蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

11月の八ヶ岳。  (bon)

2012-11-30 | 蓼科浪漫倶楽部 畑
先日、11月に畑じまいをした時の八ヶ岳です。2012.11.18のすがた。

この景色を見ながら・・というよりは、これら八ヶ岳の懐に抱えられて今年も畑を楽しんだのでした。
今年最後の勇姿を見納めにして、また、来る年の野菜たちとの語らいを待つ。
 しかし、そこには執拗な雑草との戦いも待っているのだ・・。

以前にも、アップしましたジグソーパズルにしましたので、ご紹介します。

(パズコレにて作成しました。)



ご興味のある方はこちらをクリックして、チャレンジしてみてください。









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腑に落ちないまま・・   (bon)

2012-11-28 | 日々雑感、散策、旅行
ネットで、カード決済してしまいました。
昨日から、いきなり画面に割り込んでスキャンを始める。2分ぐらいで終わりますが、終わるまで全くストップが効かない。
RegClean Proなるソフトが、私のコンピュータのレジストリをスキャンして、①システム関連エラーが72もあって、
レジストリ損傷レベルは高い(深刻)、②Com及びActivxのエラー417、同高、③ユーザ関連エラー117、同高

④起動エラー533、同高でエラー総数1139・・なんて出てスキャン終わり。
で、エラー修復ボタンがある。

これをクリックして画面に従って、次、次と進むと、購入手続きに入り、カード番号などを打ち込む。

また、これとは別にタスクバーあたりから、ウイルスアラート(警告)画面がポップアップして、ドキリとさせられる。
1件見つかりました。 同じように、ウイルス除去ボタンが出ている。

結局、わからぬままに、これら2つのソフトをダウンロードしてインストールしました。
海外からそのままネットで即座に送られてくる画面は英語。 いろいろと指示が出てくる。コンピュータ用語が分からないものもあった。

この買い物は、2つで4,560円でしたが、ネット上にカード情報、個人情報すべてが出てしまった。

購入画面で、カード番号やらセキュリティコードなどを入力するのですが、最初、誤りがある~てなことを言って
受け付けてくれない。
いつも使っているカードなのに・・・で、カード会社に電話してみた。

しばらく応対していたら、詳しい担当者が出て来て、この種のカードは、何らかの理由で本件には使用できない・・とのこと。
理由を聞き直すが、わからない・・システムで先方がはじいている。 次にやってみたカードもダメ。
3度目にやってみた。 これはうまくいった。 喜んでいいのか、果たして2つの理解できないソフトを購入した。

RegClean PRoとAdvanced System Protectorの2種です。 さすがウイルスは、再度スキャンするも今度は“0”で、
何となく、これで良かったのかなぁ~ と思いきや、エラーの方は、どうなっているのやらまだエラーが出ているではないか!

いきなり、スキャン画面が出て来て、それが5分おき位に現れるから、仕事ができない(中断されてしまう)。
だから、しょうがなく購入する羽目になったが、果たして正解なのかどうかもわからずじまい。

無理やり、恐怖を抱かせながら、しかも執拗に繰り返し画面攻撃して、売り込みをかける・・
“新手の商売?”
金額は小さいけれども、対象者は大勢いる。しかも、売り込み経費がゼロ。
今回は、正解だった・・と自分に言い聞かせていますが、この手法は、悪徳商法に使える・・と思いました。

つまらぬことを、書きましたが、何かの参考になれば・・と思って~。






世の中、嘘が横行してます。ご注意を!!










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山の娘ロザリヤ、アルプスのハイジ・・・ (K)

2012-11-28 | 蓼科浪漫倶楽部 畑
 
 
今、改めて畑仕舞い、納めのブログの写真を見てみて、
なぜか表題のロシア民謡や、アルプスのハイジの物語がセピア色をして
夢の中のようによみがえってきます。
年の瀬か、歳のせいか、みんなとの山での戯れが、ちょっとばかり前の
事なのに、遠い昔の事のように思え、懐かしく感傷すら誘います・・・
今回は風景がたくさんあり- いろいろな姿の八ヶ岳や、ピンクに染まる
周りの山々、その向こうに雪をかぶっているアルプス-
変化する畑の様子- とりわけ臨場感ある火煙をあげて燃える枯れ草や
すすきの様、トラクターで整備される畑など- 風情を誘い、浪漫倶楽部の
今年のエンディングにふさわしいものとなっています。

唱歌、ロシア民謡他


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「バレーボールあれこれ」・・宇宙からの啓示 (K)

2012-11-26 | 日々雑感、散策、旅行

今年は夏の暑さが長く続き、秋も遅くまで暖かかったのですが、さすがに昨今は冬の寒さを感じさせる

ようになりました。いつもは紅葉がずれる我が家の庭のもみじですが、ここ2,3日で一気に真っ赤に染まり

ました。季節の移り変わりは、多少のずれはあっても、時の流れはそれをまた元に戻すのでしょう。

人間の一生はとても長いと思っていますが、宇宙からすれば一瞬の瞬き程なのでしょう。宇宙は悠久に、

そしてその先までずっと続いているのでしょう。

 

我が蓼科浪漫倶楽部にも、その宇宙からのメッセージが、やってきたのでしょうか?

