蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

貿易記念日  (bon)

2017-06-29 | 日々雑感、散策、旅行

 カレンダーの昨日6月28日のところに、「貿易記念日」とありました。 あ、そうなん
だという感じで、特段の思いもなく ネット調べをしてみましたら、なんと! あの、
「安政の大獄」のきっかけにもなっている「日米修好通商条約」などを締結し、横浜、
長崎、函館の各港での自由貿易の開始が布告されたことに由来しているのでした。
(貿易記念日と制定されたのは、1963年に 通商産業省(現経済産業省)による。)

 江戸末期安政6年(1859年6月28日:旧暦安政6年5月28日)のこの日、日本(徳川幕府)
は鎖国政策を改め、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5か国との間
に結んだ通商条約に基づき、各港で正式に自由貿易を開始し、「開国」したのでした。
今から158年前のことでした。

 この頃の日本には、外国船が相次いで来航していましたが、1853年 黒船来航以来、
米国総領事タウンゼント・ハリスは、通商条約への調印を江戸幕府に迫っていました。
折しも、第12代将軍徳川家慶が死去し、将軍継嗣問題が起こり、一橋慶喜を支持し諸藩
との協調体制を望む一橋派と、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)
を推す保守路線の南紀派とに分裂し激しく対立していたのです。

 このような下地がある中で、条約締結(調印)のためには、朝廷からの勅許を得る
必要があり上京するも、在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許
を得ることは出来なかったのです。この直後、安政5年4月に、南紀派の井伊直弼が大老
に就任するや、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行してしまうのです。

 これに反発した、尊王攘夷派、一ツ橋派の大名ら連座した100人以上の反対派を、大老
井伊直弼は、徹底的に弾圧したのでした。 これが、「安政の大獄」という弾圧事件で、
吉田松陰は最後の刑死者となったとあります。

 貿易記念日から、話は飛んでしまいましたが、insight nowのホームページから当時の
貿易に関する話題を引用しますと、
『現在は、主として燃料や原料を輸入し、自動車や電気機器など工業製品を輸出していま
すが、開国当時は茶や生糸を輸出し、毛織物や綿織物、艦船や武器が輸入されました。』
とあり、同HPには、下記のグラフがありました。

  1867年当時の長崎港における輸出入額(insight now HPより)

   

 図から、当時の長崎港での輸出品は、茶がトップで、次いで石炭、人参、ロウ、昆布
などいわゆる一次生産品や原料が中心となっています。一方、輸入品は、幕府や各藩が
輸入した火器や艦船が上位を占めており、その他は綿織物、毛織物などだったのですね。


 財務省データから、1950年から日本の輸出入金額推移をグラフ化してみました。

   

   
 このグラフで、過去約30年ほどは、確かに輸出が輸入を上回っており、“輸出立国”
と言えるのかもしれませんが、GDPに占める割合からすればその輸出依存率はせいぜい
10~15%程度とされ、他国と比較してもかなり低い水準だと言われています。
 一方では、食料の自給率は40%を割り込んだと言われてみれば、輸入した他国の資源
をひたすら消費しているのが昨今の姿かも知れないと・・ありました。さらに、原発
事故の後、エネルギーは他国からの輸入がさらに増大しているのですね。

 また、経産省HPから、財務省データを用いた、日本の輸出に関する2つのグラフを
以下に引用させていただきましたが、輸出相手国・地域は、米国がやや減少しているの
に反して、中国は急増して来ています。

    日本輸出の国・地域別割合(経産省HPより)
  

 そして、対米、対中国に対する輸出業種では、電機、機械、自動車関連に関してそれ
ぞれ逆の傾向を示しているのです。

    日本の対中国、対米国輸出の業種別推移(経産省HPより)    
   


 開国から、たかだか158年しか経っていませんが、貿易の構造・内容は、大きく変化
してきていますが、日本の人口成長変化や各国の成長・成熟度合いなどの変化により
これからも変わって行くのでしょう。また、そのスタイルも、FTA、PTTなど複雑かつ
内外ともに力勝負がちらついています。


 明日、30日から蓼科農園に行ってきます。
今年3回目となる蓼科農園は、前回(約1か月前)大量に植えた苗たちの状態を見ること
と、ニンニクなどの収穫、それと大量除草がメインの作業と予定しています。
お天気が気がかりです。



 

 

 

 

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市民農園の夏  (bon)

2017-06-27 | 日々雑感、散策、旅行

           藤井少年は、とうとう連勝記録を更新しました。
 
      プロ入り公式戦29連勝といいますからすごいことです。
 
      本人は、舞い上がることもなく、インタビューでも、やや
   
     謙遜気味で至って落ち着いて少年とも思えない大物風格。

 

 夏といっても、6月下旬(26日)の市民農園の模様(私の区画)です。まるきりローカル
な話題で申し訳ありません。

 今は、ちょうど梅雨時で、晴れ間をぬって昨日パチリとしてきました。 4月初から順次
植え付けた夏野菜たちは、この時季見違えるように成長しています。 ジャガイモは、早く
も枯れ始めてそろそろ収穫期を迎えます。 キュウリは、ぐんぐんと伸び、すでに1か月前
あたりから採れ始め、ご近所に助けてもらうほどのこともあります。形は、スーパーで見る
ような、まっすぐに揃ったものにはなかなかできませんが、新鮮で、切るとよい香りが漂い
食感も抜群で、やはり一味違います。

 ジャガイモ、                       キュウリ
 


トマト                 ナス
 

 

 トマトは、順調に育っているようです。実はまだ青いですが、このまま完熟したトマトは
甘く独特の香りとともにまさしく楽しめる‥という感じですね。 5本とも“大玉”ですが、
花数を少なくしないせいか、それほど大きいのはできていないようです。 ナスは、途中で
追肥しましたら、葉の淵がやや黄色味がかって、少し縮んだようになり、心配しましたが、
pookyさんのアドバイスにより、幾分回復したようです。 少しづつ採れ始めました。

 サトイモは、小さいものもありますが、全部芽が出て大きくなっています。 夏を越すと
葉が茂り、行儀が悪くなってきますが、今のところまだ、おとなしくまじめな感じです。
ついでに、追肥をしておきました。 ピーマンは5本あります。 植えて1か月めぐらいです
から、こちらもまだ、まっすぐでおとなしい形です。少しつぼみのようなものがついてきま
した。 こちらも採れだすと一度にたくさん収穫でき、ご近所用になりますが、蓼科の畑の
ような、やわらか・肉厚・大型にはならないのですね。 同じ苗をもらっているのですが、
土、気候などが違うからでしょうか。

       サトイモ(左)とピーマン(右)
          
        

 少し遅れて、長ナス、米ナスを各1本植えましたが、長ナスは、1本長めのものができて
きました。 米ナスの方は、まだ、小さな実と花の段階です。

        長ナス
         

 昨年も植えて味を占め、長ネギをちょっとだけ植えています。  こちらは、ほんと手間
いらずで、時々土寄せするくらいで夏を越し、寒さとともに甘みが出てくるころまでその
まま状態なんですね。

   

ベランダから望遠で・・ 全体の様子(自区画) 市民農園全体の今
 
        (ネギが見えています。)


 蓼科農園は、どのようになっているでしょうか? サツマイモ、カボチャなどは、うまく
成長しているでしょうか?

 

 

 

 

 

 

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ライブ鑑賞  (bon)

2017-06-25 | 日々雑感、散策、旅行

 先日のブログで、“各地のライブ映像”を記事アップしましたが、その後も時々これらの
映像を何度もじっと見たりしています。 音響があるともっと迫力があるのでしょうが(ある
いは、邪魔になる?)今 この時の映像をはるか離れたところで、リアルで見ているのです。
行ったことのない場所ですが、何度も見ているとなんだか慣れてきた感じもあり、“あ、
今日は観光客が多いの、少ないの”、“お天気がいまいち”・・など、 親しげに感じてしま
うのですね。  朝、早い時刻、夕方・・などなど、その折々の時点で様子が違っているのも、
当然ですが、現実感が伝わってくるのです。

 いくつかのライブ映像の中から、イタリア、ヴェネツィアの『リアルト橋』について、
以下に述べてみたいと思いました。

     リアルト橋
      

    (夜の10時半ころの映像をキャプチャしたものです。 この時刻でも、橋の上
     には観光客がまだ大勢見えますし、運河にもゴンドラや水上バスなどが行き
     交っています。)

 まず、リアルト橋については、ウイキペディアから解説を引用させていただきました。
『リアルト橋( Ponte di Rialto)は、ヴェネツィアのカナル・グランデに架かる4つの橋の
一つ。「白い巨象」とも呼ばれる。

