この景色を見ながら・・というよりは、これら八ヶ岳の懐に抱えられて今年も畑を楽しんだのでした。
今年最後の勇姿を見納めにして、また、来る年の野菜たちとの語らいを待つ。
しかし、そこには執拗な雑草との戦いも待っているのだ・・。
以前にも、アップしましたジグソーパズルにしましたので、ご紹介します。
(パズコレにて作成しました。)
ご興味のある方はこちらをクリックして、チャレンジしてみてください。
唱歌、ロシア民謡他
今年は夏の暑さが長く続き、秋も遅くまで暖かかったのですが、さすがに昨今は冬の寒さを感じさせる
ようになりました。いつもは紅葉がずれる我が家の庭のもみじですが、ここ2,3日で一気に真っ赤に染まり
ました。季節の移り変わりは、多少のずれはあっても、時の流れはそれをまた元に戻すのでしょう。
人間の一生はとても長いと思っていますが、宇宙からすれば一瞬の瞬き程なのでしょう。宇宙は悠久に、
そしてその先までずっと続いているのでしょう。
我が蓼科浪漫倶楽部にも、その宇宙からのメッセージが、やってきたのでしょうか?
今日は午後からパソコンを開いて、まず世界の動きを各国の株式相場や為替の動きから読み取り、
次いでメールを読み、そして蓼科浪漫倶楽部のページを開くといういつも通りのローテーションをしていた
ところ、いきなり2年前の、「バレーボールあれこれ」(確かブログへの初めての投稿記事)が目に飛び込ん
できました。どうしてこれが今ここに・・
でも、すぐに、これが誰の悪戯か解りました。「これはmakだ。宇宙から来たあの人の仕業だ!」と。
昨日の日曜日は久しぶりにゆくっりしたくて、こたつに入ってTV観戦をきめ込んでいました。2時からの男子、
続いての女子と、ゴルフの優勝はまたもや韓国の選手・・。その後の相撲は、(千秋楽を待たず)白鳳の
優勝・・。
“いったい日本はどうなっているんだ!”
思い起こせば、昨年夏のワールドカップで彗星のごとく我々の目に飛び込んできた女子サッカー(たしか沢
という男の子の様な選手がいたなぐらい)、それがなんと、ヨーロッパやアメリカのでっかい女性に囲まれても
臆することなく、正確なパス回しのサッカーを貫いて優勝した姿には、日本中が感動しました。
そして一昨年が、女子バレー32年ぶりの奇跡の世界選手権銅メダル(と思ったら、今年もロンドンオリン
ピックで銅メダル-復活-)でした。
20世紀末、つまり、20年程前の数年間、日本は世界中の驚異(ミラクル)と、称賛(ジャパン アズ No.1 )
の中にありました。停滞する地球経済の強力なエンジンとして躍り出、世界経済をリードしていました。企業
戦士として、その真っ只中にいた我々にとっては、その後の日本がたどる下降線の中にあって(失われた
20年)、悔しくもステージは去り、年齢と共に為すすべもなく時を過ごしてしまいました。その間に世界は
飛躍的に変転、拡大し、日本だけがひとり取り残されました。
この「女子バレー32年ぶりの銅メダル」は、そうした閉そく感の中にあって、少なくとも、栄光の日本バレーを
知ってきた我々の世代にとっては、不死鳥の如くよみがえった日本バレーに、日本の未来をだぶらせ、
勇気を与えてくれました。
そんな2年前の感動を、少々照れくさくはありますが、makは甦らせてくれました。
ありがとう、宇宙の mak !