今日は午後からパソコンを開いて、まず世界の動きを各国の株式相場や為替の動きから読み取り、

次いでメールを読み、そして蓼科浪漫倶楽部のページを開くといういつも通りのローテーションをしていた

ところ、いきなり2年前の、「バレーボールあれこれ」(確かブログへの初めての投稿記事)が目に飛び込ん

できました。どうしてこれが今ここに・・

でも、すぐに、これが誰の悪戯か解りました。「これはmakだ。宇宙から来たあの人の仕業だ!」と。

 

昨日の日曜日は久しぶりにゆくっりしたくて、こたつに入ってTV観戦をきめ込んでいました。2時からの男子、

続いての女子と、ゴルフの優勝はまたもや韓国の選手・・。その後の相撲は、(千秋楽を待たず)白鳳の

優勝・・。

“いったい日本はどうなっているんだ!”

 

思い起こせば、昨年夏のワールドカップで彗星のごとく我々の目に飛び込んできた女子サッカー(たしか沢

という男の子の様な選手がいたなぐらい)、それがなんと、ヨーロッパやアメリカのでっかい女性に囲まれても

臆することなく、正確なパス回しのサッカーを貫いて優勝した姿には、日本中が感動しました。

そして一昨年が、女子バレー32年ぶりの奇跡の世界選手権銅メダル(と思ったら、今年もロンドンオリン

ピックで銅メダル-復活-)でした。

 

20世紀末、つまり、20年程前の数年間、日本は世界中の驚異(ミラクル)と、称賛(ジャパン アズ No.1 )

の中にありました。停滞する地球経済の強力なエンジンとして躍り出、世界経済をリードしていました。企業

戦士として、その真っ只中にいた我々にとっては、その後の日本がたどる下降線の中にあって(失われた

20年)、悔しくもステージは去り、年齢と共に為すすべもなく時を過ごしてしまいました。その間に世界は

飛躍的に変転、拡大し、日本だけがひとり取り残されました。

 

この「女子バレー32年ぶりの銅メダル」は、そうした閉そく感の中にあって、少なくとも、栄光の日本バレーを

知ってきた我々の世代にとっては、不死鳥の如くよみがえった日本バレーに、日本の未来をだぶらせ、

勇気を与えてくれました。

そんな2年前の感動を、少々照れくさくはありますが、makは甦らせてくれました。

ありがとう、宇宙の mak !

 

 

 

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バレーボールあれこれ   (k) 

2012-11-25 | 日々雑感、散策、旅行


今回、日本で行われた女子バレーボール世界選手権で日本は32年ぶりに
銅メダルを獲得した。
TV放映がかろうじて続いているバレーの復活に久々に日本中が湧いた。
元バレーボーラーとしての私は単なる喜びを越え、年甲斐もなくふつふつと湧き上がって
くる感動の大きさに驚いた。

一口で30年というがそれは実に長い長い年月であった・・・

1962年、日本バレーは翌々年の東京オリンピックに備え、それまでの9人制(固定制)から
世界標準の6人制(移動制)に移行した。
そして64年のオリンピックで大松監督(日紡貝塚)率いる日本女子は王者ソ連を破り見事
優勝。東洋の魔女として一気に世界に登場した。

『鬼の大松』と称される稀代の指導者は、人知を超える猛烈な練習の中から
“バレーボールの神髄は守備力にあり”と看破し、回転レシーブを編み出し世界の
近代バレーの先駆者となった。その後も長くソ連との好勝負は世界を二分した。
男子も松平監督のもと、72年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、長年の
宿願を果たし黄金時代を築いた。その壮烈な優勝戦は今でも目に焼き付いて離れない。
明け方のTVであった。2セットを連取され、やはり男子の優勝はないのかとあきらめ
かけたが、大古、横田、森田、猫田、そして南が鬼人と化し、残る3セットを連取した。
日本中が感動の坩堝となった。
1970年代の女子は、76年のモントリオールオリンピックでの圧倒的優勝を挟み、74年
世界選手権、77年ワールドカップとトリプルクラウンを達成、日立を中心とした山田
バレーは世界の頂点にあった。