 この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネツィアでは最も早く
この周りに集落ができ商業の中心地となった。最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所
で賑わっていたため「富の橋」と呼ばれた。しかし、パレードの見物人の重みで崩壊したり、
火災に遭ったりしたため、石造りの橋に変えようと提言され、1557年、ヴェネツィア共和国
は橋の設計案を一般から募集した。一般公募にはミケランジェロも参加したが、結局、採用
されたのはアントニオ・ダ・ポンテの案だった。

 ポンテの案は、橋の下を多くの船が通ることを考えた単一アーチで、そりの大きい太鼓橋
だった。工事は軟弱な地盤や技術上の問題から困難とされたが、4年後には長さ48m、幅22m、
水面からの高さ7.5mのそりの大きい太鼓橋が完成した。 橋の上にはアーケードが作られ、
商店が並んでいる。ヨーロッパの橋としては珍しく、カナル・グランデを見晴らす欄干と
花瓶型の手摺がついている。』 とありました。 その建設は、1588年~1591年だそうです。 
日本では、まだ関ヶ原の前で、豊臣秀吉が茶会など開いていた絶頂期でした。

 

 ヴェネツィアの地図を見ますと、リアルト橋はS字型のカナル・グランデのほぼ中央に位置
していることがわかりました。 ここを訪れた人にとっては、ここは、サンマルコ広場の近
くで大変賑わうところであるなど、すぐに思い出されることでしょうね。

    地図(S字型のカナル・グランデの中央あたりがリアルト橋 エクスペディアより)
       


  リアルト橋ライブ中継(youtubeより)・・リアルタイム映像です。

           (この映像をフルスクリーンで見ています。左下枠外に
        現地時刻が表示されています。)

 

 で、このライブカメラは、どこに設置されているか? そんなことを思いながらネットを
検索していましたら、どうやら画面の左上あたりに「Palazzo Bembo」とあることに気が付
き、「Palazzo Bembo 宮殿」かもしれない?と思いました。


 橋の右手前には、水上バスのターミナルがあるようで、大きな観光船が頻繁に止まり、
観光客が 大勢乗り降りしているのが見られます。 そして、見ていて飽きないのは、この
運河を、大きな観光船のほか、モーターボートや優雅なゴンドラを船頭が1本の櫓で上手に
操っていて、お互い危険な状態になることもなく活況づいている様子が伝わってくるから
です。

 橋の中央の一番高いところには、たいてい人だかりができていますし、ここ一番の観光
スポットなんでしょうね。


   リアルト橋から見た運河(すぐ左が、ターミナル)(ネット画像より)
     


 リアルト橋には、通路が3本あるようで、両側の道は、カナルを眺めるのですね。上の
写真は、橋の上から水上バスターミナルを左に見た感じですね。

 そして、真ん中の通路は、通路側に向けてずらりとお土産ショップが並んで、ガラス製
品やアクセサリーなどの工芸品が売られているようですね。

    橋の階段(中央の通路 ネット画像より)
     

 

 何ということもなく、ただ、見ているだけなのですが、この中世の街並みが今このよう
に活動しているかと思うとき、ある種の思いがよぎるですね。 シェイクスピアの戯曲
『ヴェニスの商人』なども思い出されますし、さらに昔は,ヴェネツィア共和国であり、
ナポレオンに滅ぼされたなど 改めてその歴史を感じるのでした。


 このほか、日本の上高地,河童橋のライブ映像もたびたび見ています。 ここは、何度か
肉眼でも見たお馴染みの景色ですが、早朝、夕方など人の動きとともに、その場の状況が
呑み込めるような錯覚を覚えるのです。

 

 

 

 

 

 

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オリンピックデー  (bon)

2017-06-23 | 日々雑感、散策、旅行

  いよいよ3年後に迫った『2020TOKYO』東京五輪・パラリンピックは、先月末、その大会
費用約1兆4000億円の大筋が決まりましたが、都外に会場がある県等の運営費約400億円の
費用分担を巡って、千葉、埼玉など知事の反対表明があるなど、いざ具体化となるとなか
なかスンナリと行かないものですね。

  オリンピックは、2020年7月24日~8月9日、パラリンピックは8月25日~9月6日に開催さ
れるのですね。

        TOKYO 2020
                   (JOCページより)

 オリンピックについては、もともと紀元前 9世紀ころから、古代ギリシャで行われていた
ヘレニズム文化圏の宗教行事としての「オリンピア祭典競技」、いわゆる古代オリンピック
であるとされ、それが、1894年6月23日にパリで開催された国際会議でクーベルタン男爵
提唱により近代オリンピック復興が決定し、合わせて国際オリンピック委員会(IOC)が創設
され、その2年後、1896年に第1回アテネオリンピックが開催されたのでした。

 そして、第2次世界大戦後の 1948年、第42次IOC総会で、その日「6月23日」を記念して
『オリンピックデー』(Olimpic day)が定められたのでした。

 このような認識はあまりありませんでしたが、この日は各国の国内オリンピック委員会
(NOC)により、各種の記念ベントが実施されているのです。


  日本ではJOCが主催となり、1987年より毎年「オリンピックデーラン」が全国で実施され
ています。 オリンピックデーランは、6月23日のオリンピックデーを記念して全世界で行わ
れているイベントのひとつだといいます。 

 JOCのページに『誰もが参加しやすい2Km~4Kmのジョギングを中心としたイベントで、オリ
ンピック選手と一緒に走ることにより、スポーツの楽しさとオリンピックの基本精神の理解
を促すことを目的としています。』とありました。

 同ページに、今年のスケジュール表がありましたので、以下に引用しました。

 オリンピックデーラン スケジュール
 

 

 また、オリンピックスポンサーについても、以下に引用させていただきました。

   

     

        

 

 2020年だとまだ、足腰はなんとか大丈夫かもしれませんから、どこかの競技会場で直接
見ることができることを期待することとします。



 

 

 

 

 

 

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夏至 ‛17  (bon)

2017-06-21 | 日々雑感、散策、旅行

      今週からイギリスのEU離脱交渉が始まりました。 また、先の
      フランス大統領選で、無所属から出馬した弱冠39歳のマクロン氏が
      ダントツで
勝利しましたが、このほど総選挙(国民議会選)でも、
      驚きのマクロン新党が過半数を
獲得しました。


 今日6月21日は、二十四節気の「夏至」にあたります。太陽が丁度、黄経90度に位置し、
昼が最も長く、夜が最も短い日なのです。夜の7時ころでもまだ薄明るいですよね。
ちなみに、関東では、昼は14時間36分、夜は9時間24分です。 また、冬至はこの反対で、
昼は最も短く、夜が長くなり、その差は大体5時間あるのですね。

 夏至については、当ブログの3年前、2014.6.22 に記事アップしていますから、内容は
そちらに譲るとしまして、ここではそれ以外のことなどについて記述したいと思います。

 当然のことですが、夏至は日本独自のモノではなく、世界各国で一つの基準日として
考えられています。英語では、su
mmer solstice とよばれ、その日、時刻は世界時(UT)
で決められています。特に北欧など冬が長い地方では、夏至を祝うミッドサマーの祝日と
して各国、各地域ともお祭りが行われているようです。

 ここでは、フランスのFête de la Musique(音楽のお祭り)を取り上げてみました。

         パリの音楽の祭り(例)
          
                      (フランス観光開発機構HPより)

 このイベントは、1982年にフランスで生まれ、現在世界約120ヶ国以上で6月21日(夏至)
に開催され、この
日はフランス全土が、音楽祭のリズムに揺れ動くといいます。
 この音楽祭は、一般市民に開かれたイベントとして 日がもっとも長くなる夏至の日に、
通りや広場、庭園や中庭、美術館、お城やバー、劇場などフランスのあちこちで多くの
コンサートが開かれるのだそうです。ジャズ、ソウル、ファンクやレゲエ、ポップ、クラ
シックなど様々なスタイルの音楽が楽しまれるという。

 日本でもこの日、同日開催(今年16回目)で行われるとありますから、大阪、神戸、
京都、東京など広い範囲の
各地でにぎわうことでしょう。 
開催内容はジャンル、プロ・
アマを問わない音楽家によるライブ・コンサートで、すべて入場無料とし、 参加協力を
得た会場で行われるそうです。

  音楽の祭日(日本)(ともに、Fête de la Musique au Japon HPより)

           


 またまた、蛇足を一つ・・。
 夏至、つまり太陽が黄経90度の位置に来る時刻が世界時(UT)で、以下のようになって
いて、その9時間後が日本のその時刻ですから、すなわち・・

         世界時(UT)    日本時(JST)
    2017年  6月21日04:24  +9   6月21日 
        2018年  6月21日10:07  +9    6月21日
    2019年  6月21日15:54  +9    6月22日 (24:54となり日付が繰り上がる)

 1992年から2019年までは、西暦を4で割ってその余りが、0,1,2では、21日、余りが
3のときは夏至は22日と計算できるようですが、2020年から2055年はすべて21日となる
のだそうです。


 また、昼が一番長いですから、それだけ太陽が長い時間出ているということになり、
当然気温が高くなる気がしますが、日本の場合、夏至が梅雨の時期と重なっているケース
が多く、丁度、今日の関東は、朝から雨模様で、西日本は大雨だとか報じられています。
今日は涼しいくらいですから、実際には夏至に暑さのピークを感じることはなく、猛暑日
が続く7月の方が暑いのですね。 このことは、一日の
最高気温でも、日射量が最も多いと
される12時よりも、1~2時間遅い時刻になることが多いですね。

 これは、気温上昇が太陽高度だけによるものではなく、太陽の光で温められた土や建物
の温度が空気に伝わることで発生すると考えられていますから、これと同じことが一年を
通じた気温でもいえることであり、徐々に地球が暖められて一年の最高気温が生まれる
のです。

 熱中症に注意しましょう!

