「拡張型心筋症」
これを、この夏、何度も検索して、ネット徘徊しました。
秋になって、ここで自分なりにようやく、自分の中にひとつ答えをみつけたような気がしています。
私のブログをずっと読んで下さっている方はご存じと思いますが、8月のLIVEに向けて新曲をつくっていましたが、テーマは「命」でした。もっと直接的には「愛する人の死」。夏の間じゅう、それについて考えていたような気がします。
そこへ、ゆりあさんを通じて「哲郎くんを救う会」を知り、「臓器移植」について、改めて考える機会をいただきました。
私は、移植医療については、「反対」では決してないのですが、どちらかというと慎重派とでもいうか… 移植技術だけが、人の死を悲しむ人間の感情を置き去りにして進んでいくことに、戸惑いを感じていたのです。
哲郎くんに「生きてほしい!」と思いました。人の子なら、人の親なら、当たり前のこと。それなのに、自分のブログで「募金のお願い」を大きな声で呼び掛けることに、躊躇しました。とても迷いました。
それには以前、国会で臓器移植法案の審議に多少なりともかかわった経緯もあり、それぞれの人の価値観、死生観、「命」に対する人それぞれの思いがあって、人の生き死にに関することに「こうしてください、お願いします」という自信がなかったのだと思います。
人の命を救うために「お願いします」ということが、間違っているワケないのです。
でも、そのとき私は、哲郎くん以外にも、移植でしか助からない人たちが大勢いることを思いました。助からなかった人の家族のことを思いました。
けれど、哲郎くんを失って、私は今、こんなふうに思います。
「すべての子供たちは、未来に向かって生きるべきだ。」
募金活動は、哲郎くんの命を明日に繋いでいくために始まって、こんなに広がって、目標額を達成したのです。それは輝かしい「成功」。
でも、間に合わなかった。
募金は目標額に達したのに、「生きるべき」哲郎くんは逝ってしまった。「生きてほしい」という願いは叶えられませんでした。
頑張った。彼も、みんなも。
彼の冥福を祈り、彼が残してくれた絆や大きな愛に感謝して、悲しみを昇華させること、それは素晴らしいことだけれど、それで終わりにしてはいけないという思いです。
生者必滅。死を受け入れることは大切なことだとよくわかっているつもりです。
でも、こんなにたくさんの人びとが、彼の命にかかわって、悲しみで彼を見送っている。
この「無念」を、次の命を救うことに繋いでいきたい思いです。
「命を救う」とは、おこがましい表現ですが、私達は募金を通して、自分達が命の尊さを認識する為に募金したのでなく、彼の命をつないでいくことを目標に、再び元気で学校に通うことを目指してきた。
それがどうして叶えられなかったのか。
本当に辛い気持ちを乗り越えて、では、どうしたら「拡張型心筋症」の子供を救うことができるのか、臓器移植で生きていける子供を死なせずにいられるのか。日本の臓器移植周辺の法律はどう改正するべきなのか、募金活動のあり方、募金以外にもっと高度な医療を受ける機会をつくる方策(政策)…
そんなことを真剣に考えて、ちいさな一歩からでも、これからの移植医療のために、すべての子供たちが自分の命を生きていけるために、道を切り開いていきたいという思いです。
それこそが、哲郎くんの尊い命を明日に繋いでいくことになるのではないでしょうか。
哲郎くんを救う会
羽純さんを救う会
これを、この夏、何度も検索して、ネット徘徊しました。
秋になって、ここで自分なりにようやく、自分の中にひとつ答えをみつけたような気がしています。
私のブログをずっと読んで下さっている方はご存じと思いますが、8月のLIVEに向けて新曲をつくっていましたが、テーマは「命」でした。もっと直接的には「愛する人の死」。夏の間じゅう、それについて考えていたような気がします。
そこへ、ゆりあさんを通じて「哲郎くんを救う会」を知り、「臓器移植」について、改めて考える機会をいただきました。
私は、移植医療については、「反対」では決してないのですが、どちらかというと慎重派とでもいうか… 移植技術だけが、人の死を悲しむ人間の感情を置き去りにして進んでいくことに、戸惑いを感じていたのです。
哲郎くんに「生きてほしい!」と思いました。人の子なら、人の親なら、当たり前のこと。それなのに、自分のブログで「募金のお願い」を大きな声で呼び掛けることに、躊躇しました。とても迷いました。
それには以前、国会で臓器移植法案の審議に多少なりともかかわった経緯もあり、それぞれの人の価値観、死生観、「命」に対する人それぞれの思いがあって、人の生き死にに関することに「こうしてください、お願いします」という自信がなかったのだと思います。
人の命を救うために「お願いします」ということが、間違っているワケないのです。
でも、そのとき私は、哲郎くん以外にも、移植でしか助からない人たちが大勢いることを思いました。助からなかった人の家族のことを思いました。
けれど、哲郎くんを失って、私は今、こんなふうに思います。
「すべての子供たちは、未来に向かって生きるべきだ。」
募金活動は、哲郎くんの命を明日に繋いでいくために始まって、こんなに広がって、目標額を達成したのです。それは輝かしい「成功」。
でも、間に合わなかった。
募金は目標額に達したのに、「生きるべき」哲郎くんは逝ってしまった。「生きてほしい」という願いは叶えられませんでした。
頑張った。彼も、みんなも。
彼の冥福を祈り、彼が残してくれた絆や大きな愛に感謝して、悲しみを昇華させること、それは素晴らしいことだけれど、それで終わりにしてはいけないという思いです。
生者必滅。死を受け入れることは大切なことだとよくわかっているつもりです。
でも、こんなにたくさんの人びとが、彼の命にかかわって、悲しみで彼を見送っている。
この「無念」を、次の命を救うことに繋いでいきたい思いです。
「命を救う」とは、おこがましい表現ですが、私達は募金を通して、自分達が命の尊さを認識する為に募金したのでなく、彼の命をつないでいくことを目標に、再び元気で学校に通うことを目指してきた。
それがどうして叶えられなかったのか。
本当に辛い気持ちを乗り越えて、では、どうしたら「拡張型心筋症」の子供を救うことができるのか、臓器移植で生きていける子供を死なせずにいられるのか。日本の臓器移植周辺の法律はどう改正するべきなのか、募金活動のあり方、募金以外にもっと高度な医療を受ける機会をつくる方策(政策)…
そんなことを真剣に考えて、ちいさな一歩からでも、これからの移植医療のために、すべての子供たちが自分の命を生きていけるために、道を切り開いていきたいという思いです。
それこそが、哲郎くんの尊い命を明日に繋いでいくことになるのではないでしょうか。
哲郎くんを救う会
羽純さんを救う会