蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

大学改革  (bon)

2015-07-30 | 日々雑感、散策、旅行

 大学、文系学部および教育系学部の廃止または他学部との統合等の指示が、この6月に文科省から
全国の国立大学に発せられました。
このニュースは、スクープのように一部報道機関により発表されました。

 このような指示が出された背景には、社会・企業等からのニーズに応えた 文系学部の育成目標が
明確でなく、人材育成の成果が顕著でない等の議論がある一方、企業等からの要請が強い理系学部の
増加や新しい産業分野を見据えた学部の新設などを目指した考えに基づくことがうなづけます。
アベノミクス、産業活性化推進支援等の一環であるとの見方すら出ています。
 これらの報道を見る限り、まさに産業至上主義への偏りとの危険性すら覚えたのでした。日本学術会議も、
この指示に対する反対声明(文末に再掲します。)が出され、文系学部軽視、眼前の社会要請に適応する
ための近視眼的政策だと批判しています。

 本当にそうなのか? 
そこで、全体像を客観的に展望し確認するために、一例ではありますが、文科省統計データの中から
大学学部学生の推移を一部加工してグラフ化してみました。

         

 この図から、考えられることは、これまでずっと、いわゆる文系学生が変化はあるにせよ継続的に
かなりの学生数であり、一方、理系は時代の要請の変化にもかかわらず、大幅な変化もなく文系の約半数
くらいの学生数で推移しています。

 一般論では、文系・理系にかかわらずその学問を究め、人間、社会、自然の真理探究によるその本質は、
人間生活・活動の基盤を確立し、未来への進化・発展を促すことへの期待であり、近視眼的な成果が
見られないとしてこれを廃止、無用とする考えは誠に危険と言わざるを得ません。
しかし、だからと言って、これほど多くの学生を排出する必要があるのかどうか、文系、理系の絶対数を
ある程度確保できていれば、社会、企業要請等に応じた新しい学部の新設や統合による価値創造等
今後に向けた学部のあり方を考慮することは大事であると思います。

 恐らく、先の指示は表面的に捉えられたような、文系学部の廃止または統合ではないだろうと思いますから、
もっと正確な表現により、堂々とした方針として処理すべきなのでしょう。


*******日本学術会議の声明関連記事*******

 日本学術会議(会長:大西隆 豊橋技術科学大学学長)幹事会は7月23日、文部科学省が6月に
各国立大学に通知した、文系学部の廃止やほかの分野への転換を求めた通知について、
「大きな疑問がある」と批判する声明を発表した。

 文科省は6月、各国立大学に通知した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」で、
18歳人口の減少を見すえ、教員養成系や人文社会科学系の学部について、「組織の廃止や社会的要請の
高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」などとした。

 これに対して日本学術会議は声明で、「人文社会科学には独自の役割に加え、自然科学との連携によって
世界の課題解決に向かうという役割が託されている」と指摘。 人文社会科学のみを取り出して
「組織の廃止や社会的要請への高い分野への転換」を求めることには「大きな疑問」があると批判する。

 「社会的要請の高い分野」の定義については、「具体的な目標を設けて成果を測定することに
なじみやすい要請もあれば、長期的な視野に立って知を継承し、創造性の基盤を養う役割を果たすという
社会的要請もある」と指摘。「前者のみに偏り後者を見落せば、社会の知的豊かさを支え、より広く
社会を担う人材を送り出すという大学の基本的な役割を失いかねない」とする。

 教員養成学部の見直しについては「18歳人口の減少という見通しと関連するものと思われる」としつつ、
「18歳選挙権の実現ひとつ考えても、高校までの教育の質に対する期待と要請が高まっており、それを
支える教員の質と量については多面的な検討が求められる」と指摘する。

 一方で、人文社会科学の大学教員は「現代社会でどのような人材を養成し、どのような役割を果たしうるか
について、これまで社会に十分説明してこなかった面があることも否定できない」とし、「これらの点の
考究を深め、教育と研究の質的向上に反映するために一層の努力が求められる」としている。

 同会議は現在、学術振興の観点から国立大学の在り方を検討する委員会を設置して審議を進めており、
審議を通じ、大学のあり方に関する考えを提示するとしている。



 

 

 

 

 

 

 

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水路記念日  (bon)

2015-07-28 | 日々雑感、散策、旅行

                          連日の猛暑で、海や湖など水が恋しい季節です。

 こんな記念日もあったのですね。 明治4年(1871年)に兵部省が海軍部と陸軍部に分かれ、
その海軍部の局の一つに「水路局」が出来たのです。これが同年(旧暦)の7月28日であり、昭和26年
(1871年)の水路部創立80周年記念事業を期に、毎年7月28日を“水路記念日”として制定されたのです。
(現在は、9月12日です。) 
 創立は、当時の日本で緊急課題であった日本沿岸の安全を図るための海図作りを使命としていたと
あります。
 当時の実務は、勝海舟らとともに長崎海軍伝習所においてオランダ式の航海・測量術を学んだ
津藩出身の少佐(初代水路部長)を中心として東京築地の海軍兵学校で、現在の水路業務の基礎が
スタートし、日本人による近代的な海図作りが開始されたそうです。

 これ以前にも、徳川時代から航路案内や海路図のようなものが作られており、例えば、徳川時代には
海外渡航を禁止した鎖国政策の実施により船舶航行の範囲を国内に限定したため、瀬戸内海を中心とした
交易が主な目的で、航路案内や海路図は瀬戸内海のものが多く、これらは1670年頃には木版刷りで
刊行されたといいます。

 このような歴史と役割を担った“水路、海図”は、その後、昭和46年(1971年)の創立100年を
期して、旧暦から新暦に変更して、9月12日を創立の日とし、以後、現在もこの日を水路記念日と
されています。

 なお、現在海上保安庁はわが国周辺海域を中心として航海用海図を約750版刊行しており、
近年では航海用電子海図も刊行し、国内外の船舶に利用されているそうです。

             海図例(ヨット・ボート用海図 東京湾)
                (日本水路協会HPより)


 ヨットやレジャーボートなど船舶に興味を持つ人、つり人などにとっては、それこそ必需のもので
あるのでしょうが、あまりそちらにご縁の無い身にとっては、別世界の内容に感じられます。 
ネットを繰っていましたら、「一般財団法人 日本水路協会」という組織が、1971年に設立されていて、
各種の海洋調査や国際関連業務、一般向けの海図の販売、普及啓もうなどの業務が行われています。
 その中の、コラムに“海の話”というのがあり、“氷山の氷は甘いか?塩っぱいか?”という記事が
目に留まりましたので、ここにコピペしておきます。

                       

 「南極の海に漂っている氷山を削って、カキ氷にして食べたら、どんな味がするのでしょうか?
甘い味か?それとも塩っぱい味なのか? ・・答えは甘くも塩っぱくもありません。

 その理由は、南極の海に浮かぶ氷山は、もともと南極大陸の一部だからです。長年にわたって
南極大陸に降り積もった雪が、さらに積もった上の雪の重さで押し潰され氷になり、ついには
大陸氷河になります。 この氷河がユックリと海にせりだして、海に落ちて氷山となって南極の海に
漂っているのです。南極地方でも海水は凍りますが海に漂っている氷山は、雪の凍ったものなので
塩っぽくはないのです。

 では、北極の海の氷山はどうなのでしょう。 実は塩っぱいのです。
それは何故かと言いますと、北極には大陸がなく深い海だけの世界ですから、南極のように降り積もった
雪が凍って海に流れ出しません。北極海では海水そのものが凍って氷山になるからです。 
海水が凍るときは塩分が弾き出されて水分だけが凍るのですが、弾き出されたはずの塩分がところ
どころに閉じ込められていて、それで塩っぱい味がするのです。」 
            出展:「海の豆知識」―海の相談室編―:第九管区海上保安本部

 

 

 

 

 

 

 

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水道工事  (bon)

2015-07-26 | 日々雑感、散策、旅行

 といっても、ベランダにある外部水栓の水漏れを修理しただけのことなんです。 
図のようにシンプルな、外部水栓ですが、ベランダ園芸のために後付けで水道屋さんに頼んで付けて
もらったものです。 なので、どのような構造になっているのか、わからないまま分解することに・・。
余りにもローカルな話で申し訳けありません。

 今朝、植木に水やりした時に、どうやら、図のCの部分から、水が少し漏れていることに気が付きました。
しかし、実際にはどの部分から、なぜ水漏れが始まったのか分かりませんから、Aのホースを外し、
Cを外そうとしましたが、さび付いて、スパナーも回らない状態でした。
Bを外し、スタンドを取り出して、Cの部分にKURE5-56を何度かスプレーしてしばらく放置しました。 
スタンド(支柱)を架台からはずしてみると、何と中には、寒さに耐えるための人工綿のような物が
充填されていました。