 

 

 

 

 

 

 

 

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桜桃忌  (bon)

2017-06-19 | 日々雑感、散策、旅行

 今日6月19日は桜桃忌です。

 文学少年・少女なら必ず通る太宰治は、無頼的姿勢を基調とした多くの作品(小説)の
魅力と共に、あまりにも若い死であるばかりか、何度となく自殺未遂を重ねた故に、なお
一層の魅力的側面を醸しているのかもしれませんね。

 そんな雰囲気から、まるで遠い私でさえ、三鷹に住んで、玉川上水で入水自殺したこと
などは知るところで、この日に当たり記事アップすることとしました。

 太宰治は、明治42年(1909年)6月19日(桜桃忌と同じ月日)に、青森県五所川原の有数の
大地主の六男に生まれ、学業に優れ、芥川龍之介、志賀直哉、井伏鱒二などの作品に大きな
影響を受け、10代で作家を目指し、既に習作を発表しているのです。
 太宰は、情熱家であり早熟でもあり、芸者小山初代を知ることになるが、作品への失望、
思想的ギャップなどから自殺を図り未遂に終わります。 その後井伏鱒二に弟子入りして、
上京して小山初代と同棲中に女給田部シメ子と心中を図り、彼だけ生き残り、初代との新婚
生活を送っているという。 22~3歳の頃のようです。


          (ウイキペディアより)

 その後、意欲的な創作活動は続き、作品を多数発表するも、大学の卒業見込み立たず、
仕送り打ち切りなどから 首吊り自殺を図るのです。周囲の支えと援助により一旦は立ち
直るも、小山初子と自殺未遂となりそのまま離別する。  見かねた井伏鱒二などが仲介
して正式に 石原真知子と結婚し本人も反省するとありました。これが、30歳の頃で、住ま
いを東京三鷹に定め、創作に打ち込み『女生徒』は激賞され活動は一気に拡大するのです。

 しばらくは平穏な創作活動が続いたようですが、太田静子との出会い、美容師山崎富栄
知り合うのですね。 長編小説『斜陽』が発表されベストセラーとなり、“斜陽族”などの
流行語まで生まれるほどになっていたのです。 翌23年には、『人間失格』や『桜桃』など
を書き上げますが、太田静子との間に子供が出来(正妻真知子との間には2人の子供がある)、
本人の大量喀血(結核)などの病は 山崎富栄の世話になるなど、複雑なもつれとも想像され
るなどから、昭和23年6月13日に、愛人山崎富栄と玉川上水に入水するのです。
 なんと、満38歳の若さでした。二人の遺体は、6日後の6月19日に発見されました。 この
6月19日は奇しくも太宰の誕生日と同じ日なんですね。  そして6月19日を彼の作品から
『桜桃忌』として太宰の忌日とされているのです。

          玉川上水たもとの玉鹿石(ぎょっかせき)
           
            (入水地点か? ブログ「夢織人の街TOKYO」より)

 どこか影を宿した魅力を持った情熱的・無頼的小説家、太宰治は、まさしく頭脳、情熱を
あまりに短い生涯に凝縮した人生だったのですね。

         太宰治記念館『斜陽館』 旧津島家住宅(青森県五所川原)
          (ウイキペディアより)


 
  またまた、無粋なことながら、二人が入水した玉川上水はどのあたりか? 
割と、三鷹駅の近くなのではないか、その内に一度現地を訪ねてみたいと思います。
もう、50年ほど前になりますが、2か月間だけ札幌から武蔵野に転勤になった一時住まいで、
私は三鷹市下連雀にいたことがあります。そのあたりも含めて散策してみようと思いました。

 

 

 

 

 

 

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自然葬の現状  (bon)

2017-06-17 | 日々雑感、散策、旅行

  昨日(6/16金)は、葬送儀礼つまり “死んだ時の処理” について、御年齢66歳に
なる方が、この3月に大学の修士課程を終了し、4月から博士課程に進み、この問題の研究
に情熱を注ぐ K氏から、表題のお話を伺いました。
 この場は、時々当ブログにても登場しています「Macの会」という、年齢、職業、性別
など無関係なグループが集まって、誰かのテーマ発表があったり、各自の近況報告などを
ネタにしたお話会みたいな場で、前回は、我がpookyさんの“蓼科農場ものがたり”が楽し
く発表されましたが、そんな自由な雰囲気で話し合ったりしているのです。

         お話会の様子
          
                (飯田橋 日本勤労者山岳連盟にて)


 お話の内容は、明治頃から促進されてきた、家族墓(先祖代々墓)や檀家制度のような
葬送が 1990年代あたりから少しずつ変化して来ているというのです。ここに来て、これら
の墓の継承の困難さや 先祖祭祀の希薄化とともに、墓に入らない選択や墓に入れないなど
の考え方の台頭、散骨の認知度の高まり(2013年調査で95%)さらに自然葬を勧める「NPO
法人葬送の自由をすすめる会」の登場(今年、発足26年目)により、これまでの慣習に
とらわれない葬送の形が徐々に増えて来ているという。

 自然葬というのは、広く見れば、第一次処理として、土葬、風葬、鳥葬、水葬、火葬が
あって、国や法律あるいは行政により規制されていて、日本では現在、火葬が許されてい
ます。その火葬の中で、“自然葬”と判定されているのは、「散骨」「樹木葬」「墓石葬」
があります。 普通われわれは、「墓石葬」に慣れていますね。 「散骨」には、山中の
ケルンなどの特定場所の場合と 海、川などの場所不特定に分けられています。
 また、「樹木葬」は、サクラなどの樹木に取り囲まれた墓地の区画などに埋葬される
(墓石は作らない)形式で新しい霊園といった感じにも思えます。

 これらの自然葬の現状については、大半は「墓石葬」で、年間130万人が亡くなっている
うち、墓石葬以外は過去10年でわずか数千件、海洋散骨は、2000件だそうです。 散骨の
認知度は95%に及ぶものの、具体的アンケートでは、“遺灰を海・山に撒きたいという人”
は、1998年で13%、2003年で25% とまだ低調ではありますが、かなりのペースで増加してい
るとみることができるのです。

 自然葬への傾向は、上述しましたが、さらに詳細に見てみますと、以下のようなさまざま
な理由・考えがあるようです。これも時代の変化がその背景にあるのでしょうね。

①  葬儀の意味・考え方の変化から、葬儀費用の観点も含めて家族葬、直葬など小型化して
た。

②  葬送儀礼の商業化がますます激しくなってきた。

③  家族墓を継承することが困難化してきている。一人娘は嫁いでいる。子供は大都市で
仕事をしている、海外移住している。

④  家族社会の変容、死の個人化が進む。死に対する考え方が多様化してきている。旦那
とは一緒の墓に入りたくない。(“あの世離婚”、ペットとならOK)

 このような背景を含めて、既成の葬儀に疑問を感じたり、葬送儀礼の商業化への反発感、
死の個人化、家墓に祀られることを希望しない人たちの動向に合わせて、先の「葬送の
自由をすすめる会」が登場して、現状まだまだ少ないけれども、徐々にそうした方向の流れ
が認められるというのです。

 樹木葬としては、既に25周年を迎える「NPO法人 エンディングセンター」が、東京は町田
市、大阪は高槻市で実施しています。お話では、DVDによる映像が上映されましたが、これ
までの“霊園”のようですが、サクラなどの樹木をシンボルとして、そこに埋葬されるとい
う形式で、期日を決めて合同の慰霊祭のような催しが実施されるほか、生前から会員制度に
より、交流会などを通じて新しい輪が生まれるなどこれまでの霊園とは少し違った要素が込
められていました。

        桜葬
         (エンディングセンターより)


 果たして、自分はどうしたいか? 自問しても、なかなか答えが出ないところです。
 私は、既に入るべきお墓がありますが、一人娘は嫁に行っているし、親戚といってもその
うち関連は希薄になるだろうし・・そうなるとこの墓もいずれ近いうちに無縁化することと
なる事は必至ですね。 お寺さんも、その内、代が変われば、書きモノだけが残るだけ・・
 まぁ、自分はあの世にいるわけで、これらの事態は知る由もないから、ま、いっか! 
無責任だけれど、後のことは“知りません”。きれいさっぱり、散骨がいいかなぁ!

