蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

道成寺鐘供養  (bon)

2016-04-27 | 日々雑感、散策、旅行

         2020年東京オリンピック、パラリンピックのエンブレムが、今週
         月曜日に決まりました。 4種の提案の中では、やや地味かな
         と思っていたのが選ばれました。 

      

 道成寺といえば能や歌舞伎・浄瑠璃などでおなじみ伝説 「安珍・清姫」ですね。
毎年4月27日には和歌山県川辺町の道成寺で鐘供養が行われ大勢の人で賑わうようです。

 よく御存じですが、この伝説をウイキペディアから、かいつまんで再掲してみます。

時は延長6年(928年)夏の頃、奥州白河より熊野に参詣に来た僧がいた。途中、紀伊国牟婁郡
(現在の和歌山県田辺市)真砂の里で巡礼の宿を営む清重という男の家に泊まりました。この僧(安珍)は
大変な美形であったため、その家の娘、清姫は安珍に一目惚れしてしまいます。清姫は、女だてらに夜這いを
かけて迫まり、どうか私の婿になって下さいと懇願します。 しかし、安珍としては、今は願を掛けて
熊野に行く道中なので、帰りにはきっと立ち寄って添い遂げましょうと騙して旅立って行ったのです。

 ところが安珍はそれほど清姫に気があった訳でもなかったので、すぐに冷めてしまい、熊野まで行って
参拝を果たした後、別の道を通って帰ってしました。清姫の方はなかなか安珍が戻ってきてくれないので
だんだん不安になり、騙されたことを知った清姫は怒り、裸足で追跡しました。道成寺までの道の途中
(上野の里)で追い付きますが、安珍は再会を喜ぶどころか別人だと嘘に嘘を重ね、更には熊野権現に
助けを求め、清姫を金縛りにした隙に逃げ出そうとする始末でした。ここに至り清姫の怒りは天を衝き、
遂に蛇身に化け安珍を追跡するのです。

 日高川を渡り道成寺に逃げ込んだ安珍を追う、火を吹きつつ川を自力で渡る蛇の姿がありました。
渡し守に「追っ手を渡さないでくれ」と頼みますが、如何ともしがたく安珍は、とうとう梵鐘を下ろして
もらいその中に逃げ込んでしまいました。しかし清姫は許さず鐘に巻き付き、因果応報、哀れ安珍は
鐘の中で焼き殺されてしまうのでした。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水してしまいました。

 蛇道に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼みます。住持の唱える法華経の
功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れたのです。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と
観世音菩薩の化身であったのです、と法華経の有り難さを讃えて終わります。」

         道成寺縁起絵巻(土佐光重画)
                  (ウイキペディアより)

 

 この安珍・清姫の物語は今昔物語巻11に収録されたものを原点として、数々のバリエーションが作成
されているとありました。1000年以上も前のお話しですが、男女の問題は今も昔も同じですね。

 この物語の舞台となった道成寺は藤原不比等の娘で、文武天皇后・聖武天皇母である、藤原宮子が
誓願して建立したといわれ、大宝元年(701年)に開基した紀州最古の寺です。 安珍清姫の物語は最初
能で演じられ、その後歌舞伎に取り入れられたそうです。なお、この道成寺の問題の鐘はその後回り回って
加藤清正が京都の妙満寺に奉納したともいわれています。

          道成寺境内
          (ウイキペディアより)

 
 道成寺では、4月27日、二人の冥福を祈って盛大な「鐘供養」が行われます。会式では「ジャンジャカ踊り」
という踊りが披露され、長さ25mの大蛇に姿を変えた清姫が、安珍を追いかける姿うを再現するように、
行列が町を練り歩きます。 
そして、道成寺に到着すると、安珍が逃げ込んだ鐘に大蛇が巻きつき、
口から真っ赤な火を吐き鐘を焼き尽くす様子が再現されるのです。


  今日は、これから今年初の、蓼科農園春の合宿に行ってきます。 今年は、4月初の御柱祭
(山出し)に参加しましたので、実は、2度目になりますが、畑作業は今日から始まるのです。 
畝づくり、マルチ掛け、ジャガイモ、サトイモなどの植え付け、冬越しした玉ねぎなどに追肥作業があります。
お天気はどうかな? 山はまだ寒いだろうなぁ~。


 

 

 

 

 

 

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新芽  (bon)

2016-04-25 | 花鳥風月

 梅、サクラ、コブシ、サルスベリなどこの時期になると、枝から新しい芽が吹いてきていますが、
土の下から、ニョキッと顔を出す“芽”は、それまで、土の中で眠っていたり、要するに目で見ることが
出来なかったのが、いつの間にか顔を出す時というのは、それなりの感動もので、小さなタネの中の
生命が今、ほころんで地上に現れた・・当り前といえばそうですが、何となくそのような感じを抱いています。
毎年この時期の、ベランダのすがたの一部です。

  サギソウ  3月2日に植えつけましたから、ほぼ2ヶ月弱で芽が出てきました。球根は、小さいものを
入れると、30個くらい植えましたから、まだ芽は出揃っていないですが、これからもう少し出て来ると
思います。 これからしばらくは、虫よけに、ときどきベニカを噴霧したりして、大きく育てます。
暑くなる前に、日除けをつくり、葉焼けを防いだりする予定です。
ことしも、あの独特の花が咲くことを願って・・。

 芽が出て来たところです。         3/2に植え付けた芋
   

 

 ハナミズキ こちらのタネは、たくさん蒔いたのです。昨年10月に採取しましたタネを消毒して、
冷蔵庫に2ヶ月寝かせて、12月中旬にポット播きしたのは、まだ何も音沙汰がありません。
皮肉にも、10月中旬に採ったタネをそのまま(果肉は削除して)ポットに取り巻きしたものからすこしだけ
芽が出て来ています。 何が違うのか、わかりませんが、蒔いた土が、鹿沼土にしたのが良かったので
しょうか? 冷蔵庫に寝かせた方は、培養土に植えたのでした。他の草花などは、大体がこの培養土に
蒔いているのですが・・。
 出て来た芽は、大事に育てて行きたいと思います。また、あとのポットからも芽が出て来ることを
期待しながら・・。 それにしても、10月からですから、6か月くらいかかるのですね。

 採り蒔きしたポットから芽が       冷蔵庫に寝かせたポット(12/15)
   

 

 百日草  こちらは、毎年種から咲かせています。種は市販のタネを買ってきますが、今年は少し
芽の出方が少ない感じがしています。しかし、こんな小さな芽が、草丈80cmほども大きく伸びるのですから
信じられませんね。 花の色は、お任せですから咲いてみないとわからないのですね。
切り花にできるので夏場重宝です。

          少しですが、出て来ています。
            

 

 みょうが   芽は少し前から出て来ていましたので、少し大きくなっています。40cm位の丸鉢に
植えたまま、冬を越したものです。 昨年、ミョウガの実(花のつぼみ)はいくつか収穫できましたので、
ほど良く役に立っているのでした。一度にたくさん要りませんから、こんな時はベランダは便利しています。

          こちらは大分成長しました。
            

 

 長ネギ(市民農園) 今年初めて、トライしてみました。 市民農園の小さな部分に、3月下旬に
種を蒔きました。 乾燥すると発芽しないとありましたので、新聞紙に穴をあけて、ネットで抑える
ようにして、ときどき冠水しました。こんな時は、小雨模様になると“ありがたい”感じになるのですね。
2週間ほどして、新聞紙などは、取り去って、ほんの小さな芽が出ているのを確認できました。
 先週、ピンセットで、少し間引きをしてみました。まだ、小さすぎるので、もう少し伸びてきたころに、
再度間引くことにして、さらにもう一度くらい間引きを繰り返し、鉛筆くらいの苗に仕立て上げる予定です。
まだ、しばらくかかりそうですが、定植時期になれば、お隣の畑の方にもおすそ分けの予約となっています。
夏場を過ぎて、今年の冬の寒い時期に収穫することを今から夢見ているので~す。

         こんなのが、大きくなるのかしら・・?
           (市民農園)

 

 

 

 

 

 

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安徳天皇  (bon)

2016-04-23 | 日々雑感、散策、旅行

 安徳天皇は、父 高倉天皇、母 平清盛の娘徳子(後の建礼門院)の第1皇子として生まれますが、
高倉天皇が若くして逝去したため、第81代天皇として、わずか3歳(満1歳4月)で即位するのです。
しかし、幼少であるため、当然実権はなく政治は清盛が取り仕切っていました。 

 時は、平安時代の末期の寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県
下関市)で行われた戦闘で、安徳天皇は、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に
抱き上げられると、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙を
おさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや
尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申す
のです」と言い聞かせる。安徳天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて
念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を
投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月)で崩御したのです。
  (この下りを文末に、平家物語から一部を引用してみました。)

       安徳天皇
         (ウイキペディアより)
 

