紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

コロラド川下り・1

2005-11-16 06:51:20 | 8・山と旅の思い出
■2001年・夏

その年、アメリカに行って、コロラド川下りをした。
一緒に行ったのは、息子と娘、友人の良流娯さんと私の4人。
1年も前に予約をして、現地のツアーに入った。
なぜそんなに前からの予約が必要かというと、ボートに乗れるのはわずか17人。
他のツアー会社のボートも下っているけれど、同時に下れる人数に限りがある。そのため、早くからの予約が必要なのだった。

インストラクター3人がついて、20人で5日間、岸で野宿をしながら、下った。
ボートは急流を下るために、かなり頑丈でなくてはだめで、アーミィーで使われていたのを、使用しているということだった。

けっこうハードな旅だった。
ボートで下るのは、ただ座っていればいいので、どうってことはない。
といっても、ホールという落差が最大5メートルもある所を下ったりするので、それなりにスリル満点だったけど。

一番大変だったは、ボートに乗り込む当日。
朝10時に、コロラド川でボートを待たなくてはならないことだった。
川は、かの有名な観光地、グランドキャニオンから1600m下った谷底を流れている。
もちろん、その日に下ったのでは10時に間に合わない。

前日、グランドキャニオンから下り、谷間の底のファントム・ランチという所にたった一軒ある山小屋に、泊まらなくてはならない。
谷の底は、砂漠気候で、日中の体感温度50℃という所だ。



その話しを友人にしたところ、ぜひコロラド川下りの話しを聞きたいというので、ぼちぼちBlogに書こうと思う。

◆コロラド川下り 1・1011

水沢山(みずさわやま=1194㍍)に登ってきました!

2005-11-14 08:08:00 | 3・山の日記
一昨日の11月12日、水沢山に登ってきた。
すばらしく景色のいい山だった。けれど、すごく寒い山だった。
群馬県(上州)といえば、おろし風の吹く地域で有名だけれど、その冷たい風をもろにうける山なのだ。

その日朝4時半に起きると、東京では、かなり激しく雨が降っていた。
こんな日にも登るんだろうかと思いつつ、インターネットの東京電力・雨量情報のページにアクセスすると、ちょうど私が住んでいる所は、大雨だけど、行こうとしている群馬県は、すでに雨が降っていないのがわかった。

それで、5時20分に家を出て、いろいろ乗り継いで、8時過ぎ高崎駅到着。参加者6人がそこに集合。
バスを乗り継いで、水沢山登山口に着いたのが、10時。
遠い山であった。
(写真:後ろがこれから登る水沢山)


水沢観音に参拝してから、紅葉・黄葉の木々の間の道を登っていった。
 


石仏群のある所まで登ると、広々とした関東平野が眼下に見えた。

 

山自体は2時間も登れば、山頂についてしまう。
雨上がりで空気が澄んでいるせいか、遠く新宿副都心の高層ビル群まで見えた。写真は、目の前が赤城山。



天気予報通り冬の木枯らしが吹き、寒いので、山頂を越え、だいぶ下った日だまりで昼食。
コンロを囲み、みそ汁を飲みながら、カンパイ!

その日の次の目的は、そこから反対側におりた所にある伊香保温泉。温泉で身体の芯まであったまった。


計画表

明日は水沢山(みずさわやま=1194㍍)・・に登れるかな?

2005-11-11 06:24:58 | 3・山の日記
どうも、このところ週末になると天気が悪くなるようである。
先週の雲取山、土曜日に晴れたのは、運がよかった。

明日はホイッスル山の会の山行で、4時半起きで群馬県、榛名山系の山にでかける予定。
でも、天気はどうかな?

