peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

奥州市「えさし藤原の郷」のミヤマ(深山)ガマズミ 2017年9月24日(日)

2017年09月24日 | Weblog

2017年9月24日(日)、奥州市江刺区「えさし藤原の郷」の入口付近に植栽されているミヤマ(深

山)ガマズミと思われる樹木が、真っ赤に熟した果実を沢山付けていました。

ミヤマ(深山)ガマズミ スイカズラ科 ガマズミ属 Viburnum wrightii

山地に生え、高さ2~3mになる落葉低木。枝は灰黒色。髄は白色。長さ7~15㎝の広倒卵形または

倒卵状円形。表面は普通無毛で、やや光沢がある。葉柄は長さ1~2㎝。5~6月、本年枝の先に散房花序

を出し、白い花多数開く。花冠は直径6~8㎜で、先は5裂して広がる。核果長さ6~9㎜の卵球形

9~10月に赤く熟す。(ガマズミの実より少し大きい。)分布:北海道、本州、四国、九州、朝鮮、中国。

[山と渓谷社発行「山渓カラー名鑑・日本の樹木」より]  


北上市市街地のツリバナ(吊花) 2017年9月23日(土)

2017年09月23日 | 植物図鑑

2017年9月23日(土)、北上市新殻町1丁目と2丁目の境の道を歩いていた

ら、民家の庭に植栽されているツリバナ(吊花)が、朱赤色の皮に包まれた種

子が顔を出した果実を沢山つけていました。

ツリバナ(吊花)ニシキギ科 ニシキギ属 Euonymus oxyphyllus

丘陵から山地にかけて生える落葉低木または小高木。高さ普通4~5mになる。紅葉や実が美しいので、

庭などにもよく植えられている。は対生し、長さ3~10㎝の卵形または倒卵形で、縁には細かい鋸歯が

ある。花期5~6月。葉のつけ根から長い柄を伸ばし、淡緑色またはやや淡紫色を帯びた花をまばらに付

ける。直径6~7㎜で、花弁は5個。果実直径約1㎝の球形熟すと5つに割れ、朱赤色の皮に包まれ

た種子が顔を出す。分布:北海道~九州。[山と渓谷社発行「山渓ポケット図鑑3・秋の花」より]


岩手県紫波町「樋爪館跡・五郎沼」の古代ハス  2017年9月15日(金)

2017年09月22日 | バスツアー

「紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その7)

2017年9月15日(金)、岩手県紫波町「樋爪館(ひづめのたち)・五郎沼」の古代ハス

国道4号線沿いにある「樋爪館・五郎沼」を目指してバスは走ります。バスが入った入口から東側を

見ると東北新幹線の高架橋が見えました。[予定:14:50着、15:00発、説明と見学] 

