蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

子どもの貧困  (bon)

2017-11-29 | 日々雑感、散策、旅行

 突然、難しいタイトルなどを掲げて申し訳ありません。

 先日、蓼科農園の収穫祭での盛り上がりの後、誰かが「子どもの貧困率は、OECDの中でも、
日本はかなり悪い」「貧困率そのものも日本は先進国の中でかなり悪い」・・ そんな問題
提起がありました。 「そんなこと何かの間違いではないか?」「日本は、累進課税制度で、
より格差が少ないし、平等性が高いのでは? 大学進学者も多いし、貧困だなんて・・」
 今まで、政治論や経済論はたびたび出て来て激論に発展することもありましたが、貧困の
ような事柄については初めてのテーマでした。
 手早く、スマホなどのネット検索したデータでは、日本のそれは、確かに数値は悪い・・
とあり、母子家庭での収入が問題ではないか?  などの意見がありましたが、どうもしっ
くり理解できないままとなりました。

 このままの状態で、年を越してしまうのもどうか・・ということで、少しづつ調べてみま
したが、にわか作りの域を出ませんので、十分こなれてはいませんが取敢えず概略をまとめ
てみましたので、ご覧ください。 推敲が十分ではないそしりはまぬかれませんが、不都合
や誤り等についてご指摘を頂ければ幸いです。

 まず、貧困ということですが、これには、その日の生活にも困るような「絶対的貧困」と、
その国の中で、富裕層と貧困層があるように「相対的貧困」とに区別して論じられています。
相対的貧困は、ある国で貧困である層でも 、他の国では貧困でないというように、国によっ
て一概に定義できませんが、OECDなどではこの相対的貧困を用いています。

 相対的貧困とは、等価可処分所得(*)の中間値の1/2(貧困線)に満たない世帯員の
ことで、この割合を示すのが相対的貧困率と定義されています。
    (*)等価可処分所得とは、世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得。
        したがって、2人家族の場合は、可処分所得÷√2となります。
        預貯金や不動産等の資産は考慮していない。

 最新データであるOECDの2014年の統計は、下表に示す通りとなっています。

     
                       (ウイキペディアデータより)

 これをグラフで見ますと・・(一部順位が入れ替わっていますが)
   

 で、確かに日本のそれは、高い位置にあることが分かります。 日本より貧困率が高い
メキシコ、トルコ、チリはいずれもOECDには加盟していますが、先進国とはっきり言える
経済力ではないため、その点を踏まえると、日本は先進国の中でイスラエル、アメリカに
次いで3番目に貧困率が高い国という見方もできる・・とあります。 西欧諸国は大半が
10%以下で、全調査国中もっとも低いチェコの5.8%とデンマークの6%を筆頭に、北欧
諸国の貧困率は低いですね。

 ここで、厚労省発表(2017.6.7)の国民生活基礎調査から、いくつかのデータを参考に
して日本の所得の現状がどのようになっているか概観してみました。

 平均所得以下の世帯が 61.4%であり、所得の中央値428万円の半分以下の世帯がかなり
多い(約25%くらい)といえるのです。 等価可処分所得に対するこの値が、相対的
貧困世帯ということなんですね。
  ウイキペディアには次のようにありました。『 2017年6月27日発表の国民生活基礎調査
では、日本の2015年の等価可処分所得の中央値名目値245万円の半分名目値122万円未満の
等価処分所得の世帯が、相対的貧困率の対象となる。2015年調査では1985年基準実質値の
掲載は無かった。 各名目値で単身者では可処分所得が約122万円未満、2人世帯では約173
万円未満、3人世帯では約211万円未満、4人世帯では約244万円未満に相当する。』


 平均所得以下の各階級ごとの世帯数割合が、下のグラフに年次推移で示されていますが、
所得が少ない世帯の割合が年々増加しています。

  

 更に世帯種類別に所得分布をみますと、下図のように、児童のいる世帯は一般に全世帯
より高所得よりにありますが、母子世帯、高齢者世帯は低所得層が多く、中でも母子世帯
は平均所得以下が96.1%だといっています。  高齢者世帯も同90.3を示していますが、
ここでは、預貯金や資産などは含んでいないため、高齢者ではそれらの貯えがある場合も
あるかと思われます。

  

 ここで子供の貧困率について、見てみたいと思います。
 子どもの貧困 とは必要最低限の生活水準が満たされておらず 心身の維持が困難である
絶対的貧困にある、またはその国の貧困線(等価可処分所得の中央値の50%)以下の所得で
暮らす相対的貧困にある17歳以下の子どもの存在及び生活状況を言う・・とあります。