明日の天気。前橋・宇都宮の降水確率は、

50%

あまりよくないかも。



■計画表

高崎駅 8:40(バス)~9:16 箕郷営業所 9:25(バス)~

9:51 水沢 10:00~(水沢観音参拝)~12:00 石仏群

~12:30 水沢山(昼食)13:30~14:00 林道出会

~14:45 ワシノ巣風穴 14:50~15:20 湯元源泉

~15:50 伊香保バスターミナル 17:00(バス)~

17:40 箕郷営業所 17:50(バス)~18:26 高崎駅

「凍」を読んで

2005-11-10 06:54:08 | 13・本・映画・演劇・音楽など
沢木耕太郎さんの著書にしては珍しく、登山家を書いたノンフィクションである。

沢木さんの新刊が出ると、たいていは読んでみるが、登山家、山のことを書いたというので、刊行されると、すぐにも飛びついて、一気に読んだ。

登山家山野井泰史さんと妙子さん二人の、ギャチュンカン登攀記録である。


雪崩に巻き込まれたり、雪壁の下降中二人がバラバラになったり、高度7000mを越える所で、無酸素で7泊もしたり、妙子さんは高山病で食糧を受け付けなくなったり、泰史さんの足は、最初のうちから凍傷にやられるなど、次から次へと困難に見舞われる。

けれど、厳しい登攀の末、最後には生還する。
泰史さんは、その山で凍傷のため、左右の手の薬指と小指、右足の指を5本全部失う。
妙子さんは、足は無事だったものの(といってもすでに足の8本の指は無くしている)、手の指は全てなくなり、もともと何年か前のマカルーで指の先を失っていたため、もうほとんど手の平しか残らない状態になる。

そして、この本は、生還するところで終わりにならない。山野井泰史さんが再起し、また山に登るようになるまでの物語なのだ。今年7月、山野井泰史さんは、ポタラ峰北壁の初登頂に成功した。

この本はかなりぐいぐい惹きつけられながら読んだのだけど、読みながらも、読み終わってからも、何か違和感が残った。

なぜなんだろうと考えた。
この本は、山野井夫妻の話しだ。けれど、沢木さんの視点は、どうも泰史さんに向いているような気がするのだ。二人を書いているなと思うところもあるのだけど、気が付くと、また泰史さんに戻ってしまう。
最後も、再起して登頂に成功するのは泰史さんだ。

そして、私が知りたいのは、むしろ妙子さんのことなので、どこかもどかしい思いが残った。
妙子さんは、手の指と足の指が18本ない身体で、山登りを再開している。おそらく登山靴のひもを結ぶのさえどうやっているのかと思う妙子さんが、どんな風に山を再開していったか。その方が知りたいと思ってしまうのだ。

■山野井泰史・妙子さん。ギャチュンカン初登攀により第七回植村直己賞受賞。

雲取山(2017m)に登ってきました! その2

2005-11-08 10:53:32 | 3・山の日記
■石尾根縦走

5時過ぎ、山小屋で朝食を食べていると、
「すごいきれいな朝焼けだよ。」
と山小屋の人が教えてくれた。
あわてて食べて、外に出た。ほんとうにきれいな、燃えるように赤い空だった。
6時8分日の出なので、そのまま待ったが、残念なことに、雲にかくれて、日の出は見えなかった。

6時半、山小屋をあとにする。
この日は、奥多摩駅まで全行程歩くので、長いコースだ。
地図でみると、直線距離で16キロ。くねくねとしているので、18キロくらい歩くことになるか?

前日雲取山は登ったので、巻き道を行く。七ツ石山から先は、前日歩いていないコース。

標高が高くなると、ガス(雲?)の中に入り、風も強く、寒い一日だった。
この日は、めったに人に出会うことがなく、たまに会うとホッとする。

高丸山、日影名栗峰(1726m)と、どんどんピークを越えていく。

 

途中の登山道は広々として、雪の時期にテレマークスキーでおりたら、さぞ気持ちがいいだろうと思う。



去年登った鷹ノ巣山(1737m)を10:40通過。頂上は寒かったので休憩もとらずに進んだ。

六ツ石岳は、知らないまま巻き道を進む。人にも会わないし、昼間でも暗く、道がまちがっていないか不安になる。
ようやく合流地点に行くと、何人かのグループが昼ご飯を食べていたので、やれやれ。私たちもお湯をわかして、スープを飲みながら昼ご飯にする。