(上と下)五郎沼:カモなどが泳いでいました。

(上)薬師神社の屋根が左側に見えました。

(上)車窓から見えた赤石小学校

樋爪館(ひづめのたち)・五郎沼

◆樋爪館の由来 樋爪館跡は、かつてこの地を治めていた樋爪氏の政庁跡だったとされている。「ひづめ」

は「樋爪」「比爪」「肥爪」「火爪」「火詰」の五通りの表記がある。どの表記も間違いではない。紫波の

地元では「樋爪」の表記をずっと用いてきたのだが、ここ数年の考古学会の表記は「比爪」の表記に統一さ

れてきている。地元の歴史研究会である、ひづめ館懇話会(会長・高橋敬明)の会報(平成29年8月20日号

で第74号)の題字は、この五通りの表記があるゆえに、漢字表記にせず『ひづめだて』となっている。

尚、館の表記は比爪でも、領主の表記は「樋爪氏」である。奥州藤原氏の一族である樋爪氏が、この地方の

砂金を支配する為に建てた居館比爪館である。

 樋爪氏初代は奥州藤原氏初代清衡の子である清綱で、泉亘十郎を名乗った。清綱には六人の子がいたが、

太郎俊衡が奥州合戦に参戦する為にこの地に赴任し、館を建てたとされる。比爪館「ひづめのたち」

呼称する。「たて」ではない。奥州領域で「たち」と呼称するのは「高館」「衣川館」「比爪館」の3つし

かない。それだけに平泉との繋がりの深さが窺い知れる。武将が住む屋敷は「たて」や「やかた」と呼称す

る。「たち」政庁としての機能を果たした場所だったが故に「たち」と呼称するのである。それ故、俊衡

の家臣たちは、館の主(あるじ)を「おやかた様」ではなく「みたち」と呼んだ。

 俊衡は、奥州合戦で降伏後、神職だった故に放免され、八田知家に預かりの身となった。後に本領を安堵

され、日詰大荘厳寺に住した。藤原四代泰衡の子・秀安を育て、娘璋子を秀安に嫁がせている。その末裔は

現在まで連綿と血脈をつなげている。秀安は安倍姓を名乗り、8代目の秀政までは安倍姓であったことが確

認されているが、いつの時代からか阿部姓に改姓している。

 樋爪氏が支配する地域は、昭和の時代までは紫波地方に限定した領域と考えられてきたが、平成に入って

調査が進むにつれ、樋爪氏の領域が青森・十三湊以南に及び、いわゆる陸奥六郡を支配領域にしていたこと

が次第に分かってきたのである。従来「小平泉」と称されてきた比爪館であるが、史実は平泉に匹敵する、

否、その規模を上回る可能性も否定できなくなってきているのである。現在の歴史学会の考え方は、奥州藤

原氏と樋爪氏は「同格」の横の繋がりで結ばれた親族関係と定義している。

樋爪五郎季衡:弟・五郎季衡(すえひら)は、当時、紫波町片寄新田に住んでいたが、館の敷地内に造営

された池で夏場によく泳いでいたというゆかりから、いつの時代からか「五郎沼」の愛称で呼ばれるように

なったのだという。また、祭事も執り行ったと思われ、沼に舟を浮かべ、雅楽も奏でたのではないかと思わ

れる。沼の底から多数のかわらけが出ていることから、船の上で酒も飲んだことが窺える。

 今は「沼」の呼称にされてしまったが、かつてこの五郎沼は、今の4倍ほどの面積があったことが学術調

査で明らかになっている。平泉・毛越寺の大泉ケ池に匹敵する面積であったことになる。かつての樋爪氏の

栄雅を物語る象徴的な「池」だった訳である。

 この沼は、北上川に注ぐ滝名川の氾濫を防ぐ洪水調節の役割も担っていたとも伝えられる。沼には中島

あって、かつての中島は今の数倍も広かったという。由緒によると、中島は、かつて観音島と呼ばれ、中島

のお堂に千手観音(台座を含めた総高13㎝、像高5.5㎝、肘張り2.8㎝)が安置されていたという。千手観音

は室町時代の作で、斯波氏の時代には、五郎沼より西に15間離れた所にあったが、参拝者が難儀するという

ので、代官に願い出て、享保元年(1716)に中島に移築したとある。また、昭和9年(1934)、沼の土手を

整地したところ、経塚が出土し、中から経文を納めた素焼きと青銅の二重経筒、魔除けの短刀が出てきたと

いう。また、沼の底からも様々な出土品が出てきたという。

 五郎季衡は、奥州合戦で降伏後、宇都宮の二荒神社職掌として配属。後に脱走した為に横死。罪が重いと

して首足、処を異にし、首は上河原に、胴は今泉町に葬られたとある。(『宇都宮大明神代々奇瑞記』)

 伝説によれば、五郎は故郷恋しさの余り、二荒山神社を脱走し、五里(現在の距離で3.27㎞)ほど逃げた

所で追手に捕まり、抵抗した為にその場で討たれたという。討たれた場所は樋爪坂と呼ばれ、明治時代まで

名が残っていたが、明治17年(1884)の道路改修により坂は消えてしまったという。この坂のあった場所

(JR宇都宮駅の西口付近)の近くに、頼朝ゆかりの二峰山神社があり、吾郎の墓と伝えられる五輪塔が安置さ

れている。恐らくは墓碑であろう。五輪塔は墓石が2つ無くなっていて、三輪塔になっているのだが、昭和

33年に宇都宮市の文化財に指定され、地域では年に3回(1月と5月と9月の各19日)にお参りしているとい

う。五郎の別の言い伝えでは、五郎は討たれたのではなく、大病を患ったといい、長子・経衡が看取ったと

いう。二荒山神社の社務職は経衡が継いだと言い伝えられている。討たれて死んだのか、病死だったのか、

果たしてどちらが真実なのだろうか。(以下省略)[2017.9.15 紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解説)より] 


岩手県金ケ崎町のミヤギノハギ(宮城野萩) 2017年9月17日(日)