 下のグラフは、貧困率の年次推移を示したものですが、平成27年の相対的貧困率はやや
改善されています。特に、「子どもの貧困率」(鎖線)は、12年ぶりに13.9%と大きく改善
されています。これらは、政府によれば、景気の改善、雇用の改善によるものとしている
ようですが、 OECD36か国の平均13.2%をなお上回り、デンマークの2.7%や韓国7.1%
などに遠く及ばず、24位にあるそうです。

 大人が一人の相対的貧困率は際立って高いですね。
それで、この改善がどのようであったかを、平成24年と比較して、各所得金額階級別に
下図のグラフがありました。

 
 すなわち、貧困線以下の各クラスでは、全世帯、子ども世帯、子どものいる大人一人世帯
ともすべて度数は低く(改善)なっており、100~300万円クラスで上昇しており、全体的に
所得が押し上げられた形になっています。といっても、一気に所得が増えたのではなく、各
クラスで少しずつ増えている結果そのように見え、貧困世帯が大幅に改善されたというわけ
ではないのですね。

 厚労省が先に発表した資料でも、生活意識調査のデータが掲載されていますが、次のよう
に分析されています。すなわち、
生活意識別に世帯数の構成割合をみると、「大変苦しい」「やや苦しい」をあわせて
「苦しい」と回答したのは56.5%で、2年連続で低下している。しかし「児童のいる世帯」
では前回より4.0ポイント減ながら 61.9%が「苦しい」と回答。 「母子世帯」では、
「大変苦しい」が 45.1%(前回49.5%)、「やや苦しい」が37.6%(前回35.2&)となり、
「苦しい」という回答はあわせて 82.7%(前回84.8%)にのぼった。』で、依然8割の母子
世帯が 苦しい状況にあるのです。

 今国会でも、幼児教育、高等教育の無償化、待機児童の解消などが引き続き議論されてお
り、一方では、高所得者の基礎控除の低減などの税制改正も浮上し、その対象は1%程度と
わずかだそうですが、少しでも改善(再分配)の方向を目指しているようです。
 しかし、教育は「意欲さえあれば、生活環境に左右されることなく受けられる」精神は
ありがたいのですけれども、貧困を解消する役割には至らないのですね。

 日本の相対的貧困率が高い原因として、ネット記事に一例として次のようにありました。
すなわち、『
相対的貧困率は、1980年代半ばから上昇している。この上昇には、預貯金や
不動産を所有しつつも収入は年金しかない「高齢者」や「単身世帯」の増加、そして1990年
代からの「勤労者層の格差拡大」が影響を与えている。「勤労者層の格差拡大」を詳しくみ
ると、正規労働者における格差が拡大していない一方で、正規労働者に比べ賃金が低い非正
規労働者が増加しさらに、非正規労働者間の格差が拡大しており、これが「勤労者層の格差
拡大」の主要因といえる。』と。 また、『 日本で相対的貧困率が高くなっている要因とし
て、1)不況、2)技術革新、3)グローバル化、4)高齢化、5)離婚率の上昇
を挙げている
経済学者もいるという。

  更に、ウイキペディアから以下を引用しました。
『 母子世帯では、離婚および未婚の母の増加により、児童扶養手当の受給者は100万人を
突破しており、新たな貧困層が増加している可能性がある。 
平成28年度「賃金構造基本
統計調査」のよると、女性の賃金は過去最高となっているが、男女間賃金格差(男性=100)
に対し、女性過去最小の 73.0と公表されている。構造的に女性賃金が低いため、母子世帯
となり母が主たる稼ぎ手になった場合、多くの家庭において、生計を維持するに足るだけの
収入が得られない可能性がある。』