日本で行われた世界選手権で米国を破り銅メタルを獲得。2010年



バレーのネットの高さは男子2.43m、女子2.24mある。
この高さは平均的日本人がジャンプしてもやっと手の届く高さである。
敵味方仕切られたネットを越えると反則になる。そういう意味では格闘技ではない。
技術が互角とすれば、守る方は2人がブロックにまわるとして、伸ばした4本の手で壁を
作り、いかに高く飛ぶか、打つ方はそれよりもいかに高く打てるかという勝負である。
かつ、ポイントごとにローテーションがある。よって6人全員背が高いという事が絶対的に
有利な競技である。
では、日本はどうして身長差を跳ね返して、世界のトップを維持していたのだろうか。
それは、回転レシーブ、A~Dクイック、時間差攻撃などスピードを加味した数々の
新技術を日々の猛練習によって開発し、強い根性、精神力から生まれる一心同体性を
極めてきたからに他ならない。
しかし90年代以降、他国もそれに追随し、技術、戦術共に会得され、身長差だけが取り
残されてしまった。

そして、1992年バルセロナオリンピックで常勝女子がメダルに届かず敗れ去った瞬間、
コートに崩れた名セッター中田の号泣が、『誇り高き日本バレー』の最後の日となった。

その後、オリンピック予選通過さえできなかった程のどん底の時期が続いたが、
数年前、久々に180センチを大きく超える大山、栗原が登場してきて、
名伯楽柳本のもとで日本女子バレーは復活の兆しを見せ始めた。
そして、スピードあるトスワークを持つ160センチの竹下を不動のセッターとし、
それに順応できる180センチ台の木村をはじめ大型プレーヤー達が台頭してきた。
さらに現在は、アナリストと呼ばれるスタッフが出現し、相手チームの作戦や
各プレーヤー1人1人の技術、ビィヘイビヤが解析され、試合中も含め刻々
ベンチの作戦に反映される時代がやってきた。

このようにバレーボールは、「気力」(根性)の時代→「技術」革新の時代→
「体力」の時代(日本人の絶対的劣後)→「知力」(システムによる即時情報
処理)と変転、進化してきた。
近年、大松、山田時代の「守備力」を中心としたコンビバレーに加え、
( 日本も背が高くなったが、外国はもっと高くなり、その差が縮まっていない
にもかかわらず ) スピードある「攻撃力」への追求が日本の復活をもたらしつつ
あるといえる。

“人類はエンドレスの進化を遂げる”という事をバレーボールは改めて教えてくれた。
                                                ( K )




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川村カネトーアイヌ酋長の天才測量士   (mak)

2012-11-23 | 日々雑感、散策、旅行

ブログのコメンテイターのお一人であるあずさ氏のコメントに書かれていた川村カネトのことが、ふと気になり調べてみた。余り知られていない人だが、日本鉄道史に残る偉大な人の一人といっても過言でない人であることがわかりました。

旧三信鉄道により敷設された、JR飯田線・天竜峡~佐久間~三河川合の区間(S12開通)。中でも、天竜峡~佐久間 間は、地形的にとても厳しい天龍峡東岸に、線路が敷かれました。当初、この厳しい天龍峡に鉄道を敷設する、というとてつもない計画は、立案されたものの、線路敷設に向けての測量すら進みませんでした。

この状況を打破するために、北海道の鉄道測量で名を馳せたアイヌ人の天才測量士・川村カ子ト氏が招聘され、天竜峡~佐久間 間の測量を行いました。この区間の測量および、その後の敷設工事は、地形的な厳しさ故に困難を極めることとなりました。と言うか、カ子ト氏がいなかったら、天竜峡~佐久間 間の開通はなかった、と言うべきでしょう。彼は、JR飯田線の恩人です。
川村カネト



川村カネトは1893年北海道旭川市でアイヌの酋長の息子として生まれた。幼年時代蒸気機関車を目にし,心を打たれ鉄道の仕事に就くことを決意。学校を卒業後,測量人夫となり,アイヌという理由で給料を半分にされるなど多くの悔しさを味わいながらも勉強を重ね,測量技手の試験に合格。鉄道員札幌講習所を卒業し,1909年鉄道省の測量技師として北海道の鉄道建設の先頭に立った。
25年から天竜峡―三河川合間の測量のために本州に上陸し,山岳が天竜峡谷にせまる荒々しい地形,岩盤の崩れやすい中央構造線にそった未開の山間を命がけで測量。
樺太や朝鮮などで鉄道測量を手がけた後,旭川市の河村アイヌ記念館の館長としてアイヌ民族の文化保存に尽力した。60年には飯田市を訪れ講演も行っている。77年1月に人生の幕を閉じた。

アイヌ記念館

上のアイヌ記念館の画像をCtrl押しながらクリックすると、記念館に入れます。
川村カネト氏のことが詳しく述べられております。

更に調べを進めていると、南信州新聞3月7日付けに

 「阿南町富草公民館はこのほど、富草芸能文化祭を富草小学校で開いた。飯田線の測量士川村カネトの半生を描いた合唱劇「カネト」の公演もあり、会場は400人の人々でにぎわった。.......」続きはここをクリックして開いてみてください。

 

 

 

 

 

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小雪   (bon)

