蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

サンフランシスコ平和条約  (bon)

2012-04-28 | 歴史の真実
 昭和27年(1952年)の今日、4月28日は、サンフランシスコ平和条約が発効した記念日とされています。
(調印は、昭和26年(1951年)9月8日)
正式には、日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)とよばれ、
第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の
戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約なんですね。

日本国との平和条約 署名する吉田茂全権と全権委員
(ウイキペディアより転載しました。)

つまり、国際法上ではこの条約の発効によって、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」が
終結したものとされたのです。

 これによって、朝鮮の独立を承認し、台湾、千島列島他の群島に対する一切の権利・権限
および請求権を放棄したのです。 この時、千島列島の解釈をめぐって、北方4島に関して
今なおロシアとの間に問題を残しています。 
上の条約には、旧ソ連は調印しなかったのですが、日本側はこの4島は当然日本の
領土としていたため、千島列島に含めずに明確に定義しなかったことが尾を引いているのですね。

 また、この条約の調印と同時に日本とアメリカの間に「日米安全保障条約」が締結され、
アメリカはその軍隊を日本に置く権利を認められて占領軍はそのまま駐留軍として
日本に留まることとなったのです。


 皆さんも良くご存じのことを、反芻しましたが、講和条約発効(1952年)時、
私は、中学1年生で当時流行のようになっていた「壁新聞」として、大きな模造紙にこの事を
記述して発表した記憶があります。 
また、これから7年経過した1959年には、いわゆる「60安保」として、大阪御堂筋を
「デモ」を繰り返し機動隊と衝突ばかりしていたことも今では遠い過去となってしまいました。


 今日から長いゴールデンウイークに入りますが、4月28日にまつわるサンフランシスコ条約から、
こんなことを思い出したのでした。





敗戦国にとって異例ともいえる寛大なる講和条約を勝ち取った吉田茂の秘策ー賢明なる外交ドラマの動画6シリーズ。




2項目目以降は下記の番号をクリックすれば開きます。
【吉田 茂 日本国憲法】麻生太郎の祖父「日本独立」 その光と影2-6
3-6 4-6 5-6 6-6




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昭和物語    (mak)

2012-02-09 | 歴史の真実

昭和が終わって四分の1世紀、戦後の昭和を振り返る。日本国民はすっかり失った焼け野原からよくも世界第二位の経済大国を築き上げたものである。国民の一人として生きた昭和は我々国民が誇れる歴史である。あの頃を思い出し、懐かしんでみよう。

YouTubeより転載した動画をご覧いただき、皆さんの昭和の思いを綴っていただきたいと思います。

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歴史の真実 東京裁判名場面

2011-05-08 | 歴史の真実
Bonの古代歴史に関するブログが、自分の国日本の歴史を知ることが如何に大切であるかを認識させてくれた。自分が持っている些少の歴史の知識は半世紀も前に書で習った程度のものであり、その後今に至るまで真面目に学んだ事が無いし、真実を知らずにマスメディアに洗脳され、自ら思考したことがない。現在の日本の問題点と今後の日本はどのような国になるべきかを考える上で、日本の歴史が指針を与えてくれる。そこで身近なところから、戦後の区切りでもある東京裁判を取り上げてみた。
日本の戦後はまさに謝罪外交の歴史であった。日本人自らが日本は悪い事をしたとの自虐、さらに悪く言えば自らが反日的になり、意気地ない日本となってしまい、国際社会で自らの国益すら自己主張の出来ない(国内的にさえも)情けない国となってしまっている。どうして、こんな国になってしまったのか、その理由は戦争に負けたことよりも敗戦国日本を裁いた東京裁判がその切っ掛けになったのではないのかと考えたのが、其れをテーマーに取り上げた理由である。まず、下記に掲載した動画が驚くべき真実を伝えている。
東京裁判名場面



東京裁判の11人の判事の中ただ一人の国際法律の専門家であったパール判事が東京裁判の判決に対する反対意見書を提出し、今や日本を除く世界の法律の専門家が東京裁判は不当であると認めている。その要旨は:
  
「戦勝国が敗戦国の指導者たちを捕らえて、自分たちに対して戦争をしたことは犯罪であると称し、彼らを処刑しようとするのは、歴史の針を数世紀逆戻りさせる非文明的行為である」
「この裁判は文明国の法律に含まれる貴い諸原則を完全に無視した不法行為である」
「ただ勝者であるという理由だけで、敗者を裁くことはできない」
「もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においてはこの原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の(無差別殺人の)指令、およぴ第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものである」



Radhabinod Pal 博士ご自身による日本の皆へのメッセージ:

私は1928(昭和3)年から45(昭和20)年までの18年の歴史を2年8ヶ月かかって調べた。とても普通では求められないような各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文のなかに綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ」と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分に研究していただきたい。 日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流れてゆくのを私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。誤られた彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書きかえられねばならぬ。 (昭和27年11月6日 広島高等裁判所での公演から抜粋)
この言葉は、まさに真実を示している。