              外部水栓の図
         
 

 そんなことに関心しながら、再度、Cのネジをスパナ―で力を入れて回すと、すごいですね、
さび付いたねじがまわり始めました。Cのネジ部分、Bのネジ部分をともに金属ブラシでねじ山を
きれいにしました。 水回りの金属ネジ部分には、通常、水テープ(ビニール?)をまいて、ねじ込み
ますから、その残りをきれいに取り去りました。ここまでは、順調にうまく行きました。 
新しく、水テープを巻いて、BとCをしっかりと締めました。

 最後に、最も簡単だと思っていた、Aを差し込もうとしましたが、古い部分を切り落としていたため、
ホースの口径が、あまりにきっちり過ぎて、この挿入がうまく行かず てこずってしまいました。
この最後の部分までは、日向を避けて、日陰での作業でしたが(それでも気温が高く暑さを我慢して)
このAの挿入の難航は、日陰は無く、炎天下となり汗が目にも入るほどでした。
35℃を超えていたのではないか? と思うくらいでした。
この部分、2度目の挑戦で、水道の元栓を開けても、水漏れが無く完全に修理が出来たのでした。

 今日の日曜日の午前中は、こんな修理工事でベランダに2時間超過ごして、10時半、もう水の中を
くぐったような汗となりました。 こんな些細なことに、満足した平和な日曜日でした。

 

 

 

 

 

 

 

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甲子園  (bon)

2015-07-24 | 日々雑感、散策、旅行

 今年も、この時期全国各地で、夏の高校野球予選がたけなわで、球児は勿論、学校、父兄など関係者が
一喜一憂していることでしょう。  わが母校は、今年、1回戦で敗退しました。

 私たちが在校生であった時、地区予選の決勝まで勝ち進みましたが、相手強豪チームに惜しくも敗れ、
地区代表とはなりませんでした。スタンドで“かちわり”を片手に、必死の応援をしたのを覚えています。
私の知る限り、この時が最高成績であったように思います。

 日焼けした選手一人ひとりがこの日のために、連日の猛練習を重ね、地区予選を勝ち進んで、
その勝者のみが、晴れの甲子園出場の栄誉が与れるのです。

        阪神甲子園球場
          (ウイキペディアより)


 地区予選で敗退しても、十分実力が発揮でき、悔いのない夏を終わる選手もいれば、あまりにも
野球に人生を打ちこんできたために、その敗退が、大きな挫折に響き、しばらく立ち直れない選手も
いるかもしれません。 いずれにしても苦い味を噛みしめる選手が圧倒的に多く、甲子園大会に進んでも、
最後までその喜びに酔えるのは、ただ1チームだけですから、厳しい戦いであることには違いありません。

 これらの選手のほんの一握りが、その道に進んで、大輪を咲かせる人もいますが、殆どは、
それとは別の道に進み、楽しい、なつかしい想い出とともに自身の糧として大成するのでしょう。
青春の頑張り、その汗と涙は、大きな肥やしとなって自らの生きざまを支えてくれることでしょう。 
一部の部活で、不祥事を起こし、今年も予選辞退という事態もありますが、日焼けの汗の中には、
最近多発している、陰湿な事件などの発想には結びつきようもありません。

 沖縄、宮城、青森では、既に代表が決定しましたが、来る檜舞台での勇姿を如何なく発揮するため、
一段と力も入り暑さも忘れ意気揚々とした日々を過ごしているに違いありません。
第97回全国高校野球選手権大会模様をことしもテレビ観戦で応援することにしましょう。

 都市対抗野球(社会人野球)の方では、かって私が勤務した大阪の社会人チームが、今年2年ぶりに
大阪代表となり、先日1回戦を無事クリアしました。この日曜日(26日)には、2回戦がありますが、
相手は強豪、東芝なのでどうかな と思っています。 
思えば、もう35年も前になるのですが、私が勤務していた頃、そのチームの野球部長を引き受けて、幸いにも、当時久し振りの大阪代表(1980年第51回大会)として、後楽園球場(翌年には東京ドームとなる)
最後のダグアウトで大声を張り上げていました。  大阪代表として、大阪市長から金一封を頂戴したり、
補強選手をお願いするために、他社を回ったり楽しい想い出があります。 選手一同派手な壮行会の翌日、
一同お揃いのスーツ姿で新大阪駅長のお見送りを受け、後楽園球場に向かいました。 
自身は野球はしませんでしたが、良い想い出となっています。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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数独(5)  (bon)

2015-07-22 | 日々雑感、散策、旅行

        創業140年の、日本を代表する企業 あの『東芝』が、1,500億円を超える
          不適切な会計処理問題を受け、3人の歴代社長が辞任
しました。前代未聞の
          事件で
名門企業の信頼はどこへ行ってしまったのか。


この暑いさ中に・・エアコンで涼しくして、数独!?

数独については、これまで、4つの記事をアップしています。
2012.2.6、2014.2.26、2014.7.15、2015.2.7 のそれぞれの思いで記事アップしているようです。 
今回、その5 については、このところネット問題集でやっていまして、ちょっと手応えを感じた
ものの中からピックアップしました。下記の問題は、いずれもネット数独問題集上級編からです。

 問題A(2015.7.6)           問題B(2015.7.16)
     


 数独とは何か、とか、そのルールみたいなやり方については、始めの方の記事にありますので、
そちらをご参照ください。
 非生産的で、時間の無駄~とのお叱りも聞こえてきますが、まぁ、暑い夏の清涼剤としてちょっと
寄ってみるのもいかがでしょうか?

お気付きの点などがありましたらご一報いただければ幸いです。

        関連ありませんが、夏のシクラメンです。(2015.7.22)
                

 

 

 

 

 

 

 

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日本型リーダーの致命的な欠陥  (bon)

2015-07-20 | 日々雑感、散策、旅行

 リーダシップについて、直近の 新国立競技場設計に関する問題が露呈されたばかりですが、
ちょうどタイミングよく、いつものH氏からの配信記事にその本質がいつまでたっても変わらないとの
痛切な指摘がありましたので、ご紹介させていただきたいと思いました。

 先の大戦の6つの例を引き、ことごとく敗戦の決着を見た“失敗の本質”(戸部良一、野中郁次郎他、
中央公論社、1998.3 15版)に見る日本の組織、意識構造に基づく自己革新能力の欠如並びに
概念の創造欠如が、今また繰り返されているのです。 過去の決定的な失敗を反省することを避けたがる
穏便気質に加えて、現状の部分最適解を求める傾向が今また、散見されるというのです。

 記事は、戦後70年が、丁度平成の失われた20年に重なるとして、その対比も加えた評価の視点に立った
警鐘を発しています。 それでは前置きが長くなりましたが、以下にコピペします。

                            記事内容とは関係ありませんが、今頃のクロコスミアです。
                 (2015.7.19) 

 

****************************

 

「『太平洋戦争の肉声』 日本型リーダーの致命的な欠陥」

    船橋 洋一(ジャーナリスト) (文藝春秋 2015年8月号 p162-177)

 【要旨】今年2015年は第二次世界大戦終戦から70年という節目の年に当たる。本記事の筆者、
元朝日新聞記者のジャーナリスト、船橋洋一氏は、この70年
という節目が、ちょうど年号が平成に
なってからの「失われた20年」の果て
に位置することを指摘。その20年に日本が経験したさまざまな
失敗(=敗戦)
と、先の大戦における敗戦の原因を重ねてみることができると主張する。戦前と戦後は
コインの裏表にすぎず、いずれにおいても、日本特有の組織やリー
ダーシップの欠陥が敗戦を招いたのだ
という。本記事では、『太平洋戦争の
肉声』シリーズ(文藝春秋刊)に集められている、将官や
兵士として戦争に
かかわった日本人の体験談をもとに、ガダルカナル撤退、インパール作戦、レイテ島と特攻などの具体的な戦局で日本はどういう過ちを犯したのかを、その要因とともに検証している。

  ------------------------------------------------------------

  戦後70年は平成の「失われた20年」のトンネルの果てに位置するが故に、そこでの「敗戦」が先の
戦争の「敗戦」と重なって見える。
 平成の幕開けとともに、日本は敗戦に次ぐ敗戦を重ねた。バブルが破裂し、銀行の不良債権問題が
泥沼化し、国家債務が膨張した。デフレが深まり、人
口が減少に向かい、原発がメルトダウン事故を
起こした。これらの困難にぶ
つかるたびに、私たちは改めて日本の組織文化の弱さと欠陥を思い知らされた。

