㉑野菜・果物」より]


岩手県紫波町「紫波フルーツパーク」のブドウ(葡萄) 2017年9月15日(金)

2017年09月20日 | バスツアー

「紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その5)

義経手洗いの井戸・義経神社を見学した後は、「昼食とブドウ狩り」のため、紫波フルーツパーク

移動です。(予定:12:30着、14:00発)

 

「紫波フルーツパーク」には、予定時間より大分早く到着したようで、昼食の準備が整っていませんで

したので、「ブドウ狩り」を先に済ませることになりました。ワイン工房の前にバスを駐めて、ブドウ

まで「フルーツロード」と名付けられた広い道を約200mほどを歩いて行きました。私たちのほかに

も、数家族が来ていました。http://www.shiwa-fruitspark.co.jp/top.html [紫波フルーツパーク]

(お断り)葡萄の品種名は誤っているものもあるかもしれません。

紫波フルーツパークのブドウ(葡萄):ブドウ園 6,483㎡、植栽品種 13品種 400本。

キャンベル、アーリー、藤稔、紅伊豆、安芸クイーン、ポートランド、ナイアガラ、ロザリオ・ビアン

コ、多摩ゆたか ほか。http://www.shiwa-fruitspark.co.jp/nouen.html [紫波フルーツパ

ーク:体験農園]


 

 

 


岩手県紫波町「義経手洗い井戸・義経神社」&リンゴ(林檎) 2017年9月15日(金)

2017年09月19日 | バスツアー

 

「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その4)

2017年9月15日(金)、義経夢の会主催の「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」

参加しました。(その3)「赤坂薬師堂・経清母の供養碑」を見学した後、バスに乗って次の

見学地・岩手県紫波町「義経手洗い井戸・義経神社」まで移動です。

車窓から「白山神社」「蓮華寺跡・紫竹の池跡・阿弥陀堂(向学堂)」「矢島・的場」などの説明を受

けましたが、良くわからないままに通過してしまいました。

(下)「矢島・的場」の説明を聞きながら撮った、その場所と思われる所。

義経空白の6年:義経が平泉の秀衡を頼って、鞍馬寺を出たのが承安4年(1174)2月、16歳の時。そ

れから兄・頼朝の出陣を知り、黄瀬川の陣に馳せ参じたのが治承4年(1180)10月21日、22歳の時で

あった。この間の6年間義経の動向は、『吾妻鏡』を含めたあらゆる史書に全く記されていない。義経

の正史が歴史に初めて登場するのが、黄瀬川の陣で頼朝に初めて対面した時から突如始まるのである。こ

れが世にいう「空白の6年」である。義経が赤沢の地に6年滞在したからこそ、矢島・的場・鐙越(あぶみ

ごし)といった地名が、消えることなく今も残り、地元の住民が親しみを込めて語り継いできたものと考

えられる。[講師・山崎純醒氏作成『2017.9.15 紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー』(史跡解説)

より]

(上と下)「義経手洗いの井戸」は、自動車道路のすぐ傍にありますが、バスは100mほど離れた所に

ある無料駐車場に駐まり、徒歩で往復です。[義経手洗いの井戸・義経神社:(予定)11:20着、11:

30発、坂道徒歩往復とミニ講和]

「義経神社(判官堂)」は、右上の民家の前を通り、150mほど先の小高い山の中にあります。

義経手洗いの井戸:義経は、武術の訓練を終えると、湧き水が溜まる大角家の井戸に決まって立ち寄り、

喉の渇きをうるおしたという。大角家は赤沢の金山下代(げだい、金山採掘を管理する役職。経営管理

する金山本締(もとじめ)の下で山師棟梁とほりこ(掘削工のこと)の作業管理、数量管理、人事管理、

健康管理を行う総責任者)を担った家と云われているが、それを裏付ける古記録はない。

 義経がここに立ち寄るもう一つの理由があった。大角家の一人娘ハルの存在であった。歳は義経と同じ

歳であったという。紫波町の作家・三島黎子氏小説『蓮華寺の月』では、ハルから時に握りめしを馳走

になったりしながら次第に親しくなり、いつしか恋仲になり、やがて義経の子を身ごもったと書かれてい

る。義経は、ハルがまだ妊娠中に赤沢を去り、頼朝の陣に向かったと云い伝えられている。(以下省略)

