超有名な人でありながら、私には、あまり馴染みがなく、さらに文学から遠い距
離にいる身で、このような記事をアップするのは憚られますが、今日、4月30日が
命日にあたるのですね。1879年(明治12年)東京小石川に生まれ、80歳でこの世を
後にされた荷風はどのような人であったのか 興味が惹かれました。
父親は、ボストン大学等に留学経験を持つエリート官僚で、母親は尾張藩の武士、
儒者の次女というエリート一家に生まれ、そのような道をたどります。 しかし、
15歳のころに病を患い一時休学する羽目になるのですが、この療養中に、「水滸
伝」「八犬伝」「東海道中膝栗毛」などの伝奇小説や江戸戯作文学に読みふけった
そうです。
荷風本人の記述に『もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至
るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、
人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない』 と述懐されているのです。
療養中の看護婦「お蓮さん」に恋心を抱き、「蓮」に因んだ漢字「荷」になびく
「風」を雅号としたとあります。
この頃から文学に目覚め、現在の東京外国語大学を中退し、新進作家として活動
を始めるとともにフランス語を習う。1898年には雑誌に習作を発表し、1902年に、
『野心』『地獄の花』を発表し、特に『地獄の花』は、森鴎外に絶賛され、彼の出
世作となるのです。
24歳のころに渡米した経験を得て書かれた短編集『あめりか物語』は高く評価さ
れ、続く『ふらんす物語』は夏目漱石に見いだされるなど作家としての地位を確立
するのです。
48歳のころ
(ウイキペディアより)
1910年(30才)の頃には充実した時代であたようで、森鴎外、上田敏の推薦で、
慶應義塾大学の文学部主任教授となり、洒脱な服装で講義(仏語、仏文学評論など)
を行い好評だったそうです。関係者の評に「講義は面白かった。しかし雑談はそれ
以上に面白かった」とあるそうです。また、雑誌『三田文学』を創刊しているのです。
しかし、華やかな教授職の一方で、芸妓との交情を続けたため私生活は必ずしも
安泰ではなかったようで、いろんな問題を起こしていたようです。関係した女性た
ちについては、自らの日記『断腸亭日乗』にも記載されているとあります。
1918年には、中期の名作『腕くらべ』や『おかめ笹』を発表するなど旺盛な創作
活動を行うほか、歌舞伎作家、劇作家との交流をもち、狂言の演出や江戸期の文人
墨客の研究も行っていたそうです。
1926年(47歳)頃から、銀座のカフェに出入りするようになり、荷風の創作の興
味は旧来の芸者から新しい女給や私娼などに移り『つゆのあとさき』('31年)、
『ひかげの花』('34年)など新境地の作品を作り出すのです。 そして、1937年
には『墨東綺譚』を朝日新聞に連載するほか、下町の散策を主題とした多くの随筆
を発表しているのです。
そして1959年(昭和34年)胃潰瘍に苦しむ中、ついに4月29日の日記が最後となり、
翌朝自宅で遺体が発見されたとあります。
浅草にて 右はロック座で (共にネット画像より)
以上、かなり大雑把ですが、永井荷風の生涯の一端を、主にウイキペディアの記
述からピックアップさせていただきました。
作品紹介をした別のネット記事の最後には、次のようにまとめられていました。
『 芸者遊びや文豪たちとの交流、私娼窟通いといった派手で華々しい生活をして
いた一方で、晩年にはひとり暮らしをし、徹底的な個人主義者としても知られてい
た永井荷風。荷風は、何気ないできごとやエロティックなテーマを芸術にまで昇華
させ、生涯にわたって私小説を書き続けました。
フランス文学の影響を感じさせる流麗な作品から軽快な作品まで、作風が非常に
幅広いのが荷風の魅力です。』と。
受け売りばかりを羅列しましたので、せめて『墨東綺譚』を読んでみたくなりま
した。
永井荷風と鴎外