 『 歴史的には、日本は明治十年代、二十年代には離婚率が3.0%を前後しており、アメリカ
0.7、フランス0.25、ドイツ0.15、イギリス0.02(1900年現在)と比較しても、全国統計が
得られるほどの近代国家としては例がなく、世界一の離婚王国であった。 離婚に伴う子の
引き取りは性別・年齢に関係なく、全員を夫側の家で養育するという例が圧倒的に多かった。
子の全員を夫側が引き取るのは、妻側の経済力の弱さ、再婚への差支えなどもあろうが、
最大の理由は「嫁入りした家で生まれた子」だろうと推論されている。 その後、昭和初期
(1920〜40 年代)では最も離婚率が低下した時期となった。そして戦後の混乱期を経て一旦
低下した後、都市部の離婚の増加とともに、1960 年代半ばから再び増加していく。 親が
子どもを引き取る割合が父を上回る時期も、同じ1960 年代半ばだった。子どもを引き取る母
が増加した背景には、離婚の際、協議で親権者を決めるとした戦後の民法改正がある。
 民法改正後20年ほどして、婚姻中はもちろん、離婚後も母が子どもを養育するのが当たり
前と見なす社会が、都市部の離婚の増加とともに形成されたうえ、男性が離婚後容易に子を
手放すようになったのは、再婚、とりわけ初婚女性との再婚によって新たな子どもを持つ
可能性が高いことと結びついていたとする説がある。昭和25年から40年までは、「夫が全児
の親権を行う場合」の方が、「妻が全児の親権を行う場合」より多かった。 これが41年に
逆転し、「妻が全児の親権を行う場合」の方が年々多くなっており、平成10年では「妻が
全児の親権を行う場合」79.2%、「夫が全児の親権を行う場合」16.5%となっている。2012年
統計では妻側が83.9となっており、一貫して増加している。』


 相対的貧困率とは直接関連はしませんが、国内の所得格差を機械的に算出する指標として
ジニ係数 があります。ジニ係数については、当ブログ2013.10.6「ジニ係数」に記事アップ
していますので、ご参照ください。
 で、下図にジニ係数の各国別の推移がありますが、どの国も、ジニ係数が上昇傾向にあり、
格差が拡大しています。 米、英、日は、相対的貧困率も高く、フランス、ドイツは、相対
的貧困率は低く、特に北欧はかなり低く、ここでもスエーデンがそれに当たります。 
 なお、ジニ係数の社会騒乱多発の警戒ラインは、0.4であるといわれています。

            所得格差各国比較     
      (ダイヤモンドより)


 長々とお疲れさまでした!

 


 

 

 

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アルフレッド・ノーベル  (bon)

2017-11-27 | 日々雑感、散策、旅行

 今日11月27日は、ノーベル賞制定記念日だそうです。

 1901年11月27日に、ノーベル賞の第一回の授賞式が行われたことを記念した日で、
現在では授賞式はノーベルの命日にあたる12月10日に行われています。

 で、この日に因んで、ご存知のノーベルについて、改めて調べてみました。

 アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日
― 1896年12月10日)は、スウェーデンの化学者、発明家、実業家で、ダイナマイトの
発明で有名です。

 建築家で発明家(ベニヤ板の発明など)の父の4男として生まれ、一家は貧しく 8人
兄弟のうち成人したのは4人だけだったそうです。 しかし、父は単身サンクトペテル
ブルグに渡って、機械や爆発物の製造で成功し、合板を発明し、機雷製造を始め大きく
成功しました。 アルフレッドが9歳の時(1842年)、家族はサンクトペテルブルクに
移り、学校には通わずに複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだとありま
す。語学も、母国語以外に英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語もできたそうです。

        アルフレッド・ノーベル
          (ウイキペディアより)

  その後、アルフレッド(ノーベル)は、 爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセ
リンの安全な製造方法と使用方法を研究したのです。
  ニトログリセリンは少しでも衝撃を与えると爆発してしまい、誤爆事故が頻発して
使いずらいうえ、狙って爆発させることが難しい欠点がありましたが、それを克服する
のです。

 ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土
状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、これに雷管をセット
して起爆する方法を発明しました。この新しい爆破システムにギリシヤ語のデュナミス
(力)からダイナマイトと名付けました。

  ノーベルはその後 はるかに爆発力の強いブラスチングゼラチンスタイルのダイナマイ
トを開発しましたので、珪藻土を使ったダイナマイトは科学史のトピック的存在にとど
まったそうです。

 その後、50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われる
ようになり、一躍世界の富豪の仲間入りをするのです。さらに、1875年にはダイナマイト
より安全で強力なゼリグナイトを発明しています。

  1895年、ノーベル62歳の時、持病の心臓病が悪化し、ノーベル賞設立に関する記述の
ある有名な遺言状を書きます。病気治療に医師はニトロを勧めますが、彼はそれを拒んだ
といいます。1896年12月7日、突然倒れ、その3日後に息を引き取るのです。享年63歳。

 この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されな
くてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、
その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるもの
とする」と記されており、1900年にノーベル財団が設立され、翌年「第1回ノーベル賞」の
授与が行われています。