 東京裁判が法の不遡及原則(罪刑法定味目主義)を踏みにじる国際法の原則に反した不当なものであるという認識はパール判事の判決を始め世界の法学者の常識なっている。

しかも東京裁判の絶対権力者マッカーサーですら裁判終了後1年半後に「この裁判は間違いだった」とトルーマン大統領に告白し、3年後の1951年5月3日には米上院軍事外交委員会で「日本の戦争は安全保証の必要に迫られた為で、侵略ではなかった」と言明している。当然日本が告訴され、A級戦犯がその名において処刑された「平和に対する罪」は,裁判そのものが誤りで全てが無効である。

「日中戦争も日米戦争も自衛戦争であり組織犯罪は無かった(従来からある交戦規定違反があったであろうことは認めるが、激戦中にありがちな偶発的なもので、決して組織犯罪ではない)」と言うのは正当な歴史評価である。

しかるに日本の法学者でこの裁判の不当性を訴える人は少なく、小学校から大学の教育でも裁判の不当性については全く教えられていない。

その理由の一つは終戦当時の東大法学部の横田喜三郎教授が保身(占領軍に対するゴマ擦り)の為「東京裁判正当化」の論文を書き、その流れに沿って日本のほとんどの学者がそれに異論を唱えなかった。裁かれた日本が東京裁判の判決に意義を唱えていないのである。
今更何を言っても無駄だ、今になって不当性を訴えたって意味がない」という意見だった。
歴史をどう認識するかは民族のアイデンティティーにかかわる最重要な問題だと言うことを理解していない。
自分達の国が犯罪国家であったか、正当な自衛戦争だったが残念ながら敗戦したのだと認識するかでは月とすっぽん、全く違う。
爾来、日本の指導者は謝罪をし続け、国益を守る事も出来ない意気地の無い国に成り下がってしまったのではなかろうか。未だに東京裁判不当問題がタブー視され、日本国民は訳も分からず、罪悪感に苛まれている。


しんどい話を持ち出しお疲れでしょう。音楽でもいかが
Engelbert Humperdinck - Spanish Eyes 1969





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難波宮と孝徳天皇  (bon)

2011-05-04 | 歴史の真実



 都、難波宮のあり場所は、高津宮より北に1kmほど行ったところ、大阪城のすぐ南、現在の法円坂町にある。

難波宮址(大阪府大阪市中央区法円坂1)
(ネットから)

 孝徳天皇(654年没)の後、都は大和に遷ったが、難波宮はそのまま残されていた。次の斉明女帝(第37代)、天智天皇(38代)、天武、持統を経て都は大和平野の藤原宮へと移りその後、文武、元明と来て710年に平城へ遷都される。その後、聖武天皇に入って一時的に難波宮に移されたが、784年長岡京へと遷都が続くのである。昨年、平城遷都1300年のお祭りがあり奈良は賑わった。

 孝徳天皇が大和を避けて難波宮を設置した理由は、先の仁徳と同じでやはり大和の豪族から逃避する手段として選ばれたという。このくだりは、歴史の中でも面白いところでもありますので、釈迦に説法でしょうが、少し復習してみたいと思います。

 用明(31)、崇峻(32)、推古(33女帝)の3天皇は、大臣の蘇我馬子の妹二人と欽明天皇との間に生まれた。そのため、馬子は皇室の外戚として大きな実権を持っていた。しかし、馬子が死亡し、推古女帝の崩御のあと、馬子の後を継いだ蘇我蝦夷は、蘇我氏の独断政治に対する世間の非難を恐れて、蘇我氏直系を避けて田村皇子(舒明天皇)を即位させた。が、13年の在位で亡くなったので、その皇后を即位させた。これが皇極女帝であるが、この二人の間に生まれたのが、後に蘇我氏を滅ぼす立役者となった中大兄皇子(天智)、その弟が壬申の乱を起こした大海人皇子(天武)である。
 蝦夷が病に伏したため、ひそかに入鹿(蘇我入鹿)を大臣にしたことで、この蘇我父子の傲慢に皇族方からの強い反発が起こったが、入鹿は逆に蘇我氏の血を受けた者を天皇に据えようと考え、もともと王位継承の期待があった山背大兄王と異母兄である古人皇子の該当者2人を選んだ。山背大兄王は、これに怒りを表したため、入鹿は、より自由になる古人皇子を立てることから、山背大兄王を襲い自害させた。