2012-11-22 | 日々雑感、散策、旅行
 今日、11月22日は、小雪だそうです。
“しょうせつ”と読み“こゆき”ではありません。

 二十四節気の一つで、立冬から数えて15日目頃。 そろそろ北国から雪の便りが届く頃で、
まだ本格的な冬の訪れではなく、雪といってもさほど多くないことから、小雪といわれたのだそうです。
陽射しが弱くなり、紅葉が散り始めるなんとなくメランコリーな頃。冷え込みが次第に厳しくなってきますので、
冬の備えは整えておきましょう。


 明日、23日は勤労感謝の日で国民の祝日。3連休ですね。 
この、23日はもともと戦前は「新嘗祭」(にいなめさい)といって、その年の新穀を天皇みずから
宮中で神殿に備える儀式であり、国内の神社もこれにならったそうです。

 新嘗祭は、我が国古来よりの習慣で、11月中の卯の日に行われていましたが、
明治5年の太陽暦に改暦の際に11月23日と決めたのでした。 

 その後、昭和23年に「勤労を尊び生産を祝い、国民が互いに感謝し合う日」との趣旨により、
勤労感謝の日と制定されたのでした。


 明治5年(1872年)といえば、樋口一葉が東京に生まれた。
良く知られた「たけくらべ」、「にごりえ」は、昭和28年に発表され一躍文名を挙げたが、
惜しくも翌29年に25歳の若さでこの世を去った。
彼女の命日が、この 11月23日なんですね。 本名、奈津。

樋口一葉
(ウイキペディアより)











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蓼科浪漫倶楽部2012畑じまい  (bon)

2012-11-20 | 蓼科浪漫倶楽部 畑
 先月の大人数の晴れやかな収穫祭の余韻冷めやらぬ中、11月17~19日は、今年の畑納めで最後の整理をしました。

 初日は午後からあいにくの雨、覚悟はしていたものの、この半日の作業が雨に取られたことは、
少しの痛手ではありましたが、5人の密なる努力で無事、整理は完了し来春を待つこととなりました。

皆さん、ご苦労様でした。
そして畑さん、ありがとうございました。

すっかり雪を頂いた八ヶ岳。
(右端の権現岳から、阿弥陀岳(赤岳)、横岳、硫黄岳、天狗岳、北横岳、蓼科山までの全景パノラマです。)




八ヶ岳・・シンボル阿弥陀岳



秋色に包まれて・・お茶タイム




畑は、きれいに整理されました。




オートスライドです。畑仕舞と2012年総集編




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秋の日比谷公園  (bon)

2012-11-16 | 日々雑感、散策、旅行
 それで、PCはどうなったのか? っていうと、このブログに入る時は、別アカウントで入る。 
つまり、同一のPCなんですけれども、最初に立ち上げるときにアカウントを指定して
(このためにもう一つアカウントを設定して)PCに入ります。
他のサイトへのアクセスはしないので、ひたすら“蓼科浪漫倶楽部”をアクセスするだけ。 
いうなれば、このブログ専用?として使うことになります。 
これだとコメント投入時の4ケタ文字、編集画面など以前と同じように使えています。

 ご心配・ご助言をくださいました皆様に御礼申し上げます。もともとの原因はいまだ不明のままですが、
とりあえず“使える”状態になりました。 応援ありがとうございました。


 今日は、園芸友の会で日比谷に行ってきました。
 これまでの例会は、ずっと渋谷だったのですが、今回からこちらに変わりました。 
日比谷は入社当時から通っていた職場があるところなので、懐かしく今でもちょくちょくこの界隈にくる
ことがありました。
このブログでも、「夏の日比谷」、「冬の日比谷界隈」などのタイトルでアップしました。


 日比谷公園は、お昼過ぎ頃でしたから人数もあり、また観光大菊花展なども開設されていて、
おまけに今日は“小春日和”で大変穏やかな雰囲気でした。

日比谷交差点から桜田門方向を・・・お堀が少し映っています。 向こうはビル街。

左後ろへ5分のところで、解散劇の最中・・?

公園すぐのところに心字池。 ここは石垣が残っていて重厚な感じで、碑には“日比谷見付”とあります。





秋バラが色とりどりに咲いています。



噴水と後ろは小音楽堂。


ビルの谷間の公園。


夕方の噴水。


注)文章だけだと簡単にアップできたのですが、音楽を入れる・・u-tubeをセット、
写真を入れる・・カメラソフト立ち上げなど、かなり面倒でした。


昔よく歌ったりしました。Andyはよく聞いたものです。この機会に懐かしい曲の数々を聴きたくなり、Andyシリーズに編集しました。(mak)




日比谷公園の紅葉 今が見どころかも!