今回、日本で行われた女子バレーボール世界選手権で日本は32年ぶりに
銅メダルを獲得した。
TV放映がかろうじて続いているバレーの復活に久々に日本中が湧いた。
元バレーボーラーとしての私は単なる喜びを越え、年甲斐もなくふつふつと湧き上がって
くる感動の大きさに驚いた。
一口で30年というがそれは実に長い長い年月であった・・・
1962年、日本バレーは翌々年の東京オリンピックに備え、それまでの9人制(固定制)から
世界標準の6人制(移動制)に移行した。
そして64年のオリンピックで大松監督(日紡貝塚)率いる日本女子は王者ソ連を破り見事
優勝。東洋の魔女として一気に世界に登場した。
『鬼の大松』と称される稀代の指導者は、人知を超える猛烈な練習の中から
“バレーボールの神髄は守備力にあり”と看破し、回転レシーブを編み出し世界の
近代バレーの先駆者となった。その後も長くソ連との好勝負は世界を二分した。
男子も松平監督のもと、72年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、長年の
宿願を果たし黄金時代を築いた。その壮烈な優勝戦は今でも目に焼き付いて離れない。
明け方のTVであった。2セットを連取され、やはり男子の優勝はないのかとあきらめ
かけたが、大古、横田、森田、猫田、そして南が鬼人と化し、残る3セットを連取した。
日本中が感動の坩堝となった。
1970年代の女子は、76年のモントリオールオリンピックでの圧倒的優勝を挟み、74年
世界選手権、77年ワールドカップとトリプルクラウンを達成、日立を中心とした山田
バレーは世界の頂点にあった。
日本で行われた世界選手権で米国を破り銅メタルを獲得。2010年
バレーのネットの高さは男子2.43m、女子2.24mある。
この高さは平均的日本人がジャンプしてもやっと手の届く高さである。
敵味方仕切られたネットを越えると反則になる。そういう意味では格闘技ではない。
技術が互角とすれば、守る方は2人がブロックにまわるとして、伸ばした4本の手で壁を
作り、いかに高く飛ぶか、打つ方はそれよりもいかに高く打てるかという勝負である。
かつ、ポイントごとにローテーションがある。よって6人全員背が高いという事が絶対的に
有利な競技である。
では、日本はどうして身長差を跳ね返して、世界のトップを維持していたのだろうか。
それは、回転レシーブ、A~Dクイック、時間差攻撃などスピードを加味した数々の
新技術を日々の猛練習によって開発し、強い根性、精神力から生まれる一心同体性を
極めてきたからに他ならない。
しかし90年代以降、他国もそれに追随し、技術、戦術共に会得され、身長差だけが取り
残されてしまった。
そして、1992年バルセロナオリンピックで常勝女子がメダルに届かず敗れ去った瞬間、
コートに崩れた名セッター中田の号泣が、『誇り高き日本バレー』の最後の日となった。
その後、オリンピック予選通過さえできなかった程のどん底の時期が続いたが、
数年前、久々に180センチを大きく超える大山、栗原が登場してきて、
名伯楽柳本のもとで日本女子バレーは復活の兆しを見せ始めた。
そして、スピードあるトスワークを持つ160センチの竹下を不動のセッターとし、
それに順応できる180センチ台の木村をはじめ大型プレーヤー達が台頭してきた。
さらに現在は、アナリストと呼ばれるスタッフが出現し、相手チームの作戦や
各プレーヤー1人1人の技術、ビィヘイビヤが解析され、試合中も含め刻々
ベンチの作戦に反映される時代がやってきた。
このようにバレーボールは、「気力」(根性)の時代→「技術」革新の時代→
「体力」の時代(日本人の絶対的劣後)→「知力」(システムによる即時情報
処理)と変転、進化してきた。
近年、大松、山田時代の「守備力」を中心としたコンビバレーに加え、
( 日本も背が高くなったが、外国はもっと高くなり、その差が縮まっていない
にもかかわらず ) スピードある「攻撃力」への追求が日本の復活をもたらしつつ
あるといえる。
“人類はエンドレスの進化を遂げる”という事をバレーボールは改めて教えてくれた。
( K )