  「失われた20年」の「敗戦」の本質が、先の大戦のそれと驚くほど似通っていることをどう考えれば
よいのか。たとえば、次のようなことだ。異論や
反論は、既定路線への疑問と挑戦と見なされ、
排除される。議論も会議も手
順も儀式化され、目的と手段をクリティカルに問うことは嫌われ、
先例を踏
襲し、プロセスを無事こなしていくことが奨励される。中でも、従来の路線や政策を止め
なければならない「損切り」は、組織としての失敗を認めるこ
とになるため、なかなか決断できない。

  組織の「縦割り」「たこつぼ」が個々の組織をムラ社会として固定化させる。そこでは、内部の秩序の
安定と人間関係の維持が何よりも重視されるた
め、組織を超えたステークホールダーを巻き込んだ
全体最適解の探求より先
に、個々の組織の中での部分最適解を求めることに関心が集中してしまう。

  戦前、戦後に関わりなく、日本の組織は、危機的状況を招来する事象や出来事の事実認定と原因究明を
真摯に、そして独立の立場から検証しない。個
人としても組織としても、社会的、組織的に不都合な
真実をぼかそうとする
重力が働くからである。

  真実をとらえないことには、教訓を引き出せない。そして、教訓を学ぶことができないと、備えが
できない。再び危機が起こった場合、適切な対応が
できない。その繰り返しである。それは、最も大切な
備えが反省する心だか
らである。戦略と統治の両面で、組織の学習能力を高める必要がある。
それ
には「反省力」が欠かせない。
 戦後70年、私たちにいま一度、求められているのは、この「反省力」にほかならない。真摯に歴史に
向き合い、検証し、教訓を学び続ける「反省力」
である。

  1942年8月5日、大本営は、オーストラリアが米軍の対日反攻作戦の拠点となるのを防ぐため、
米豪を遮断することを目的とし、ガダルカナル島に飛
行場を完成させた。ところが、その二日後、
米海兵隊が対岸のツラギ島を急
襲し、日本側の海軍守備隊が全滅、ガダルカナルの飛行場も米軍に占領された。
 大本営は飛行場奪回のため、次から次へと戦力の逐次投入を行っては、そのたびに壊滅的な打撃を受け、
戦力を消耗した。その揚げ句、制海権を奪わ
れ、投入した陸軍部隊は深刻な飢餓に見舞われた。
年末までに日本軍は
31,358名の兵力を投入、2万千余名が戦死した。その3分の2以上が戦闘ではなく
栄養失調やマラリアなどの病気が原因だった。

  ガダルカナルは、その後、戦力を逐次投入する愚の代名詞となった。福島原発事故の際、政府と
東電の統合対策本部に詰めた外務省の幹部を取材した
ことがある。彼は、本店側が事故現場からの資材・
人員の要求に対して何事
も受け身で、決断に手間取り、決めても小出しにする様をテレビ会議で見て、
「これはガダルカナルだな」と思ったと述懐した。ガダルカナルはこんな風に日本の国民の意識の基層を
成している。

  小出しの逐次投入症候群は、「最悪のシナリオ」を考えたくない心理的抵抗からも来ている。
米国の連邦緊急事態管理庁(FEMA)は、危機の際の物動
作戦は「Go Early, Go Fast, Go Big」の三つを
要諦としているが、日本にもっ
とも欠けている動作がこのうちのGo Bigである。「最悪のシナリオ」を
想定
するのを忌避する心理に、Go Bigの発想は生まれにくい。

  太平洋戦争は陸海軍が戦略を共有できず、海軍が戦線を拡大し、陸軍がそれに引きずられる形で
突き進んだ。戦闘においても、陸軍と海軍の航空隊は
それぞれ別個に航空戦を戦い、それぞれ別々に
陣地を構築して地上戦を戦った。
 敗戦後、陸軍と海軍は敗戦の原因を相手のせいにした。天皇、陸軍、海軍の三者の不一致は、
この時期の日本の最大のガバナンス上の欠陥だった。

  その背景には、全体を見て、全体をつかみ、全体を動かすことが苦手な日本の細切れガバナンスの
体質がある。ここでは、個々の組織の部分最適解が
全組織の全体最適解を凌駕してしまう力学が執拗に
働くのだ。

  1944年10月17日、米軍はフィリピン中部のレイテ島への上陸作戦を開始した。レイテ作戦に従軍した
神子清(伍長)は米国人の戦闘の仕方に
戸惑いと、そして戦慄を覚えた。米国が15回戦を戦い抜く体力と
その消耗度
合いの配分を管理するタフ・ビジネスを旨としているとすれば、日本は「この一撃」に
総てを託す気力頼みだった。

  同じフィリピン戦線で従軍した山本七平は、日本人は「現実的解決を心理的解決に置き換えようとする」
特徴があると指摘したことがある。心理的解
決という「精神的一撃論」である。戦争末期、この
「精神的一撃論」が何度
も顔を出すことになる。その行き着く果てが特攻だった。

  特攻隊員の「死所は一つ」の運命共同体に抱かれて死途につく、その使命感と連帯感と、家族への
愛と責任感と、そしてある種の諦観。若い彼らの清
逸な無私の姿勢は今なお、人々の心を激しく揺さぶる。
しかし、無策と無謀
の果てに、日本の軍部が「現実的解決を心理的解決に置き換えようとする」べく、
彼らを玉砕の華として神話化し、使い棄てた、冷厳たる事実を記憶し
ておかなくてはならない。
彼らは「英雄」でもなければ、「犬死に」でもな
い。むろんテロリストではない。

  歴史家の保阪正康は、生き残ったかつての特攻隊員の上官が唱える「美化論」には「戦争という
メカニズムのなかでの人為的政策の犠牲者という視点
がみごとなまでに欠落している」と書いた。
「むしろ志願であるとして軍上
層部は責任のがれを図るが、現実には『命令』という状態」が実相に
近かっ
た、というのである。

  「日本はなぜ、あのような戦争を始め、あのようにしか終わらせることができなかったのか」。
この疑問に凝縮した形で答えようとするならば、リー
ダーシップが足りなかったからである、としか
言いようがない。リスクに正
面から取り組み、ガバナンスを効かし、全体を見て、全体を動かすには、
リー
ダーシップが欠かせない。

  そして、危機において、リーダーシップは往々にして勇気と同義語になる。恐らく戦前の政治リーダー
シップにおいて最も欠けていたのは、この勇気だっ
ただろう。
 戦後、吉田茂の指示によって外務省の中堅職員がまとめ上げた日本外交の反省の書『日本外交の過誤』
(作業ペーパー)は、「終戦外交」に関して、
その末尾にこう記した。「当時の廟堂に智者はあったかも
知れないが、勇者
の無かったことを歎ぜざるを得ない」

 コメント: 筆者の指摘する日本型組織の欠陥は、新国立競技場問題をはじめ、現在起きている多くの
社会問題に当てはめることができる。部分最適解
が全体最適解を凌駕したり、精神論に逃げたり、
既定路線を見直せなかった
りするのは、日本人が場当たり的に「手っ取り早さ」に飛びつくというクセ
もっているからではないか。現状を「点」ではなく、過去と未来につなが
る「線」、さらにはさまざまな
視点を含む「面」で捉えられるリーダーシッ
プが絶対的に必要。そしてそのためには、過去の失敗
のみならず成功につい
ても、その要因を冷静に分析できる真の「反省力」が不可欠なのだと思う。                       Copyright:株式会社情報工場

*************************

  先ごろ衆院を通過した 『安保関連法案』 が、どうぞ “部分最適解” でないことを望んでいます・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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リーダシップ  (bon)

2015-07-18 | 日々雑感、散策、旅行

 新国立競技場の建設についてです。

 一昨年(2013年)9月、2020年のオリンピック・パラリンピックは、“東京開催”と決まった時、
日本中が喜びに沸き、折しもスタートを切ったアベノミクスをも加速するかのムードメーカーとなって
いたと思います。

 それがここに来て、メイン会場となる新国立競技場の総工費が揺れに揺れ、昨日(7月17日)夕方、
安倍総理の会見で、“設計はすべて白紙に戻し、ゼロベースで見直すこととし、早急に検討に入るように
指示した”と発表しました。
 オリンピックが具体化するための各組織、委員会はどのようなスタンスで取り組んで来たのか、
どれもこれも、そのリーダシップ欠如、責任所在不明確のまま、あるまじき醜態をさらしてしまいました。