 

注『散骨の法解釈としては「刑法の遺骨遺棄罪や墓地埋葬法に反するものではなく、死者を
弔う祭祀として国民感情に配慮しつつ相当の節度をもっておこなうならば違法ではない」と
いう考えが定着しており、散骨をおこなうことは、個人の自由な判断に任せられているとい
えます。』

 

 

 

 

 

 

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おこしや祭り  (bon)

2017-06-15 | 日々雑感、散策、旅行

  あの十日えびすや福男で賑わう西宮神社に古くから伝わる「おこしや祭り」がありました。
6月14日(昨日)に行われる「おこしや祭り」は、関西で一番早い夏祭りとして「ゆかた祭」
「びわ祭」「尻ひねり祭」とも呼ばれているそうです。
 この祭事は、「尻ひねり祭」がその由来で、西宮神社HPには次のようにありました。

『その昔、えびす様が神戸の和田岬の海から漁師さんに連れられてこちら(西宮)へ来られ
る途中に、その場所で疲れて寝てしまわれたのです。 えびす様がなかなか起きないことに
困った漁師さんは、失礼とは思いながらえびす様の尻をひねって起こし、やっとこちらまで
お連れしたというお話が伝えられています。』

 で、尻ひねり祭り→おこしや祭り となったそうで、昔は、この日ばかりは参拝者同士が
お互いに、お尻をひねりあって騒いでいたといわれています。このような祭事は、神社創建
の頃(平安時代?)からあったらしいのですが、少なくとも元亀二年(1571年)の『西宮殿
年中御神事』の中にその記録があり、この時代には既に行われていたようです。

             おこしや祭り
         (ネット画像)

 今日では、浴衣姿の華やかな「ゆかた祭り」とか、季節柄「びわ祭り」として、“びわ娘”
を繰りだしたりした、商業的祭りの色彩が強くなっているようです。

 西宮神社は、福の神『えびす様』の総本社として全国的に有名ですが、銘酒の産地として
名高い灘五郷の一つ西宮市に鎮座し、その地名の由来ともなっているといいます。
 平安時代にはすでに高倉上皇に関する記録があり、室町時代には、七福神信仰による
“えびす様”が、福の神の代表となり、その信仰の本拠地として栄え、謡曲、狂言などの
芸能を通じて全国に広まったとあります。 徳川幕府以降、社勢はますます盛大となると
ともに、上方の商業経済の発展に伴い、福の神“えびす様”が商売繁盛の神として信仰され
るようになって行ったとありました。

       西宮神社
         (同HPより)

 今朝の神戸新聞(ネット)に、『今年の祭りも大勢の参拝客が集まり、午後2時20分
ごろ、えびす様のみこしが神社本殿を出発。  太鼓の音とともにびわ娘や氏子、人形芝居
えびす座らが街を練り歩いた。その後、御輿屋跡地で巫女による神楽奉納があった後、訪れ
た人にびわ娘から、ビワや甘酒が振る舞われた。』とありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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言葉のふしぎ  (bon)

2017-06-13 | 日々雑感、散策、旅行

  特になんてことはありませんが、最近、ふっと頭をよぎったりして、“どうして、この
ような意味になるのだろう?”みたいな言葉があります。  いくつかありますが、その
内容的な構図はそれぞれに異なっていて共通するものではないと思います。 自分がその
ように思っているだけかもしれません。

 そんな、曖昧な事柄ですが、以下にいくつかの“不思議な言葉”を列記してみました。

 

 今度こんど) です。 漢字は、「今」で、このたび なのに、“今度遊びに
行くよ”とか“その話は今度にしよう”など、「今」ではなく「次回」あるいは「少し後」
みたいに使われています。これが不思議・・なんですね。

  手元の辞書を引いてみました。①新明解国語辞典(三省堂 1979年)、②広辞林(三省堂、
1968年)。
 ①では、1現在行われているもの、2ごく最近のこと、3近い将来のこと とあ
り、②では、このたび、今回 と素っ気ない意味でした。 
 ちなみに、「今」というのは、①では、現在の時点、もうすぐ、もういちど、かりに と
いう意味があり、 ②では、現代、少し前、新しい、おっつけ、やがて、さらに とありま
した。

 この流れでいえば、今という意味合いもあり、近い将来(この次)の意味もあるわけです
が、どうも、現在の時点という意味合いにはとれないのですね。ネット調べでは、 何回
か行われる事柄の中で、いま行われていること。また行われたばかりであること。このたび。
今回。「今度の話は気乗りがしない」「今度という今度は懲りた」 
最も近い将来。こ
の次。次回。「今度の休みに山へ行く」 
最近。このごろ。
 さらに、「今度」は現在のことだけでなく、近い過去と近い未来についても用いる。
「今度入社したA君です」「今度そちらに伺います」「今度会うときには」など。  また、
「今度のオリンピックでは・・」といった時、終わったリオの話しである場合もあり、次回
の東京オリンピックを指す場合もあります。 関心の違いで意味合いが異なるのですね。
 今度=sometimeの意味もある。「今度ランチしよう」 しかし、「今回」となれば、過去
と現在の意味はあるが、未来について使うことはない。とあり、 言葉は、不思議です。

             (ネット画像より)


つぎは(今度は)、

 多少です。

 「多少」の使い方は少々面倒くさい面があるという。
 辞書①(国語辞典)では、多いか少ないか、 いくらか、文脈により多い/少ない どちら
の意味にもなりえる。「多少の心得はある」(多い)、「多少なりとも~」(少ない)
辞書②(広辞林)では、おおいこととすくないこと、多いこと、いくらか、少しは  とあり、
どちらの意味もあるようですが、ネットなどの例では、圧倒的に「少ない」の意味で使われ
る言葉のようだとあり、「多い」意味でつかわれる例は、現代語ではあまりないようだとあ
りました。
「多少の誤解は生じるだろう」「多少は無理がある」

 しかし、。「多少にかかわらず、ご注文に応じます」などでは、多い意味も少ない意味も
共に含んだ“量の多寡”を問う内容もありますから、一概には言えないのかもしれません。

 

 『寄るここでは、天気予報などで使用する “風向き” のことなんです。この言葉
は、ずっと以前から気になっているのですが、例えば、南寄りの風 といった場合、南の方
から吹いてくる風のことですね。 しかし、「寄る」という意味からすれば、右寄りに走る 
といえば、右の方によって(つまり右方向に)走るとなりますし、「寄り道」でも、どこか
に行く途中で別のところに行く・・その方に寄る・向かう 意味となり、いずれにしても、
その方向に向かって となります。南寄りの風 とは、南の方に向かって流れる風 の意味に
なるような気がしているのです。(文字からくる印象としては)

 辞書①では、側に行く、重なる、途中で他のところを訪ねる 相撲の寄り切り  辞書②
では、近寄る、近づく、立ち寄る、集まる、重なる、かたむく などがあり、どうみても、
風向きの例にはなりにくいように思うのです。
 ちなみに、『因る』(よる)という意味では、①では、よりどころとする、原因など
②では、もとづく、原因する、応じる などで、どうも風向きの場合は、こちらの『因る』
が、言い当てているようですね。 しかし、ネットの知恵袋などでは、『寄り』が使われて
います。

さらに、気象庁での用語では、以下のようになっていました。(漢字は使われていない)

風向に関する用語
  用語


      説明
  風向   風の吹いてくる方向。
備考 観測では16または36方位を用いているが、予報では8方位を用いる。
  (南の)風   予報期間内および予報区内の平均風向が(南)を中心に45度の範囲にあるとき。
  (南よりの)風   風向が(南)を中心に(南東)から(南西)の範囲でばらついている風。
備考 a) 東、西、南、北の4方向のみに用いる。
b) 予報文には用いない。注意報・警報、情報文でも必要最小限にとどめる。
  (東または南の)風 備考

a) 音声伝達では「東の風または南の風」を用いる。
b) 予報区域内で、場所によって東の風が吹くところや南の風が吹くところがあるときに用いる。
c) 風向が大きくばらつく予報は好ましくないので多用しない。

                                       (気象庁HPより)

 靴下です。 なぜ靴下というのでしょうか?
 靴よりは上にあるはずですが、なぜ“靴の下”というのか不思議なんですね。 辞書①で
は、位置や程度が低い、内側にあって表から見えにくい、仮の(下書き)、すぐそのあと、
辞書②でも、しも、うら、低い場所、劣った地位、ためす などの意味がありました。