 この事件を察知して、第一の王位継承権を持つ中大兄皇子は身の危険を強く感じていた時、ひそかに近づいて秘策を進言したのが中臣鎌子(鎌足)である。
鎌子の策とは、この危険を避けるため蘇我一門の娘を妃として迎え、蘇我氏に好意を示し、婚姻のよしみで蘇我陣営に入り入鹿を油断させることであった。・・・かくして、皇極4年(645年)6月に行われた祭典で、中大兄皇子、中臣鎌子らが中心となり入鹿暗殺を謀った。翌日蝦夷も死に、かくて蘇我氏は滅亡した。
 多くの豪族は、この事件に好感を持ち中大兄皇子をたたえ、皇極女帝はわが子中大兄皇子に皇位を譲ろうとした。皇子は既に32歳であり皇位を継承して何ら問題はなかったが、先の事件の中心的役割を果たした人物は、鎌子であることは世間に知られており、古豪達からの妬みが鎌子に向けられてことを知り、そこで皇位を叔父の軽皇子に譲るという謙譲の美徳を持って鎌子の政治的野心をかわした。策謀家、鎌子ここにあり。
 しかも、軽皇子(孝徳天皇36)を推挙した理由には、以前から皇子妃から目をかけてもらっていたことから、大した氏族の出でない鎌子にとってなお好都合であった。軽皇子を即位しても自分に有利であり、中大兄皇子の即位を一回見送らせることで世間に自己の野心を見抜かれる心配もなくなる。その間に、鎌子は実権を掌握しようとした。
 こうして孝徳天皇が実現し、中大兄皇子は皇太子となった。豪族たちを大臣に取り立て、中臣鎌子自身も内臣となった。しかし、蘇我氏残党や他の大和の豪族から新政権に敵意を抱くものが多くいた。策士、中臣鎌子は、その12月に都を難波に遷すよう進言した。そして、大和の諸豪族から逃避して、新都で斬新な政治を試みたいと思う鎌子の発案であった。
 日本書紀には、鎌子は藤原一門の英雄として表現されている。

数年前のお正月に、孫たちと歴史かるたをし、読み手が孫になったとき、たまたま「・・大化の改新、中臣のかまたり(鎌足)」のところを、「中臣の かたまり」と読んだことが大笑いとなり、いまでも我が家の語り草になっている。


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高津宮、難波宮  (bon)

2011-04-11 | 歴史の真実

なに、これ? 
大震災の中、昨日は統一地方選挙(前半)が終わり、新しい顔ぶれが決まりました。大阪維新の会が躍進しました。

 突然で申し訳ありませんが、先日、私が所属するランチの会で大和三山の話から、古代の文化がなぜ内陸の大和あたりに置かれたのだろうか?との疑問などもあり、ちょっと考えてみたら、確かにそうだ・・・。
私が育った家の近くに高津宮址があったし、北の方には難波宮跡が整備されたりしていて、
また、出身高校の前身旧制女学校の校歌に・・
「♪高津の宮を南にし、浪華の城を北に見て・・・」(山口重樹作詞)
というのも耳にしていましたので、何となく興味を持ち調べてみました。
 
 古代、文化は大陸から九州を経て、まず河内に上陸したのに、なぜ 生駒山を越えて内陸の大和に王都が出来たのか? なぜ、我が国における王権の発生が、先ず河内ではなく内陸の大和なのか? その答えは、古代の地形にあった。

 縄文時代前半(6~7000年前)は、現在の河内平野は海であった。弥生時代(2~3000年前)に入っても、河内湖と呼ばれるような状態であった。
つまり、和泉山脈から北へ上町台地が延びておりその北も東西も海で、生駒山の西麓に、今の交野から枚方にかけて豪族「物部氏」が支配していた。
しかし、やはり狭いためにやがて、生駒西麓から大和に入って政治権力を持つにいたった。

 第16代、仁徳天皇が初めて難波(なにわ)に都をおいた。彼の皇子時代に難波にいたこともあるが、
父の応神天皇後の王位継承問題に絡む争いから、結局 仁徳天皇が奪うのであるが、やや悪辣のそしりをまぬかれない行為などの為、大和を引き払って、地形戦略的には不利な難波に都を移してしまった。 
我々が知る仁徳天皇は、高台から民のかまどの煙をみて、民の窮乏をしる・・・聖君のイメージである。確かに、土木事業を奨励し治水、農地確保など民にとって聖君であったようではある。

 で、その都の中心は難波のどこいら当たりかというと、それが難波津と呼ばれる上町台地の北の堀江のあたりで、今の玉造付近のようで、仁徳天皇の高津宮もその名称から見て津の上の高台であったと考えられている。大阪城の南に難波宮址(後述)があるが、この大阪城のあたりが昔の台地の先端にあたり、したがって高津宮は上町台地の先端から1Km位南のところとみなされる。

 難波高津宮については、仁徳天皇1500年祭に大阪府が記念建立した「高津宮址」は、現高津高校内にある。神社の高津宮は、谷町9丁目に近い高津1番地にある。

高津高校内の高津宮址の碑


 難波宮については、これより200年弱後の大化の改新で有名な孝徳天皇によりふたたび大和から難波に遷都されたのだが、長くなるので次回に譲ります。ここでも、確執と陰謀が渦巻く物語の連続であり、都も孝徳天皇の後は再び大和(飛鳥)に移り、藤原宮から710年平城遷都につながってくるのですね。 (昨年、平城遷都1300年)
(出典:「飛鳥と難波」鳥越憲三郎保育社 S53重版、ネット他)

浦のあけくれ 混声合唱です。



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悲しいこの20年・・・。 (bon)

2011-04-03 | 歴史の真実


日本経済メルトダウンの危機!大前研一 家計と個人消費の現状




悲しい20年にぴったりの演奏かもと思いーーー


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