          新国立競技場
            (ネット画像より) 

 

 招致のための準備が各方面で推進され、今回問題となっている、“新国立競技場”の最初のデザインは、
2012年11月に、建築家の安藤忠雄氏が委員長を務めた審査委員会で、建設費を1300億円とする
想定のもとに、女性建築家の作品を最優秀賞に選びました。しかし、このデザインを忠実に再現した場合、
費用が想定の2倍を超える3000億円に上ることが分かり、去年(2014年)5月にまとまった
基本設計では、当初デザインに比し、延べ床面積を25%程度縮小するなどして1625億円まで
費用を圧縮しました。

 その後、競技場の建設に向けて解体作業が進められてくると、建築資材や人件費の高騰なども加わり、
建設会社の試算では、費用が3000億円を超えるとともに、工期も間に合わないことが判明した。
このため国は、デザインの象徴である「キール・アーチ」は残す一方、開閉式の屋根の設置は、
先送りするなどして、費用を圧縮し、建設費は基本設計からおよそ900億円多い2520億円に
なることが、日本スポーツ振興センタ(JSC)による有識者会議(委員長、文部事務次官)で了承された。
これが7月7日でした。 この決定に、アンケート調査などでは、95%におよぶ反対が示され、
政府部内でも議論が噴出していたようで、下村文科相は、この14日に、1046億円の改修費は国が払う
といったり、その前日には、菅官房長官は、いろいろあるが、原案で進めるといっており、
森組織委会長(元首相)などは、50年70年後に名所として残すものとして原案で進めると言明したところ、
7月15日のNHK世論調査では、建設計画に納得できないと答えた人が81%に上り、読売新聞アンケートでも
9割が反対するなど建設費が膨らんだことへの批判が高まり、ついに、昨日(17日午後)安倍首相の
“設計の白紙撤回”となったのです。

 まさしく、無責任構造が露呈したと言わざるを得ません。 組織の“長”や“相”は、いわずもがな、
リーダシップに満ちた御仁がなられているのでしょう。 が、このリーダシップの意味する中の重要な
要素に、広く先を見た決断力があります。 この決断力が曖昧で、場当たり的の感さえ覚えるのですが、
単にその地位(権力)においてイエス、ノーをいうことが決断ではないはずです。 全体と先を見た、
そして国民の代表としての自覚に基づいた判断が伴っていなくてはならないことは言うまでもありません。

“設計の白紙撤回、ゼロベースで検討”は、いかにも一大英断のように発現されていますが、
NHK調査始め国民の反対意見が8割以上を占めたことがそうさせたと思わざるを得ないのですね。
世論調査が出るまでは、取り巻く“長”“相”たちは、みな既定路線を踏襲する発言をしていた。
否定すると問題が大きすぎるので、内心問題があると思いつつ、意に反した行動をとったというのであれば、
なおさら罪は深い。 決断とはそういうものだと思います。もし、世論調査が無かったら、工期が
間に合わないとかなんとかの理由で、原案で進んでいたかも知れない。 そして、何よりも、無責任だと
思われるのは、7月7日の有識者会議の決定時点で、なぜそのような結論となったか(させたか)
有識者も無責任なら、その委員長である文科省事務次官、そしてその長である相・・あたりの
判断基準の信念が疑われてなりません。(デザインを決定してから、2年以上も検討して来たあげくの
白紙撤回なんですよ。ギリギリになるまで、何がなされていたのか?) 

 2012年11月の国際デザインコンクール審査委員長の安藤建築家も、先の記者会見で、そもそもの
問題意識が無かったことが露呈されていました。自分はデザインを選定するという立場であるから、
そこまでコストを詰めなかった・・との発言は、素人ながら全く腑に落ちないのですね。千億円台の
金額が2倍にもなるというのですから・・。 
もう20年近く前になりますが、北九州メディアドーム(小倉競輪場リニューアル)コンペに、
私の会社は、建築家の黒川紀章のチームに入り検討しましたが、工費予算が、確か300億円位の
ドーム型競輪場の企画提案で、ドームの内面全周に、映像スクリーンを円形に貼り付け、
バンクを走る選手を拡大表示して躍動溢れる環境を提案しましたが、そのとき、黒川議長は、
即座に予算を問われ、その金額の大きさが全体予算に照らして、企画案を断念されたことを想い出しました。
これまでにない、新しい面白い、メディアドームに相応しい企画であっても、予算面から棄却された
のでした。

 2520億円という建設費は、直近のオリンピック5か国のメインスタジアムの合計工費よりもまだ
高額であり、その額は群を抜いているのです。 ネットで見ますと、他の建造物では、東京スカイツリーが
650億、横浜ランドマークタワーが2700億、TDLが1580億、TDSは3380億、アベノハルカスが1300億、
H2Aロケットは1000億なんだそうです。

 このブログでは、もっぱら浪漫寄りのテーマを選んでいますが、今回は、やや路線を変えてしまいました。

 

 

 

 

 

 

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古事記から(7) (bon)

2015-07-16 | 日々雑感、散策、旅行

                 ニニギノミコトとサクヤヒメとの間に生まれた三柱の子の中、
                     兄ホデリノミコト(海幸彦)とホオリノミコト(山幸彦)の物語です。

 ウミサチの釣り針

 さて、兄のホデリノミコトは、海幸彦として、大小さまざまな魚を取り、弟のホオリノミコトは、
山幸彦として、山にいる大小さまざまな獣を獲りました。

 ある日、ヤマサチは、兄のウミサチに、「それぞれの猟具と漁具を交換してみよう。」

幾度も言って頼みましたが、許してもらえませんでした。 しかし、ついにやっとのことで道具を
交換してもらうことができました。そこで、ヤマサチは、ウミサチの釣り竿で魚を釣ってみましたが、
ついぞ一匹の魚も釣れず、そのうえ、釣り針を海の中へ落としてしまいました。
そこで、兄のウミサチは、その釣り針を返すように頼んでこう言いました。 
「山の幸(獲物)も、
海の幸も めいめい自分の道具でなくては得られない。だから、交換したお互いの道具をそれぞれ元に
返すことにしよう。」  弟のヤマサチは答えて、
「あなたの釣針は、魚を釣ろうとしたが、
一匹も釣れなくて、とうとう海に落としてしまいました。」といいました。 けれども兄は、決して
許さずに、必ず返せと言うばかりです。 そこで、弟は、身に着けていた十拳剣を砕いて、五百本の
釣針を作って償おうとしましたが、兄は受け取らなかった。 そこで、千本の釣針を作って償おうと
しましたが、やはり受け取らずに、「やはり、元の釣針を返してくれ。」と言いました。

 それで弟のヤマサチは、泣き悲しんで海辺にいたところ、シオツチノカミ(海水の神)がやって来て、
「ソラツヒコ(ヤマサチのこと)の泣き悲しんでいるのは、どういう訳ですか」と尋ねたので、
ヤマサチは、「兄から釣針を貸してもらったが、それを無くしてしまったのです。 ところが、兄は
その釣針を返せと言うので、たくさんの釣針を作って弁償しようとしたが、それを受け取らず、
『元の釣針を返せ』と言い張るので、鳴き悲しんでいるのです。」と答えました。

 そこで、シオツチノカミは、「わたしが、あなたのために、良い計画を立ててあげましょう。」
と言って、早速、すき間なく竹で編んだ籠の小船を造り、その船にヤマサチを乗せて、「わたしが、
この船を押し流したら、しばらくそのまま進めば、良い潮路が現れるでしょう。そこで、その潮路に
乗って進んで行くと、魚の鱗のように家を並べて造られた宮殿にたどりつきます。
それは、ワタツミノカミ(海を支配する神)の宮殿です。その宮殿の門まで行くと、傍らの泉のほとりに
神聖な桂の木があります。あなたは、その木の上に座っていれば、その海神の娘があなたの姿を見て、
取り計らってくれるでしょう。」と教えてくれました。

トヨタマヒメ

 さて、ヤマサチは、教えられた通りに潮の流れの中を進んで行くと、すべてその言葉通りであったから、
ただちに、神聖な桂の木の上に登って座りました。

 すると、海神の娘のトヨタマヒメ(豊玉比売)の侍女が、器を持ってきて泉の水を酌もうとした時、
泉の水面に光がさしていました。 振り仰いでみると、美しい立派な男子がいたので、大変不思議に
思いました。このとき、ヤマサチは、その侍女の姿を見て、
「水が欲しい」と所望されました。
侍女は、すぐさま水を酌んで、器に入れて差し上げました。 ところが、ヤマサチは、その水は飲まずに、
首飾りの玉をとって口に含むと、その器の中に吐き出しました。 すると、その玉は器にくっついて
とれなくなってしまったので、玉の付いたままトヨタマヒメに差し出しました。

