蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

北島三郎の歌手人生と函館観光       (mak)

2013-06-29 | 日々雑感、散策、旅行

ミシュラン3つ星を獲得した函館の夜景に「ショパンの別れの曲」 

昨夜は函館にいた。三泊四日の札幌観光ゴルフツアーのあと北斗七号函館線で、函館につき、一泊して昨晩函館20時に出発して羽田に21時着、家に着いたのは午後10時に着いた。函館駅から家まで、たったの2時間、北海道も近くなったものである。

 一昨日の夜、函館山から見た夜景は日本の美しい三大夜景の一つと言われ、ミシュランから三ツ星を獲得している。その美しさには思わず固唾を飲んでしまう。

この動画は、ショパンのメロディーが心地よく、美しい函館の夜景を写しだし、感動が蘇ってくる。

今朝のテレビで、テレビで函館の市電が「100年前の今日に」走り始めたと報じていた。
 ついさっき 昭和レトロの市電に乗ってぶらりと函館観光したばかりだ。函館市電100周年記念なんだ、そうだったのか。朝市で海鮮どんぶりの朝食を食べた後、市電でぶらりと観光へ、五稜郭公園、奉行所、函館山麓に立ち並ぶ洋風の建物、教会、函館公園から見渡す津軽海峡の景観などなど、観光めぐりをした。市電で函館の観光スポット訪ねることができ、簡便です。
 ぶらりぶらりと歩いていると、函館西高校が建っていた。そこに通学する高校生とちょっとした会話で、北島三郎が卒業生であると自慢げに教えてくれた。

そこから、ちょっと下りたところに「北島三郎記念館」という看板を見かけたので、なんとなく入った。朝が早すぎて、客は私一人、若い女性のガイドが付きっ切りで北島三郎の大歌手人生を感動的口調でナレイションしてくれた。

北海道知内村(現在知内町)の出身。50キロ離れた高校に進学した。高校時代の北島は、海で溺れた小学生を救助したという逸話がある(この人命救助の件は当時の函館新聞にも掲載され、その記事が北島三郎記念館に飾られている)。

 知内町でにしん漁業を営む両親のもとで7人兄弟(5男2女)の長男として育ち、未だ豊かなころであったので函館の高校に通わせてもらっていた。高校在学中に函館で開催された「NHKのど自慢」に出場し、歌手を志す。高校卒業するころにはニシンが取れなくなり家業が苦しくなっていた。東京に出て歌手になることを希望したが、家族の生活を助けてくれることを期待していた父親は反対。それでも最後は父親は船を売って旅費をつくってくれた。

 歌手として成功し、親への恩義に報いたいとの決心で、片道切符で青函連絡船に乗り上京する。

上京後、歌謡曲志向であったため渋谷を拠点に3曲100円の流しの仕事をしながらデビューを目指す。1959年北島が都内で30畳一部屋のアパートに下宿していた。アパートの大家の娘の親切に惚れ、無収入の北村との結婚に反対する娘の親の反対を押し切り結婚。
 北島を見出した船村徹の援助でレコードデビューする約3年前の結婚だった。式に出席したのは両家あわせて21人だけだった。

記念館は、こうした北村三郎の人生の一齣一齣を仕立てた部屋に分かれており、若い女性のガイドが感情込めて説明してくれる。一齣目は知内から函館の汽車で通学する車内で朝食弁当を食べているシーンで、私も北村高校生の前に座って案内人のナレイションを聞く。二駒めは青函連絡船で一人で見送りに来た父親と別れるシーン。
函館の人がMGMとして流れ、ジーンと涙がにじんできた。3コマめはトリスバーが並ぶ飲み屋街、次は3畳一間の部屋で大家の娘が御馳走してくれた残りもののカレーライスを食べるシーン......

最後の部屋は大がかりな舞台装置に仕立てられており、等身大の北島が歌う「まつり」を観劇する舞台。聴衆客は小生ただ一人であった。出口で北島三郎から挨拶を受ける。

30分ほどの再演歌歌手の人生物語に感動した。 

 

函館へ来る前に札幌観光とゴルフを楽しみました。楽しい思い出になりました。

    

北広島グラッセホテル           露天風呂

  
 札幌北広島 ゴルフカントリー

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八ヶ岳   (bon)

2013-06-29 | 日々雑感、散策、旅行

 蓼科農園は、八ヶ岳連峰の峰々に抱かれたのどかな自然の真っただ中にある。
農園から見上げると主峰の赤岳は、ちょうど隠れた格好でその前にある阿弥陀岳の威容がいつも我々を見守ってくれているようだ。

 全く私ごとになり恐縮ですが・・・
この八ヶ岳に今から22年前、1991年8月、遅い梅雨が残る中、一行12名のグループで登山しました。 
奥蓼科“湯道街道”終点の渋の湯を出発して、東天狗から硫黄岳、横岳、そして取り付きの石室山荘に宿泊して、
赤岳をクリア。長いクサリ場などの急な下りを通過し無事美濃戸口に下山しました。

 この当時、山行後には各自が自由に感想文を書いて簡単な文集のようなまとめにしていました。
その中から、拙文をここにご披露させていただきました。

 この山のグループは「三究会」と名付けて、自然、お湯、味の三つを究め、以て人生を究める・・なんてことを目指し、
年に一度山を楽しむ会ですが、この八ヶ岳が第8回目で、これまでに北アルプスの主な山々を楽しんできました。

で、この時の感想文から以下に抜粋してみました。

 

「八ヶ岳は、例年の北アルプスよりは、東京から比較的距離も近いが、何よりも清里、美しの森など過去にも出向いている上、
都内高校の夏季合宿所などがあり、普段から身近な山という気持ちがあった。
おそらく今年の行程は例年のそれよりもさらに甘く計画されたに違いない・・とタカをくくっていた。  
ところが、硫黄岳、赤岳の形相さらにはクサリ場の長さなど、出発前のあなどりはことごとく打破され、
毎日午前さまの身には、やっぱり大変でした。

          

 

 しかし、コマクサの群生、湧水の美味さ、曇りがちで見晴しは、あまり望めなかったけれども、
素晴らしく楽しい山の想い出を与えてくれたことに心底より感謝しています。
計画から実行、道中のあれやこれや、皆様にただただ御礼申し上げます。 (中略)

 