ドラマなどでも取り上げられていましたから、よく御存じのお話ですね。

 即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれますが、半年ほどで
京都に還幸したところ、源義仲の入京(1183年)に伴い、三種の神器とともに都落ちしてしまいます。 
この後同年9月には、神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し、正史上初めて同時に2人の天皇が擁立される
ことになったのでした。そして、平家一門は、源氏に追われ西国にのがれ、一の谷屋島の合戦に敗北し、
とうとう冒頭の壇ノ浦で滅亡するのです。

 一の谷の戦いは、源義経が活躍し、例の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲などで大きな戦果を挙げたのは
有名ですね。平家物語には、ここでも武蔵坊弁慶の活躍も出て来るようです。
また、屋島の合戦では、物語の名場面「扇の的」の優雅の内にもメンツをかけた一大イベントがあったの
ですね。 この話の内容をウイキペディアから、そのままここに引用させていただきます。

『夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。
外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに
下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなく
これを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、
もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、
矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。
「平家物語」の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、
沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙(えびら)を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、
年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。
義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。
平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは
「心無いことを」といった。 怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を
敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては
末代までの恥辱だ」と語った。物語の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。』

 ひよどりごえ              扇の的   (ともにネット画像より)
      

 

 話は安徳天皇からそれてしまいましたが、若くして崩御した天皇を安置するため、6年後に、
赤間関阿弥陀寺境内に御影堂を建立し、その後明治になって赤間宮、そして昭和15年には、赤間神宮とし、
官幣大社とされました。 で、御影堂建立により、安徳天皇の命日にあたる3月24日(旧暦)を期して
法要(先帝会と称して)が営まれてきましたが、それが新暦4月23日~25日となり、現在では
「先帝祭」と称した赤間神宮の祭事が5月2~3日に行われているのです。

        赤間神宮
         (ウイキペディアより)
 

この祭事の模様は次のように記されていました。(ウイキペディアより)
『平家落人の子孫らで組織される全国平家会の参列のもと御陵前での神事を始め、平家一門追悼祭などが
ある。 翌3日に、平家の遺臣で中島四郎太夫という者が、漁師に身を窶して平家再興を計りつつ下関に潜伏、
先帝会には威儀を正して参拝したという故事に因んで、その子孫に端を発する「中島組」という漁業団体員
が参拝、これを「中島組参拝の式」という。それに次いで「上臈・官女参拝の式(「上臈道中」)」と
なるが、これも壇ノ浦の戦いの後に在地の苫屋に援われた建礼門院(平徳子)の侍女達が、在地の苫屋に
養われつつ御陵に香花を手向け、先帝会には容姿を整えて参拝したことに縁由するという。
その後 妓楼を営むようになった苫屋の主人が、侍女達及びその遺族も没したために、抱える遊女達に
その風俗を真似て宮廷装束に身を纏わせて参拝させるようになり、これが江戸時代に至って、当時存在した
稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれて、現在の「上臈道中」となったといい、吉原の花魁に模した
太夫が禿(かむろ)、上臈、稚児、警固(けいご)らを従え、下関市中を外八文字を踏んで歩く。』

 今から、800年以上前に思いを致し、ひと時源平の終焉を垣間見たのでした。


<平家物語第11巻9「先帝身投げ」の一節>
「このくにはそくさんへんどとまうして、ものうきさかひにてさぶらふ。あのなみのしたにこそ、
ごくらくじやうどとて、めでたきみやこのさぶらふ。それへぐしまゐらせさぶらふぞ」と、さまざまに
なぐさめまゐらせしかば、やまばといろのぎよいにびんづらゆはせたまひて、おんなみだにおぼれ、
ちひさううつくしきおんてをあはせ、まづひんがしにむかはせたまひて、いせだいじんぐう、しやう
はちまんぐうに、おんいとままうさせおはしまし、そののちにしにむかはせたまひて、おんねんぶつ
ありしかば、二位殿やがていだきまゐらせて、「なみのそこにもみやこのさぶらふぞ」となぐさめ
まゐらせて、ちひろのそこにぞしづみたまふ。かなしきかな、むじやうのはるのかぜ」

 

 

 

 

 

 戦いの中にあってなお、雅ごころを忘れず・・優美でした。

 

 

 

 

 

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難しい単位  (bon)

2016-04-21 | 日々雑感、散策、旅行

 熊本、大分では余震がしつっこく続き、被災者の方々の不安といら立ちは、増すばかりです。
本当に何とかしてほしい・・!

 4月14日夜から21日午前9時までに両県で発生した地震は、震度7を2回含め、震度4以上は91回、
震度1以上は752回と報道されています。(NHK) 


 地震に関する強さなどの単位が、またここに来て新しく“カイン”が出てきました。
出て来たというのではなく、新しく知ったというのが正解です。 で、この際、これらを再度まとめて
みました。
 地震の大きさを表す単位として、震度、マグニチュード、ガル、カインがあります。以下纏めてみました。

 

震度  かつて、震度は体感および周囲の状況から推定していましたが、平成8年(1996年)4月以降は、
計測震度計により自動的に観測し速報しています(気象庁)。全国に震度観測点が4,384か所(気象庁670、
地方公共団体2,932、防災科学技術研究所782)あり、ここに“計測震度計”が設置され、震度計内部で
デジタル処理されて観測点の揺れの強さが数値化され出力されます。
 地震情報などにより発表される「震度」というのは、“震度階級”と呼ばれるもので、震度計で出力された
数値を換算して震度階級が算出されているのです。

 気象庁震度階級表は以下の通りです。

   震度階級

 計 測 震 度 

震度階級

 計 測 震 度 

0.5未満

5弱

4.5以上5.0未満

0.5以上1.5未満

5強

5.0以上5.5未満

1.5以上2.5未満

6弱

5.5以上6.0未満

2.5以上3.5未満

6強

6.0以上6.5未満

3.5以上4.5未満

6.5以上

 

 専門的になりますが、震度計の中での処理は、地震の加速度を東西、南北の2成分と上下1成分を計測し、
これらのベクトル波形を合成した絶対値がある値 a 以上となる時間が丁度 0.3秒となる a を求め、 
     I = 2 log a + 0.94 の式から 計測震度 I が計算されています。

 震度は揺れの強さを示しており、たとえば、震度3は、屋内にいる人の殆どが揺れを感じる。
震度5弱は、棚にある本や食器が落ちたりする。震度5強は、モノにつかまらないと歩き難い。家具が
倒れたりする。震度6強では、這わないと動くことが難しい、家具などが倒れる、木造家屋なども倒壊する。
震度7は、建物の倒壊が多くなる。

 

マグニチュード  地震が発するエネルギーの大きさを対数で表した指標値で、揺れの大きさを表す
震度とは異なります。マグニチュードは地震そのものの強さ(大きさ)で、震源地から近いか遠いかに
よってその揺れを感じる強さ“震度”は違っていますよね。 英語圏では「マグニチュード」よりも
「リヒター・スケール」の名称が一般的だそうです。

      リヒター関係式
         (ウイキペディアより)
 

 マグニチュードを定義したものは数種ありますが、一般に、次のように考えられています。
すなわち、地震が発するエネルギーの大きさを E(単位:ジュール)、マグニチュードを M とすると、
           

の関係があり、この式からマグニチュードMが 1 大きいと左辺のlogEが1.5 だけ増加するからエネルギーは
31.62倍大きくなるのです。( )。
したがってマグニチュードが 2 大きくなると地震のエネルギーは1000倍になる(31.62 × 31.62 ≒ 1000 )
のです。 実際には、震源までの深さ、最大振幅、震源断層面積、変移量などから難しい式により
計算されています。日本では、気象庁マグニチュードMjとして計算されています。

 マグニチュードと地震の大きさ、エネルギーなどの目安について、表(部分)を引用します。

 マグニチュードと地震の大きさ
 
 
  

  さらに、ウイキペディアには、マグニチュード10以上についても“参考”として次のように書かれて
いました。

 ・マグニチュード11.0 4,800億t 恐竜絶滅の原因と見られる小惑星が地球に衝突した時に
  発生した地震(推定)

 ・マグニチュード11.5 2兆6,000億t 地球が太陽から受ける総エネルギー1日分

 ・マグニチュード12.0 15兆t 地球が真っ二つに割れて起こる地震(理屈上)

とありました。

 

ガル  ガル(Gal / gal)は、加速度を表す単位であり、地震では、人や建物にかかる瞬間的な力を示す
ものとして用いられています。 1ガルは、「メートル毎秒毎秒の100分の1」すなわち「センチメートル
毎秒毎秒」(cm/s²)と定義されています。しかし、国際単位系では認められておらず、国際単位系では、
「メートル毎秒毎秒」(m/s²)つまり、1Gal=0.01m/s²です。 Galというのは、Galileo
(ガリレオ)に因んだものだそうですが、地球表面における重力加速度は、981Galで、学校時代の式を
思い出します。 物体にはたらく力 Fは、F=mg(mは物体の質量、gはガル)で、位置エネルギーEは、
E=mgh(hは高さ) でしたね。 なので、地震で働く力 F=M・G(Mは物体の重さ)であらわされる
のです。
 世界最大の地震による加速度は、岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)の際に岩手県一関市厳美町祭畤で
観測した4022ガルであり、この記録は「地震時に記録された最大加速度」(largest peak ground
acceleration measured in an earthquake )としてギネスに認定されているとありました。(ウイキペディア)