 トヨタマヒメは、器の玉を見て、侍女にたずねました。「もしや、門の外にだれかいるのですか。」 
というと、侍女は、答えて、「人が来ていまして、私どもの泉のほとりの桂の木の上に、それはそれは、
たいそう美しい立派な男性でした。わが海神の宮の王にもまさるたいへん貴いお方です。そして、
その人が、水を所望されたので差し上げたところ、その水は飲まずに、この玉を器に吐き入れました。 
ところが、この玉をどうしても引き離すことが出来ないので、玉が入ったままお持ちしたのです。」
といいました。

 トヨタマヒメは、不思議に思い、外に出てヤマサチの姿を見るや、一目ぼれして互いに目を見合わせて、
姫はその父(ワタツミノカミ)に、「我が家の門前に美しい立派な方がおられます。」といいますと、
ワタツミノカミは、自ら門の外に出て見て、「この方は、アマツヒコの御子のソラツヒコだよ。」
と言って、ヤマサチを宮殿の中に案内し、アシカの皮で作った敷物を八重に重ねて敷き、またその上に
絹畳を八重に重ねて敷きその上にヤマサチを座らせました。そして、たくさんの品々を貢ぎ、
ごちそうをふるまって、やがてその娘のトヨタマヒメとの結婚式を挙げたのでした。

 こうして、ヤマサチは、それから三年の間、海神の国に住みました。

       ヤマサチヒコとトヨタマヒメの出会い(青木繁画)
            (ウイキペディアより)
 

ヤマサチの復讐

 ある日、ヤマサチは、ここに来たもともとの経緯を思い出して、深いため息をつきました。 
トヨタマヒメは、それを聞いて父の神に、「あの方と三年間共に暮らしてきて、今までため息などする
ことはなかったのに、今夜深いため息をつかれました。もしや、何か深いわけがあるのでしょうか。」
といいました。
 そこで、父のワタツミノカミは、娘婿のヤマサチにたずねました。「今朝、
娘の言うところでは、三年も一緒に住んでいて、これまでため息することがなかったのに、
今夜深いため息をついたといっていました。もしや何か理由があるのでしょうか。 また、そもそも
あなたがこの国に来られたわけは何でしょうか。」 
ヤマサチは、ワタツミノカミに、兄が、失くしてしまった釣針を返せときびしく責めたてた様子を詳しく
話しました。 

 これを聞いたワタツミノカミは、海の大小の魚をことごとく呼び集めて聞きました。
「もしやお前たちの中で、この釣針を見つけたものはいないか。」 
すると、多くの魚たちが答えて言いました。

「近ごろ赤い鯛が、喉に骨が刺さって、物を食べることが出来ないと嘆いていました。きっと、
その釣針に違いありません。」と。

そこで、海神が赤鯛の喉を調べてみると、確かに釣針がありました。すぐに取り出して、洗い清めて
ヤマサチに返しました。 その時、ワタツミノカミが教えて言うには、「この釣針を兄君に返すときに、
『この釣針は、憂鬱になる釣針、気がイライラする釣針、貧しくなる釣針、愚かになる釣針』と唱えて、
手を後ろに回して渡してください。 そして、その兄君が高い土地に田を作ったら、あなたは低い土地に
作りなさい。 兄君が、低い土地に田を作るなら、あなたは高い土地に作りなさい。 
そうすれば、わたしは水を支配していますから、三年の間は、必ずその兄君は、(凶作のため)
貧窮に苦しむでしょう。 もし、兄君がそのことを恨んで、攻めて戦いを挑んでくるようなことがあれば、
この潮満玉(霊力を持つ玉)を出して、潮水に溺れさせればいいでしょう。 もし、兄君が苦しんで
許しを乞うならば、潮乾玉(干潮を引き起こす玉)を出して、命を助けてもよいでしょう。こうして、
悩ませ苦しめてやりなさい。」といって、潮満玉と潮乾玉をヤマサチに授けました。
そして、海中のサメたちを全部呼び集めて、「今、ニニギノミコトの御子のソラツヒコが、上の国
(葦原中国)に帰ろうとされている。だれが、何日で送ってさしあげられるか答えなさい。」といいました。

 サメたちは、それぞれ自身の身長に従って、日数を限って答える中で、一尋の長さのサメが、
「私は、(身の丈が一尋なので)一日で送って、すぐに帰ってこれます。」
と答えました。 
そこで、ワタツミノカミは、このサメに「それなら、お前が送ってさしあげなさい。ただし、
海の中を進むとき、くれぐれもソラツヒコ様が恐ろしい思いをしないよう安全に行きなさい。」
と言って、ヤマサチをサメの首に乗せて、送り出しました。 そして、約束どおり、一日で岸まで送り
とどけました。 ヤマサチは、そのお礼として身につけていた紐小刀を解いてサメの首につけて、
返されました。 それで、その一尋サメのことを今でも「サヒモチノ神」と言うのです。

 その後、ヤマサチは、海神の教えた言葉通りにして、その釣針を兄君のウミサチに返しました。
それで、それ以降は、ウミサチはどんどん貧しくなって、さらに荒々しい心を起こして攻めて来るように
なりました。 そこでヤマサチは、潮満玉を出して溺れさせ、それを苦しがって助けを乞うときは、
潮乾玉を出して救い、こうして悩ませ苦しめるとき、兄のウミサチは、頭を下げて言うには、
「私は、これから後は、あなたの昼夜の守護人となって仕えましょう。」と言いました。 
それで、今日に至るまで、ウミサチの子孫のハヤト(隼人)は、海水に溺れた時の仕草を、絶えることなく
演じて宮廷につかえているのです。

エピローグ
ウカヤフキアヘズノミコトの誕生 

 こういうことがあって、海神の娘のトヨタマヒメは、自身でヤマサチのいる地上の国に来て言うには、 
「私は、以前から身ごもっていまして、今は出産の時期になりました。いろいろ考えましたが、
これは天つ神の御子ですから、海の国では産むべきではないと思い、こうしてやって来ました。」と。
 そこで、早速その海辺の渚に、鵜の羽根を葺草にして、産屋を造りました。ところが、その産屋の
屋根がまだ葺き終わらないうちに、トヨタマヒメはお腹の陣痛が激しくなって耐えがたくなったので、
産屋に入りました。そして、いよいよお産が始まろうとする時に、夫のヤマサチヒコに言うには、
「すべて異郷の者は出産の時になると、自分の国にいた時の姿になって産むのです。ですから、
私も今、本来の身体になってお産をします。お願いですから、わたしの姿を見ないでください。」

 しかし、ヤマサチは、その言葉を不思議に思って、まさにお産が始まるところをひそかに覗き見した
ところ、姫は八尋もある大サメに化して、這い回り身をくねらせていました。このありさまを一目見るや、
ヤマサチは驚き、恐ろしさに逃げ去りました。 トヨタマヒメは、夫が覗き見たことを知って、
とても恥ずかしくなり、その御子を生んだまま残して、「わたしは、海の道を通って、この国との間を
常に行き来しようと思っていました。けれども、あなたは、私の姿を覗いて見てしまったのは、
とても恥ずかしいことです。」
と言って、海と地上の国との境を塞いで、海神の国に帰ってしまいました。
 こういうことで、この時の御子を名付けて、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト
(波限建鵜葺草葺不合命=波打ちぎわに建てられた鵜の羽の屋根がきちんと葺かれていない産屋の意味)
というのです。

 しかしその後、トヨタマヒメは、ヤマサチが覗き見したことを恨みつつも、夫を慕う心に耐えかねて、
その御子を養育するという理由で、妹のタマヨリヒメを遣わして、その姫に託して歌を送った。

赤玉は 緒さへ光れど
白玉の 君が装し 清くありけり

赤い玉は、それを貫いた緒までも光るほど美しいものですが、それにもまして、白玉のような 
あなたのお姿が 気高く立派におもわれるのです

これに応えて、夫の神(ヤマサチヒコ)が応えて、

沖つ鳥 鴨著く島に わが率寝(いね)し
妹は忘れじ 世のことごとに

沖の鳥、鴨の寄り着く島で わたしが共寝をしたいとしい妻のことは、いつまでも忘れないであろう 

と歌いました。 
こうして、アマツヒコヒコホホデミノミコト(ヤマサチ)は、高千穂の宮に580年間住まれました。
御陵は、高千穂の山の西にあります。


 この、ヤマサチヒコとトヨタマヒメの御子のアマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコトが、
その後叔母のタマヨリヒメを妻として、生んだ御子のは、イツセノミコト、イナヒノミコト、
ミケヌノミコト、ワカミケヌノミコトの四柱である。