 これからすれば、どうやら、“内側”の意味からきているように思えます。ネットでは、 
日本語の「下」という言葉には、上下の下という意味の他に、内という意味もあります
よね。 
例えば、「ジャケットの下に着る物」と言えば、ジャケットの下側でボトムス、と
は誰も思いませんよね。ジャケットの内に着るシャツ等を指します。 
それと同じ意味で、
靴の内に履く物だから、靴下という名前になりました。
靴よりもはみ出して、ふくらはぎや
膝まである場合が多いので、ふと考えると不思議な感じはしますよね。』 また、『靴下は、
靴の“下(内側)”に穿く「下着」の一種。
雨や雪の日などに靴の“上(外側)”に履くの
は「オーバーシューズ」です。同様に、ズボンの“下(内側)”に穿く下着が「ズボン下」
なら、パンツの“上(外側)”に穿くのは「オーバーパンツ」です。

 

茶碗 ご飯を入れるお椀なのに、なぜ “茶” なんでしょうか?
 ネットから、引用させていただきました。 『
茶碗とは、元来は茶の湯において用いられ
る茶を入れて飲むための碗を指す語である。 ただし、近年では広く陶磁器製の碗を指して
用いられる。 
現代の日本において「お茶碗」と言った場合には飯茶碗を指すことが多いが、
ご飯をよそうための椀は、特に ご飯茶碗 あるいは飯碗と呼び区別することがある。

 なるほど! さらに追い打ちをかけるようですが、『元々、中国からお茶と共に、お茶を
飲むためのお椀として入って来た器を単に「茶碗」と称しましたが、
時代と共に「お茶を飲
む茶碗」「物を入れる茶碗」などに分化されご飯を入れるのに丁度良い事から、茶碗に、
ご飯を入れるのが普及した。
』 『碗形(わんなり)の形をした陶器の事を「茶碗」と総称
しているからです。

 だそくで、お茶を飲む茶碗も、抹茶茶碗、煎茶用の煎茶茶碗、白湯・番茶用の湯呑茶碗が
あります。

 

身体からだのことですが、どうして“身長”といい、“体重”というのでしょうか?
 身体の意味は、 
1み。からだ。「身体」「病身」 2おのれ。みずから。じぶん。
「自身」「立身」  3物のなかみ。本体。「刀身」「砲身」 とあり、身体の定義としては、
生物的かつ文化的に規定された、有機体としての人間や動物の構造を指す。』と難しい
内容となっています。 で、身長・体重については、ヤフー知恵袋に次のようにありました。

『体重は、体の重さという意味ですからよいとして、身長に身という字を使うのは人以外の
動物と区別するためです。身には、生きている人間のからだという意味があります。よって、
身長は、生きている人間が直立したときの長さという意味なのです。 対して、人間以外の
動物は体長を使い、身長とは言いません。人以外の動物は直立しないので、頭+胴の長さを
体長と言います。 つまり、体重は人間だろうが動物だろうが同じですが、からだの長さの
定義は人と動物では異なるので、人に身長を使い、動物に体長を使って区別しているのです。』

 そうなんですね。 独身、全身、親身、身長、身上、身軽 などがあり、一方で、体重、
体位、体操、全体、胴体、躯体 などを見ていますと、定かではありませんが、なにやら、

“身”というのは“ヒト”の中身に重点があるようで、“体”は、どちらかといえば、形
態、物理的なかたちに重点を置いた意味があるように思えてきました。

 

 まぁ、どうでもよいことにくどくどと時間を費やして申し訳ありません。このほかにも、
『道路』などのような、同じ意味を持つ字が重ねられて表現されている言葉も多いのですね。
延伸、会合、停止、創造、表現、返還・・などたくさんありますし、家などの各部屋の呼び
方も、居間、客間、寝室、食堂、玄関、さらに書斎など・・これが大きくなり、公共的な
物件ともなると、図書館、美術館、体育館、講堂、議事堂、金堂・・などがあります。
 また、機会がありましたら、記事にしてみたいと思いますが、お付き合いいただけるで
しょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

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各地のライブ映像  (bon)

2017-06-11 | 日々雑感、散策、旅行

        関東地方も 7日に梅雨入りしたと発表があり、今日11日は雑節の“入梅”ですが、
       このところずっとお天気続きで、市民農園の土も乾いています。
       藤井少年は、25連勝し、歴代単独2位を進んでいます。

 

 ウエブカメラで捉えた情景をインターネットで配信されている映像です。

 ちょっとの間 関心を向けていないうちに、たくさんのライブ映像配信がyoutubeにあり
ました。 それも、少し前のような駒落としの映像ではなく、クッキリとなめらかな動画を
見ることができるのです。 昨年あたりから、矢継ぎ早に提供されているようです。

 皆さま、既にご存知かと思いますが以下にご紹介します。
 
 [youtube動画は、Chrome (Google Chrome) がよいようです。]

           上高地 河童橋 
          (youtubeより)

 

 写真は、文字のそれよりもはるかに情報量が多く、これが動画ともなればその情報量は
さらに大きくなり、かってはコスト的に配信することなどできなかったのです。デジタル
技術などが進んで、映像の圧縮技術、それに伝送技術もより広帯域の伝送が可能となり、
このような事が実現されているのですね。
 30年以上も前の話しですが、この頃はまだ現在のような技術には至っていなかったので
このような映像配信は、アイデアはありましたがまだ夢の中でした。

 ちょっとくどくなりますが、写真にしろ文章にしろ、それから得られる情報は、それら
が編集されたり、カメラマンの目線での情報ですから、その時点で既にフィルター(情報
抽出)された情報を得ることになりますが、これがライブ映像となれば、(カメラの設置
方向バイアスはありますが)その内容は、その時点時点での情景であり、その映像の中か
ら何らかの情報を得るのは、その映像を見ている人(主体)の目的意識とか問題意識に
よって生じていると考えられるのです。 ですから、デザイナーや建築家などは、ファッ
ション雑誌や建築集からだけではなく、その現場や環境を含めた中から、ある種のイメー
ジを創り出す、つまり情報化するのではないか、それがクリエイティブワークのポイント
ではないかと思うのです。

 くどくどと述べましたが、こんなことを思って、その昔にこのライブ映像配信を実現し
たかったのですね。 今ようやく出来ているのです。ご紹介しますのは、上高地の河童橋
とか 外国などの有名なスポットのライブ映像ですが、中には渋谷のスクランブル交差点
の映像などもあり、いずれも見る人の関心によって意味する情報は違っているかもしれま
せん。 たとえば、離れたオフィス間でこのライブ映像がみられたとすれば、その映像を
見ることによって、何か思いつくことが出て、コミュニケーションのきっかけを創り出す
ことがあるのですね。Aさんの姿を見た瞬間に、Aさんに話したいことがあったことを思い
出す・・など。

                  

 前置きがずいぶん長引いてしまいました。申し訳ありません。

 以下には、たくさんのライブ映像配信サイトからいくつかをピックアップしてご紹介し
ました。 ライブ映像を見て、何を感じるでしょうか?

 

 

上高地河童橋

 

渋谷スクランブル交差点

 

静岡市さった峠高速道

 

とかち帯広空港

 

ノルウエ―、ゲイランゲルフィヨルド ユネスコの世界遺産 世界でも最大級の長さや
                 深さを持つ

 

 アメリカ、ワイオミングタウンスクエアー

 

アメリカ、カリフォルニア科学アカデミー サンフランシスコ・ゴールデンゲート
                   パーク内の自然博物館

 

イタリア、ヴェニス セント・マークス湾

 

イタリア、ヴェニス リアルト橋 カナル・グランデに架かる4つの橋の1つ。白い巨象
                ともよばれる。 
  建設: 1588~1591年

 

オーストリア、アルプス・タンネンアルム山荘

 

 

 

 

 

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プラセボ  (bon)

2017-06-09 | 日々雑感、散策、旅行

          一昨日、関東も梅雨入りの宣言がありました。しばらくは、鬱陶しい日が
      続くのでしょうか。  14歳の藤井少年はプロ入り23連勝を走り、歴代
      単独3位の地位まで昇っています。巨人は、ナント球団ワーストの13連敗を
      記しファンは嘆いています。

 

 フランス語でプラセボ、英語ではプラシーボというのですが、日本語では偽薬(ぎやく)
のことです。つまり、ニセの薬のことですが、ウイキペディアには次のようにあります。

偽薬(ぎやく)とは、本物の薬のように見える外見をしているが、薬として効く成分は
入っていない、偽物の薬の事である。成分としては、少量ではヒトに対してほとんど薬理
的影響のないブドウ糖や乳糖が使われることが多い。』 『偽薬は、偽薬効果(プラセボ
効果)を期待して処方されることもあるが、本物の薬の治療効果を実験的に明らかにする
ため、比較対照試験(その代表として二重盲検法がある:文末参考)で利用されることが
多い。 不眠などの不定愁訴を訴える患者に対し、睡眠薬を継続して処方することが危険と
判断される場合、ビタミン剤を睡眠薬と偽って処方することがあるが、WHOはこのような事
を行わないよう勧告している。』