 今年はフルメンバーともいえる12名が参加したこともあり、誠に失礼ながら、独断と偏見で皆様を十二支に例えさせていただきました。
特に他意はありませんのでお気にされないことをくれぐれもお願い申し上げます。

 

Oさん、一番バッターとして、足腰を鍛えた“卯”、ウサギはどうでしょうか。 やや大型の野山ウサギかも知れませんが
穏やかな中にも力を秘める。現代ウサギは都会の喧騒を避けるため耳は小さくして、テレカ(テレホンカード)等を販売しているという。

Kさん、“酉”。 ペンギンは人鳥神の鳥で、山中では直立にてピョンピョンと歩くが、水中はどうであろうか? 
また、ニワトリのように、こまめに皆んなの世話を惜しまず、青い鳥を探し続けているロマンの鳥。酒が入るとオウムのごとく鋭い声を発す。

Kmさん、たてがみならぬ手拭いをヒラヒラさせながら走るサラブレッド。 重馬場にも強く、ハンデ戦では常に多く背負わされているのかも。
カイバよりも水割りをより好むとナリ。正しくは“午”。来年はホワイトホースのオンザロックですか。

Saさん、(女性) 岩場も木登りもなんのその。一年に20回以上も山歩きに熱中している愛らしいおサルさん。“申”を謹呈しよう。
お神酒が入ると益々陽気に、そして神々しく変身めサル。 オシリが赤いかどうかは全くシリません。

Siさん、(女性) 話し始めればもう猪突猛進、そうです “亥” がピッタリ? 山中下りはめっぽう強いが、人里近く平地に至れば、
人馴れ優れて気配りよく動き回る。時々、バタバタするところを加味すれば、イノシシ鳥かもしれません。

Tさん、“子”。 長いシッポの代わりに、カメラをぶら下げ、土近くの小さな花とも立ち向かっている。
窮鼠猫を噛む どころか普段、ネコやタヌキを従えて奮闘している大鼠なのだ。キャプテン赤坂、カラスも多く出没しているという。

Nyさん、やっぱり “丑” がピッタリ。 しっかり食べて力持ち。早くから人に役立つ働き者として重宝がられてきた。
昔、牛は神に通じる大事なものの意で、牛へんの漢字を見たまえ。最近雨に濡れないよう黄色いカッパを用意した。ウッツッシ。

Naさん、するする、じわじわと忍び寄る “巳” つまりヘビ。 執念深いかどうかは不明である。トグロを巻くのは苦手のようで、
いつも、伸びているので場所を取る。皆さん!ヘビの夢を見ると良いことがあるといいますぞ。

Hさん、あの勇猛な “虎” はどうでしょうか。“寅” はハリコのとらか寅次郎のイメージとなり、間違いやすい。
ニラミを効かせながら、先頭を守り、ときどき吠えることあり。 
夜はトラとして、気持ちよく大吠えするが、気配りしすぎて風邪を引いた。

Maさん、“辰”。 芯は強くてキリット歯切れの良さはタツノオトシゴではない。 龍か竜か、麒麟ビールか? 
高島暦では、威勢がよく何をさせてもテキパキして、お世辞が無くて気短で負けず嫌いが損とある。タツケテクレェ~。

Muさん、(女性) ふかふかと温かそうな羊ちゃん。 “未” と書くそうな。静かで優しくしているが、
意に添わぬことにはガンとして妥協できないようだ。そろそろツノカクシも必要か。羊が大きくなると美しくなるというのは正しい。

Yさん、ワンちゃん。 “戌” です。 ビーグル種かコリー種といったところか。
近年この世界にも美容コンテストが流行しているためか、おしゃれに気を配っているらしい。鼻が効くために特に山中で活躍する場も多い。

 

お気に召さぬ表現は、山仲間に免じてお許しください。来年は、さる年、皆様のご健勝を祈りながら
元気でお目にかかれることを楽しみにしております。」    「山想」1991より。

 

 










 

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ちょっと大きな話   (bon)

2013-06-26 | 科学・生物

 夜空を見上げると無数の星が重なり合って、空が埋め尽くされているように見える。
都市部では空が明るいから無数の星は見えにくいけれども、望遠鏡などで見るとたくさんの星が見える。

 私たちの銀河系には、およそ2,000億個~4,000億個の恒星があるといわれ、
さらに宇宙全体には1,700億個の銀河が存在するといわれている。

 しかし、この宇宙はほとんど“からっぽ”だという。
星たちの大きさはといえば、平均的に太陽の大きさぐらいで、その直径は100万kmとか200万kmくらいの巨大なガス球だという。
そしてその巨大なガス球をグッと縮小して “夏みかん” くらいの大きさとすると、一番近い隣の星は、そこから
2,000kmも離れたところにあるのだという。実際の距離は、およそ4光年程度という。
星で埋め尽くされたように見える宇宙は実は“からっぽ”なんですね。

 反対に、ミクロの世界はというと、原子1個の大きさは、およそ1,000 万分の1mmくらい。
その中心にある原子核は、原子の10万分の1の大きさ。 
そこで、この原子核を今度は “りんご” の大きさまで拡大したとすると、原子の大きさは、なんと直径およそ10kmとなり、
原子の中にうっすらと電子が飛び交うような、やはり“からっぽ”なんですね。

 

 私たちの宇宙は、いまからおよそ150億年の遠い昔、限りなくまばゆい一粒の光が誕生した、いわゆるビッグバンですね。
そして急速に膨張しながら冷えて行く過程で光のしずくは原子のもととなる小さな基本粒子を生み、粒子は銀河となり、
銀河は星を、星は私たち人間を作りました。

 私たちの生命体を作っている重要な元素に炭素がある。この炭素は星が自分の重みでつぶれながら内部の温度を上げ、
核融合反応の過程で作られたものなんだそうです。
この星が、一生を終えて爆発し、炭素がちりばめられて我々が作られた・・。

 そして、この星が炭素を作ることができるということは、宇宙の重力の大きさが今あるような大きさでなければできなかったのです。
すなわち、重力の大きさが今より、10%大きいとすれば、星は激しくつぶれて急速に燃え上がり炭素は出来ずに死んでしまう。
逆に、今よりも10%小さかったとすれば、星の温度は十分に上がらずやはり炭素をつくることはできなかった。 
 あぁ、なんと素晴らしいバランスなんだろう。