         ノーベル賞
          (ウイキペディアより)

 ノーベル賞は、物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」
で顕著な功績を残した人物に贈られていますが、 経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、
スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環としてノーベルの死後70年後にあたる1968年
に設立されています。ノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としていますが、一般には
ノーベル賞の一部門として扱われているようです。
 日本では、受賞金は、非課税ですが、経済学賞(対象者いませんが)だけは課税される
そうです。

 ノーベル賞授賞式は平和賞以外はストックホルムで、平和賞だけはノーベルの遺言通り
ノルウェーのオスロで行われるのだそうです。

  なお、ノーベルは、ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び
回っていたそうですが、孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともあるそうで、
生涯独身を通し、子供はいなかったそうです。

 また、1896年に亡くなった時には、3100万クローネ(今のお金にすると100億円くらい?)
もの資産が形成されていたそうで、財団はその後の運用や寄付などにより、現在約40億ク
ローネ(600億円)ほどになっているとありました。

 

 ノーベル賞に、数学の分野がありませんが、数学の分野では カナダの John Charles
Fieldsが 1936年に「フィールズ賞」を創設し、「数学のノーベル賞」と一般に言われてい
ます。 こちらはノーベル賞が、過去に大きな業績を残したもののかなり年配の研究者に
贈られることが多いのが おかしいとして、受賞年齢を40歳以下に限定していて「大発見を
して、これからも精力的に研究をしてくれそうな研究者」に贈られることになっていて、
ノーベル賞よりも敷居が高いと言われているそうです。

   

 それにしても、ノーベル賞選定における案件調査の広さ、深さとその見識の高さには、
常々感心させられています。世界各地で、活躍し、業績を上げている多くの案件の中から
峻別するプロセスとその意味、結果に感銘さえ覚えるときがあります。

 

 





 

 

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目からウロコ  (bon)

2017-11-25 | 日々雑感、散策、旅行

 “目からうろこが落ちる”とは、故事ことわざ辞典に「今までわからなかったことが急に
理解できるようになることのたとえ」とありましたが、 皆さんも良くご存じで、まるで、
ウロコに包まれていた目が、突然剥がれて、パッと明るく理解し納得できる・・そんな情景
なのでしょうね。

  辞典には、注釈として次のような、解説がなされていました。

『 鱗で目をふさがれた状態のように、よく見えなかったものが、急にその鱗が落ちて鮮明
に見えるようになったということ。新約聖書、使徒行伝・第九章にある「The scales fall
from one's eyes.」という言葉に基づく。  キリスト教を迫害していたサウロの目が見え
なくなったとき、イエス・キリストが、サウロを助けるようにとキリスト教徒のアナニヤに
指示した。アナニヤがサウロの上に手を置くと、サウロは目が見えるようになり、このとき
サウロは「目から鱗のようなものが落ちた」と言っている。』 出典が書かれていました。

                 (ネット画像より)

 

 ネットを、繰っていましたら、「目」というのは、たくさんの意味を持っていることが
わかりました。以下に、goo辞書から、いくつかを引用しますが、どれも普段何気なく使っ
ている意味で、改めて言われるほどではありませんが、それにしても・・という感じです
ね。

物を見る働きをする器官。光線・色などを感受して脳に送る感覚器官で、脊椎動物では
 眼球およびその付属器の涙腺などと視神経からなる。「澄んだ美しい―」「―をあける」