          偽薬
           (ウイキペディアより)


 言い換えれば、偽薬(プラセボ)は、本物の薬の治療効果を明らかにするためのオトリ
的な役割で使用されることが多いとありますが、治療のために偽って使用するのは、賛否
両論があって必ずしも推奨されていないようです。

 しかし、『偽薬を処方しても、薬だと信じ込む事によって何らかの改善がみられる偽薬
効果(プラセボ効果)があることも事実です。この改善は自覚症状だけでなく、客観的に
測定可能な状態の改善として現われることもある。』とか。

 『特に痛みや下痢、不眠などの症状に対しては、偽薬にもかなりの効果があるとも言われ
ており、治療法のない患者や、副作用などの問題のある患者に対して安息をもたらすために、
本人や家族の同意を前提として、時に処方されることがある。 医師法にも、暗示的効果を
期待し、処方箋を発行することがその暗示的効果の妨げになる場合に、処方箋を交付する
義務がない事が規定されている。』 とかなり現実的な考え方が示されています。

 
手元にある会報に『“痛み”の科学』(柴田俊彦氏、阪大大学院疼痛医学講座教授)と題す
る記事があり、ここでもプラセボに関する記述があります。 プラセボ効果が
想像以上に
大きいことが示されています。 腰痛に効く鎮痛薬の臨床治験で、10段階
で痛みを表現した
時の痛みが実薬で2.43だったのに対して、プラセボで1.96であ
った。数百人のデータの平均
だといいますから、そういうことなんでしょう。

 さらに、『科学的な立場から見ると世の中の健康食品の大半はプラセボ効果によると考え
るのが妥当であろう。プラセボを生体に備わった内的な制御機構の表れだ
と考えると、痛み
に対する心理的アプローチや運動療法などはプラセボ鎮痛を上手
に働かせる方法という見方
も出来る。』 と述べられています。

              

 もともと、このブログ記事をまとめてみようと思ったのは、会報記事『“痛み”の科学』
に触発されてのことでした。それで、ブログの方のタイトルを“プラセボ”
としたのですが、
本来は、“痛み”ということについて立ち止まって見たかったか
らです。
 で、会報以外にネット検索などして“痛み”を少し理解したような気がし
ています。
 “痛みが分かる~高齢者!”・・・なんちゃって!

“痛み”は、国際疼痛学会では、「痛みは、実質的または潜在的な組織損傷に結びつく。
あるいはこのような損傷を表す言葉を使って述べられる不快な感覚・情動
体験である」と
定義されているそうですが、その注釈に「痛みはいつも主観的であ
る。人は幼少期に外傷
などの経験を通して『いたみ』という言葉の使い方を学ぶ。」 
とあり、どうも主観的な
要素が強く、痛みを科学的に扱うのはどうも厄介のようで
もありそうです。

 余談になりますが、先の横綱稀勢の里の左肩のけがはどう見てもいたそうですが、本人は
痛がる顔もしてないですね、反対に、子供は、注射器を見た途端に既に痛みを
感じ泣きだし
て防御しようとする。 慢性の痛みでも、程度が軽ければ、楽しい時な
どは痛みを忘れて、
その時が過ぎるとまた痛み出す・・そんな経験もありますね。

 痛みは、大きく分けて、急性疼痛と慢性疼痛の二種類に分類され、慢性疼痛は「治療に
必要とされる期間を超えているにも関わらず持続する痛み」といわれ、その原因として多い
疾患としては、腰痛症、変形性関節症、関節リウマチ、骨粗しょう症などがあるとされて
います。

 厚生省HPから2つのグラフを引用しました。

 

  

  上のグラフ、有訴者率をみると、その第1位は男女とも腰痛、肩こりで、この第1位は
長年不動の位置を占めているそうで、いかに多くの人が腰痛に悩んでいるかということなん
です。
 しかし、柴田氏論文によれば、『この腰痛の約85%は非特異的腰痛とよばれ,その原因
を特定することはできない。治療法は,手術,神経ブロック,薬物治療,運動療法,物理
療法,装具,心理療法,補完代替医療等,非常に多岐にわたり,系統だった診療の実施は
困難である。
 2012年日本整形外科学会と日本腰痛学会が腰痛診療ガイドラインを策定し,ようやく
腰痛治療の標準化にむけて取り組みが始まっている。』という状況で、現在でも十分とは
言えないようです。

 慢性疼痛はいろいろな障害を引き起こしています。痛みにより会社勤務ができなかったり、
勤務していても実力が発揮できなかったり、家庭では育児が出来ない、家事に支障をきたす、
睡眠がとれない、極端な場合、寝たきりなど、家族や社会一般にとっても負担増をきたします。
 特に原因不明の慢性疼痛は、患者にケアやサポートを提供する医療従事者にとっても、
大きなストレスにもなり、不十分な治療は患者、家族および社会にとって生理的、心理的、
経済的、社会的な悪影響をもたらすといわれています。

『うつ病などの精神科疾患によるコストが膨大であることはよく知られているが、アメリカで
の研究によると慢性痛による社会的コストは、精神科疾患を上回り年間63兆円に上るという。
日本人が我慢強いことを差し引いても、慢性痛によって年間数兆円単位のコストがかかってい
ると推定される。』と述べられており、まだまだ手薄となっているこの分野の研究を推進する
ことは、国益にも資する行為としてさらに力を期待したいところです。

            

 厚生労働省HPの関連部分に、「慢性の痛みに関する検討会」(平成22年9月)で、『今後の
慢性の痛み対策について(提言)』があり、そのまとめとして以下のように記述されていました。

○ 慢性の痛みは、原因疾患のみならず、生活環境、行動様式、個人の性格等を反映して多彩
な表現をとるために、個々の症例に応じてきめ細やかな対応が求められる。痛みを完全に取り
除くことは困難であっても、痛みの適切な管理と理解を行うことによって、痛みを軽減し生活
の質を向上させることは可能である。

○ 多くの国民が慢性の痛みに悩んでいる現状を打開するためには、痛みの緩和、痛みと関連
して損なわれる生活の質や精神的負担の改善を目標に、医療や社会、医療を取り巻く人々や
国民自身が、それぞれの立場で計画的かつ協力的に痛み対策に取り組むことが重要である。

○ 本検討会の議論を踏まえて、早急に慢性の痛みに関する医療体制整備や医療資源の適正配
分、また、痛みによる社会的損失の軽減に寄与するような取組が開始されるよう、厚生労働省、
文部科学省、全国医学部長・病院長会議などに提案したい。

 

 ネットを見ていましたら、「プラセボ製薬株式会社」という会社が目に止まりました。
内容的には、製菓であり、全くクスリとは関係がないのです。会社概要にもそのように書か
れていて事業内容は 「食品として用いる偽薬の小売、卸売」となっていました。平成26年
3月に設立され、会社住所は和歌山県和歌山市とありました。

 

(ご参考) 
 『二重盲検法(にじゅうもうけんほう、Double blind test)とは、特に医学の試験・研究
で、実施している薬や治療法などの性質を、医師(観察者)からも患者からも不明にして行う
方法である。プラセボ効果や観察者バイアスの影響を防ぐ意味がある。 この考え方は一般的
な科学的方法としても重要であり、人間を対象とする心理学、社会科学や法医学などにも応用
されている。』
(ウイキペディアより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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西田幾多郎  (bon)

2017-06-07 | 日々雑感、散策、旅行

 あの、日本を代表する哲学者、西田幾多郎は、終戦直前の昭和20年(1945年)6月7日に
病気で急死しました。(満75歳) なので、今日が命日に当たりますので、ブログに取り
上げてみましたが、業績内容が難しく、とても踏み込めませんでした。
 ネット検索により、せめて氏の周辺なりとも把握してご紹介に留めることとしました。
悪しからずご了承のほどよろしくお願いします。

                

 西田幾多郎は、明治3年(1870年)、石川県河北郡宇ノ気町(現在:かほく市)に生まれ
ます。江戸時代には西田家は豪家だったようですが、彼の若い時に兄弟4人と長男の死に会い、
父の事業の失敗など不幸続きで多くの苦難を味わっています。
 