 

 ここでのお話は、10年以上も前に読んでみた「宇宙の不思議」(佐治晴夫著、PHP文庫)から抜き読みで綴っていますので
分かりにくいかもしれませんが、たまには、このような壮大な浪漫に想いを巡らせるのもいいのではないかと・・。

天の川銀河 

      http://matome.naver.jpより転写)

 

 ここに、“宇宙カレンダー”という下りがあり、簡潔に紹介しておきたいと思います。

「宇宙史150億年を1年間に縮めたカレンダーを考える。
つまり、1月1日午前0時に宇宙が誕生したとして、現在はその年の12月31日午後12時だとします。
とすると、桜の季節前後の4月中旬に銀河系が形成され、初めての恒星が光りはじめるのは菖蒲の花が美しく咲き染める5月中旬。
紫陽花が初夏の風の中で香る頃、6月初めにはそれらの中で巨大な星は超新星爆発を起こして最期を迎え、
この超新星の “かけら” から、太陽系が出来始めたのは9月に入ってからです。
 やがて、10月の足音が近づいてくるころ地球が誕生する。そして師走も中旬を過ぎた頃に原始生物である三葉虫が動きだし、
12月31日、つまり大みそかの午後9時過ぎに人類の祖先がアフリカあたりに猿人として誕生したのです。
更に午後11時59分50秒ころに人間文明の証としてピラミッドなどが作られ、現代科学が急速に進歩して来ましたが、
その時間は、わずか0.1秒しか経過していないのです。」

 

 そして、この書のあとがきの著者の言葉を引用します。

 「この単行本が世に出てから5年の歳月が流れましたが、その間に私たちの地球は太陽の周りを毎秒30kmのスピードで
5回まわり、太陽系を含む恒星団は私たちを巻き込んだまま、銀河の中心に対して半径3万光年の円を描いて
秒速300kmで、470億kmという道のりを駆け抜けました。
そして、地球上ではいつものように雨が降り、風が吹いてさまざまなことが起こり、そして過ぎ去っていきました。・・(後略)」

 

<!-- Hawaian Songs -->

 

 

 

 

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今年のノウゼンカズラ  (bon)

2013-06-23 | 花鳥風月

 関東の夏、家々の庭にこぼれるほどのオレンジ色の花を靡かせ、灼熱の太陽に呼応しているような、
そんな夏の花ですね。
 関西ではあまり見かけなかったような気がしています。

 このブログでも何度か取り上げましたから、“また・・!”という感じもしますが、
今年はやや早い開花のような感じです。 

 そして、8号くらいの鉢植えで環境劣悪なベランダ栽培なので、
せめて花を愛でて記事としてお礼の気持ち・・・から。

  今年のノウゼンカズラです。 (これまでより、少し色が濃い感じがしています。)
      

 

ネットから参考事項を以下に転写しましたので、ご覧ください。

 ノウゼンカズラは中国原産で、平安時代に渡来したといわれています。
当時(918年頃)に 「乃宇世宇(のうせう)」 の名の記述があるとか・・。

 ノウゼンカズラの名前の由来として、古名の“のせう”が変化して“のうぜん”になったとも、
あるいは、“凌霄”の音読みの ”りょうしょう” が変じて “のしょう”→“のうぜん” になったともいわれているとか。
漢字では、“凌霄花”と書きますが、“凌”は “しのぐ”、“霄(しょう)”は“そら”の意味で、つるが木にまといつき、
天空を凌ぐほど高く登るところから、この名がついたと言われているそうです。 
むずかしいですね。

 また、金沢市の玉泉園には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折に持ち帰ったとされる、樹齢400年になるノウゼンカズラの古木がある・・
と書かれていますので、機会があれば一度訪れてみたいものです。

 
 アメリカ原産のアメリカノウゼンカズラという品種もあって、こちらはピンク系の花を付けるものもあり、
近年は、これら、両原産地のものを掛け合わせた園芸品種が多く出回っているそうです。
大変強く育てやすい花木です。

花言葉は、
「栄光」「名声」「名誉」「光栄」「華のある人生」「豊富な愛情」「名誉な女性」「愛らしい」「女性らしい」・・まともですね。

 それで、ベランダでの鉢植えの姿を見てみますと・・・。こんな感じデス。
                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Francis Goyaの ギターファンタジー         (mak)

2013-06-21 | 音楽、Romantics Stream

ベルギー出身のギタリストFrancis Goyaが奏でるギターのファンタジックなメロディーが、優しく心を擽ります。よく知る曲を奏でるギターの響きに酔いしれ、癒されます。

1946年ベルギーで生まれ、12歳で初めてギターを手にして以来、55年の人生をギター一本で独特の演奏スタイルを確立し、今や世界で知る人ぞ知るギタリスト、
Guiter instrumental musicianとして、多くのファンの心をつかんでいるのでしょう。

 

 

Francis Goya 

 

 

金沢ー能登旅行記, 「時雨亭」:

昔の知り合いとの懇親会を金沢市の外れにある鮫川温泉にある「滝亭」で行われたが、この機会に金沢市内から能登への観光をした。
25年ぶりに訪れた金沢は、金沢駅はすっきりとモダンな佇まいに変わり、周辺には高級ホテル、ビジネスホテルが隆々とたち並び、街の中心部には金沢21世紀美術館が開館し、茶屋街の古い家並みも整備され、毎年多くの観光客が訪れている。しかし、街が整えられるに連れて、伝統文化の香り高い情緒とでもいうべき、金沢の魅力が失われているように感じる。お洒落な衣料品の店、レストランが立ち並び、街行く人も若々しく、高齢者が見当たらないのには驚いた。

昔よく訪ねた金沢であるが、今まで知らなかったところでもっとも印象に残った場所があったので、紹介する。

それは、「時雨亭」と呼ばれる茶室である。

この庭園は、兼六園の一角にあり、5代藩主前田綱紀が立てた別荘である。
広い廊下の非毛氈に座禅で座り、和菓子とお茶を頂き、見事に整われた日本庭園を眺める。
風がそよそよと、肌に心地よく、時間を忘れて、心が洗われる。 

金沢へ行かれる機会があれば、是非立ち寄られたい。

 

         

兼六園にある「時雨亭」でお茶と和菓子で一服       時雨亭の眺める美しい庭園で心が休まる。

        