 

カイン  地震動の最大速度で1秒間にどれだけ変位するかを表す単位で、1カイン=1cm毎秒
(1kine=1cm/sec)と定義されています。 つまり、加速度ガルがどのくらいの時間続いたかで速度Vは、
V=G・t(秒)で表されますね。 加速度が同じでも、それが継続する時間によって速度、移動距離が
違ってきます。 自動車で急発進した時などで経験しますが、この速度が建物にとって重要であり、
“最大何カインの地震動が働いた”というように使われています。地震動の最大加速度(ガル)の大きさ
よりも最大速度(カイン)の大きさの方が建物の被害状況とよく一致することが知られています。

  ここで、現在問題が続いている熊本・大分地震と記憶に新しい地震の最大ガル、最大カインを以下に
記しておきます。
 

                  最大加速度(ガル)    最大速度(カイン)

  熊本益城町(2016.4.14)      1580            92

   阪神淡路大震災(1985)        891           112

   東日本大震災(2011)         2933           100

   新潟中越地震(2004)         1722           148

 

余談ですが、新幹線N700系は、722ガルとありました。

  地震に関連した、当ブログ記事の単位に関して、“ガルとベクレル”(2011.3.20)、“シーベルト”
(2011.3.17)などをアップしていました。 この時は、原子力発電所が被災したため、放射能関連の
単位も取り上げていました。 ベクレルは放射能の量の単位、シーベルトは人が被ばくした時の大きさの
単位でした。

 また、地震の原因についても言及しておきたいですが、これについてはまたの機会としたいと思います。
すなわち、プレート境界地震かプレート内地震かなどの区分があり、プレート内地震には断層型などが
含まれています。東日本大震災はプレート境界型で、今回の熊本地震は断層型ではないかと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

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どうだん など’16  (bon)

2016-04-19 | 花鳥風月

           14日21:26に熊本地方で震度7の地震が発生してから、丸5日以上過ぎましたが、
                          その間震度3以上160回以上、震度1以上ではナント560回以上も発生している。
          インフラは大きな損傷を受けている上、交通路が遮断され避難者の不安、不自由な
           生活が余儀なくされています。   いったいいつまで続くのか、活断層・・・!

 

 九州、熊本・大分を中心とする地震災害がまだその渦中にあり、連日終日報道されている中、
そんなことは知らない風に、ベランダでは、毎年同じ花々が咲きそろってきました。
これも同じ自然の営みなんですね。


どうだんつつじ
 の “どうだん” は 漢字では”灯台躑躅”と書き、昔の照明器具の”灯台”
(燭台?)から転じて、枝の分かれ方が三本足の灯明台に似ているところからその名がついたといわれて
います。 また、“満点星”とも書きますが、これは、中国の故事、“昔、太上老君が仙宮で霊薬を練る
うち、誤ってこぼした玉盤の霊水がこの木に散って壺状になり、満点に星が輝くように美しかったという
伝説”によるのだそうです。

       どうだんつつじ
        


 そして、満天星(どうだんつつじ、6786 Doudantsutsuji)と命名された、小惑星帯に位置する小惑星が
ありました。1991年2月、栃木県烏山町(現・那須烏山市)の烏山天文台で、伊野田繁と浦田武の両氏が
発見したとあります。 ツツジ科のこの植物、ドウダンツツジ(満天星、灯台躑躅)に因んで命名された
のだそうです。 命名文には、ドウダンツツジの漢字表記(満天星)が "the stars of the whole sky"を
意味すると書かれているそうです。
 

ツツジとサツキ  学術的にはどちらも“ツツジ属”の植物で、どちらも同じものとして扱われていますが、
むかしの園芸書で、ツツジの項とサツキの項が分かれて記載されていたことから、現在でも習慣的に
それぞれに呼ばれているというのです。で、敢えて違いを調べてみますと、やはりあるのですね。

・開花期 ツツジは4~5月にたいして、サツキは“皐月”(旧歴5月)というだけあって、
6月頃に咲きます。しかし、最近は天候不順もあり明確ではありません。

・花の咲き方 一度に全部の花が咲くツツジに対して、サツキは1週間くらいの間に次々と咲いてくるのです。

・雄しべの数 ツツジは5本以上(10本くらいのも)あるのに対して、サツキはほとんど5本。

・新芽の出方 ツツジは、花後に新芽が延びるのに対して、サツキは開花期に既に新芽が出ている。
        ツツジ 
         
 

 ジュウニヒトエ 本名は“アジュガ”(西洋十二単)で、“十二単”の園芸品種です。本来の “十二単”は
山野に生育する、白っぽい花で白毛が密生している。十二単の名は、 花が幾重にも重なって咲く様子を、
平安時代の宮中の女官の正装である”十二単”に見立てたものであるそうです。

       十二単
         (蓼科から来たモノです。) 

 

 はなみずき   ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉 高木で、別名、アメリカヤマボウシという
とあります。 ハナミズキの名は、ミズキの仲間で花が目立つことに 由来しているのだそうです。
アメリカハナミズキなどともよく言いますが、その昔、1912年に当時の東京市長であった尾崎行雄が、
アメリカ合衆国ワシントンD.Cへ サクラ(ソメイヨシノ)を贈った際、1915年にその返礼として贈られ、
植栽が始まったことからだそうです。最近では、街の至る所で見られるようになりました。

        はなみずき
         (赤い方は花数が少ないので・・) 

 

 

 

 

 

 

 

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戦友との飲み会’16  (bon)

2016-04-17 | 日々雑感、散策、旅行

                 14日に熊本県で震度7の大きな地震が起きて、頻繁に余震が
               続く中、地震は大分県にも誘発する形で被害が広がっています。
                           道路、交通が遮断され、物流が滞り、停電・断水も加わり被災者、
                           避難者は大変な状況であるようです。  いつまで続くこの地震、
                            不安が増すばかりです。
              地球の反対側、南米のエクアドルでも大きな地震があったようです。
              関東では、台風並みの強風が吹き荒れています。

 

 戦友といっても戦争を知らない(当時私は子供でした)仲間で、今から26年前に新設された職場で、
その立ち上がりを共に 苦労した仲間の集まりで、既に恒例になりました年に一度の会に出席して来ました。

 この会は、一昨日(4/15)、JR有楽町駅前の再開発(2007年完成)ビル“ITOCiA”(イトシア=愛しい
ところ)の3階でありました。 東北や関西からの遠来もあり、一年ぶりの懐かしい顔ぶれは、会うとすぐに、
もう盛り上がるのでした。

                  JR有楽町駅前 ITOCiA
          (夕方6時頃)
 

 当時、企業向け提案営業は、いわゆる企業の課題解決ソリューションとして、SI(システムインテグ
レーション)なる新しい概念に基づく解決方法を提案する・・というのがその業務だったのです。 
今日的には、既に当然ともいえる概念・手法は、当時としては新しい取り組みで、未経験の者ばかりが日夜、
知恵を出し合い 苦しくも活気に満ちた楽しい職場でありました。 企業向け課題解決は、それまでの
ハード・ソフトによる単体処理による解決ではなく、企業トータルの課題を、その本質まで掘り下げた
観点から解決しよとする、少なくともそのような心構えでソリューションを見出すとのスタンスを取って
いました。

 このような流れは、大手メーカやベンダーが競って取り組んでいて、どちらかといえば我々の会社は、
それまでの対企業様への取り組みとは少々異質に映っていたため、担当者は、それこそ戦場での慣れない
武器? を駆使して戦っていたという感じでありました。 といっても、悲壮的なそれではなく、
新しい分野に突入せんとする意気込みに満ちた活気ある職場を構成していたと思います。
 この時のメンバーの何人かが毎年集まっているのです。 いまは、既にリタイヤ―し、趣味・スポーツに
専念している人、現役の会社役員で頑張っている人 それぞれの集まりは、時間の過ぎるのも忘れて
話の渦と化していました。楽しい雰囲気の中で、また新しいエネルギーを与えられ若返った感じがしています。

         戦友たち(会に出席した人達)
          (後ろはJR有楽町駅ホーム)

 

 この集まりのブログ記事は、「戦友との飲み会」(2013.4.14)、「旧交の場」(2015.4.11)にも
アップしていました。

 

 

 

 

 

 

 

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梅若丸  (bon)

2016-04-15 | 日々雑感、散策、旅行

          昨夜、熊本で震度7の大きな地震があり、その後も頻繁に余震があります。
            死者、怪我をした人が大勢
おられると報じられています。(7時半現在) 