  京大大学院文学研究科HPによれば、『金沢第四高等学校中退、東京帝国大学選科卒業。
四高教授等を経て京都帝国大学教授。 明治44年刊の『善の研究』以下、多数の著作を発表。
周囲に有能な同僚、門下生を集め、所謂「京都学派」の基礎を築いた。昭和3年退官後も、厳
しい時代の中で思索を続けた。西田が目指すのは、現実の世界の構造を何処までも「論理的」
に解明することである。
 「純粋経験」「無の場所」「行為的 直観」「絶対矛盾的自己同一」といった独特の用語も、
従来の論理によっては捉えることのできない「根本的」な事実を、真に具体的に捉えることの
できる「論理」として構想されたものに外ならない。』 とありますが、用語についてなど、
皆目理解の外にあります。 ただ、「善の研究」から、いくつかの言葉を引用して(後述)い
ますので、ホンの一端ですが感じていただければ・・と思います。

  京都大学教授時代に、同僚たちとよく散策したという、熊野若王子神社前の若王子橋から
始まり、琵琶湖疏水に沿って銀閣寺橋までの約2kmの散歩道を「哲学の道」と呼び親しまれて
います。 道の中ほどに、彼が詠んだ歌 
   「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」
の石碑があるそうです。 この詩は、昭和9年、西田幾多郎64歳の元旦に詠まれた歌とあり、
己の道をひたすらに追い求めた強い信念が込められているのですね。

         西田幾多郎博士
          (西田幾多郎記念哲学館HPより)

 

 西田幾多郎記念哲学館が、平成2年(2002年)に故郷である石川県かほく市に建設されま
した。展示室では、多くの資料や原稿、遺品などの展示、世界の哲学者や思想家の言葉など
哲学への誘いをはじめ、企画展なども開催されているようです。

 この記念哲学館HPの中で、彼の紹介記事がありましたので、その一部を引用させていただ
きました。

               

『「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は
黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きる
のである」 これは、西田幾多郎が京都大学を退官するときに述べた言葉です。かほく、金沢
で学び、金沢、京都で教鞭をとり、晩年は鎌倉で思索と執筆に明け暮れたその一生は、一見
分かりやすい人生だといえるかもしれません。しかし、その75年の生涯をつぶさに見ていくと、
苦難と悲哀の重なりがあり、思索の苦闘があり、様々な人との出会いがありました。 西田の
人生は、生きることがそのまま思索でもあるような歩みでした。』と。 先の、哲学の道に
建てられた石碑の歌、『人は人 吾は吾なり~』も、まさしくその信念が貫かれているのですね。

  さらに、哲学館HPのご挨拶の最後に次のような下りがありました。
『「哲学」という名称を付したミュージアムは、哲学先進国の欧米を含めても、この「西田哲
学館」だけである。建築家・安藤忠雄氏の渾身の設計を得て、それは「考えること」と「作る
こと」の融合の場として出現した。ふたつの営みは、いずれも生きることの基本に位置している。
この「哲学館」は、訪れる人たちが考えることと作ることへと新たに向かうような場でもあり
たい。』

         西田幾多郎記念哲学館
           (同HPより)


 最後に、西田幾多郎の「善の研究」よりその“ことば”の一部を、ネット(neverまとめ)
より、以下に抜粋しました。

真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。知識の深遠
となるに従い自己の活動が大きくなる。』

(ある意味、人間にとって「真理を知ること」というのは、「己の中に秘められた叡智と可能
性」を見出していくことと言えます。そのことについて西田幾多郎は「大なる自己に従う」と
表現しています。「いま現在ある自分」よりももっと偉大な、未だ自分の中に隠されている、
「未知なる自分の可能性」をいつまでも・どこまでも追求していくという生き方。それが哲学
者・西田幾多郎の定義する、「真理を知るための方法論」です。)

 

我々は自己の満足よりも かえって自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて
満足されるのである。』

(「自分の周りの人たち」が幸せでなかったなら、「自分」も決して幸せではいられません。
自分の周りの愛する人たち、そして自分の属するコミュニティが幸せになることなしには、
自分自身が幸せにはなることは絶対にありえないからです。そのような意味で、「自分の幸せ」
と「他人の幸せ」には、ほんらい密接な関係があると言えます。「幸せな自分」というものは、
「幸せな他人」との関係性によって育まれ、そして「幸せな他人との関係」によって幸せに
なった自分が、今度は再び他人を幸せにしていく、そんな「幸せのサイクル」がずっと続いて
いくこと。それが「幸福」であると言えるでしょう。)

 

善とは自己の発展完成であるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し
円満なる発達を遂げるのが最上の善である。

竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮する
のが人間の善である
。』

(「己」という一個の人格を発展させ、その完成へと向かわせることーーー。それが、哲学
者・西田幾多郎の定義する、人間にとってただひとつの、最上の「善」です。

筍(たけのこ)がたくましい竹へと成長し、松ぼっくりから松の幼苗が芽生えるように、人間
もそれぞれが生まれ持った才能・性質をじっくり開花させ、それを大切に育み、
「己」という
名の「世界に一つだけの花」を立派に咲かせなければなりません。「よき人生」を送ることが
できるか否かは、すべてその一点に懸かっているのです。)

 

道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない、ただ自己にある者を見出すのである。』

(いくら「外から与えられた道徳」に従っていたからと言って、「己の内にある道徳」に気づ
くことのない人、それを見てみぬふりをする人は、真の意味で「道徳的な人物」であるという
ことはできません。 なぜなら、「外から与えられた道徳」に従って「悪いこと」をしなかっ
たからといって、「自分の中にある道徳」に則って「善いこと」をしたことにはならないから
です。

 「己の中にある道徳」に従って主体的に「善いこと」をするということ。また、そのような
「己の中にある道徳」を見出していく思考の様式を持つこと、そうした行為と思索のプロセス
の連続が、「道徳的な生き方」の一つの解と言えるでしょう。)


    なかなか難しいですね。

 

 

 

 

 

 

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百万石まつり  (bon)

2017-06-05 | 日々雑感、散策、旅行

 6月上旬の金沢は、大変な賑わいとなります。
 6月2~4日は、百万石まつりで、この時季が近づいてくると、街全体が何となくそわそ
わと賑わってくるような感じです。百万石行列を始め、薪能、茶会等のイベントが繰り
広げられ華やかで、夜の繁華街にも多くの人が繰り出してくるようです。

 普通「加賀百万石まつり」と総称していますが、“造り物”を展示し、子ども御輿、
獅子舞、奴行列、太鼓、よさこい、民謡などを「加賀百万石『盆正月』」と呼ばれ 3、
4日、金沢城公園で往時が再現されるのです。『盆正月』は、文字通り、盆と正月が一緒
になった賑わいですが、その昔、加賀藩前田公の藩政時代に、前田家の嫡子誕生や官位
昇進などの慶事を城下挙げて祝ったことを指し、それが今また再現されているというの
ですね。

      百万石まつりパンフ       盆正月パンフ
             
           (いずれも、百万石ネットより)

 

 百万石ネットなどから由来を見てみますと、「加賀藩祖・前田利家公が天正11(1583)
年6月14日、金沢城に入城し、金沢の礎を築いた偉業をしのんで開催され、もともとは
江戸時代に行われていた百日祭が起源のようですが、尾山神社での封国祭に合わせて、
大正12年から昭和20年まで金沢市祭として行われてきた奉祝行事がそのルーツだそうで
す。終戦後は昭和21年から6年間、尾山まつりとして尾山神社奉賛会によって開催されて
いましたが、昭和27年に金沢市と金沢商工会議所が中心となって開催した商工まつりが
現在の金沢百万石まつりの第1回目となるそうです。

 その後、豪華絢爛な百万石行列や、400年にわたり受け継がれてきた金沢の伝統行事が
賑やかに繰り広げられるなど 現在の姿に発展したとあります。昭和59年(第33回)には、
初めて、百万石行列の主役である利家役に地元出身の俳優、鹿賀丈史を起用して観光客
が急増したため、それ以降、俳優の起用を続け、初夏の一大イベントに成長したのだそ
うです。 この時は、わたしも金沢にいましたので、大騒ぎを肌で感じたりしました。

 行事としては、2日の金沢神社・成巽閣での “お水取り”、尾山神社での“祈願祭”、
それに、夜の浅野川“加賀友禅灯籠流し”“子供提灯太鼓行列”などがあり、3日には、
駅前『鼓門』から出発する メインの “百万石行列” が、金沢城公園では “盆正月”
が繰り広げられ、夜には、“踊り流し”“薪能” など一層華やかとなり、4日には、
“百万石茶会”“民謡華絵巻”“盆正月”などが行われるのです。
 今年あたりも、新幹線が開通しているので、一層盛り上がっているのかもしれません。

                浅野川 灯籠流し 
         (yahooニュース北國新聞より)


 このお祭りに因んで、「ミス百万石」が選ばれていますが、今年、第40代だそうです。 
余談ながら、もう30年以上も前のことですが、私が金沢勤務の頃、管内の所長の娘さん
が、和倉温泉の老舗旅館に嫁ぐことになり、新婦側の主賓として参列したことがありま
したが、その娘さんは、元「ミス百万石」でありまして、華やいだ宴席で、大変光栄な
ことでしたがとても緊張した記憶があります。
 翌年、家族でその旅館に宿泊した時、元ミス百万石の“若女将”が、わざわざ挨拶に
来てくれたことを覚えています。