        
和菓子と抹茶700円、あるいは煎茶300円で、優雅な気分が味わえる。

       
片町界隈の歓楽街は賑わっていた             鮫川温泉 滝亭はお奨めです。
      
滝亭の露店風呂 から目の前にある美しい滝を眺められる。 輪島の朝市が海鮮の屋台ショップ

      

曹洞宗大本山 総持寺                    千里が浜の浜辺を走る車

      

 名勝能登金剛外国からの観光客でにぎわっていた。  金沢駅東口近代的な駅に早変わり。 2年後に新幹線が入る

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ガクアジサイ   (bon)

2013-06-18 | 花鳥風月

 この季節、街には豪華な大きな丸い赤や青のアジサイ・・公園や境内などには白いアナベルの塊もみられる。
曇りがち、小雨のなか・・では、何とも風情を感じる景観です。

 これらの球状の大きなアジサイは、セイヨウアジサイというのだそうです。
これに対して、平べったい形で中心に蕾のようなものがたくさん密集していてその周りに花びらが形よく並んでいるガクアジサイがあります。

 このガクアジサイがむしろ日本原産なんだそうですが、今日ここに取り上げたものは、このガクアジサイを
更に園芸種化した種類でしょうか、それぞれに名前が付けられています。


一つは、“隅田の花火”という名がつけられたもので、我が家にはもう10年以上前からいます。
ガクアジサイの花部分の“花軸”がスッと伸びて、その先に八重の花がパッと開いている・・
丁度、隅田川にあがる花火のようだ・・と名付けられたのだろう。

隅田の花火
       

 

 もう一つ、おそらく同じ種類として育成されてきたと思われ、同じような形をしていますが、葉の形がちょっと違っているのと、
花の色がピンクで、ややグラデーションがかっており、花も密集しています。
名付けて“ダンスパーティー”と呼ばれ、2年前に頂き物として我が家に来ました。
こちらも、このブログにアップしましたので、記憶にある方もおられるかもしれませんが、小さな植木鉢のままにしていますから、
それほど大きくはなっていません。

ダンスパーティー
       

 

 アジサイの冬は、秋の終わりから、葉も茎もすべて枯れて冬中何もない状態になります。
これで、花が咲くようになるのかと思うほどですが、春になると立派な葉が出て、見違えるような形を整えるのですね。 
地植えの、大きなアジサイの冬は、枯れた枝が、寂しく上部に向かって何本も伸びているだけの殺風景なものとなりますが、
この時期に形を整えるためにきれいに刈り込んでおくのですね。 
春、早い時期にこの枯れたように見える枝の節々から、緑の新芽が覗いてくるのは、何とも春の息吹を感じワクワクさせるのですね。
 

アジサイの語源について、ウイキペディアに、次のようにありました。

「日本語で漢字表記に用いられる“紫陽花”は、唐の詩人(白居易)が別の花、おそらくライラックに付けた名で、
平安時代の学者(源順)がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている」

「また、はっきりとはしないが、万葉集では“味狭藍” “安治佐為”、平安時代の辞典(和名類聚抄)では“阿豆佐為”の
字をあてて書かれている。  もっとも有力とされているのは、藍色が集まったもの を意味する“あづさい(集真藍)”が
なまったものとする説である。そのほか、いくつかの説がある。」

 

アジサイとは、全く関連すらありませんが、少し前から、咲き続けている“るりふたもじ”を、おまけとしてアップします。これも、過去にブログアップして、名前のいわれなどの解説をしたことがありました。冬の初めあたりまで、ずっと咲き続けるのですね。

るりふたもじ
       

 

 

 

 

 

 

 

 

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おくりびと  (bon)

2013-06-16 | 日々雑感、散策、旅行

 昨夜、遅ればせながらテレビで映画“おくりびと”(松竹、監督:滝田洋二郎)を見ました。

5年前の映画で、アカデミー賞受賞など話題にもなりましたが、見損ねていましたので録画もしながら見ました。

 納棺師の職業としての位置づけと、家族など近親者にとっての立場が違うけど、その局面に同席し一部始終を目の当たりにすると、
それが人として最後のお別れに際する美しい“儀式”を演出し、遺族の悲しみを補う大事な役割であることを理解する・・・
そんな、スジのように思いました。様々な人の死に直面し、その人の人生に向き合う中から改めて人間を見つめなおす機会を提供しているとも・・。

           (ネットから転写しました。)


 人の死をテーマにした厳粛な場面ながら、クリスマスにはローストチキンにむしゃぶりついたり、
社内(3人)での会話のリズムや内容を軽くして、コメディー風な部分も取りいれて明るく仕立てあげられていた。 
また、主人公の元チェロ奏者が奏でる、場面の要所でチェロの優しいメロディーを流し全体としてうまい調和の中で進行させていた。

 

主人公の本木雅弘の演技も手さばきの絶妙さや、寒暖があり好感が持て、脇役の山崎努はさすが場面の雰囲気を
うまく創出していたように思いました。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

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オノマトペ   (bon)

2013-06-15 | 日々雑感、散策、旅行

擬声語のことだそうですが、強いて内訳をいえば、人や動物が発する声を擬声語、物が発する音を字句で模倣した擬音語、
そして状態や感情などの音を発しないものを字句で模倣した擬態語などの総称とあります。

 英語のオノマトピア( onomatopoeia)およびフランス語のオノマトペ( onomatopée)からきている。


 先日の、テレビ、クローズアップ現代で取り上げられていて、今急速に“増殖中”であるという。

 これらの表現は、日本語にとくに多く見られ、古くからあったが、ここにきてより感情豊かな表現、
より直観的な表現として若者の間にも急速に広がっているという。


番組では、「オノマトペが増殖している コンビニから国会、さらには医療現場からロボット研究の最先端まで訪ね、
オノマトペ大増殖の謎を検証。浮かび上がってきたのは、<音の爆弾>とも称されるオノマトペがわたしたちの脳に働きかける
“ドキッ”とするような不思議な力。
 そして、複雑化する社会のなかで、自分が感じている思いを表現するコトバが圧倒的に足りないと感じている
人たちの姿を映し出していた。」