 観世元雅作(室町時代)、能「隅田川」の基になった“梅若伝説”の主人公 梅若丸のお話です。 
 一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵野国の隅田川まで流浪し 愛児の死を知った
母親の悲嘆を描いた物語です。
 今日4月15日は「梅若忌」です。東京都墨田区(向島)の木母寺(もくぼじ)では毎年法要が行われている
そうです。

 梅若伝説について、ネットからつまみ食いの形で以下にご紹介したいと思います。

 今から1000年以上も昔、平安時代の中ごろ、京都北白川の吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、
花御膳の間には梅若丸という男の子がありました。 若くして吉田少将がこの世を去ったため、梅若丸は
5歳で比叡山月林寺で修行に励むようになります。しかし、同輩とのいさかいがもとで居づらくなったので、
ひそかに寺をぬけ出た梅若丸は道をまちがえて琵琶湖のほとり、大津の浜で人買いの信夫藤太と出あいます。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州(現・福島県)へと旅を始めます。長い旅を続けて二人が 
武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸 関屋の里までやって来た時です。 梅若丸は幼い身での長旅の
疲れから重い病気にかかり、動くことができなくなってしまいました。信夫藤太はそんな梅若丸を置き去り
にしたのです。

 関屋の里人たちに見まもられ、いまわの際に
 『尋ね来て 問わば応えよ 都鳥  隅田川原の 露と消えぬと』
という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日(新暦四月十五日)、梅若丸はわずか12歳の生涯を閉じて
しまうのです。

       隅田川能楽絵図
        (ウイキペディアより)
 

 一方、梅若丸の失踪を知った花御膳は狂女と化し、我が子を探しさまよい歩きました。信夫藤太と
梅若丸から遅れること一年、隅田川の西岸までたどり着いた花御膳は、川をわたる舟の中から、東岸の
柳の下に築かれた塚の前で大勢の里人が念仏を唱えている光景を目にします。舟から上がった花御膳に
問われるままに里人は、当時12歳の梅若丸という幼子が病気になり、此の地で亡くなったのが、ちょうど
一年前の今日であり、塚を築き、柳一株を植えて供養しているところだと告げます。

 『其は我子なり 梅若丸は此処にて果てたるか』

 探し求めた我が子がすでに他界していたことを知った花御膳は 深く嘆き悲しみながらも、里人たちと
ともに菩提を弔います。しかし、悲しみに耐えきれなくなった花御膳は、鏡ケ池の水面に身を投げ、
自ら命を断ってしまいました。
 花御膳は妙亀大明神として祀られ、梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。 
墨田区の「梅柳山・木母寺」は、梅若丸を供養するために建てられた庵が起源とされています。
元は 隅田院梅若寺 と呼ばれていましたが、天正18年(1590年)、徳川家康によって、梅若丸と
塚に植えられた柳に因み、「梅柳山」 の山号が与えられたそうです。
その後、 梅の字の 偏と旁 を分け 「木母寺」 となったそうです。
 

         木母寺HPより)


 ざっと、このような物語で、いわゆる狂女ものでもこの物語はハッピーエンドではなく母親の悲嘆が
描かれています。

 ブログ「今日のことあれこれ」に、謡曲についての記事がありましたので、以下に抜粋させていただき
ました。

 謡曲「隅田川」では、『隅田川の川岸で大念仏が行われるので、渡し守が乗船の客人を待っていると、
ひとりの狂女が来て乗船を頼む。渡し守は女に対して、「狂って見せたら、乗せてやろう」と言うのに対し、
狂女は、最初はたしなめていたが、ついに発作的に狂ってしまう。渡し守はそれに憐れを感じて乗船させて
やる。対岸へと漕ぎ出し、その途中で、渡し守から今日の大念仏の仔細を聞き、回向を受けるその子供が
我が子であることを知り船中に泣き伏す狂女に、渡守は船を岸に着けた後、この母を墓所に伴って回向を
勧める。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると
諭される。母も気を取り直して大念仏を唱えていると、そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を
唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方(梅若丸の亡霊)が一瞬姿を見せる。だが夜が明けるとともに
消え失せ、母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。・・』

 さらに、『謡曲「隅田川」で、母親は千里の道のりを歩み、ようやく隅田川のほとりに着く。
「ここぞ名に負う隅田川、渡りに早く着きにけり、渡に早く着きにけり」・・

中世の時代、隅田川というのは「東の果て」と同義語であった。この時代、能をつくり、見た人は主に
都(京都)の人である。 彼らから見れば箱根八里を超えればなにがあるかわからない異郷の地である。
その更に東の果てに隅田川があり、都より東の国にいたる終着地。つまり、隅田川は、異界との「境界」を
形成する場所としての悲劇性が哀愁を高揚させる。 又、船上での渡し守と狂女の問答のカケ合いの中から、
尋ねる我が子が今はこの世に亡く、東の果ての道のほとりのこの塚の下に永遠に眠っていると知った
母の悲しみは、クライマックスに達し、絶望の淵へと誘う「現世と来世の境界」の中に身をかされることと
なる。そして、尋ねる子は既に土の下となり「南無阿弥陀仏」の声の中を、塚と対面する。 そして、
塚の上に我が子の声を聞き、面影を見るのである。しかし、それも束の間、闇から光りへの「境界」に
よって、面影は消え去り、狂女は茫然自失の中に肩をおとし、佇むしかなかった。 隅田川のテーマーは
悲しみと哀傷 そして命である、元雅はこのテーマーに沿って、観るものに深く感銘を与え、人々の
不安や悲しみの浄化を目指す力として「空間的な境界」「現世と来世の境界」「夜と朝の境界」の3つの
境界を導入しているといわれる。』

 『隅田川は、江戸時代より前は、利根川の下流の名前だったが、家康の江戸入府から六十年以上かけて、
いわゆる「利根川東遷」の大工事を行い、四代将軍家綱の時代になってようやく現在のような利根川・
荒川・隅田川の形が完成した。 隅田川には、江戸時代には二十ヶ所近い渡し船があったと言われる。
そのうち、橋場の渡しが 謡曲「隅田川」の舞台となったところという。橋場の渡しは、現在の白鬚橋の
南側にあたる。
大正初年に地元の人が「白鬚橋株式会社」を設立して木橋を架け、橋場の渡しは消滅したそうだ。』

 

 

 

 

越前琵琶

 

 

 

 

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Tokyu Plaza GINZA (bon)

2016-04-13 | 日々雑感、散策、旅行

 何だかコマーシャルみたいなタイトルになってしまいました。
一昨日のランチの会では、数寄屋橋の元阪急百貨店、その1階南側の旭屋書店などの一角が再開発されて、
先月(3月)31日にオープンしたばかりの ほやほやのショピングビル “Tokyu Plaza  GINZA”を
見学しました。

       Tokyu Plaza  GINZA (阪急百貨店あと)
          (手前は、数寄屋橋)

 

 桜も終わって、やや肌寒さを感じる11時過ぎに、有楽町ビックカメラ前に集合でしたが、早めに来た人は、
ビックカメラ内で、カメラやPC関連のウインドウショッピングで楽しんでいました。 全員集合し、
ランチは、かって訪れたことのある“SUN・MI高松”の8階でイタリアンでした。
 風邪で喉を傷めたメンバー1人は、生憎欠席でしたが、このグループは、ほぼ40年近く前に職場を
共にした 議論好きで、最長老は満88歳という幅の広いグループです。 久しぶりに九州から参加した人に、
当然ながら話題が集中しましたが、少し話が始まると、もう、みんな昔の青年に戻って、ランチしながら
早くも話題に盛り上がっていました。

         イタリアン
          
 

 そんな状態でしたから、かなり長めのランチになってしまいましたが、そこからすぐ近くにある 
新規オープンしたばかりの“Tokyu Plaza”に向かいました。 
月曜日のお昼過ぎというのに、大勢の人が来ていて、しかも年寄りではなく、若い人たちが多く、
ちょっと奇異な感じがしました。 学校も始まっているし、会社も新年度に入ったばかりというのに、
どうしてこうも現役連中で賑わっているのかしら・・?  明るい清潔感のある館内には、高級品のフロア、
duty free shop、gourmet・restaurantなどなど、どちらかといえば、外国観光客向けにチューンした
フロアコンセプトであるように感じました。6階“キリコラウンジ”は、江戸切子/薩摩切子風のアレンジで、
ラウンジの吹き抜けは素晴らしいオブジェになっていました。 すぐ目の前に、かっての“マリオン”や、
数寄屋橋交差点角の“不二家”の看板を見下ろす・・、そんな初めての景色がそこにありました。

         キリコラウンジの吹き抜け
          


 マリオン(現、ルミネ)          変わらぬ不二家
  


 屋上にも上がりましたが、白を基調としたフリー空間で、ベンチ、椅子・テーブルなどが配置された
無料談話空間に設定されていました。こちらも人が大勢来ていて、春のやや冷たく感じる風のなか
それぞれに楽しんでいるようでした。