 

 

 

 

 

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花の美術館  (bon)

2017-06-03 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日は、やや風の強い日でしたが、良いお天気のなか、千葉県稲毛にある、“千葉市
花の美術館”に行ってきました。

 会社OBのサークルの一つ「園芸友の会」の例会で、幹事企画により、今回は屋外例会と
してこの地が選ばれました。 過去には、国営ひたち海浜公園、潮来あやめまつり、神奈
川フラワーパーク、神代植物園などなど、折々の花を求めて企画されてきました。

 JR稲毛駅の10:00集合は、時刻前にはみんな集合していて、駅前からバスに乗り込みま
した。駅前から、海岸に向かってほぼ直角の道は広く、京成線、JR京葉線などを横切って
バスはまっすぐに進みました。  横断する道路も広く真っ直ぐで、全体的に広々とした
一面には集合住宅が林立し、広大な住宅団地が形成されていました。
 何十年か昔は、このあたり一面梅であったはずで、仲間の誰かは、昔このあたりに潮干
狩りに来たとか話題に上っていました。 松林や他の樹木が植えられたのどかな海に近い
そんな一角に「花の美術館」はありました。

花の美術館i入口             あちらこちらにアリウム
              (奥の円形の建物が温室です。)

 

 この時期は、“ローズフェア”の開催中でしたが、期間が6/4まででしたので、園内
のバラは ほぼ終わりに近い状態でした。 ミケランジェロ、レオナルド・ダヴィンチ、
ピカソなどなどそうそうたる名前のバラたちが並んでいました。

          バラ 
          

 

 広い園内は、どこも花だらけといった感じでしたが、バラの他、百日草(ジニア)、
サルビアの種類、ラベンダー、クレオメ、ロベリアなど割と名も知る身近な花たちが多く
親しみを感じながら飽きさせず楽しませてくれました。 そんな屋外庭園の奥に巨大な
温室と多目的館があり、そこがまた充実した作りになっていました。

 巨大ドーム状の温室では、トロピカルな植物が所せましと生い茂ってましたが、中に
“ヒスイカヅラ”の花房があり、過去に写真で見ていましたが 実物を見るのは初めてで、
何か得した感じでした。バナナもなっていました。タコノ木は、それこそ8本以上の足が
整然と地面に立っているのでした。
 初めて目にする“旅人の木”と命名された、見上げる大きな木が悠然としていました。
帰宅後ネットで調べてみましたら・・ありました。
 ウイキペディアに、『タビビトノキ(旅人の木、学名Ravenala madagascariensis)は、
マダガスカル原産のバナナに似た植物である。オウギバショウ(扇芭蕉)、あるいは
旅人木(りょじんぼく)ともいう。 英語名は "Traveler's Palm (旅人のヤシ)"だが、
ヤシではなくゴクラクチョウカ科に属する。』  なぜ、旅人の木と言うかについては
『名称の由来は、葉柄に雨水を溜めるため、乾燥地帯の旅行者の飲料水供給源として利用
されたとも、また高木は葉が東西方向へ扇状に広がることから旅人に対するコンパスの
役割を果たすからともいうが、ともに確かな定説ではない』・・なるほど!

 ヒスイカヅラ              バナナ
 

 

          タビビトノキ
          


            ウイキペディアにありました タビビトノキ です。  
             

 

 この他にも、たくさんの熱帯、亜熱帯植物がひしめくほどに詰まっている感じで堪能し
ました。

 多目的館では、アマチュアカメラマンが捉えた素晴らしい写真展が開催され、とても
アマチュアとは思えない程の鮮明さとその瞬間が捉えられていました。 また、隣の部屋
では、油絵、水彩画の展示がされていて、こちらも見事な作品が並んでいました。さらに、
植物に関する図書室や 興味を持たせる企画展示などが充実していました。たとえば、花を
大写しにして、その花の名前は何か?・・キュウリやオクラなども意外と分からないので
すね。 タネが入った瓶がずらり並べられていて、それぞれそのタネから木々の名前を当
てるクイズ形式の展示も、なかなか面白かったです。 屋上には、“キッチンガーデン”
と称した一角が作られていて、お馴染みのえんどう豆、キュウリ、ハーブ類など野菜が植
られていました。 

 全体を通して、この美術館の運営企画を担当されている人の企画意図の深さ、面白さ、
思いなどが伝わって来るようでした。 園内のレストランで、予約されていたランチを
前に、それぞれの印象やそれにまつわる話が広がり ひと時楽しい雰囲気に盛り上がり
ました。

 「千葉市花の美術館」は、現在『三陽メディアフラワーミュージアム』と呼ばれている
のです。パンフなどもそのようになっています。 千葉市にある「三陽メディア㈱」なる
会社が、この美術館のネーミングライツとして 広告スポンサーになっているのでした。
花の美術館の維持運営費の一部が広告料で賄われているのでしょうが 大変良いことと思い
ました。

 外の風は一段と強くなっていましたが、“いなげの浜”に出てみました。遠くの空は、
恐らく雨が降っているのではないかと思うような 黒い雲が垂れさがり、強い風に押し寄せ
られる波は荒くゴーゴーと激しい音を立てていました。

       いなげの浜(千葉方向をのぞむ)

          

 

 

 

 

 

 

 

 

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大合宿‛17  (bon)

2017-06-01 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

                2017年も早や6月に入りました。今日は、気象記念日、電波の日、
        写真の日とあります。
        また、今日から郵便はがき(通常)は、62円となりました。

 

 5月28日~31日は、蓼科農園大合宿でたっぷりと畑作業をしてきました。

 高原の K邸は、レンゲツツジ、ライラックなどの花が初夏の緑に映え さわやかに、グラ
ンドカバーには ニホンサクラソウが群生し、ヒグラシの声が降り注いでいました。

K邸のライラック             二ホンサクラソウ
 

  畑では、真夏のような暑さの日もあり全日良いお天気で、作業は順調にはかどりました。

         八ヶ岳の姿
          


  周囲の田圃は、既に田植えされていて水面に伸びた早苗はきれいな列をなし、やさしい
風に靡いていました。

         周辺の田園風景
             


 今回は、苗ものを大量に植えつける他、鹿対策用ネット張りなどが主な作業でした。
 東京練馬のハウスで pookyさんが丹精して育てた かぼちゃ、スイカなど200本に及ぶ苗
たちを、前回、“畑開き”で設定した黒マルチした畝に植え付けました。かぼちゃ苗30本、
スイカ15本は 直近の数日の気温が真夏のように高くなったため、やや背丈が伸び過ぎたの
で、1本ずつ新聞紙でくるんで大事に移送されてきたのを、所定の畝に植えました。茎の両
サイドから挟むように置いた藁に横たわるような形にセットされました。

 ピーマンはカラーピーマンなど苗20本、ナスは、長なす、米ナスなど15本、好評のタカノ
ツメ(赤トウガラシ)は、今年30本と多目に植えられ、これらの苗はみんな支柱にほう縛
しました。この他、トマト、バジル、青じそ、パセリ、イタパセ、なども植えつけました。

 サツマイモの苗は現地調達(予約)し、100本を3畝に植え付けましたが、あいにく真夏
の太陽に、しおれたようになってしまいました。 黒豆は今年はタネの直播きで、3畝の計
100のマルチ穴に種まきしました。

 黒豆、ピーマンなどの畝、そして、かぼちゃ、スイカの畝は、それぞれ鹿対策用のネット
(各50m)で周囲をかこみました。畑の中程と端の2か所に 緑のネットの囲いは、畑全体
1000㎡のアクセントとなって一段と見栄えがするのでした。

 今年、肥料袋(大きめの)4つに、ふるいにかけた土を満たし、ごぼう7本を植えてみまし
た。当然各袋の下部に水出しの穴をあけています。 まっすぐに伸びたゴボウが出来ること
を期待しています。

 側溝には、このシーズン かなりの流量の水が流れていて、その水を“岡本式”分流によ
り ホースに導き、全体の畝にたっぷりと水をあげました。 それでも、サツマイモ、かぼ
ちゃ、スイカなどは無事根付くかどうか やや心配が残っています。

 真夏の太陽は、じりじりと暑く汗しますが、テントの陰に入り腰をおろし、冷たい飲み
物を口に、涼しい風を受けながら、はかどる作業を振り返り、互いの談笑に花が咲き、
さわやかな達成感を覚えるのでした。

       八ヶ岳(横岳)を仰ぎ、スーパーカーは走る
           


完成した畑               頑張りました
   


 

お待たせしました! オートスライドをお楽しみください。(5分20秒)





コメント (2)
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