その後は、ひたすら下る。誰一人出会う人もなく、下って行く。
このコースは山道も長いが、ようやく奥多摩の町が見えてからが、また長かった。
しかも、冷たい雨も降り出した。最後の30分は、もえぎの湯温泉、生ビールを楽しみに、ひたすら歩き通した。

奥多摩駅着 3:10。

計画表

◆雲取山(2017m)に登ってきました! その1 その2

雲取山(2017m)に登ってきました! その1

2005-11-07 14:16:38 | 3・山の日記
昨日、一昨日と、泊まりがけで雲取山から石尾根を縦走。
晩秋の静かな奥多摩の山々を楽しんできた。
今回一緒に行ったのは、良流娯さん。かなり昔からの友人で、今は連句仲間、ホイッスルの山仲間でもある。

■初日、雲取山まで

奥多摩の駅から、鴨沢に行くバスは、一日何本も出ていない。
そのため、8:30のバスが増便され、2台同時に出た。

9:15分、鴨沢から登り始めた。
山道に入って、少し登ると、秋の山という感じがしてきた。落ち葉をカサコソと踏みながら、登る。やっぱり、一年に一度は紅葉、黄葉の山を楽しみたいなあと思う。

初日は、雲取山に登るのがメインなので、七ツ石山はパスして、巻き道をブナ坂まで行ってもよかったが、以前に良流娯さんも、私も泊まったことがある七ツ石小屋を見たいので、巻かずに行った。

七ツ石小屋の前でちょうど昼になり(12:15)、小屋の横の日だまりで、湯をわかして、みそ汁など飲む。フランス人の一行と一緒になり、クッキーなどもらう。すごく健脚なグループだった。

 

小屋は、以前と同じらしいが、きれいになっていた。
小屋のファンの人が、いろいろ修繕やらペンキ塗りやらしてくれるそうである。
前に泊まったのは、子どもたちが小学生の頃で、くすの木山の会の人たちと一緒だった。その時の写真を見ると、その日は雨だったらしい。

昼ご飯のあと、七ツ石山(1747m)山頂が1:15。
上から見おろすと、気持ちのいいスロープが広がっていて、その日の目的の雲取山が、右の一番上に見える。(写真右)

 

実際に下におりてみると、なだらかな幅の広い尾根で、歩きやすい。山登りをする人だけでなく、ランナーもけっこういて、ランニングシューズで走っている。マウンテンバイクを走らせているグループもいる。
いろんな楽しみ方ができる山域のようである。



最後の急坂を登って、雲取山頂(2017m)に着いたのは、3:10。上から来た方をみると、翌日縦走する、鷹ノ巣山などが、ずっと見える。長そうである。




雲取山荘に着いたのは、4:00。ほぼ予定通り。
ストーブの前で、早速ビールでカンパイ! 近くにいた岩手県盛岡から来ていた二人連れと知り合いになり、一緒に夕飯までお酒を飲み、東北の山々の話しなどして楽しんだ。




それにしても、そんなに遠くから、わざわざ東京の雲取山まで登りに来る人がいるので、驚いた。
日本100名山の威力だろうか?

山小屋付近の温度は、2度。外はかなり寒かったが、部屋の中は温かく快適だった。

計画表

◆雲取山(2017m)に登ってきました! その1 その2

雲取山(2017m)に登ってきます(追記あり)

2005-11-04 15:30:23 | 3・山の日記
明日、あさっては、友人の良流娯さんと二人で雲取山に登りに行く。

1週間くらい前から、今週末5日(土)6日(日)の天気を気にしていた。
毎朝、真っ先に新聞の天気欄を見るのだけど、いつでも、

60% 

それを見るたびに、あ~あと思っていた。

またしても雨か。
雨でも行こうかどうしようか。とりあえず、奥多摩まで行ってみようか。

ところが、今朝になってみたら、

30%  になっていた。やったー!