 そんな、フロアーをエスカレータで降りてくると、2階では、三菱電機が一角をしゃれたコーナーに
仕立て上げていました。 最新映像技術を駆使したプレゼンテーションコーナーとしていました。
ハイテクを駆使した前衛芸術があり、オープニングイヴェントとして、“Flowers for Ginza”と
ネーミングした映像・音響のスペシャルコラボレーションがなされていました。メインのスクリーンは、
1つ50インチくらいの画面が4×16=64面並べられたマルチディスプレイで、その大画面に、映し出される
映像は、さすがに見モノでした。音楽に合わせて、色とりどりの花、女性たちのダンス、風景など高画質、
ワイド映像、コンテンツの壮大な世界が演出され素晴らしい空間でした。
 また、別のコーナーには、桜の花びらが舞い散る様を3000本のテグスに何万枚の薄紙で出来た花びらを
うまく結びつけたアナログ・デジタル合流の超大作オブジェも見モノでした。

      三菱コーナー
         

 

 久しぶりの晴れやかなビル内見学と、最新技術のコラボによる新芸術に少なからず刺激を受けて、
少し若返った?感じも受けながら、ここでいったんお開きとして、何人かでそのままカラオケに流れて
それこそ久し振りに歌ったのでした。 職場にいた頃、飲むと言ったらよく歩き回った、泰明小学校界隈の、
同窓会新年会で来た“近大マグロ”の向かい側あたりのカラオケ店でした。 ここは昔、ときどき来た
ことのあるパブでしたね。それがいつしか変身していたのですね。40年近くも過ぎると、様変わりするのも
当然ですね。


 

 

 

 

 

 

 

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神楽坂研究(2)縄文時代  (bon)

2016-04-11 | 日々雑感、散策、旅行

 好評をいただいています神楽坂研究(1)の第2弾として、このほど、表記タイトルの縄文時代の
神楽坂についての研究成果が届きました。 執筆(並びに水彩画)は、神楽坂住人の“若さん”です。
 縄文といえば、文明、文化のスタート点のような位置づけにあたりますが、蓼科浪漫倶楽部が拠点として
いる長野県茅野市豊平の“畑”の近くには、尖り石縄文遺跡があり、尖り石縄文考古館には、国宝指定の
「縄文のヴィーナス」、「仮面の女神」の土偶が展示されています。 畑仕事の後は、近くの
“縄文の湯”(温泉)にお世話になっています。  また、文中に引用されている三内丸山遺跡には、
一昨年の夏に訪問して感動したところに、昨年にはNHKテレビでも取り上げられて詳しい解説がありました
のでよく記憶しています。

 前置きがずいぶんと長くなりましたが、縄文時代と神楽坂の今を結ぶ貴重な歴史ドラマをお楽しみください。
合わせて、この記事のために描かれた筆者自筆の水彩画にもご注目ください。 
それでは・・・

*********** 神楽坂研究(2)縄文時代 ************

 縄文神楽坂にタイムスリップ!

 

 神楽坂研究(1)の中で、「神楽坂下は、縄文時代東京湾の入り江でした」と書きました。それを見た、
札幌のU氏*1 から面白い本を紹介していただき、はまってしまいました。中沢新一著「アースダイバー」*2 です。氷河期が終わり、徐々に温暖化が進み縄文時代前期には、現在より3-5m海面上昇し海が複雑に内陸に入り込んでいました。(縄文海進*3)約6000年前の縄文時代、海水が東京湾奥深く入り込んだ時の地形図に、現代の地図、鉄道地下鉄路線図、古墳、神社、遺跡等をマッピング。思想家、人類学者のとして様々な切り口で都市論、文化批評・建築論・生態学、芸能芸術論を展開、久々に読書してしまいました。U氏の実家は久我山、当時は井之頭公園まで海水が入り込みまさにシーサイドでした。洪積層と沖積層が複雑に構成された“脳のしわ”みたいな武蔵野段丘のマップを眼にしていると、縄文時代の神楽坂のイメージがわいてきました。(笑) しかも私の長屋のある近辺に遺跡、なじみの寺社のマーク、日本人のルーツである縄文人について少し勉強してみたいと思いました。

        


 

 本年3月26日北海道新幹線が新函館北斗まで開通。50年前、北島三郎の“函館の女”を聞きながら津軽海峡を連絡船で渡り、約20時間かけ札幌から上野に到着。文京区小石川伝通院そばに転居。以来神楽坂に移転するまで、文京区に通算20年近く居住。伝通院は徳川家ゆかりの寺、山門から西に安藤坂を神田川、大曲に降りてゆくと、途中左手の丘の上に、源頼朝公ゆかりの牛天神北野神社があります。神社下は“牛天神下”交差点。当時、神社の創建と周辺の故事の説明板に、その辺りは、平安時代(794-1185年前)は海の入り江だったと書いてありました。しかし最近神社のウエブからその説明が消失。関東大震災以降、広範囲なボーリングによる地盤調査等から縄文海進について詳しく地質学的研究が進みました。近年、専門家の方が平安時代には、海岸線はすでに日比谷あたりまで後退していたことを神社に指摘し故事、由来を全面改定。今のキャッチフレーズは”新・天神伝説生まれる!“パワースポットであること強調しています。“平成になっての新・伝説ってなんだ?(笑)
 

世界から注目の縄文時代!

 

 昨年5月13日ロンドン・サザビーズのオークションで古美術蒐集家、井上恒一氏のコレクションの土偶が約2億円で落札され話題になりました。NHKスペシャル、アジアの巨大遺跡「日本・縄文・奇跡の大集落、一万年持続の秘密」*4 シリーズの最後に、20年にわたる三内丸山遺跡の発掘から浮かび上がった世界に例を見ない豊かな縄文時代を特集。戦後やっとスポットライトをあび、国内外での最新の研究、文明評価を織り交ぜ、洗練された狩猟採集民族として、どの文明より長い1万年という世界に例のない持続した社会を築いた縄文文化を興味深い映像で放映した力作です。時代名のもとになった縄文土器は世界の4大文明より古い世界初の土器(約15,000年前)であり画期的発明です。土器の形、文様は“芸術は爆発だ”の岡本太郎を触発。1951年国立博物館で衝撃の出会いの後で、歴史教科書の弥生時代の埴輪より前の古いすぐれた土器として縄文土器を追加させました。出会いから64年、英国で土偶が実に破格の価格で評価されました。縄文人の知恵と美的センス恐るべし!

   
 1953年(S28年)岡本太郎 縄文草創期丸底深鉢型土器  2億円の土偶   中期把手付甕形土器
 

  毎週千葉県茂原にゴルフに行きます。今でも、ゴルフ場周辺やコースでたぬき、イノシシ、野鳥をよく見かけます。池に鴨の群れ。秋にはドングリ。時々、謎の怪鳥*5 も見かけます。(笑)縄文時代は狩猟した鳥獣のBBQも盛んでしたが、肉、魚と山菜の煮込み(ちゃんこ鍋、水炊き)、ドングリやクリなどの木の実を粉にして皿型土器で焼き上げるクレープ(ガレット)やナンやパン等も(お好み焼き)もよく食べていたようです。フランス語でクリはマロン、シャテーニュ*6 と呼び、粉にしてパンに焼きます。(コルシカの伝統食としても有名)クリやドングリを粉にすると長期保存が可能でミネラル・ビタミン・タンパク質豊富なでんぷんになります。クリ渋皮はポリフェノールたっぷり、ドングリはデトックス効果大!神楽坂前の魚貝でちゃんこ鍋、ジビエ(イノシシやシカ)のステーキにガレット等、縄文神楽坂人はビオ(BIO)グルメだったようです。三内丸山では、生食では毒があるニワトコの実が層になって発見され、発酵させ酒の原料にしていました。山葡萄ジュースも発酵すると赤ワインです。フレンチも和食もルーツは同じような食生活だったのかもしれません。牛込・神楽坂は魚貝、山の幸に恵まれ狩猟採集で営みをするのに適した地であったようです。他方、三内丸山では魚(サバ、ブリ)の干物の加工流通が判明。北区飛鳥山の北側崖下(低地砂州)京浜東北線・新幹線線路の下JR田端駅近くまでの北区中里貝塚*7 では貝(カキ、ハマグリ)を大量に干物にした水産加工場跡が発見され、内陸集落と交易していました。しかも海中に棒くいをたて牡蛎を養殖、大きさも10-12cmと大粒でした。干し牡蛎は中国語で蠔豉(ホウシー)という正月の高級縁起料理の食材です。今でも、日本産が最高級品(アワビ、ナマコ、ホタテ、クラゲも)です。


  
 謎のホオジロ冠鶴(茂原)  タヌキ       イノシシ    サバ(頭なしの干物)   牡蛎 


  
縄文神楽坂はシーサイド・パラダイス!