[講師・山崎純醒氏作成『2017.915 紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より] 

(上)「義経手洗い井戸」を見ながら、講師の山崎さんの話を聞く参加者たち。(下)講師山崎さん。

(上)民家に前を通って義経神社(判官堂)に向かう坂道。登り切った所にはリンゴ(林檎)畑が広が

っていました。

義経神社(判官堂):義経神社はその名の通り、義経を神とする神社で、正式名称は判官堂(ほうがん

どう)である。大角家が代々、自宅敷地内にある判官堂を祀り、義経の由緒を守り伝えている。同家の

屋号も判官堂である。判官堂のお札には弓矢が描かれていて、第二次世界大戦で戦地に出兵する兵士が

参拝、このお札を持って戦地に向かっていった。軍神の神様として崇めたのだろう。

 この神社が世に知られるようになったのは平成12年(2000)以降で、それ以前は地元の人すら知らず、

知っていたのはごく一部の人だけだった。否、赤沢伝承の全てが、誰にも知られずにいたのである。もし、

この義経伝説が、この土地の名をあげる為の宣伝として作られた伝説であるなら、もっと昔から知られて

いてもいいはずである。だが、何故知られず今日に至ったのか。それは、大角家が代々守り伝えてきたあ

ることに起因していると考えられる。

 それは、文治4年の春(衣川合戦の前年)、義経30歳の時、北に旅立つ前にハルと我が子に一目会おう

と赤沢の地を再び訪れた時に始まる伝承譚であるハルとの再会を果たした義経は、秘められた旅だったが

ゆえに、村人の目を憚りながら、慌ただしい逢瀬のひと時を過ごしたという。我が子・小左衛門は数え8

歳になっていた。初めて対面する我が子を、義経は愛おしい目で見つめ、北紀行の目的や事情を伝えた上

で、数刻を過ごした後、後ろ髪を引かれる思いで北へ向かったという。探索方に行き先を知られてはなら

ず、ハルにだけは正直に伝えた上で、大角家の家族には「言わば語るな、語らば言うな」と念を押したの

だという。それゆえ、大角家では、義経との約束を堅く守り、義経が訪ねてきたことも、北に向かったこ

とも黙秘して、代々守り云い伝えてきたのだという。赤沢の義経伝説が世に広まらなかったのは、こうい

う背景があったからである。義経が赤沢を去る際、大角家は、ハルとの縁に感謝して、「判官堂」の屋号

を許したという云え伝えになっている。(以下省略)[講師・山崎純醒氏作成『2017.9.15紫波・赤沢義経

伝承地を訪ねるバスツアー』(史跡解説)より]

 


岩手県紫波町「赤沢薬師堂・経清母の供養碑」付近のツリフネソウ(釣舟草) 2017年9月15日(金)

2017年09月18日 | バスツアー

「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その3)

道の駅・紫波」で早々に土産を買い求めて、いよいよ第一の見学地である福宝薬師堂経清の母の供

養碑がある音高山南麓目指して出発です。(予定は10:20着、坂道徒歩往復と見学、10:50発) 

「白山神社」第一鳥居前にバスを駐めて、約100mぐらいを「福宝薬師寺」目指して歩きます。

白山神社へは、この道を右側に約1㎞ほど進むそうです。但し、道が狭いのでマイカー(普通車)し

か通れないそうです。

薬師寺の参道の傍にぶどう(葡萄)畑が広がっていました。少しだけでしたが、まだ収穫されずに残っ

ているブドウがありました。

(上)第2の鳥居

(上)赤沢地区音高山南麓の福宝薬師堂:薬師堂、毘沙門堂、阿弥陀堂、蓮華寺の鎮守社として建

立 されたもの。かつて堂宇は、100を越えるほどあったと伝えられている。これら一連の堂宇を含む一

帯を指して「蓮華寺」と総称しているのだが、阿弥陀堂清衡が建立毘沙門堂薬師堂秀衡が建立

た他、白山神社を再建神領を寄進して手厚く保護したと伝えられる。古記録が焼失した為に、建立年は

不明だが、これらの堂宇も三度火災にあって焼失し、現在4度目の再建となって現在に至っている。

 かつて白山神社と共にあったといわれる天台宗大本山格の「蓮華寺」の位置は、薬師堂を基点にし、周

囲の山と夏至・冬至の太陽の日没位置を精密に計算されて建立されていることがわかっている。薬師堂は、

平泉の接待館に似せて建てられたのではないか。そして、当時その機能を充分に果たしたのではないか。

とすれば、規模も相当大きかったのではないかと想像されるのである。

http://www.shiwa-kanko.jp/koushin/%E8%B5%A4%E6%B2%A2%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A0%82/ [赤沢薬師堂]