 例えば、スポーツ選手の育成に、内容は失念してしまいましたが短距離走のスタートダッシュで、
“もっと、グイ グイという感じで・・”などとコーチが指示していました。この“グイ、グイ”という言葉を使わないで、
このような状況を指導するとすれば、もっと長ったらしい言葉になる上うまく言い表せないという。
製品開発に場面でも、プラスチック製で表面が金属に見える材質を作るときの種々の試作品に対する見た感想を擬態語で、
ぎらぎら、てかてか、ぴかぴか などと評価を繰り返し、完成品が出来上がっていました。


次のような、場面も納得ですね~
「あの人どんな風に笑ってたの?」という質問に対して、“にっこり”とか“くすっと”とか“ガハハ”という言い方で
答えが返ってくるとイメージがわきやすいですよね。これがまさに今回の番組のテーマです。

 研究を通して、オノマトペは、普通の言葉とは比べ物にならないほどの豊かな情報量を持っていることが明らかになって
きています。 脳の活動を調べると、オノマトペを処理している時の脳は、“副詞”や“動詞”等の単語を処理する時に比べ、
脳の全体が活動していることがわかったのです。
つまり、私たちは五感を総動員してオノマトペが持つ情報を処理しているというのです。

 普通の言葉を尽くして説明しても伝わらない事柄やイメージを短い一言で伝える力を持つオノマトペは、
企業のマーケティングや商品開発の現場でも活用され始めています。」


 具体的に、オノマトペはどんなものか? をちょっと覗いてみます。たくさんありますから、ここではチョットだけ・・・。
(ウイキペディアより転載しました。)


擬音語では、メーメー(羊の鳴き声)、ブーブー(豚鳴き声・ブーイング)、ドキドキ(心臓の鼓動)、
ガチャン(ガラスの割れる音)、ドカン(爆発音、衝撃音)、カリカリ(サクサク)(スナック菓子の咀嚼音)、
トントン(肩たたき)、ドン(花火・衝突など)、バタン(ドアの閉まる音など)、ピッ(ポチッ)(機械のボタン動作音など)、
ガタン(ガタコン)(電車など)、ジュワー(油がはねる音)、パチパチ(拍手や焚き火)、プシュー(空気・炭酸の抜ける音など)、
ズルッ(滑って転んだ時)ビリビリ(ベリベリ)(紙が破ける音など)・・通常カタカナで表記される。

自然物の擬音語の例としては、シトシト(雨)、ソヨソヨ(穏やかな風)、メラメラ(火)、
モクモク(煙)、ゴロゴロ(雷)、ピカピカ(光)、サワサワ(草)、コンコン(湧き水)など・・

擬態語は、状態や感情などの音を発しないものを字句で模倣したものであるり、通常ひらがなで表記される。
しいん(静寂)、ばらばら(散らばっている様)、めろめろ(惚れ込んでいる様)、たっぷり(豊かで余裕のある様)、
ちょうど(刀が鞘に収まる擬態語、または擬音語。「丁度」は当て字)


 これら擬声語は、そもそも、言語学的には実際的な使用面よりも抽象的な理論形成を主眼においていたことと、
擬声語は言語体系の中心を離れた周辺的なものとされていて、その表現が子供っぽいものと見なされ、
学術論文などにはまず登場して来なかった。

しかし、物事の声や音・様子・動作・感情などを簡略的に表し、情景をより感情的に表現させることの出来る手段として
重要性が高く評価され、上で述べたようにより的確な表現方法として多方面に活用されているのです。
その言語の根底にある文化、音感、リズム、表現みたいなものがぎゅっと凝縮されているともいえるのです。

 また、他の国の言語に比して日本語にはオノマトペが多いようです。
日本語は一つの動詞は動作の基本な意味しか持たず、副詞を加えることによって表現を増やしていく傾向があります
たとえば“見る”という語だけでも英語ではsee, look, watchなど複数の単語があり、動詞自体の使い分けによって
表現を増やす傾向がありますが、それに対し日本語は、“ジロジロ見る” “さっと見る”など、副詞を使って表現の幅を広げている。

 しかし、この事だけではなく昔から日本人特有の感受性?みたいなことから自然発生的に擬態語、擬音語が存在していたとも考えられる。

 ネットサーフしていた論文中(宇都宮大学、小池清治教授2002年)に引用された、童謡がありましたので、再掲します。


野口雨情作詞、本居長世作曲  “俵はごろごろ”

♫ 
俵はごろごろ  お倉にどっさりこ
お米はざっくりこで チュウチュウ鼠は にっこりこ
お星さまぴっかりこ 夜のお空にぴっかりこ

居眠りごろごろ 船漕ぎぎっちんこ
漕げ漕げこっくりこで おやおやお目めはぱっちりこ
提灯ぽっかりこ 夜の提灯ぽっかりこ








<!-- オノマトペ -->








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河合継之助   (bon)

2013-06-13 | 日々雑感、散策、旅行

以前から気になっていた人物の一人です。

長岡藩の家老でありながら、会津に墓があり、記念館もある・・“最後の武士”などと評されるが、地元での氏の評価は
賛否相半ばであるという。
戦後、遺骨は長岡市の栄凉寺に埋葬されており、長岡市の継之助生誕の地には河井継之助記念館が建てられている。

 

 それが、この日曜日のテレビ“八重の桜”で、河合継之助が奥羽列藩同盟の場面に出てきた。
画面では、あまりよくはわからなかったので、例によって、ネット調べとなりました。

 河合継之助は、司馬遼太郎の「峠」の主人公として、一躍全国の英雄になりました。

      
 

氏の概略をネットから引用させていただくと・・

「河井継之助は文生10年(1827年)長岡藩の中堅藩士で郡奉行や新潟奉行を務めた河井代右衛門の長男として生まれる。
幼少の頃から気性が激しく、腕白で、人の事を聞かないたちであった。また何事をやるにも、人の上に立たねば気がすまず、
これが最後まで災いのもととなる。


 青年期には王陽明に傾倒し、朱子学のような死んだ学問ではなく、徹頭徹尾、実学を尊んだ。
そのため江戸に遊学して斎藤拙堂、佐久間象山に師事するも、実学に関係ない学問には見向きもせず、ひたすら遊郭に通い、
酒を飲んでいたらしい。江戸遊学中に『李忠定公集』という書物に出会い、その説く所「経済とは経世済民の略である。
乱れた世を整え、困窮している民を救うことだ」という考えに深く傾倒し、この考えが後の藩の財政立て直しの基盤となる。
1953年にペリーが黒船を率いて、浦賀にやってきた時、継之助は再び江戸に出てきていた。その有様を逐次、見聞きし
長岡藩主の牧野忠雅に建白書をだし、それが認められて評定方随役という重臣に取り立てられた。
しかし古い家老達とうまく行くはずもなく早々にその職を辞している。