           

 
 東京中心部から北西部は10-15mの富士山、浅間山火山灰の層(関東ローム層*8)の上に台地が構成され地盤として安定。全体は武蔵野台地(段丘)と呼ばれ、山の手といわれる地域はこの標高約30mの台地にあります。東の端の台地は、現在の皇居・江戸城と国会議事堂(図薄緑)があるところです。神楽坂一帯は、少し内陸に入った江戸時代の平川(江戸神田川、江戸川)、小石川が合流する地点の西側牛込台地に位置しており(図の緑)周りはほぼ海に囲まれていました。海と山の幸に恵まれた環境でした。飯田橋から神田川沿いにさかのぼると妙正寺側川と合流するあたりに落合遺跡があります。その妙正寺川で、漁網で漁が確認されています。神楽坂周辺のシーサイドは神楽坂前の魚や貝が豊富に取れたようです。2012年(平成24年)市谷加賀町2丁目のマンション工事現場でなんと縄文人全身骨発見。江戸時代より寺社、侍屋敷、花街、商店街として発展してきたこの地域は掘れば必ず侍屋敷跡がでます。戦後ビル建設も進み、新しく弥生・縄文時代遺跡発掘となるとその下の層にあるだけに新発見は難しくなりました。酸性土壌の台地に運よく条件も重なりこれはニュースでした。


  
新宿区に約60か所の縄文遺構

  
  市谷加賀町縄文人(復元)   落合縄文土器     落合縄文時代石器  竪穴住居(弥生時代復元)

 神田川上流の落合(目白学園周辺*9)に縄文時代中期、約4,500年前の竪穴住居78軒の環状集落が発掘されました。神田川流域で最大です。新宿区には約60ケ所の縄文遺跡が確認されています。一か所に1500年以上も定住し、大規模集落(約780軒)を営んだ三内丸山遺跡よりはるかに小規模。当時の日本列島で人口密度高かった関東、中部、東海地方は、温暖帯広葉樹林と重なります。牛込・神楽坂周辺は海が複雑に入り込んでいる地形から考え、小規模な集落が一定の狩猟採集のテリトリー間を最適間隔で保ち分散定住していたように思われます。わが長屋周辺もその一つでした。当時列島全体の人口は約26万人、全国平均100k㎡に150-300人の定住人口と比較すると、新宿区は、やはり人口密集地域でした。近年のDNA分析によると、日本人のルーツはバイカル湖起源説が有力です。縄文人は、あきらかに長江周辺漢民族とは違うというのが定説になりました。また稲作農耕栽培が始まった弥生時代は、半島系渡来人が中心だったという説も覆されつつあります。

 
  現代の縄文人、カナダ川下り3000kmに挑戦

      
         丸木舟(復元)      縄文丸木舟    カヤックでの冒険

 縄文時代の丸木舟は多くの発掘例があり、漁や移動に用いられかなりの行動範囲を行き来しクジラ、マグロ漁までしていました。先日神楽坂で飲んでいたら隣にカヤックで単独世界中に遠征している、冒険家(縄文人)Yさんにお会いしました。現在計画中のアドベンチャーは6月からカナダ・ユーコン川3000kmをカヤックで単独で下る冒険とのこと。いったんカヤックで下り始めると、縄文時代とは違いイリジウム衛星電話という秘密兵器がありインターネットも使えます。しかし、野営時には銃もなくナイフと素手でコヨーテやグリスビーなどの猛獣と対峙しなければいけないところは縄文時代と同じです。彼の印象は、市谷加賀町縄文人に帽子とサングラスをするとイコールです。勿論、衣類はヒートテックとハイテク装備で固めています(笑)


縄文時代の神楽坂を再現!

  JR飯田橋西口から外堀通りに面する神楽坂を望むと。向かって右側に坂下から外堀通りを行くと軽子坂下交差点次に大久保通りと神田川をまたがる橋の上に目白通りとの飯田橋交差点(変則6差路)に行きます。左に外堀通りを行くと、右手に東京理科大ビル、左手に法政大学を見ながら市谷・四谷・赤坂見附に通じています。

            
                   
 JR飯田橋西口から見た神楽坂風景

  千代田区富士見町の台地から牛込・神楽坂台地方面を眺望してみましょう。(次ページ自筆の水彩画)縄文海進で海面が上昇した外堀通り、飯田橋は完全に海面下です。そして、入江が2つ見えます。坂下を上り、鰻の志満金と花屋の裏手の神楽坂に平行している熱海湯に向かって上る細い坂道は小栗横丁。小料理屋さん、バー、フレンチ、焼き鳥、ちゃんこ屋、鳥茶屋別邸等々があり、近年特に注目の裏通りです。そこは海の入り江1でした。入り江2は大久保通りです。飯田橋から都営新宿線の曙橋あたりまで海が入りこんでいました。植生としては、クリ、コナラなどの温暖帯落葉広葉樹が占めていたようです。三内丸山では住居周辺にクリを植林し栗林として収穫していました。(居住地周辺地層にある時期から急激にクリの花粉が増加で判明)そして、クリの古木は建築資材(竪穴住居、謎の六本柱高層タワー?) として使用していました。東日本大震災の時、震度5弱の揺れ。袋町Rではカウンターの100本中割れた瓶は3本、本多横丁Kは被害ゼロ。神楽坂の台地は地震に強かった!海に囲まれ、温暖帯落葉広葉樹の森におおわれた神楽坂は狩猟採取民にとり定住最適地でした。外堀通り沿いの神楽河岸、神楽坂1丁目、船河原町、市谷田町そして四谷まで、縄文時代前、中、後期遺跡が発見されています。

              
                  縄文神楽坂、鳥瞰図(BC3500-3000年、縄文時代前期、自筆水彩画)


 
 おそらく台地の海側の崖地に湧水もあったのでしょう。縄文神楽坂を囲む東南海辺はシーサイド・パラダイスといって良いエリアだったと思います。後に徐々に海水面が後退(海退)この周辺も汽水域となり牡蛎が豊富に取れた時代もあったようです*10。縄文時代の温度が2-3℃高かったのは、黒潮が列島沿岸部を東進したためです。同時期、日本海側に暖流が流れ込み海水蒸発量増大よる雨、雪を大きく降らせる気候条件ができ日本独特の四季が感じられる気候になりました。春は山菜、木の芽、夏は魚貝、秋はキノコ、木の実(ドングリ、クリ、山葡萄)冬は狩猟がメインでした。実のままか粉にして長期貯蔵できる木の実を大量に採集できたことは、森の破壊を伴う農耕をせず自然と共生、1万年以上持続した驚異の文明にとって重要な成功要因でした。生の魚介だけでなく、干し牡蛎・ハマグリと山菜の縄文ちゃんこ鍋は、濃厚な出汁がでたとてもおいしい鍋だったろうと想像できます。今晩は、海の入り江だった小栗横丁の「琴富士」(みのもんた御用達?)で縄文ルーツの塩ちゃんこで一杯、そして明日は、兵庫横丁仏人経営ブルターニュでガレットかな?(つづく)

 

(脚 注)

 

1.U氏は、リンゴ栽培、園芸ビジネスを日本に根付かせたお雇い外国人ルイスベーマーの研究家。公認会計士。

2.2005年5月初版、中沢新一著。2012年には「大阪ダイバー」も出版した。他著書多数。

3.縄文海進とは、氷河期が終わり徐々に温暖化が進み海面が上昇内陸に海の入り江として入り込んだ時のこと縄文前期(BC3500-3000)頃が海面ピークでその後徐々に下がっていった(海退)

4.NHKスペシャル2015年12月放送。アジアの巨大遺跡の4回シリーズ最後に三内丸山、縄文遺跡を特集。

5.千葉茂原の怪鳥:休園した動物園から逃げた鳥が茂原・長南ICあたりに自生し時々目撃されている。

6.仏語:マロン、殻に一つの大粒の実。シャテーヌ、3つの実が入った小粒の実。

7.北区中里遺跡:飛鳥山東側に台地から伸びた砂州低地で発掘された国史跡。縄文中期から後期にかけて特に大振りのカキ(12cm)、ハマグリ(10cm)層が繰り返し(春はカキ、夏はハマグリの順)地層化し残されている。後に4,700年前の丸木舟も発見された。注目すべきは住居跡ではなく、幅70-100m、深さ4-5m、全長1kmに貝だけが埋められていたので大規模な水産加工場(縄文水産)であることが分かった。

8.粘性質の高い粘土等の含有25-40%の地層をロームと呼ぶ。武蔵野台地に多い関東ローム層は浅間山、富士山の火山灰が堆積した地層。

9.目白学園遺跡:大正12年創立の学園。落合にある学園敷地内にS25年遺跡発発見され、12回にわたり発掘調査されてきた。無料で見学が可能。

10. 江戸時代神田川白鳥橋(大曲)から飯田橋までは白鳥池でした。そこの工事現場で牡蠣殻が発見されました。縄文海退で入り江が移動、川水が海水とまじる汽水域になった時はカキがたくさん取れたようです。