薬師堂に安置されている「七仏薬師如来立像」は、岩手県指定文化財となっている。薬師如来は、病者を

救い、苦しみを除くという仏。高さは120~130㎝。いずれも右手は施無畏印(指をやや曲げ、掌を前方

に向けて挙げる相)で、左手は掌を上に向けて薬壺を持っている。この七仏は、奥州藤原氏の時代の仏像

で、三度の火災からも守られたことを示している。製作年代が12世紀代であり、全国的にみても大変貴重

な事例である。

 薬師如来は、東仏土「浄瑠璃世界」に住む仏であるが、薬師堂が樋爪館跡から東の位置に建てられている

ことを考えると、それを意識して奉られたものと想像する他はない。薬師堂は、赤沢の地元の薬師講がお護

りしており、毎年12月8日に御祭礼を執り行っている。この行事は、平安時代から900年間続けられてきた

貴重な祭礼行事となっている。紫波町にかつて存在した多くの寺院は、明治初頭の悪法、廃仏毀釈令によっ

て、そのほとんどが廃寺となって消滅してしまったが、この薬師堂は、信徒の厚い信仰心によって、その悪

法から守られた希少な事例であり、かつ、樋爪氏の仏教文化を現代に伝える希少な事例ともなっている。

[講師・山崎純醒氏作成の「2017.9.15 紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より]