(追記)さらに、夕刊では、

0% 

雲取山は東京の最高峰である。
何度も何度も登るチャンスがありながら、逃してきた。
今度こそ登れるかな。

そんなわけで、コンロに火がつくかためしたりして、うきうき気分。



<計画表>

■11月5日(土) 

8:23奥多摩  バス8:30→鴨沢9:10→小袖乗越9:50→

11:30堂所12:00→1:40七ツ石山2:00→小雲取3:00→

3:30雲取山3:45→ 雲取山荘4:05  

■11月6日(日) 

雲取山荘 6:30→ 8:10七ツ石8:20→ 千本つつじ9:00→

10:30 鷹ノ巣 10:40→ 水根山11:15→

12:20 六ツ石 1;00→ 奥多摩3:10

(6日雨の場合、5日と同じコースを下りる)

中学時代の担任S先生のこと

2005-11-02 06:31:19 | 15・心に残ること
最近、私のBlogを読んでくれて知り合った明子さんが、私にコラムを送ってくれる。
何のコラムかというと、勤め先の中学の学年通信に書いているコラムである。
明子さんは、今4人目のお子さんの育児休業中で、家で赤ん坊と他の3人のお子さんの世話をしているのだ。
育休が終わったら、また学校の先生として復帰することになっている。

コラムは、赤ちゃんがハイハイしたり、つかまり立ちしできるようになったりする、そんな毎日のことが母親の目で書かれている。

中学生の子にとっては、ふだんは学校という場でしか知らない先生の素顔というか生活を、コラムを通して知っていくことになる。
そのことを、多分今は、先生は赤ちゃんとこんな風に過ごしているのね、くらいしか思わないだろうけれど、何人かの生徒の心には、子どもを育てながら仕事をしていた先生の姿、として焼き付いていくのではないかと思う。

私が中学時代の先生のことをずっとそういう風に覚えているように。

中学時代2・3年生の時の担任S先生は、初対面の時、すごいこわい女の先生だと思った。
理科の専科で、1年生の時は、にこりともせずに授業をし続けたような覚えがある。

その先生が、2年で担任になった。
担任になってから初めて、S先生が結婚されていたこと、小学校2年の娘さんがいるのを知った。
こわい先生のイメージから考えて、それはちょっと意外な感じがした。

娘さんは、となりの小学校に通っていた。いつも放課後はその学校で過ごしているのだった。
当時は、学童などというものがなかったのだと思う。

ある日、学校に残って、行事のための用意か何をしていた。その時に、先生が
「もう娘を迎えに行かなきゃ。」といって、その場を抜けた。
先生は、いつもそうやって、仕事の途中で娘さんを迎えにいき、自分の中学に連れてきては、また仕事を続けていたというのを、その時初めて知った。
娘さんは、先生の仕事が終わるまで、教室で自分の宿題をしたり絵を描いたりしながら、待っていた。

3年生に進級すると、またS先生のクラスになった。
相変わらず授業中はこわい先生だったが、人間味のある先生というのは、その頃にはちゃんと伝わっていた。
そのためか、いつしか生徒の何人かで、放課後かわるがわる、その娘さんをとなりの小学校まで迎えに行くようになった。
2学期で、クラブ活動なんかは、受験勉強のために終わりになっていたのだろう。

私も、女子の友だちと一緒に、時々迎えにいっていた。
でも、女子生徒より、男子生徒の方が、まじめに(?)迎えに行っていた覚えがある。
そして、その娘さんを連れてきては、自分たちの教室で、しばらく一緒に遊んだ。
と書くと、なんだか受験勉強もしないで、先生の娘さんと遊んでいたようだけど、それはそれでちゃんとしていて、勉強の合い間の息抜きだったと思う。

でも、その頃、先生とその娘さんを見ながら、女の人が仕事を続けるというのは、送り迎えがあったり、そういうことの連続なんだ、と知った気がする。
そして、S先生からは、こわかった理科の授業よりも、もっとずっとたくさんの人生の勉強をさせてもらったと思っている。
そして、これはあくまで想像なのだけど、あの頃迎えに行く仲間だった男子は、その後父親になった時には、育児にちゃんと関わったのではないかなあと思う。

(写真は中学3年。何人かで奥多摩の棒の折山に登った時の。一度だけS先生とも山に登ったことがある。残念なことに写真を探したけど見つからなかった)