 

 

 





 


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おため  (bon)

2016-04-09 | 日々雑感、散策、旅行

 先日、諏訪大社のお祭り、「御柱祭」に参加するということで、前日に蓼科浪漫倶楽部メンバーらが
集まった折、K邸での夕食の団欒で、昆布の話題が出て、突然昔の話に飛んで、そういえば昔、
”おため” 用に昆布をたくさん用意していたことがあった・・などの話が出ていたことをフト思いだし
ました。 そういえば、子供の頃に“おため”とか“おため返し”、“おため紙”などの言葉を聞いた
ことがありました。 何か、いただき物をした時に、届けて下さった人にその場でお礼として、簡単なものを
半紙か何かに包んで手渡していたようでした。 もともとは、結婚や結納でお祝いをいただいたときに、
その場で“夫婦紙”をお礼に渡していましたね。

                おため(例)
          (水引館HPより)

 

 そんなことから、ここで、ネット調べで、キチット どういうものであったのかを見てみたくなりました。

 weblio には、京阪地方で、使いの者に与える褒美。また、贈り物に対するお返し。と出ていましたが、
これだと少しニュアンスが出ませんので、もう少しネットを繰ってみました。

 おため(お多芽)とは、結納、結婚祝いのお返しとあり、贈り物をいただいたとき、半紙に添えて
結納金、お祝の1割の金額を入れてお返しするもので「おうつり」とも言うとありました。
また、結婚祝いの時のお返しは特に「夫婦紙(めおとがみ)」といって、紙を抱き合わせて折ったものを
使います。 ま、大体このような解説ですが、その昔、京都あたりでは、交通費の意味から、誰からお祝
(贈り物)を頂いても、1割のお金を入れたり、 大阪では、丁稚さんのお駄賃と言う意味合いからで
あったそうですが、この他、何も1割にこだわることは無く、お返しに半紙(懐紙)の中に、砂糖や
ぽち袋など、最近では一筆箋、箸などを入れたりするようです。 で、この話が出た、蓼科の団欒では、
おために“昆布”を入れた・・ということなんですね。 まぁ、ちょっとした心遣いというか温かみのある
文化(風習)ですね。

 ネットには、“お多芽の由来”がありました。

「昔は、お重箱にお菓子などを入れ、これを贈り物(御祝など)として頂いた際に、 『このお重箱を
きれいに洗ってお返しします。』という意味を込めて、 このお重箱に真っ白の紙である半紙などを入れて
お返ししていました。
この「真っ白な紙」と言うのが、重要なポイントになります。
このようなところから、贈り物を頂くと、半紙や懐紙などをお多芽紙として
お返しするようになりました。
また、昔は、丁稚さんがこの贈り物を持って、ご主人様の御供をしたので、丁稚さんにお駄賃を渡して
いました。 
このようなところから、半紙などのお多芽紙と共に、1割のお金をお返しするようになったの
です。そのため、この1割のお金には交通費的な意味合いもあります。」

 また、「半紙という語源は小形の杉原紙を半分に切ったところから、半紙といわれるようになったようです。
この杉原紙とは、鎌倉時代以降、播磨国杉原谷村(兵庫県加美町)で漉かれた紙なので、杉原紙、
すぎはら、などと呼ばれています。奉書紙風でやや薄く、武家の公用に用いられ、また贈答品ともされて
いました。このような事から、お多芽に使われるようになったようです。」 とありました。 なるほど・・。 
しかし、京阪あたりの風習だそうですから、全国的ではない? のかもしれませんが、 ネットには、
この“おため” の通販が各社から出ていました。

 ついでに、“おためごかし”という言葉がありますが、これは、上とはまたく違っています。
おためごかし(御為倒し)とは、あなたの“ため(為)”です などといいながら、結局はその 人を
“こかす(倒す)”こと つまり転ばせること、だますこと、という意味で、 要するに、 表向きは
相手のためであるかのように見せかけて、実際は自分の利益をはかることを いう。」 とあり、
こちらは嫌な言葉ですね。


 

 

 

 

 

 

 

 

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テレビ視聴率  (bon)

2016-04-07 | 日々雑感、散策、旅行

 テレビ視聴率は、媒体力や広告効果に指標を与えるものとして、さらには、番組制作・番組編成のための
マーケティングデータを与えるものとして深く浸透しているようです。 この視聴率を上げるために、
番組が低俗化したりする・・などと騒がれたことなどもありました。視聴率は番組製作者の評価そのもので、
その世界では大変厳しいものであるようです。

 先週土曜日に終了しましたNHK朝ドラ(朝の連続テレビ小説)の「あさが来た」は楽しみに見ていましたが、
“今世紀最高視聴率” という好評価を受けているようです。

 4月4日発表の視聴率は、23.5%で、今世紀・・つまり2001年以降では最高視聴率を記録したそうです。

      淡路花さじき(ドラマの1シーンで・・)
          (淡路花さじきHPより) 

 

 テレビの視聴率は、どうやって測定しているのか、我が家ではそのような対象になったためしがない、
本当にやっているのだろうか? など、半信半疑なところもあったりしますが、先ずは、これら視聴率の
“相場?”はどのようなものか、例によってちょっと調べてみたくなりました。

 NHK朝ドラは、1961年(昭和36年)からずっと継続する超長期間ドラマですが、この視聴率グラフが
ありましたので、文字が小さくなってすべてを読み取ることはできませんが、テレビ視聴の傾向を見て
いただければ・・と思い掲載しました。

      歴代朝ドラ グラフ 
         (biglobe yama88/asadoraより)

 

 このグラフから、テレビ視聴の傾向として、1985年あたりをピークとして、徐々に低下傾向にあることが分かります。とくに1995年を過ぎると視聴率は往年の半分以下に低迷していることが分かります。
時代の流れ・・で パソコン、スマホ、さらにはライフスタイルそのものの変化によるテレビ離れが進む
ことが示されています。 しかし、視聴率20%を超える番組となると かなり高い範疇にあり、
NHK朝ドラの2001年以降ベスト11は次のようになっています。

 

 NHK朝ドラ2001年以降ベスト11 (ビデオリサーチより抜粋)

   1 あさが来た   2015.9.~4   23.5%

   2 さくら     2002.4~9    23.3

   3 ほんまもん   2001.10~3   22.6

   3 花子とアン   2004.3~9    22.6

   5 ごちそうさん  2013.9~4    22.4

   6 ちゅらさん   2001.4~9    22.2

   7 こころ     2003.3~9    21.3

   8 マッサン    2015.9~3    21.1

   9 まんてん     2002.9~3   20.7

   9 梅ちゃん先生   2012.4~12   20.7

   11 あまちゃん    2013.4~9   20.6

 

 NHKの朝ドラだけではなく、これまでのすべての番組での“歴代高視聴率ベスト10”では、次のように
なっていました。
スポーツや際立ったニュース、イベントなどが多いですね。 その中で、ドラマ「おしん」は、
歴代6位という高視聴率だったのですね。

 

    歴代視聴率ベスト10  (matome.naver 日本歴代視聴率ベスト10より)

  1 第14回NHK紅白歌合戦      1963.12.31   81.4%  NHK

  2 東京オリンピック女子バレー  1964.10.23   66.8   NHK

  3 ワールドカップ日本×ロシア  2002.6.9    66.1   フジ

    4 プロレスWWA世界選手権     1963.5.24   64.0(力道山×デストロイヤ)日テレ

   5 世界バンタム級タイトルマッチ 1966.5.31   63.7(ファイティング原田×エデル)フジ

  6 おしん            1983.11.12   62.9   NHK

  7 ワールドカップサッカー’98   1998.6.20      60.9      NHK

  8 バンタム級タイトルマッチ   1965.11.30   60.4(ファイティング原田×ラドキン)フジ

   9 帰らなかった吉展ちゃん    1965.7.5    59.0   NHK 

  10ミュンヘンオリンピック(男子バレー)  1972.9.8    58.7   NHK

 

 ところで、この視聴率なる数字は、どのようにして抽出されているか、ご参考までにビデオリサーチ社の
ページから概要を抜き読みしてみました。

 

<視聴率>

 視聴率には、世帯視聴率と個人視聴率があり、一般に視聴率という場合には世帯視聴率のことを言います。 
テレビが点いている世帯の率を統計的手法で求めたものです。ビデオ録画はカウントされないのだそうです。

<調査地区>

 調査エリアとして、(ビデオリサーチの場合)全国27地区を選定し、 関東、関西、名古屋地区は
各600世帯、その他の地区は各200世帯を選定しています。

<調査世帯>

 系統抽出法(ランダムサンプリング手法)により、統計的に計算されています。
例えば、関東地区 を 総世帯数1500万世帯、 調査対象数600世帯 と すれば、

 1500万世帯/600=25,000をインターバルとよび、乱数表から最初の世帯を選び、以下、このインターバル
ごとの世帯を選んでゆく。そして、2~3年ですべての世帯が入れ替わるようローテーションを行う。
(関東、関西、名古屋地区は2年間、その他は3年間)

       図ローテーションイメージ
         (ビデオリサーチHPより)
 

 調査結果には標本誤差がありますが、これは、視聴率と標本数によって決まり、理論的に正規分布となり、
95%信頼度で扱われています。

 <調査方法>

 対象世帯に対して、以下の3つの調査方法により実施されています。

①    ピープルメータ(PM)システムによる調査(関東、関西、名古屋地区)
 調査世帯のPMデータを毎朝、ネットにより送信され、それを集計する。視聴率データ提供サービスとして、
テレビ局、広告企業などに提供

②    オンラインメータシステムによる調査(その他地区)
 調査世帯内のchセンサーにより取得したデータを1分単位で転送し、集計する。提供は、上と同じ。

③    日記式アンケート調査
 専用の調査票により、1週間毎日のテレビチャンネル毎の視聴番組を記入する。3~5週後に提供する。

 

 今流れている朝ドラ「とと姉ちゃん」はどうなるでしょうか?