 1862年、長岡藩主の牧野忠恭が京都所司代に任命されると、継之助は藩主に京都所司代を辞任するように説いたが、聞き入れられず、
逆に京都へ出向き藩主を助ける事になる。しかし1863年に朝廷の命で攘夷が決行される事に決まると、忠恭は江戸に戻り、
継之助は長岡藩に戻った。
藩主・忠恭は今度は江戸幕府の老中に任命された。継之助は郡奉行に任ぜられ、藩政改革に着手した。
その後はどんどん出世し家老職、上席家老、軍事総督職を務める。
その間に藩政改革と軍事改革に努め、藩の財政の改善、軍事の中央集権化を実行した。

 1868年に鳥羽伏見での幕府軍と倒幕を旗印とする薩長連合軍の戦い、いわゆる戊辰戦争が勃発した。長岡藩は大阪を警護していたが、
幕府軍が敗れ、徳川慶喜が船で江戸に逃れたのを知ると、後を追うように江戸に舞い戻り、継之助は江戸藩邸を処分し
家宝などをすべて売却し、その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。
同時にガトリング砲やフランス製の最新式銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。
ちなみにガトリング砲は当時日本に3丁しかなく、そのうち2丁を継之助が持っていた。

 鳥羽伏見の戦いに勝って勢いに乗る新政府軍は会津藩を討つため、小千谷まで迫ってきた。継之助は長岡藩が武装中立さえすれば、
新政府軍は藩内への侵攻をあきらめ、素通りして会津を攻めると考えていた。
そしてあくまで武装中立にこだわり新政府の軍監岩村との小千谷での会談に臨んだ。
しかし、薩摩藩士の岩村は最初から継之助を信用せず、自分たちは勝者であり、長岡藩などはとるに足らないとの考えに
終始したため会談は決裂する。
新政府軍との間に北越戦争が始まった。
最初は長岡藩は訓練された兵隊と最新の武器で互角に戦ったが所詮、多勢に無勢徐々に劣勢になっていった。
しかも継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまった。そして会津藩を頼って落延びて行く道中、現在の福島県只見町で死去。享年42才。」

 

 以上が、継之助の大体の一生ですが、さらに補足すると・・、

「先見の明があった継之助はすでに武家社会を中心とする封建制度が時代にそぐわないことを見抜いており、藩自体も
新時代にふさわしいものへと変革させようとしていた。
 その一方で、官軍と旧幕軍との間に武力衝突が起こることを早くから見抜き、当時日本に3つしかなかったガトリング砲のうち2つを購入、
さらにフランス式の最新型銃などで軍備を整えていった。
ただ、これはたとえば旧幕軍に組して新政府に対抗しようとしたものではなく、継之助の中ではあくまでも長岡藩は中立であり、
またその中立を保つためには武力も必要であるとの考えによるものである。
実際、旧幕軍の筆頭である会津藩からの「奥羽越列藩同盟」の誘いも蹴っている。」
 

「しかし、やがて戊辰戦争が始まると、官軍は長岡藩の南、小千谷に陣を敷き、長岡藩に対し恭順を迫った。
1868年5月2日(旧暦)、長岡藩軍事総督の継之助は新政府軍軍監岩村精一郎と会談し、藩の武装中立という立場を説明するも
岩村はこれを一蹴(小千谷談判)。やむを得ず藩は奥羽越列藩同盟に加わり、ここに“北越戦争”と呼ばれる戊辰戦争の中でも
最も凄惨と言われた戦いが始まった。


 北越戦争では当初、小藩ながら近代武装が徹底された長岡藩に官軍は敗戦に次ぐ敗戦で、官軍は大きなダメージを被る。
しかし、物量に勝る官軍によってやがて長岡城は落城した。

ところが、一旦落城した長岡城を河井は奇策を講じ、再び奪い返したのだ。
 しかしながらこの戦いで継之助は負傷、さらに奪還した城も体勢を立て直した官軍に再び占拠され、 彼と藩士一同は
折からの豪雨、そして夜の闇の中を、会津方面へと落ち延びた。このとき通った道が、八十里越なのである。」


 継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠んでいる。 
“八十里”は、国道289で、後述するように車両も通れない“点線国道”ですが、ここで死ぬ道のりで詠まれたこの句に、
腰抜けとあるのは、“越後を抜ける(逃げる)”と掛けているとも・・。


 また、人物的には、 よく言っていた言葉「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ」は
彼の性格をよく現した言葉だという。
 継之助は強烈な個性の持ち主として幕末にその生き様を示し、ある意味武士の意地を示した男である。
武術・学問も決められた型を学ぼうとせず、何事にも自己流を通すという骨太さを持っていたようである。
彼は繊細さや優雅さとはほど遠く、粗野で自信家で人の言う事を聞く耳を持たなかった。
一方で、実務には長け、藩の経済立て直し等や、軍隊の近代化に務め、将来を見通せる目を持っていた。
長岡のような小藩には河井継之助のような大器は収まりきれず、藩を滅ぼす事になってしまった。
継之助は首尾一貫して美しき政治家であり美しき武士であり続けた。継之助の生き方、態度、姿勢が共感を与えているのだろう。

 また、明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。

 

 八十里越(はちじゅうりごえ)は新潟県三条市と福島県南会津郡只見町を結ぶ街道の名称で、二つの峠(鞍掛峠、木ノ根峠)を含む
この区間を結ぶ国道289号の改良事業名です。
名称の由来は「八里の区間でありながら八十里もあるかのように急峻・長大な街道である」ということだそうで、
将来14のトンネルと16本の橋梁で貫く計画のようであるが、急峻な地形や、自然との調和を図りながらの整備、
豪雪地帯を貫くなどの理由で施工出来る期間が限られ、工事は難しさを極めているという。
全通は平成30年代(2020年代)になるものと思われる。