2017年09月21日 | 映画鑑賞

ミヤギノハギ(宮城野萩):最も広く植えられているハギ(萩)。枝はよく枝垂れる。

2017年9月17日(日)、岩手県金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区にある民家の庭に

植栽されているミヤギノハギ(宮城野萩)が、紅紫色の蝶形花を沢山咲かせていました。

ミヤギノハギ(宮城野萩)マメ科 ハギ属 Lespedeza thunbergii

山野に生える落葉低木。ハギ(萩)の仲間の中では最もよく植えられている。よく枝分かれして、高さ

1~2mになる。枝はしなやかで、花の時期には先端が地面につくほど枝垂れる。は3出複葉で互生す

る。小葉は長さ3~5㎝の長楕円形または楕円形で、先は尖る。7~9月、紅紫色の蝶形花がやや長い穂

になってつく。長さ1.5~2㎝で、萼片は鋭く尖る。分布:本州(東北・北陸・中国地方)[山と渓

谷社発行「山渓ポケット図鑑3・秋の花」より] 


岩手県紫波町「走湯神社」のシラハギ(白萩)&ハギ(萩) 2017年9月15日(金)

2017年09月21日 | バスツアー

2017年9月15日(金)、「紫波・赤沢の義経伝承地を訪ねるバスツアー」(その7)

ブドウ狩り&昼食を済ませた後、最初の見学地は「走湯神社」(予定:14:20着、14:35発、説明と

見学)。走湯神社高水寺が隣接していましたが、明治の「廃仏毀釈」令で、別々にされましたが、元

は一つの神仏混合の寺院だったそうです。

走湯神社(そうとうじんじゃ):走湯神社は紫波町二日町御堂前城山公園の北側に位置している。

総本宮が伊豆山神社。全国に末社が153社余りあるという。『吾妻鏡』には、文治5年(1189)9月10

日まで陣ケ岡に陣を張っていた頼朝が、11日朝に高水寺に詣でた後、20㎞北にある厨川柵に夕刻着陣し

たと記されている。頼朝は、高水寺に詣でた際、この寺の鎮守としてあった神社に、自らのゆかりの深い

伊豆の走湯大権現を勧請し、鏑矢(かぶらや)二本を神社のそばにあった大槻木(おおつきのき、ケヤキ

の古語)に射立てて奉納し、奥州合戦の戦勝報告をしたのが神社の由来である。

 伊豆の走湯権現は、頼朝が伊豆に流されて不遇の暮らしを強いられた際、北条政子と出逢い、逢引きを

重ねた神社である。この神社にあえて走湯権現を勧請したというからには、何かしらの縁(えにし)を感

じたものと思われる。尚、頼朝が鏑矢を放った槻木は、元禄年間(1688~1704)の頃に焼失している。

現在の木はその後に植えられた木で、元禄からであるから樹齢313年以上ということになる。中は空洞で、

小さな子供なら遊べるほどの広さがある。

 もともと高水寺坂上田村麻呂が勧請した神社であるが、現在は他に移されていて、この地にはない。

移された場所も特定されていない。

 走湯神社境内の南側には高水寺由来寺宝、木造十一面観音立像などが安置された収蔵庫が建てられて

いる。また、北側には清衡が勧請した大祖神(道祖神のこと、悪霊の厄災を防ぎ、道路を通行する人々の

安全を守る神)と、出羽三山の板碑などが建てられている。仏像があることでも分かる通り、この神社は

神仏習合である。走湯神社も、かつては寺の住職であった修験僧も還俗して神主になり、本尊として安置

していた観音像も蟠龍寺に移されてしまったのである。白山神社の薬師堂もこの憂き目に遭っていて、安

置されていた全ての仏像の撤去を命じられている。とんでもない悪法だった訳だが、義経に関係する由緒

書や古記録、刀剣類や什器なども処分されたに違いない。

 尚、走湯神社系の神社は、岩手県には6社ある。紫波町(走湯神社)、岩泉町(伊豆神社)、江刺区岩

谷堂(走湯権現)、遠野市上郷町(伊豆神社)、遠野市小友町(伊豆権現)、平泉町(鏡山伊豆権現)の

6社である。[講師の山崎純醒氏作成「2017.9.15紫波・赤沢義経伝承地を訪ねるバスツアー」(史跡解

説)より]

(下)高水寺の入り口にも鳥居があり、そこから入場した所にも赤い鳥居がありました。