 イナヒノミコトは、亡き母の故郷である海の国へ行き、ミケヌノミコトは、海を渡って常世の国
(外国)へと行ってしまった。

 そして、ワカミケヌノミコトは、別名をカムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼比古命)
といい、のちの初代天皇、神武天皇となりました。

                     古事記 上つ巻(神代の巻) おわり

 

             古事記 中、下巻は、歴代天皇について書かれており、
             ここではこれらについてはしばらくお休みとさせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本標準時  (bon)

2015-07-14 | 日々雑感、散策、旅行

            今日も、猛暑日との予報が出ています。 ご注意を!
        昨日、関東だけで400人を超える熱中症患者が出たそうです。
 

 最近はあまり、このようなことに気が行くことはありませんが、日本標準時つまり、日本の
“時刻”を定めて、日本中、あるいは世界中どこにいても、日本の時刻がただ一つに決められている
ということなんですね。 Japan Standard Time =JST です。 
で、昨日(13日)が、日本標準時制定記念日 なのだそうです。 こんな記念日もあるのですね。

 1884年(明治17年)アメリカの提案で、国際子午線会議がワシントンで開催され、各国の投票結果、
イギリス、グリニッジ天文台を基点とする案が採用され、グリニッジ子午線が“本初子午線”として
国際的な基準子午線となりました。
従ってグリニッジ平均時が世界各地域の時刻の基準の地位を獲得しました。

    グリニッジ天文台の平均時を示す時計
         (ウイキペディアより)

 

    グリニッジ天文台の本初子午線表示
         (同じくウイキペディアより)

 

 これを受けて、各国は、子午線の度数が15度(=1時間:地球一周360度で24時間となる)の整数倍の
所の地方時を使用することになり、日本では東経135度線、つまり明石時刻が使用されることとなりました。
1886年(明治19年)7月13日勅令51号により明石時刻が日本標準時と定められ、明治21年1月1日から
施行されましたが、これを記念して7月13日が日本標準時制定記念日とされているのです。

       明石市立天文科学館
         (ネット画像より)

 

 地球を位置決めする時、緯度は、赤道や地理極などの明確な基準がありますが、経度には明確な基準が
自然には存在しないため、人為的に制定する必要があります。

 先の国際子午線会議で、グリニッジが“本初子午線”(ほんしょしごせん)すなわち、経度0度0分0秒と
定義された子午線(経線)とされたことは、立派なグリニッジ天文台が活躍していたことなどもあった
のでしょうが、大変名誉なことであるのですね。 国際会議ではフランスなどの反対があったとのこと
ですが、結局は投票多数で決まったとか・・。

 ところで、2012年には、国際地球回転・規準系事業 (IERS)によって、IERS基準子午線が、国際的に
使用される本初子午線と定義され、現在もそのようになっていますが、このIERS基準子午線は
グリニッジ天文台を通過するグリニッジ子午線から東に5.64秒、距離にして102.5 mの位置を通過している
のだそうです。 したがって、グリニッジ子午線は、本初子午線ではなくなっているのですが、
二つの子午線は、全地球的には極めて近いことから、現在でも「グリニッジ子午線」が「本初子午線」の
意味で用いられるようです。
ただし、アメリカ国防総省の運営するGPSの基準座標系はIERS基準子午線を用いているそうです。

 その昔、日本では、江戸時代以前には暦の計算や測量などには京都にあった改暦所という役所を通る
子午線を基準としていたり、1871年には日本の基準子午線は東京の皇居(江戸城)富士見櫓を通る
子午線に移されたりしましたが、先の(明治17年の)勅令で、グリニッジ子午線を基準子午線として
採用することが定められたのでした。
 日本では、東経135度が通過する“明石”の時刻が日本標準時と定められましたが、経度15度(1時間)
単位で日本列島を線引きすれば、東経150度は択捉島よりさらに東となりますし、東経120度は、
台湾よりまだ西となって、結局、15度刻みで行けば“明石”となるのですね。
明石のすぐ南には、淡路島があり、日本標準時を定めた子午線は当然淡路島を通過しています。
古事記では、日本最初にできた島が淡路島で、そこを通過する子午線の時刻が日本を代表する時刻に
なっているというのは、なんとも不思議な縁だという人もいます。

 ところで、日本の標準時はJSTと呼びますが、世界的には、協定世界時UTCと呼ばれています。
英語では、Coordinated Universal Time でCUT、フランス語では、Temp Universel CoordonnéでTUCとなり
ややこしいので、統一的にUTCとされたとか・・。

 考えてみれば、標準時というのは、至極当然のことですけれども、世界的に、この標準時が設定されて
いないと、大変混乱が生じるもとで 到底想像できませんが、どこを基準とするか世界的に決めると
なるとこれまた大変なことで、今日的な世界情勢では、どのように決定されるでしょうか?

 

 今日7月14日、フランス革命記念日(パリ祭)に因んで・・   
   

 

 

 

 

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ベランダに夏来る  (bon)

2015-07-12 | 花鳥風月

 6月末あたりから、10日ほどぐずついた、気温の低い雨模様が続き、ようやく青空が戻ってお天気になると、
はや、昨日は35℃になろうかという気温でした。 太陽にあたると、それだけでじわ~っと汗するほどの
暑さで、急に夏がきました。  湿度もそれなりに高いようです。

 そんな中、先日来のノウゼンカズラは相変わらず、たくさん花をつけていますが、このところ、
百日草が次々といろんな色が咲きだし、クロコスミア、カサブランカ、グラジオラスなども競っています。 
少し前から、サルスベリの白い花が咲いていますが、今年は花が多いようです。 ピンクのサルスベリは、
2年前の大規模修繕の時にダメにしてしまいました。

  百日草
   

 

               クロコスミア
                       

 

             カサブランカ
                       

 

  グラジオラス
              


               さるすべり
            

   

 クロコスミア(モントブレチア)は、昨年8/4に記事アップしていて、そのときに百日草なども
アップしていますので、だいたい毎年この時期に賑わせていることが分かります。この記事では、
まだ青いレモン、みかんがそれぞれ4個、8個となっていますが、今年のそれは、レモンが2個、
みかんが3個でともに低調です。

 今日も、朝から強い日差しが照りつけて暑い一日となりそうです。 
台風で、九州地方は豪雨が続いているようですが、次の11号も不気味に伺っているようです。

 手元の気圧計では、室内、エアコンoffで、気温28℃、湿度66%、気圧1010hpです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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エピジェネティクス  (bon)

2015-07-10 | 科学・生物

 聞きなれない言葉ですが、ご存知でしたでしょうか。

 最近急に、活発に議論されてきているそうで、論文数も激増しているようです。
ライフサイエンス(生命科学)の一つなのです。
難しく専門的ですので、なかなか理解はできませんが、
どのようなことか? ホンの入り口だけご紹介したいと思いました。

 それというのも、先日手元に届いた会報に、エピジェネティクス入門(仲野徹 阪大大学院生命
機能研科長・教授・医博)と題する記事があり、DNAの構造が同一であっても遺伝的に異なった
現象が起こるという、生命科学分野の新しい解明が出来るというだけでなく、このことが生活習慣病などの
疾患の発症から、植物の生理、動物の社会生活まで幅広く関与していることが明らかになっていると
いうのです。

 では、エピジェネティクスとはどういうモノか、にわか勉強で分かりにくいですが、サワリをご紹介します。

 エピジェネティクスの具体例として、エピジェネティクス最新の研究動向(伊藤裕子、科学技術・
学術政策研、薬博)と題する論文に次のように述べられていました。
「一卵性双生児は、ゲノムの遺伝情報が同じであるのにもかかわらず、その身体的特徴および性格や
嗜好に違いがあり、さらに、病気の発症の有無や症状の程度に差が見られることが知られている。
しかも、これらの両者の“違い”は、幼少期には小さく、成長するに従って大きくなる。また、
動物では、ゲノムが同一であるにもかかわらず、元の動物の毛色や模様のパターンがクローン動物に
受け継がれないことが知られている。 可愛がっていた三毛猫のクローンをつくることを試みても、
誕生したクローン猫は似ても似つかぬパターン模様の二色の毛色のネコになってしまうということである。
これらは全てエピジェネティクスの身近な例である。」と