長野県飯田市天竜峡の紅葉

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トラブッておりますぅ~。  (bon)

2012-11-14 | 日々雑感、散策、旅行
先日来(先週の土曜日あたり?)ブログへのアクセスが思わしくなく、時々画面が出てきたり、その時でも、
ほとんどコメント登校時に必要な4ケタの数字が出てこない。 つまり、レスポンスが地変遅く、タイムアウトになる。
他のサイトは、サクサクと行くのに、肝心のブログだけがダメなんです。もちろん、記事投稿などの編集画面などは出てきません。

これはどうして、アップできているか?
苦肉の策で、実は昨夜寝ているうちにひらめいたのですが、PCの別アカウントでやってみれば・・・。
それで、やってみたのですが、同じことの繰り返しでした・・。

もういろいろとやっているうちに、ふと、この編集画面が出てきました。
消えないうちに、とにかく記事に出してみようと、書いているところです。

昨日は、makがクッキーを調べてはどうかとのアドバイスをしてくれて、「なるほど・・!」と思って
ツールからインターネットオプションでのクッキー調整、セキュリティソフトでの(よくわからないまま)
いじくり回し・・。
でも結果的には、何も変わらない状態でした。 いよいよダメ・・となった時に、別アカウントが浮かんできました。
これもダメなんでしょうが、4日ぶりにこの編集画面が出てきました。 さて、また出てくるかどうか?

あずささんとは、立ち飲み(これが最新のページ)のコメントで、チャットして少しは慰められておりましたが、
これも、サクサクと言っているわけではありませんでした。

なぜ、ブログだけがおかしいのでしょうか? その他のサイトで、たとえばショッピングやその他の暗証番号を投入するサイトもサクサクとOKなのに~。

こんな状態ですので、ブログには出られなかったこと申し訳ありません。ただ、水面下ではかなりの時間を悪戦苦闘していたのです。

トホホ・・・。




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立ち呑みの日   (bon)

2012-11-10 | 日々雑感、散策、旅行
今朝の目覚ましラジオで、なにやら「立ち呑み~」といっている会話が、寝ぼけ頭に入ってきた。
いつも、朝6時にラジオがなる仕掛けにしている。

あまり気にも留めなかったし、その会話が何を言っているのかもわからないまま・・時を過ごしていたら、
フッと、明日11月11日に因んで、ひょっとして「立ち呑みの人姿?」

 それで、ネットでやってみたら・・・出てきた。 今年第3回目だって! 日本記念日協会に登録されているんだそうです。
都内下町でスタートした立ち飲み文化を普及させる・・とか理由を言っているが、ま、ダジャレイベントの一つだと
思いますが・・まあ、懐かしい感じもします。


 その昔、大阪駅に、この立ち呑みで「串カツ」をタレの壺に付けて食べる。ただ(無料)の鬼キャベツが
カウンターにある、自由に食べてよい。これがまた甘い味がした。

 最近では、東京駅丸ビル地下あたりの飲食店街に大阪流れの立ち呑み屋台があるという。



「酔わせて下町」のHPから・・・
「立ち呑み」ってどんなもの?

 代表的な立ち飲みの店は、酒の小売店としての酒屋に併設された立ち飲みスペースのこであり「角打ち」と呼ばれる。
酒と肴(乾き物や缶詰)などを購入し、店とは別のスペースで飲む形態となるまた、いわゆる「スタンド居酒屋」とか
「立ち飲み屋」と呼ばれる店の多くは大都市のガード下などに分布しており、場所によっては駅の構内にも作られている。

店の構造は、効率的に利用するための使い方を前提としており、基本的にはカウンターと厨房のみの店舗形態である。
店によっては壁にもカウンターを設けていたり、簡単なテーブルや椅子が設置されていたりする場合もある。

客はカウンターで注文を取り、その場で飲食する。代金も、商品と交換で、その場で支払うことが多いが、
あらかじめ食券を買っておいて、それと交換する店舗もあり、普通の居酒屋と同じで伝票に控えておいて
最後に支払いをする店舗もあり、形態はさまざまである。

つまみはおでん・串揚げや焼き物、乾き物、冷奴などの簡単な物が多いが、最近では結構手間をかけた物を置いているところもある。
顧客は会社帰りのサラリーマンが多く、殆どが「ちょっと一杯引っかけて」的な利用が多く、客の回転も早い。
店も薄利多売の所が多く、値段も安い。
最近では、女性も気軽に入れるように工夫された店も出来ている。また、酒の種類やつまみも種々そろえるようになってきた。
さらに、洋酒立ち飲みも増えてきた。


立ち呑みではありませんが・・。お馴染み~
ちあきなおみの歌謡メドレー25曲をどうぞ!