(下)鎌倉時代末期の石卒塔婆群10基が散在し、正和元年(1312年)、嘉暦2年(1327年)、嘉暦

4年(1329年)、元徳3年(1331年)の紀年銘があるそうです。前九年合戦(1051~1062年)のとき、

一族の遠山師重は、経清の母とともに赤沢へ落ち延び、母はここで亡くなったと言われており、少し離れ

た場所に経清の母の供養碑があります。

薬師堂から白山神社の本殿に参拝する為には、細く急な参道を登り、さらに、とてつもなく急勾配な階

段、226段を登り切らなければならない。しかし、よほどの健脚でもない限り、登り切るのは難しいで

あろうという。「経清の母の供養碑」は、この参道から分岐して直ぐの所にありました。

薬師堂から白山神社本殿に登る参道(ここから分岐した山道の先に「経清母の供養碑」が立てられてい

る。)の湿地に群生しているツリフネソウ(釣舟草)が、紅紫色の花を沢山咲かせていました。

(上と下)経清(つねきよ)母の供養碑(伝):前九年合戦安倍氏(棟梁・安倍頼時)源氏(棟梁・

源頼義)の全面対決が勃発したのは天喜4年(1056)のことである。この年、藤原経清の甥・遠山師重

(もろしげ)は、戦火を逃れる為、経清の母と、出産を控えた経清の妻(有加)を連れて、赤沢の地に

落ち延び、師重の伯父であった蓮華寺の住職、円覚良円法師良信に匿われた。前九年合戦勃発から間もな

く、清衡はこの赤沢の地で誕生したのである。

 その6年後の康平5年(1062)9月17日、藤原経清は、戦いに敗れて平国妙によって捕えられ、源頼義

の面前で、首を鈍刀で引き切られたという、残虐な刑に処せられた。この時、清衡は数え7歳、清衡の母

(有加)は23歳前後であった。

 清衡の母は、赤沢の地で我が子経清の死を知らされたに違いない。経清の母は、経清の霊を弔いながら、

ここ赤沢の地で生涯を送り、孫・清衡の行く末を案じつつ、静かに没したと云い伝えられている。

 経清が亡くなってから267年後、白山別当家第12代遠山重詮(しげあきら)の頃、経清の母を供養する

為に、音高山の麓、白山神社参道脇に板碑が建立された。それは、高さ9尺、幅3尺の墓碑で、建てられた

のは嘉暦4年(1329)6月23日と刻まれていたという。今は文字が風化して判読はできないが、施主は「

道成」と刻まれていたという。道成とは誰か。経清の末裔に連なる人物か、それとも当時の蓮華寺檀家総代

の名前だったのか、それを知る古文書は、たびたび起こった火災で焼失し、知る手立ては、今は無い。

 板碑の願文には「如秋昔所願 今昔巳是供 仁一切衆生皆令入佛道」(一切衆生に恵みを及ぼし、成仏・

得道の願いを果たささまらんや)とあり、「敬白」の二文字で結んでいる。この石碑に刻まれた文字の中に

は、現在も解読できない謎の文字もあったという。[講師の山崎純醒(じゅんせい)氏作成の「2017.9.15

紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より]

(下)講師の山崎純醒(やまざき・じゅんせい)氏昭和31年、岩手県山田町生まれ、現在、紫波町に在住60歳。日本古代史研究会会員、日本エッセイスト協会会員、日本詩人会議会員、日本レクリェーション協会会員、日本郵趣協会会員、日本スカウト切手協会会員。

(下2つ)白山神社本殿に登る急な参道:とてつもなく急勾配な階段226段を登り切らなければならないという。

ツリフネソウ(釣舟草)ツリフネソウ科 ツリフネソウ(インパチェンス)属 Impatiens textori

細い柄の先にぶら下がって咲く花を花器の釣舟にたとえたもの。花を帆掛け舟に見立てたという説もある。

水辺などの湿った所に生える一年草高さ50~80㎝。茎は赤みを帯びるものが多く、節が膨らむ。

互生し、長さ5~15㎝の広披針形で、縁に小突起のある鋸歯がある。花期7~9月紅紫色で長さ3~

4㎝。花が白色のものもある。ツリフネソウの仲間の花は、いずれも花弁が3個ある。萼片も3個あるが、花

弁と同じ色なので花弁のように見える。萼片のうちの1個は大きく袋状になり、先端は細長い距になっている。

ツリフネソウの仲間の見分けのポイントはこので、ツリフネソウは渦巻き状に巻き込んでいる。果実

は細い紡錘形で、熟すと果皮が裂けて種子が飛散する。分布:北海道~九州。[山と渓谷社発行「山渓ポケッ

ト図鑑2・夏の花」より]  


岩手県紫波町「道の駅紫波」のユウゼンギク(友禅菊) 2017年9月15日(金)

2017年09月18日 | バスツアー

「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その2)

東北自動車道紫波ICを出て、国道396号線に入り、道の駅・紫波「産直センターあかさわ」(紫

波郡紫波町遠山松原7-1)に到着です。紫波町はぶどう(葡萄)の産地として知られています。ここで

トイレ休憩お土産を買います。沢山入荷するぶどう(葡萄)も、午後早くに無くなってしまうそうで

す。かなり安い価格で売られているので、近所に配る分まで買い求めていました。

http://suga.sd.soft.iwate-pu.ac.jp/akasawahp/ [産直センターあかさわ]

(上)道の駅・紫波のトイレ。

(上と下2つ)団体さん達が行列して買い求めていました。価格は、キャンベル2㎏入り函600~650円

でした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E6%B3%A2%E7%94%BA [紫波町:Wikipedia]

 (下5つ)隣接する「レストラン果里ん亭」との境に植栽されているユウゼンギク(友禅菊)が、紅紫

色の花を沢山咲かせていました。

ユウゼンギク(友禅菊)キク科 アスター(キク)属 Aster novi-belgii

別名:メリケンコギク、ニューヨークアスター、ミケルマスデージー。北アメリカ原産の耐寒性宿根

草丈:60~100㎝。花径:3㎝。花色:紅紫色、青紫色、白。開花期:6~11月。特徴:小さな花

を株いっぱいに咲かせる。早咲きが6月から開花。育て方:日なたと水はけのよい用土を好む。花がら

摘みはこまめに、秋に地上部が枯れたら刈り込む。高性品種は6月に地際から刈り込むと草丈を抑えら

れる。春の株分けで繁殖。[講談社発行「花を調べる花を使う・四季の花色大図鑑」より]