 また、他の記事からも別の見方として引用しますと、

「 私たちの遺伝子は、DNAで構成されています。このDNA配列に変化が起こると、その変化は細胞分裂を
介して、あるいは個体を通して、次の世代に受け継がれます。このような変化を、遺伝的変化と呼びます。
そしてこのような遺伝子の変化と表現型の変化を結びつける学問を遺伝学(ジェネティクス)といいます。
 一方、DNA配列に変化は起こらないのに遺伝子の機能が変化し、その表現型が次の世代まで受け継がれる
ことがあります。たとえば、私たちの身体を構成する細胞は、基本的には同じ遺伝情報をもっています。
ところがそれぞれの細胞は発生分化の過程で、特異的な性質を子孫細胞に伝えるようになります。
このようにDNA配列の変化がないのにその形質が子孫(細胞)に受け継がれることをエピジェネティクスと
いいます。」

 そうなんです。おなじDNA配列なのに、遺伝的に異なる発現があるというのですね。
いったいどういうことなのか? 仲野教授は、アナロジーとして、下図の“巻物”で説明されています。

 


                                              (仲野教授発表資料より)

 つまり、図のように23,000の文章からなる巻物があるとして、この巻物の文章が、それぞれ、
読み取る(活性的付箋)、読まない(抑制的付箋)、読めない(伏せ字)などが施されており、
これらの情報に従って、巻物の“発現状況”が異なるという訳です。 この23,000の文章というのは、
ゲノム(全遺伝情報)の中の遺伝子の数であり、ここに付箋などに従って発現した個体は、おなじ
DNA配列でも性質などが(遺伝的に)異なるというのです。

 もう少し、専門的にその構造を見てみますと、図にありますように

        DNAの構造
          (国立がん研HPより)

DNAは、数珠あるいはネックレスのように、ヒストンというたんぱく質に巻き付いていて、
このヒストンの尻尾であるヒストンテールがアセチル化という化学修飾を受けると、遺伝子が発現
しやすくなる、すなわち読みなさいという付箋が付いた状態になる。 反対に、このヒストンがメチル化
修飾を受けると、読んではいけませんという付箋が付いたようになるというのです。また、DNAの
4つの文字であるACGTのうちC(シトシン)だけがメチル化修飾を受け、そうなると巻物の伏せ字に
されて、遺伝子が発現しにくくなる。つまり、これらをまとめて、仲野教授は、次の図のように表しています。

 
                              (仲野教授発表資料より)


 DNAが同じでも、遺伝的に少し違った個体が出来る理屈がわかったような気がしますが、では、

このエピジェネティクスが疾患と どのようにかかわりを持つのか、次第に明らかになっているといいます。
たとえば、“がん”についても、エピジェネティクスが重要な発症原因であることが分かってきたり、
さらに、骨髄異形成症候群といった白血病の疾患には、DNAメチル化を阻害する薬剤が有効である
などもわかってきた。エピジェネティクスは、殆どの生命現象に多かれ少なかれ関係しているのであるから、
ある意味ではすべての病気に関係しているという言い方も出来る。
最近では、がんや生活習慣病だけでなく、自閉症や統合失調症をはじめとした精神疾患、アレルギー性
疾患など、様々な疾患においてエピジェネティクスが関係しているのではないかといわれている。
しかし、これらを解明するには、今後さらなる研究が必要であると、教授は力説されていました。

 また、伊藤博士も、「異常な遺伝子発現を正常な遺伝子発現の状態に戻すといったエピジェネティクスに
関する基礎研究が進められている。さらに、再生医学でもエピジェネティクス研究の発展が期待されて
いる。再生医療で利用されるES細胞やiPS細胞のような全能性をもつ細胞(どの組織や臓器にも分化できる
細胞)から、目的の細胞や臓器を自由に作製(カスタマイズ)するためには、エピジェネティクスに
ついてのより多くの進んだ知識が必要になる。

 エピジェネティクスにおける遺伝子発現のメカニズムには、代表的な「ゲノムDNAのメチル化」
以外にも様々なものが知られている。 このメカニズムにはまだ不明な部分も多く、解明研究も活発に
進められている。」と述べています。

 これまで、動物や植物などで不思議と思われてきたことも、少しずつ解明されてくると同時に、
それらの仕組みが明らかになるとともに、そのことを医療などに活用することによって、より快適な
生活向上に向けた活動がなされているのですね。

 仲野教授の簡潔なまとめがありました。

 

                              (仲野教授発表資料より)


 

 

 

 

 

 

 

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蔵王堂蛙とび  (bon)

2015-07-08 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日、7月7日は七夕ですが、この日、奈良吉野の金峰山では“蛙(かわず)飛び行事”が行われました。

 金峰山寺を含む吉野一帯は、2004年に世界文化遺産に登録されましたが、当山は、役小角
(えんのおずぬ)が開創と伝えられる修験の大道場として知られています。

 金峯山とは吉野山から山上ヶ岳(大峰山)にいたる山々の総称で、“金のみたけ”という意味だそうで、
山上ヶ岳にある大峰山寺への玄関口の役割を持っています。 

 吉野は桜でも有名ですが、私はかって、この吉野の奥深く入ったことがあります。
何となく霊験新たかな感じであったような気がしていますが、あまり記憶が定かではありません。
それよりも別の機会(昭和55年頃)に大峰山の修行に参加したことがあり、こちらの記憶は鮮明に
残っています。 
絶壁の崖をつかまるところがなく、岩に吸い付くようにして登ったり、大岩の外側を素手で回るなど、
大変怖い思いをした記憶があります。 7か所くらい、そのような怖いところがあって、それを完遂した後は、
自分自身が大変大きく感じられ、何物にも動じない強い精神力が湧いてくるのが感じられたのを覚えて
います。 なるほど、修行というのはこういう事なんだ・・と。 よく、大峰山の “谷底覗きの行”が
大変怖いと話しに出てきますが、こちらも体験しましたが、崖を回る行に比べると、特になんてことない・・
というほどのものでした。

 ま、横道にそれましたが、この、修験道の開祖である役行者が産湯を使われたと伝えられる弁天池の
清浄な蓮の華を、7月7日、蔵王堂に運んでご本尊に献じる法要が行われ、あわせて境内では
「蛙飛び行事」が執り行われるのです。

 「蛙飛び行事とは、修験道を軽んじ鷲に断崖絶壁へとさらわれた男が、改心し後悔しているのを、
通りがかりの高僧が男を蛙の姿に変えて救いだし、一山僧侶の読経の功徳によってもとの姿に戻した、
という伝説を行事にしたものである。」とあります。

     蛙(かわず)飛び
       (HPより)

 

     蔵王堂
       (HPより)

 

「蔵王堂は、金峯山の高台にそびえたつ、東大寺大仏殿に次ぐ木造の大建築で、現在の本堂は
1592(天正20)年に再建された、室町末期を代表する建造物です。
高さが約34mもあるので、吉野を巡る折々にその威風を見ることができます。本尊として3体の
蔵王権現像をまつり、中尊の高さは7m余りの巨像。また、内陣の2本の金箔張りの化粧柱や須弥壇は
太閤秀吉が花見の際に寄進したものといわれ、桃山建築の美しさを残しています。」とあります。 
何かの機会があれば、改めて訪れてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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トマトの収穫  (bon)

2015-07-06 | 日々雑感、散策、旅行

 市民農園では、今年トマトがうまく行って豊作です。
苗を植えれば、肥料を少し施して 後は水と太陽があれば育つ・・原理で、特になんてことを言う
ほどのことではないのですが、 毎年、トマトを栽培していますが、なかなかそううまくは行かず、
大きく出来なかったり、数量が少ない、実が割れる・・など、満足に行くことが殆ど少ない中で、
今年は一段と違っているのです。

 豊作です。
苗は、pookyが懇意にしている農家から分けてもらった“桃太郎”(大玉)5株ですが、この2日間で
18個も採れ、大体1個200~250gくらいの大玉で、割れもせず ずっしりと重い手ごたえがあります。

       豊作のトマト(市民農園)
           

 

 家庭野菜の定番で、じゃがいも、キュウリなどに次いで第5番目人気のトマトで、どこにでもあり
今や 年中出回っていますから、何でいまさら? の感もありますが、ウイキペディアなどを見てみました。

 トマトは、学名をSolanum lycopersicumといい、南アメリカのアンデス山脈高原地帯(ペルー、
エクアドル)が原産で、ナス科ナス属の植物とあります。  熱帯地方では、多年生植物のようですが、
日本では冬には枯れてしまいます。 トマトは、日本語では唐柿(とうし)、赤茄子(あかなす)、
蕃茄(ばんか)、小金瓜(こがねうり)、珊瑚樹茄子(さんごじゅなす)などの異称もあるそうです。