物を見るときの目つき。まなざし。「するどい―で見る」

物を見る能力。視力。「―が悪い」

見ること。見えること。「お―にかける」

注意して見ること。注目。「世間の―がこわい」

見分ける力。洞察力。「私の―に間違いはない」

見たときの印象。外観。「見た―がよくない」

その者が出会ったありさま。体験。「つらい―にあう」「いい―を見る」

位置・形状などが1に似たもの。

  ㋐主要な点。物の中心。「台風の―」

  ㋑眼球の形をしたもの。「うおの―」

  ㋒縦・横の線などが交わってできるすきま。「網の―」「碁盤の―」

10 線状に1列に並んだものの間にできたすきまや凹凸。「櫛 (くし) の―」

11 のこぎりの歯や、やすり・すりばちなどの表面に付けた筋。「―立て」

12 賽 (さい) の面につけられた一から六までの点。また、振るなどして表れたその数。
 「賽の―」「いい―が出る」

13 囲碁で、連結が完全な石で囲んである空点。「―が二つで活 (いき) 」

14 物差し・はかりなどに数量を示すために付けたしるし。「はかりの―」

15 はかり・升などではかった量。重さ。「―が足りない」

16 木材の切り口に現れる年輪の線。木目 (もくめ) 。「―の粗い板」「正 (まさ) ―」

17 文様または紋所の名。方形またはひし形の中心に点を一つ打った形のもの。「五つ―」

<接尾>

数を表す語に付いて、その順序にあたる意を表す。「二番―」「一〇年―」

動詞の連用形に付いて、その状態にあること、また、その状態にあるところを表す。
 「弱り―」「落ち―」「結び―」「別れ―」「こげ―」

形容詞の語幹に付いて、そのような性質や傾向をもっている意を表す。「長―」「細―」

数を表す語に付いて、匁 (もんめ) の意を表す。「百―」「一貫―」

        畳の目
         (ネット画像より)

 

 このように、「目」には多くの意味があることが改めて認識されるところですが、「目」
を「モク」と読むと、さらに範囲や分類に通じた意味もあるのですね。 どうして「目」が
このように広範囲な意味を持つようになったのでしょうか?

 

 目からウロコ みたいな目が入った慣用句を思いつくまま列記してみました。 途中、
ネット(goo辞書)に、たくさん出ていましたので、そちらからも拝借させていただきました。

 目は口ほどにものをいう 目ざとい 目が点になる 目でモノをいう 目が曇る 目に
留まる 目が利く 目がさえる 目が肥える 目が近い 目が離せない・・ さらに、目が
高い 目立つ 目に余る 目から火が出る 目に浮かぶ 目にかける 目が光る 目の色を
変える 目の中に入れてもいたくない 目の上の瘤 目を配る 目を肥やす 目を回す 
目を三角にする 目を丸くする 目を見張る 目を盗む 目を通す 目を引く 目から鼻に
抜ける 目分量 目検討 目安・・まだまだありますが、この辺でやめにします。

 

 目だけではなく、顔に関連して・・・

 顎が落ちる ほっぺたが落ちる 鼻にかける 鼻持ちならぬ 口をひねる 舌の根も乾か
ぬうち 舌先三寸・・ 耳が遠い 耳ざわり・・意外と、耳がないのですね。



 






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新嘗祭  (bon)

2017-11-23 | 日々雑感、散策、旅行

              今日は、冷たい雨の休日となりました。 昨日、市民農園を
         見ましたら、9月下旬に植えたブロッコリーに、丁度良い
          大きさの実が出来ていました。 早速、いただきました。

 今日23日は、勤労感謝の日で祝日ですが、以前(戦前)は、新嘗祭といって、宮中祭祀の
一つで、天皇行事・国事行為でありました。

 「日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があり、その年の収穫物は国家としてもそれ
からの一年を養う大切な蓄えとなることから、大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の御代
に始められたと伝えられている」とありました。  これが「新嘗祭」で、グレゴリオ暦
(新暦)が導入されるまで、つまり、1872年(明治4年)までは、(旧暦の)11月の2回目の
“卯”の日に行われていたそうです。
 で、翌年からは新暦となり、そのままでは、新嘗祭が 翌年1月になってしまい、新しい
五穀の収穫から見れば都合が悪いため、新暦の11月、2回目の“卯”の日としたのだそうです。

 それがたまたま  1873年の11月23日だったのだそうです。翌年から、この日が固定された
ため、以降ずっと11月23日となったということで、この日が特段の意味を持っているわけで
はないとのことです。

        新嘗祭(伊勢神宮?)
          (ネット画像より)


 戦後、GHQの政策によって、天皇行事・国事行為から切り離されて、1948年(昭和23年)
制定の祝日法により、「勤労感謝の日」と制定されたのです。
 休日としては、1873年公布の「年中祝日祭日ノ休暇日ヲ定ム」(太政官布告)により、
休日とされていたそうですから、かなりの歴史があるのですね。

 昔は、“新米”は、この新嘗祭が来ないうちは、食さないという人もいたそうで、やはり
この年の収穫に感謝し、喜びをもって迎えた日なのでしょうね。 そして、これらの収穫は
労働の集積によって達成されるから、つまり“勤労を通じて得られた収穫に感謝”する・・
とも見なせて「勤労感謝の日」。(やや、こじつけ・・?)  