 

 

 

 

 

 

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御柱祭に参加  (bon)

2016-04-05 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 初めて御柱祭に行ってきました。

 御柱祭『山出し』は、4月2~4日まででしたが、このうち1泊2日で、4/4に参加しました。

 蓼科浪漫倶楽部メンバーは、地元氏子として御柱綱曳きもしました。
畑を借りている地主さんが、7年毎(丸6年)の御柱祭8区のうち、泉野・原地区(本宮四)の総代と
なられたので、私たちもその恩恵にあずかったという次第です。

 これまでも、このお祭りについては、新聞や映像で見たりもして 知るところではありましたが、
実際に参加してみて、その大掛かりなこと、素朴のうちにも迫力満点・・など真近に参加する躍動を
味わってきました。 それにしても、観光客もスゴく大変な人人でした。

 御柱祭は、正しくは「諏訪大社式年造営御柱祭」で、7年毎(丸6年毎)上社、下社で、それぞれ
8本づつの御柱を曳行する神事です。 当ブログ2016.1.16「御柱祭」にその概要をアップしていますので、
ここでは、参加当日の状況を記事アップしました。

  前日、茅野駅に集合しました折には、周辺に人が多く集まっていて、法被姿の観光客姿も多く見受け
られました。 我々8名は、茅野駅から先ずは畑の様子を見、次いでコープで買い物をしてK邸に向かい、
久し振りのK邸での夕食・団欒を楽しみ、よく朝は早いので早めの就寝となりました。

  冬越しの畑は順調でした        みんなで夕食
  

 

 あいにく、天気予報通り、朝から雨でした。駐車場の関係から少し早目の6時半過ぎには、K邸を出発し、われわれも法被姿に雨具を付け、曳行場所に集合しました。
安全祈願をして、我々も“お神酒
”をいただき小雨の中を重い綱を曳きました。

  安全祈願             本宮四(御柱、『めどでこ』に若衆が跨る)
  

 

  曳行途中             木落とし直前
 

 

 木落とし                楽隊
  

 

木落とし下のひろば(右方向にJR茅野駅)   総代を囲んで
  

 

 この後、御柱は 宮川の「川越し」がありますが、私たちはここでサヨナラしました。

      帰路中央道からの富士山(小淵沢すぎあたり)
        


 お疲れさまでした。

 

 お楽しみオートスライドです。 (3分22秒)

 






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春のベランダ’16  (bon)

2016-04-03 | 花鳥風月

 といっても、チューリップ、クロッカスなど早めに咲く花がありませんので賑やかではありません。 
4月初ですから、やはり一番はサクラですね。 鉢植えですから、見上げるような木ではなく、ちょうど
目線やや高めで、今年も律儀に咲いてくれました。
この桜は“陽光ざくら”で、少し早めに咲きますので、ソメイヨシノは2~3日前に満開と報じられて
いましたが、ベランダではもう散り始めています。

     さくら(3/31)
             

 

 レンギョウは、今年早くからムクドリ、ヒヨドリのいじめに遭って、花が咲いても殆ど食べられてしまい、
かわいそうな姿です。

     レンギョウ(3/31) 少しましな部分を~
             

 

 ハナモモが蕾を大きく膨らませています。少し咲き始めてきました。
もうすぐ、一面に純白の花が見られます。ハナミズキの蕾はまだ固く、コブシはようやく花が咲くという段に
鳥の被害に遭って(食べられて)花はありません。

    ハナモモ(3/31)
       

 

 ムスカリ。 7月頃に掘り上げた球根を11月頃に植えたものです。面白い可愛いかたちですね。
小さな丸い球根から、DNAにより毎年この形になるのですね。色もいい。

    ムスカリ(4/2)
       

 

 フリージアも黄色やその他の色もあったはずなのに、いつの間にかこの色だけになってしまっているのです。
こちらは植えっぱなしなので、たまには植え替えないといけませんが、いつも花の時期に思うだけで、
その内に忘れてしまっているのです。

     フリージア(3/31)
       

 

 ツタンカーメンのえんどうです。 昨年、今一つ出来が良くありませんでしたので、種が心配でしたが、
ここまでは順調のような感じです。プランターの土はすっかり入れ替えてフカフカの土に植えています。
収穫を期待して・・。

     ツタンカーメン(4/2)
       

 

 少し前、まだ寒い頃に、フジ、ススキ、黒竹の植え替えをしましたが、どれも鉢一杯に根が詰まっていて、
鉢を割らずに抜き取るまでにどれも1時間以上かかる厄介ものでした。とくに、ススキ、黒竹は根が
すごく張って硬く、小さなのこぎりで切りました。 根を痛めてしまいますがやむを得ない処置で、
今年は元気が出ないかもしれません。 
日頃、こんなことで結構時間を消費しています。


 これから 御柱祭に行ってきます。あいにくお天気がイマイチです~  

 

 

 

 

 

 

 

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都をどり  (bon)

2016-04-01 | 日々雑感、散策、旅行

               今日から4月に入りました。
                                  昨夜の上野公園は多くの花見客で賑わったそうです。


 京都の春を象徴する観光行事として、毎年4月1日~30日にかけて、京都の祇園甲部歌舞練場で開催される
祇園甲部の舞踊公演です。

 都をどり公式サイトから、その歴史を抜粋しますと、
「明治維新による東京への遷都は、京都の人々にとり、衰退していくという危機感を抱かせる出来事で、
明治4年、京都府が設置され知事らが任命されると、彼らは京都再建に奔走しました。
 京都の町の伝統を保持すると同時に新時代に即応した近代都市を建設しよう、というものであり、
その方法の一つとして、 博覧会開催の計画を立てました。このとき槙村副知事は、博覧会に娯楽性を
添えることを思いつき、春季の博覧会の附博覧(つけはくらん:余興の意)として、祇園の芸舞妓のお茶と
歌舞を公開することにしました。」 

 そして、翌 明治5年(1872年)、祇園新橋小堀の松の屋という貸し席で、『都』を名とする「都をどり」が
開催されたのでした。 時の京都府知事、槇村正直が作詞を、当時新進であった井上流家元、井上八千代
(三世 片山春子)が 伊勢音頭の総踊りを参考に 振付を担当し、舞台の両側に花道を設え、今までの
お座敷舞という舞台形式とは一味違う集団での舞を取り入れた革新的で、花道からおそろいの衣装を着けた
踊り子たちが登場して観客を驚かせたそうです。 


                     (ウイキペディアより)
 

 翌明治6年からは、新築の歌舞練場で単独に演ずるようになり、戦時中の6年間を中断した以外は毎年春の
京都の年中行事として今日に繋がっているのですね。 
 幕開きに必ず、「み・や・こ・をどりは~ ヨウイヤサア~」の掛け声で花道を繰り出す舞妓たちの群舞が
人気を呼んでいるとあります。

 上演前、祇園甲部歌舞練場の2階でお茶席が設けられていて、一日交替制で点茶をする芸妓は京風の
島田髷を地毛で結い、衿を裏返す黒紋付の正装姿で登場し、控えは舞妓が担当をするそうです。
時代によっては舞妓、当時甲部にいた太夫が点茶を担当したり、複数の芸妓が時間によって交替することが
あったり、外国人にも人気が高いそうです。 点茶の形式は従来の形式ではなく「立礼式」というスタイルで
これは外国人を接待する為に裏千家により考案されたものだそうです。

          (ウイキペディアより)


 外国観光客には、チェリー・ダンスと紹介されていますが、ちょっと風情がりませんね。


 もう30年ほど前になりますが、京都国際会議場で、ファクシミリの国際標準化に向けた最終会議が行われた
おり、夕食後に 主要な外国のメンバー何名かを、歌舞練場にお連れしたことがありました。この時は、
10月でしたから「都をどり」はありませんでしたが、楽しい雰囲気で大変喜ばれたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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