 また、日本での栽培は、熊本県がダントツで10万t、北海道、茨城、千葉と5万tクラスが続き、
2012年全国では72万t強だそうですが、外国ではこの比ではなく、中国の5000万tを始め、
アメリカ、インド、トルコが1700~1000万tクラスで、日本は何と26番目で、作付面積では43位と低いですね。

 トマトの起源?は、どうやらメキシコあたりで16世紀頃発見されていますが、当初は有毒植物と
間違われていて、食用になったのは、18世紀ころだそうです。

 アメリカでは、輸入関税が果物なら無税、野菜は課税・・であったため、このトマトが、果物か
野菜か大激論の末、裁判で野菜の判決を受けたとか・・。

 日本には、江戸時代に長崎に伝わったのが最初とされていますが、当時、その青臭さ、真っ赤な色が
敬遠されて むしろ観賞用であったとか。 食用として利用されるようになったのは、明治に入って
からのようで、食用として品種改良され、盛んに栽培されるようになったのは昭和に入ってからという、
比較的新しい食物なんですね。

 

 その他、記事的に・・・

  • トマトの語源はメキシコ、ナワ族が話す言葉ナワトル語でホオズキの実を意味する“tomatl”(トマトゥル)に由来する。
  • トルコではやけどにスライスしたトマトを塗りつける。
  • ジャガイモの茎にトマトを接ぎ木したものは“ジャガトマ”と呼ばれる。
  • 栄養素が豊富な事から、“トマトが赤くなると、医者が青くなる”という、ヨーロッパのことわざがある。“When tomatoes become red, doctors become blue”. 日本における柿と同じ。“柿が色づきゃ、医者青くなる”
  • プチトマトは和製英語であり、日本でしか通じない。英語名はcherry tomato。

 

 

 

 

 

 

 

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金沢城公園  (bon)

2015-07-04 | 日々雑感、散策、旅行

 毎年この時期には、金沢の懇親会に出席しています。
今年も、昨夜のパーティーでは、大勢のOBの皆さんや現役の方たちと語り、昔を偲び、今を考えたりと
楽しいひと時を過ごしました。 その年どしに懐かしい人何人かと巡り合い、過ぎし日の長さに改めて
思いが行き着くのでした。
今年新しくOBとなった人は10人いましたが、その後の技術革新の早い激動を乗り越えて来たのかと、
今さらながら敬意を表したい気持ちになりました。

  関東は土砂降りでしたが、金沢はどんよりしていたものの雨はありませんでした。
少し飲み過ぎた翌朝は、意外とすっきりしていて、地元の昔の知り合いと会った後、今回は、
すっかり新しく生まれ変わった部分を中心に、金沢城を辿ることとしました。

 金沢城は、もともとは、本願寺が金沢御堂を 1546年の創建に始まるのだそうですが、初代城主は、
1583年前田の殿様(利家)で、明治2年まで加賀藩前田家の居城でありました。その後、終戦までは
陸軍の拠点として、さらにその後 平成7年まで金沢大学キャンパスとして利用されてきましたが、
基盤整備や休憩施設など公園としての受け皿を整備して、平成13年に都市公園として開園したのでした。
そして、菱櫓や河北門、いもり掘など城郭施設の復元を進めて、今年、橋爪門の復元、玉泉院丸庭園の
整備が行われました。

 このあたりを中心に、歩き回り写真に収めましたので、歩いた順番に従ってご紹介したいと思います。 
先日のテレビの“ぶらタモリ”でもやっていましたから、ご覧になられた方もおられると思います。

        いもり堀
          
 

        玉泉院丸庭園
         
 

        色紙短冊石垣
         
 

 五十軒長屋                  三十軒長屋(160年前の建物)
  
 

橋爪門                   本丸の森
  


 切り石積み石垣                 自然積み石垣
  

 

 金沢城公園には、いもり堀横の玉泉院丸庭園口から入りましたので、ぐるぐる廻って、もっとも有名な
石川門(重文)から出ましたら、すぐ前が、兼六園。 ここも久しぶり(30年ぶり)に入ってみることに
しました。 成人310円とありましたが、65才以上は無料でした。 何となく得したような感じで、
ならばちょこっとだけ見ることに・・とも思いましたが、この際やはり十分~見ておこうなどと
欲を出しゆっくり回りました。

 あの絵ハガキと同じ “ことじ灯籠”
        
          

 霞ヶ池                  霞ヶ池を水源とした自然噴水
   

 

 兼六園を回りまわって、小立野口から出て、出羽町に来ました。 
以前、私も勤務しました“北陸支社”があったところですが、今は、県立歴史博物館が建っていました。
一企業が、この一等地に聳えていることが改められたのでした。

 帰路は、“かがやき510号”に乗車しました。 金沢を出発すると、途中、富山―長野―大宮で
2時間ちょっとで来ちゃうんですね。(往きは、“はくたか”でしたから、2時間50分ほどでした。
それでも、以前より1時間ほど短縮されました。)

 

 

 

 

 

 

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雨上がりの ギボウシ  (bon)

2015-07-02 | 花鳥風月

 蓼科農園から帰宅して早や3日目の朝となりましたが、足腰の筋肉痛から未だ回復せず、だらだらと
過ごしています。

 昨日は、終日降ったり止んだりの小雨模様の一日でした。
こんな日は、気分もスッキリとせず、筋肉痛を抱える身には余計に重暗い感じではありました。 

 夕方近く、雨上がりのベランダは、カサブランカの強い香りが充満していて、
今年も大きな花を 惜しげもなく咲かせているのでした。
百日草も、ようやく咲き始めて、いろんな色の花が混ざり合って、夏らしい雰囲気を呈していました。

 そんな中、静かに“ギボウシ”が咲いていました。
花には、雨露がまだ付いていて、このしずくを落とさないように気を付けながら、
パチリとしてみました。

     雨上がりのギボウシ
                 

 

 このブログ、3年前の 2012.7.5の記事に「ぎぼうし」がアップされていました。
やはり、毎年この時期に咲いているのが改めて確認できました。 
で、その記事の部分を、再掲させていただきました。
 

 「 ぎぼうし(擬宝珠)がひっそりと咲いています。 ユリ科の多年草ですが、小さな鉢(2鉢に)
植えてもう何年もすぎるというのに、律儀にこうやって、毎年静かな花を咲かせてくれます。 
花言葉は、落ち着き、沈静、静かな人・・というだけあって、本当に控えめな花ですね。 

 なぜ ぎぼうし(擬宝珠)かといえば、若い花序がこれ・・つまり、擬宝珠に似ているからと
いうのですが、あまりそうは思えないですね。

 擬宝珠とは、ウイキペディアから京都三条大橋のものを拝借しました。つまりはネギ坊主の意ですが、
皆さんはいかがですか・・? また、オオバギボウシというのがありますが、別名「ウルイ」と言って
山菜の仲間ですね。これは、食したことがある・・・。」

                                      京都三条大橋の擬宝珠
                       (ウイキペディアより) 

 

 そうなんですね。 ウイキペディアによれば、“ギボウシ(擬宝珠)は、キジカクシ科リュウゼツ
ラン亜科ギボウシ属(学名: Hosta)の総称である。山間の湿地などに自生する多年草。食用となり、
花が美しく、日陰でもよく育つため、栽培される。” とあり、また、“この植物のつぼみ、または
包葉に包まれた若い花序が擬宝珠に似ることに由来する。ギンボ(青森県)、タキナ(高知県)
などの地方名がある。英語名 plantain lily は「オオバコユリ」という意味であるが、これは
ギボウシの葉がオオバコに似ているためである。” ともありました。

そしてさらに、擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)の解説として、
    1、橋や寺社の欄干に取り付けられた2.に似た飾り。
    2、ネギの花のこと。葱坊主(ねぎぼうず)。
    3、ユリ科の多年草。つぼみが1.に似ていることから。
    4、ギボシ端子 電線接続用のコネクターの一種。カーオーディオの接続に利用されてい
    ることが多い。端子のオスの形が1に似る。

などがありましたので、追加しておきます。

 今日も、朝からどんよりと梅雨空でしたが、先ほど“なでしこ”のイングランド戦が終了直後
(10時前頃)には大粒の雨がパラパラと来ました。

    ベランダのカサブランカと咲き始めた百日草
                     

 

 

 

 

 

 

 

 

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