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教育の民主化:Khan Academy 一人の先生が1000万の生徒に教える。   (mak)

2012-11-09 | 素人ニュース解説
教育問題に関する田中文部科学大臣の物議を醸した発言で、新聞、TVが大騒ぎしている矢先に、教育について興味ある記事が、日本経済新聞(発信元Forbes)に載っていたので紹介したい。予てより、教育改革は日本再生の観点より、重要な課題の一つである。高度情報化を遂げた社会において、未来を見据えた教育改革を進めていくうえで、ここに上げた記事は、大いに参考になると信じる。


米カーン・アカデミー(Khan Academy)のただ一人の教師であるSalman Khan先生が、創業2年にして瞬く間に1000万人強の生徒に教育を授けるに至った元気づけられる愉快な話である。

 この組織は米カリフォルニア州マウンテンビュー市の通勤列車の線路に隣接した、古びたオフィスビルの中にあり、そこに働く37名の従業員(GoogleなどIT関連会社に勤務経験ある技術者)とIT機器だけといったシンプルなもの。そこから、知識,学問に飢えた世界中の子供達に児童教育から高等教育を、YouTubeを通じて、無料で施すという途轍もないミッションを掲げる非営利教育機関である。
 
 カーン・アカデミーのウェブサイトKahan Akademyホームページは、算数や代数の基本から高等物理化学、生物、大学レベルのファイナンス、金融経済、米国大統領選の選挙人団、フランス革命まで、驚くほど多様なテーマを扱っている。Youtube動画には、教師(たいていはサルマン・カーン氏自身で、自ら3000本近い動画を作成した)の姿は見えない。学生が目にするのはまっさらなデジタル版の黒板で、カーン氏が穏やかなバリトンの声で10分間の講義を進めていく間に、蛍光色を使って重要な教材が説明されていく。

 カーン氏はルイジアナ州メタリーという小さな町でバングラデッシュ出身の父親とインド出身の母親の間に生まれ、父親を失った後貧しい母子家庭の環境で育った。その頭脳が優秀なことからマサチューセッツ工科大学(MIT)で電気科学、コンピューターサイエンス、更にハーバードビジネススクールに進みMBA(経営学修士号)の学位を修得した。
 

 大学卒業後、ヘッジファンド・アナリストという高収入の仕事に就き、幼い息子と医学を勉強中の妻と生活する普通の生活を営んでいた。カーン氏の転機は2009年に訪れた。その3年前からいとこはじめ親戚や友達の勉強を見てやるようになっていたが、離れた場所にいる子供たちに効率よく教えるために、自ら制作した教材をユーチューブに投稿した。だがこの試みに膨大な時間を費やしていたにもかかわらず、趣味としか考えていなかった。

 そこへ、ある若者からメールが送られてきた。何とか大学に滑り込んだものの、特に数学ではクラスメートとの学力の差が大きかったという。そんな時、偶々カーン氏の動画を見つけた若者は「夏中、ユーチューブであなたの動画を見て過ごしました。「先週、数学のクラス分けテストを受けたところ、優等課程に入ることができました。あなたが私と家族の人生を変えてくださったと断言できます。ありがとう」。
この手紙に喚起され、Khan氏は、仕事を辞めて、フルタイムでユーチューブ用の教材動画制作に取り組む決意を固め、寝室脇のウォークイン・クローゼットに陣取って次々に動画を作りはじめた。妻は彼に1年の猶予を与えた。だが10カ月が過ぎても資金はまったく集まらず、カーン氏は諦めかけていた。そんな時、ある著名な篤志家の目に留まり、資金援助を受けることになり、更にそのことがCNNなどのマスメディアを通じ、世間に知られることになり、ビルゲイツ、グーグルなど大富豪をはじめ多くの人から資金援助を得ることになった。Khanが集めた資金は1650万ドル(約13億円)に上る。

「サルマンは世界初の“スーパースター教師”だ」。ロシア人の元物理学者で、ベンチャーキャピタリストとして米フェイスブック、米ツイッター、米グルーポンに創業初期から投資しているユーリ・ミルナー氏は語る。

 過去2年でカーン・アカデミーの動画は2億回以上視聴された。過去12カ月では合計4500万人、7億5000万個以上の問題(1日あたり200万問)を解いている。また無料で提供される教材は、ウルドゥ語やスワヒリ語、中国語を含む24カ国語に翻訳され、世界中で2万以上の教室で(公式もしくは非公式に)使われている。
 


 1人の教師がユーチューブ動画を使って、わずか24か月で、世界中の数100万人もの生徒に知的刺激与える、
 世界で最も影響力のある教育者であり、本当にすばらしい、胸の躍る、人々の意欲をかきたてる話だ。彼は革命を主導している。

 カーン氏は世界の地域、人種、年齢を問わず、誰にでも学問を求める多くの人々に、無料で教育を授けることを目的(Mission)とし、まったく「大富豪になるようなことはいまどきはやらない」と金儲けには無関心である。まさに、ネットを駆使して、教育の民主化を世界に広めようとしているところに、大きな意義があるのではなかろうかと考える。
 
 Khan氏の偉業を称えるとともに、もちろん小生も早速、この学校に入校した次第である。

参考資料:

1.Kahan Akademyホームページ 
2.Kahn Academy WikiePedea
3.Soft wear excise
4.日本経済新聞
Forbes)
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太陽暦   (bon)

2012-11-09 | 日々雑感、散策、旅行
昨日8日は立冬ということで、暦上ではいよいよ冬到来ということですが、気温は穏やかですね。

明治5年(1872年)の11月9日は、太陰暦が廃止されて、太政官布告337号「改暦の詔書」により太陽暦が採用されたのです。
この日を太陽暦採用記念日というそうです。

 前にも書いたかもしれませんが、この明治5年の12月3日が明治6年1月1日(もちろん1873年)として
正式に太陽暦がスタートしました。

太陽太陰暦は692年(朱鳥7年)持統天皇の時代に儀鳳暦と元嘉暦が用いられて以来、1200年近く月の運行を元にした
農業暦として定着していました。

この新制度への切り替えをとにかく急いだという話があります。
当時、政府のひっ迫した財政事情が、この突然の改暦に至らせたともいわれています。
天保暦(旧暦)での明治6年は閏年にあたり、1年が13ヶ月となるはずでした。
役人の給与を幕政時代の年俸制から月給制に変更した政府にとって、年末の12月と翌年に控える閏月という、
2ヶ月分の給与歳出を削減できる、絶好のタイミングでもあったからだったとか・・。(ネットより)

いずれにしても、準備期間がわずか一ヶ月というこの暦法改変は、一般国民にとっては寝耳に水の話でした。
この機に乗じて年末の支払いを踏み倒す者が現れたり、翌年の暦が刷り上がっていたほとんどの暦業者に至っては、
商品がただの紙くずとなるなど、大混乱の中での改暦だったそうです。

最近の、「近いうち」や「大学不認可」などは、これに比べると些細なことなんですね。












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能と狂言   (bon)

2012-11-08 | 科学・生物
先日届いた会報に、野村万作氏がある夕食会での講演内容が記事として掲載されていました。

 演題は、「伝統演劇・狂言の継承と普及」というもので、狂言は歴史的に伝統芸能の中で低く扱われてきたが、
戦後狂言師たちの奮闘でようやくその芸術的価値が認められるようになった。
がしかし、逆に狂言の未来に不安な面も感じ始めている。

 そんな背景の中での講演であったようで、氏はずっとこのことを心に秘めながら、懸命に表題にあるように
「継承と普及」に努めてこられたようです。


『 能と狂言の違い
 “このあたりの者でござる。” 狂言の舞台では登場人物がそう名乗るところから始まります。
能と狂言は歴史上、同じ能舞台で交互に上演されてきました。現在「能楽」と呼ばれています。

狂言は、室町時代から江戸時代にかけての庶民の日常的な出来事や生活感情の機微を、当時の言葉を色濃く残す
舞台言葉で表現した、科白(かはく=セリフ)と仕草が中心の劇です。筋も単純で、写実的、喜劇的な対話です。
軽みのある笑い、あるいは笑いを超えた悲しい物語が現在に伝わっています。
登場人物は庶民で、殆どの狂言の登場人物は、2~3人しか出てきません。太郎冠者、次郎冠者という家来が出てくる
主従の話もあれば、情けない夫としっかりものの女房という夫婦の話もあれば、百姓、商人、僧侶、山伏、詐欺師、
泥棒などが登場する話もあります。

 これに対して能は荘重で悲壮な内容が多く、謡と舞を中心とする象徴的、幻想的な劇です。地謡という6~8人からなる
コーラス団と笛・太鼓・大鼓・小鼓からなる囃子が入ります。 登場人物は六条御息所、平知盛、源義経など
歴史上や物語の有名な人物がシテ(主役)として出てきます。ワキは一人だったり複数だったりします。・・(中略)』

『能と狂言は武士階級の庇護を受けてきましたが、「笑い」を良しとしない価値観の中で、歴史的に能楽における
狂言の地位が高いわけがありませんでした。観客や研究者にも能の添え物のように扱われてきました。
こうした狂言の地位の低さに対する悔しさ、憤り、恨みこそ私の狂言の道の原点であり、
「狂言の価値を知ってもらいたい」という強い気持ちが私を常に駆り立ててきました。』(中略)


『そういう訳で、「笑い」の価値が非常に認められるようになりました。狂言が普及するとは、若い人に
どんどん観てもらうことです。大変ありがたい反面、普及にも良し悪しがあるように思えてなりません。』(中略)