     八十里越え
       

 国道289号は新潟県新潟市と福島県いわき市を結ぶ一般国道である。一応一直線の国道で結ばれてはいるが、
福島県の甲子峠付近には自動車通行不能区間があり、「登山国道」として全国的に有名だ。
新潟県と福島県の県境付近にも、約16kmに亘って自動車の通れない区間があるが、そのルートにもしっかり「国道色」が塗られている。

    こんな感じであるらしい・・

      

 

猪俣公章 追悼記念:
猪俣公章は1993年6月10日 55歳の若さで世を去った。6月は命日月である。 

 猪俣公章と森進一は「女のためいき」(66年)のヒットで世に出た。この2人のコンビはド演歌の世界にある種の洗練さを持ち込み、演歌の発展に大きな功績があったのである。

他にもテレサテンに『空港』、不二桂子に『京都から博多まで』や『女のブルース』、水原弘に『君こそわが命』、五木ひろしに『千曲川』など昭和の人気歌謡歌手に数々の名曲を提供した。

猪俣と森コンビの演歌名曲:

<!-- 猪俣公章作曲 森進一演歌シリーズ -->



 

 

 

 

 

 

 

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助六        (mak)

2013-06-11 | 科学・生物

 新しい歌舞伎座の杮葺落六月大歌舞伎は、連日満員で熱気のこもった公演が行われております。

昨夜 6時から始まる3部目の演目は、幸四郎主演の「ご存知鈴ヶ森」と海老蔵主演の「助六」を観劇しました。



 先ず、銀座三越に立ち寄り幕間に食べる弁当を買い、そのまま地下を歩いて5分で歌舞伎座へ。弁当は演目に因んで助六寿司。
 
 演目が舞伎十八番のひとつ『助六由縁江戸桜』でしたので、主人公が『花川戸助六』、その恋人が『三浦揚巻』です。
おいなりさん・・・揚げ
のりまき・・・・・・巻き
 
余談はさておき、

   

 助六は、江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つで、その中でも特に上演回数が多く、また上演すれば必ず大入りになるという人気演目です。つい最近亡くなった市川団十郎の長男の海老蔵が花川戸助六
を演じるということで、観客席は熱気が沸騰していた。

出派の唄:
歌舞伎には、三味線、笛、太鼓と謡からなる伴奏がオペラのオーケストラ演奏なみに重要で、
 助六が花道から出る時の伴奏音楽を特に「出端の唄」という。助六では、浄瑠璃の流派の一つである「河東節」が謳われ、専業で行う者は今も昔も非常に少ない。このため、『助六』が上演されるときは、かつては蔵前の旦那衆が、そして今日では「十寸見会」(ますみ かい)という愛好会に所属する素人の語り手たちが、交代でこれを務めることになっている。ただしここでいう素人とは本職が別にあるという意味で、その技量は玄人はだしであることはいうまでもない。
 私の会社の同期入社の友達が「河東節十寸見会ご連中」のメンバーに加わっており、
なかなか手に入らない人気演目助六のチケットを購入出来、貴重な経験が出来た次第。

助六のあらすじ:
花川戸助六(はなかわど すけろく)という侠客に姿をやつした曾我五郎は、源氏の宝刀「友切丸」を探すため吉原に通っている。様々な男が集まる吉原で、遊客にわざと喧嘩を吹っ掛けて刀を抜かせようというのである。そこに助六を情夫にしている花魁の揚巻(あげまき)と、揚巻に言い寄る髭の意休(ひげの いきゅう)が登場。意休が友切丸を持っていると勘づいた助六は刀を抜かせようとするが、なかなかうまくいかない。そこへ白酒売に身をやつした兄の曾我十郎がやってきて弟に意見するが、助六の真意を知った十郎は自らも喧嘩を売る稽古を始める。

やがて揚巻が一人の侍を伴って再登場。助六はその侍に喧嘩を売ろうとするが、驚いたことにその侍は、兄弟を心配してやってきた母の満江であった。満江は助六に破れやすい紙子の衣を着せて、激しい喧嘩を戒めると十郎とともに帰ってゆく。

舞台には再び意休が登場。意休は実は助六が曾我五郎と見抜いており、友切丸を抜いて源氏を裏切ることをそそのかす。助六はもちろん応じず、意休(実は平家の残党・伊賀平内左衛門)を斬り、友切丸を取り返して吉原を抜け出す。

そしてこの多彩な登場人物たちが繰り広げるのが、江戸の名物「喧嘩」と「啖呵(たんか)」、「男伊達(おとこだて)」と「女伊達」です。「粋(いき)」と「きっぷ」です。

そうです。この「助六由縁江戸桜」というお芝居は「江戸を見る」お芝居です。そういう意味で、「時代物」というより「時代世話」と言った方が当たっているお芝居です。まるで豪華絢爛を誇る江戸吉原仲之町にタイムスリップしたような気分にさせてくれるお芝居なのです。


下記YouTubeは団十郎が演じた助六ですが、連続9ビデオですべてを観賞できます。

助六

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時の記念日   (bon)

2013-06-09 | 日々雑感、散策、旅行
明日、6月10日は「時の記念日」・・なんて言うと、何となく懐かしい響きに感じますが、
最近では、小学生あたりでも“スマホ”に熱中しているからあまり興味がないかもしれませんね。

 なぜ、6月10日なの? 
例によって、ネットのお世話になり、気になるところを調べてみました。

 なんと! 古い話なんですね。今から1342年前、天智天皇(第38代)10年の年4月25日に、
漏刻を新しい台において初めて時の鐘を打った・・と、日本書紀にあるのだそうです。

    飛鳥の水時計
     (ネットから)

 
で、この4月25日は、グレゴリオ暦の671年6月10日に当たるところから、1920年(大正9年)にこの日を記念日に制定された。
東京天文台と生活改善同盟会により制定されたとあり、“時間をキチンと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう”
との呼びかけがあったそうです。 つまり、時間の大切さを尊重する意識を広めるためだったのです。

    当時のポスター
     (こちらもネットから)


 今から見ると、この制定は十分目的を達成したと思われますよね。 
時間は、殆どの人が十分その大切さを認識していますし、皆さんキチンと守っていますから・・。
もっとも、今日のように、デジタル社会となれば嫌がおうにも時間というモノに意識させられている・・
追われているとも感じられますね。