ブログのコメンテイターのお一人であるあずさ氏のコメントに書かれていた川村カネトのことが、ふと気になり調べてみた。余り知られていない人だが、日本鉄道史に残る偉大な人の一人といっても過言でない人であることがわかりました。
旧三信鉄道により敷設された、JR飯田線・天竜峡~佐久間~三河川合の区間(S12開通)。中でも、天竜峡~佐久間 間は、地形的にとても厳しい天龍峡東岸に、線路が敷かれました。当初、この厳しい天龍峡に鉄道を敷設する、というとてつもない計画は、立案されたものの、線路敷設に向けての測量すら進みませんでした。
この状況を打破するために、北海道の鉄道測量で名を馳せたアイヌ人の天才測量士・川村カ子ト氏が招聘され、天竜峡~佐久間 間の測量を行いました。この区間の測量および、その後の敷設工事は、地形的な厳しさ故に困難を極めることとなりました。と言うか、カ子ト氏がいなかったら、天竜峡~佐久間 間の開通はなかった、と言うべきでしょう。彼は、JR飯田線の恩人です。
川村カネトは1893年北海道旭川市でアイヌの酋長の息子として生まれた。幼年時代蒸気機関車を目にし,心を打たれ鉄道の仕事に就くことを決意。学校を卒業後,測量人夫となり,アイヌという理由で給料を半分にされるなど多くの悔しさを味わいながらも勉強を重ね,測量技手の試験に合格。鉄道員札幌講習所を卒業し,1909年鉄道省の測量技師として北海道の鉄道建設の先頭に立った。
25年から天竜峡―三河川合間の測量のために本州に上陸し,山岳が天竜峡谷にせまる荒々しい地形,岩盤の崩れやすい中央構造線にそった未開の山間を命がけで測量。
樺太や朝鮮などで鉄道測量を手がけた後,旭川市の河村アイヌ記念館の館長としてアイヌ民族の文化保存に尽力した。60年には飯田市を訪れ講演も行っている。77年1月に人生の幕を閉じた。
アイヌ記念館
上のアイヌ記念館の画像をCtrl押しながらクリックすると、記念館に入れます。
川村カネト氏のことが詳しく述べられております。
更に調べを進めていると、南信州新聞3月7日付けに
「阿南町富草公民館はこのほど、富草芸能文化祭を富草小学校で開いた。飯田線の測量士川村カネトの半生を描いた合唱劇「カネト」の公演もあり、会場は400人の人々でにぎわった。.......」続きはここをクリックして開いてみてください。
今日は冷たい雨の朝になりました。 それでも、室内気圧は1023hPaもあります。
どうだんつつじ。
先日の蓼科でも真っ赤に色づいた大変きれいな“どうだん”があちこちに見受けられました。
ベランダのどうだんも、赤くなっています。
きのうパチリトしました。(チョット黒めになっていますね。)
(今朝のBGM:画像をCtrl+クリックするとBGMが鳴ります。)
このどうだんは、漢字で書くと「満天星」となる。 パソコンで変換しても、この文字が出てくる。
なぜこのようになるのか以前から疑問を持ちながらそのままになっていました。 特にどうということもないですが、
なぜこの「満天星」なのだろうかと・・。例によって少し調べてみました。
中国でこのように言うのだそうです。
“白い花が咲き誇るさまを、満天の星に見立てた”ところからこのような中国名が付けられたそうだということが分かった。
今年春の姿です。
私にとっては、このどうだんは秋の真っ赤に紅葉したものの方が印象が強いのですが、この名前の由来からすれば、
やはり春の花どきがメインであるのですね。
満天星・・については、これで解決しましたが、それでは、和名の「どうだん」はなぜ、ドウダンなのか?
余計なことが気になりだした。
ネットで調べて行くと、枝の分かれが燈台、燭台に似ているところから、とうだい→どうだい→どうだん となったとか・・。
ついでに、“つつじ”は、つぎつぎと“続いて咲く→つづきざき→つつじ”や花の形から“筒咲き”から
つつじとなったとの説もあった。
「躑躅」という難しい漢字からするとちょっと信じられない気がしますが・・。
さつきつつじは、五月ころに咲くところからサツキツツジとなり、レンゲツツジは、つぼみが蓮華に似ているから、
コメツツジは、花が小さく、花を「コメ」(米)に例えた・・
今頃ツツジの話で、季節的にはツジツマが合いませんね。
Modern Jazz Medley