『「お能は」難しいから将来滅びるかもしれないけど、狂言はみな喜んで観るから大丈夫ですね」とよく言われますが、
私は反対だと思っています。能は筋を理解しなくても、感性で観ることができます。音楽を聴いて楽しむこともでき、
舞踊を観て美しさを感じることもでき、能面の美しさを観ることも出来ます。そういう総合的、多角的な角度から
鑑賞できます。
 しかし、狂言は言葉が生命です。そして、狂言の言葉は分かり易いといっても、お客様に全てが分かるわけではありません。
時代とともに分からなくなってゆく言葉を、何とか分からせよう、受けようとする下心が逆に芸の質を落とす
可能性があります。狂言師が笑いだけを求めるようになると、本当の伝統から逸脱していく可能性があるのです。』


講演の中で、例として、「木六駄(きろくだ)」という狂言を話されていたので、その下りも、大変面白いので
ここに引用させてもらいました。ここで、「駄」というのは、牛1頭が背負える荷物をさします。


狂言:「木六駄」
『奥丹波に住んでいる主人が、年の暮れに太郎冠者に、“都の伯父さんのところに歳暮を届けよ”と命じます。
太郎冠者は十二頭の牛に木を六駄、炭を六駄背負わせ、自らも酒樽を一つ持ち、伯父さんへの手紙を携さえて
大雪の中、峠越えをする羽目になります。 太郎冠者は(雪を表すために綿の付いた)菅笠と蓑を付け、鞭一本を持って、
牛を“させい、ほーせい、ちょう、ちょう”と追う姿で舞台に登場します。
舞台には雪もなく、一頭の牛も出ません。鞭と仕草だけで観客に大雪を感じさせ、かつ十二頭の牛の隊列が
見えるようにしなければならないため、大変難しい場面です。

 太郎冠者がやっとの思いで峠の茶屋に着くと、あまりの寒さに一杯の酒を所望します。
しかし茶屋は酒を切らしていました。茶屋の主人はあろうことか、“お前、酒を持っているじゃないか”と、
伯父さんのところへ届けるはずの酒を飲めと勧めます。太郎冠者は一度は忠誠心から拒否するのですが、結局、
茶屋の主人と一緒に楽しい酒宴の内に全部飲んでしまいます。その上、酔っぱらった勢いで茶屋の主人に、
“蒔きにせよ”といって木を一駄をやり、残る五駄分は希望の者に売っておいてくれといいます。

 太郎冠者は酔っぱらって、炭六駄と手紙だけ持って伯父さんのところに行きます。 
伯父が手紙を見ると、“木六駄に炭六駄、手酒一樽”と書いてあります。 不審に思った伯父さんが詰問すると、
太郎冠者は苦し紛れに“私は名を木六駄と改めました。”“木六駄に炭六駄のぼせ申しそろ”と洒落で返答します。
しかし、“なおなお、手酒一樽、これはどうした”と詰問されて困り果て、とうとう“あまりの寒さに
峠の茶屋でごぶごぶと致しました”と告白して叱られて終わります。』  
                   (野村万作氏:早大、文、昭28卒)
洒落のところの注:木六駄と炭六駄を持たせたのではなく、木六駄に炭六駄を持たせた











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どうだん   (bon)

2012-11-06 | 花鳥風月

今日は冷たい雨の朝になりました。 それでも、室内気圧は1023hPaもあります。

どうだんつつじ。 
 先日の蓼科でも真っ赤に色づいた大変きれいな“どうだん”があちこちに見受けられました。
 ベランダのどうだんも、赤くなっています。

きのうパチリトしました。(チョット黒めになっていますね。)


(今朝のBGM:画像をCtrl+クリックするとBGMが鳴ります。)

このどうだんは、漢字で書くと「満天星」となる。 パソコンで変換しても、この文字が出てくる。
 なぜこのようになるのか以前から疑問を持ちながらそのままになっていました。 特にどうということもないですが、
なぜこの「満天星」なのだろうかと・・。例によって少し調べてみました。

 中国でこのように言うのだそうです。 
“白い花が咲き誇るさまを、満天の星に見立てた”ところからこのような中国名が付けられたそうだということが分かった。

今年春の姿です。


 私にとっては、このどうだんは秋の真っ赤に紅葉したものの方が印象が強いのですが、この名前の由来からすれば、
やはり春の花どきがメインであるのですね。


満天星・・については、これで解決しましたが、それでは、和名の「どうだん」はなぜ、ドウダンなのか? 
余計なことが気になりだした。

ネットで調べて行くと、枝の分かれが燈台、燭台に似ているところから、とうだい→どうだい→どうだん となったとか・・。

ついでに、“つつじ”は、つぎつぎと“続いて咲く→つづきざき→つつじ”や花の形から“筒咲き”から
つつじとなったとの説もあった。
「躑躅」という難しい漢字からするとちょっと信じられない気がしますが・・。

さつきつつじは、五月ころに咲くところからサツキツツジとなり、レンゲツツジは、つぼみが蓮華に似ているから、
コメツツジは、花が小さく、花を「コメ」(米)に例えた・・

今頃ツツジの話で、季節的にはツジツマが合いませんね。


Modern Jazz Medley


コメント (8)
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