いずれにしても、日本初の時計が鐘を打った日が6月10日であったということなんですね。
「漏刻」とか「漏尅」というのは水時計のことなんです。


これまで、大雑把な目安しか提供できない日時計に比べて、水時計はかなり精密な時刻を測ることができるものとして
重用されたのです。 その発明は古く、BC16世紀にはエジプトで既に使用されていた記録が残っているそうです。

天智天皇の時代にこの水時計の管理をしていたのは陰陽寮の漏刻博士たちで二人で交替で水の量をチェックして
鐘や太鼓で時報を鳴らしていたといいます。大変重要な役目で、居眠りしたり遅刻した場合の罰は出勤停止や罷免など、
厳しいものであったそうです。

 当時使用されていた時刻は現在私たちが使用しているような、夏でも冬でも一定の時を刻む定時法だったようです。
定時法・・については、このブログのつい最近5月8日の記事「おやつ」にアップしています。

 それで、江戸時代の“不定時法”下では、機械仕掛けの正確な時計に、わざわざ不定時法用の文字盤を取り付けて、
それを見ながら鐘を打つという、まことに本末転倒なことをしていたという。

  明治時代の時計台 と 銀座 服部時計店(大正6年) (いずれもネットから)
    


 生活改善同盟会では、時間に関してその重要性と、マナーなどについて広くキャンペーンしていたそうです。
一例が、ネットに出ていましたので以下に転写させていただきました。

○執務の時間
出勤、及び退出の時間を励行する事。/勤務と休養の時を区別し、時間を空費せぬ事。/取引約束の期日を違えぬ事。

○集会の時間
集会の時日は、多数者の都合を考えて定める事。/開会の時刻は掛値をせぬ事。/集会の時刻に遅れぬ事。

○訪問の時間
先方の迷惑する時間の訪問は慎む事。/訪問は予め時間を打合せる事。/簡単な用談は玄関店頭で済ます事。/
面会は用談を先きにして早く切り上げる事。/来客は待たせぬ事。

○正確な時計
午砲は約三町毎に一秒遅れて聞えますから、それだけ差し引く必要があります。

   昔の時と今の時間の比較
       (ネットから引用しました)



 おもしろいですね。 改めて明日の記念日を意識しておきましょう。

















時の記念日にテニスフレンチオープンで優勝した、ナダル選手の腕に腕時計が・・・・
調べてみると彼はいつも腕時計をしてテニスをしていることが分かりました。
時計の日にちなんで、テニスの観戦中もト時計の事ばかりが気になった次第。




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ザックジャパンの秘密兵器は「おにぎり」      (mak)

2013-06-06 | 科学・生物
Tunein,com 先ずこのtunein.comをクリック(Ctrlを押しながらクリックすると別タブで開く)して、ブログを読む前に音楽を流しましょう。このインターネットラジオは世界中7万曲を網羅しており、選ぶのが大変ですので、お気に入りに小生が選んである中から選んでお試しください。

 


サッカー日本代表のアルベルト・ザッケローニ監督(57)がアジア杯を乗り切るため、疲労回復の秘密兵器として「おにぎり」を導入ししていると、新聞が報じた。


運動直後に、タンパク質(アミノ酸)と炭水化物(おにぎり)を同時に摂取すると、筋肉の破壊を防ぐ効果が大きいという分析がある。同時に、スタミナの源「グリコーゲン」を蓄える効果もある。運動終了後、時間が経過すればするほど効果が薄れるため、迅速な摂取が効果的。


我が浪漫倶楽部の畑仕事においても、昼食におにぎりを定番としているのは理にかなっていることになる。




そこで、如何においしくおにぎりを作るか?
そこで美味しいおにぎり の作り方について、ネット散策をした。

5月16日「ためしてガッテン」ー究極のおにぎり 新発想握り術ーで美味しいおにぎりをつくる方法が詳しく放映されていた。ここをクリック。
 
 この番組の言わんとすることは、ご飯の炊き方、美味しい塩を使うことは勿論だが、やはり握り方が決め手であるということ、
 出来るだけ炊き立てのアツアツのご飯をやわらかく中に空気を閉じ込めるように握るのがコツであるということに尽きる。3回程度握れば十分でそれ以上握るのは握りすぎとのことです。
 今までは、力をこめてしっかり握るのがよいと思ってたので、まったくの思い違いであったことになる。
次回の畑仕事が待ちきれず、早速美味しいおにぎりをつくってみたくなった。

 

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蓼科農園2013大合宿   (bon)

2013-06-05 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 6月1日~4日は、野菜苗の植え付けが主体の“大合宿”でした。

 ここ数年の畑作業は、どこか雨の日があったりしていましたが、今年の大合宿は平年より10日も早い梅雨入りにもかかわらず
4日間とも晴天に恵まれ、日焼けもしましたが作業は計画通りすべて完了することができました。

 

基地としてのK邸は、今、ツツジに彩られていました。
   

 

 畑の周りの田んぼは、田植も終わりきれいに並んだ早苗が風に揺れていました。
   

 

    作業の合間のお茶タイム~
         

 
 

 昨年来、冬越しをした玉ねぎ、ねぎ、にんにく、ラッキョウなどと、
先月の春合宿で植えつけたジャガイモ、さといも、ラディッシュなどに加え、
今回の大合宿では、さつまいも、カボチャ、スイカをはじめ、トマト、ナス各種、黒豆、トウモロコシ、バジル、イタリアンパセリ、
赤ジソ、セロリ、レタス、ピーマン、ししとう、タカノツメ、ズッキーニ、ブロッコリー、ゴーヤ、キャベツ、ミズナなど、
1,000㎡強の畑全面に整然と植えつけられました。 

   東京で仕込んだ苗たち・・(一部)   全部で数100は、ある!
      


初めての試みとして、畝と畝との間に“防草シート”をはり、強烈な雑草を少しでも回避するべく対策をとりました。
  
    透水性防草シートが、畝と畝の間に敷き詰められて~ 果たして効果のほどは・・?
       

 植えつけた後には、水をたっぷりとやりました。
ここ数日の晴天で気温も高く、土はかなり乾燥気味でしたので、成長を願いながら水やりは入念に行いました。 
マルチが乾燥を防いでくれていますが、しっかりと根付くまで、それでも一雨来てくれることを心で祈りつつ・・。

 

     完成した畑の全貌
      

 

お楽しみ、オートスライドです・・・。 

         

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

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