               (ネット画像より)

 一方、アメリカでは、11月第4木曜日が「Thanksgiving Day」(感謝祭)で、この日は、
(収穫)生産を祝う日としていますが、これは、偶然そのようになったというか、昔は、
どこの国も収穫に感謝する気持ちは同じなのかもしれませんね。 今年、11月の第4木曜日は
(アメリカでは)23日なんですね。

 また、勤労への感謝は、アメリカでは、9月第1月曜日の「Labor Day」がありますが、
これは日本では、どちらかといえば「メーデー」に趣旨が似ているとも言われているようで
す。

 ウイキペディアには、
『米国の Labor Day と Thanksgiving Day を併せた Labor Thanksgiving Day という祝日を
考案し、これを和訳したのが「勤労感謝の日」である。』とあり、『日本版感謝祭と言える
ものはむしろ神嘗祭の方であり、新嘗祭は新米を食するなど一年の慰労(勤労感謝)の側面
も元来併せ持っている。』とあります。

 神嘗祭は、10月17日で、1947年(昭和22年)までは休日だったようです。

 

 ま、いろんな理屈はさておき、若い社会人の頃、この秋の休日をハイキングに出かけたり、
観劇などの行事に参加したりして楽しんだことを思い出します。

 

 また、この時季(11月)全国的に収穫物を販売するイベントとして「農業祭」が開催され
ています。

        地元の農業祭    
          (朝霞市HPより)

 

 

 

 

 

 

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オメガ3  (bon)

2017-11-21 | 日々雑感、散策、旅行

 食用油について、ちょっと勉強してみました。

  少し前のテレビで、オメガ3がどうの、何でも体に良い、ダイエットにも・・などと
っていたのを、フト思い出したのです。  “あれは何だったかな~?”と、思いめぐ
らしていたら、“オメガ3”のことだと分かったのです。

 そんなことですから、にわか勉強で、しかも、専門用語などが多く、なるべく一般的な
内容を把握するために、複数のネット記事を参考に勉強してみました。 が、記事内容に
偏りがあるとか、誇張しすぎみたいなところもあるかもしれませんので、“一応のご参考”
程度に、理解していただき、興味がおありの方は、ネット検索などで、確認・理解してい
ただきたくご了解をお願いします。

 言い訳が先行した上に、生来の理屈好きから、少し込み入ったところからお話しさせて
いただく無礼をお許し願います。

 食用油を大きく分けると、以下のように、飽和脂肪酸、不飽和脂肪酸に区分され、それ
ぞれがまたさらに区分されるのです。
   

                                                          (ネット画像より)

 リノール酸やオレイン酸など聞いたことのある言葉がたくさん出てきますが、それらの
繋がりや、区分、特徴など皆目整理できていませんでしたので、ここに整理を兼ねて、
ネット記事からまとめてみました。


 いきなりですが、脂肪というのは、グリセリンに3つの脂肪酸がくっついてできている
そうで、この脂肪酸が更にたくさんの種類に分かれて、その先に“オメガ3”系という
脂肪酸があるのです。 まず、脂肪酸は、飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸にわかれます。

 飽和脂肪酸というのは、炭素鎖に二重結合あるいは三重結合を有しない( 水素で飽和
されている)脂肪酸のことで、飽和脂肪酸は同じ炭素数の不飽和脂肪酸 に比べて、高い
融点を示す とあります。代表的な食品は、 肉、牛乳、バター、卵黄、チョコレートなど
お馴染みですね。ココナッツオイルも飽和脂肪酸なんですね。

 不飽和脂肪酸というのは、一価不飽和脂肪酸と多価不飽和脂肪酸に区分され、前者は、
体内で作られる脂肪酸ですが、後者は、体内では作られない、外部から摂取しなければ
ならない「必須脂肪酸」なんですね。 上図にあります通り、この必須脂肪酸に、オメガ
3系とオメガ6系があります。 オリーブオイルなどのオメガ9系は、体内でも作られるの
ですね。

 さて、いよいよ構造に入ってきますが、なぜ“オメガ”というのか?   オメガとは、
ギリシャ語のアルファベットの最後の文字で“Ω”小文字で“ω”と書きます。 文字の
意味は、“最後”“終わり,終着”のようで、ここでは一番終わり(端)の意味で使われ
ているようです。
 ここから、少し専門的な化学式みたいな構造に入りますが、ちょっとだけ我慢してくだ
さい。

 脂肪酸は、カルボキシル基をもとに、CH₂が鎖のようにつながっていて、たとえば、

   は、C(炭素)が4つ。   は、6つ。 でこれを、

    や   のように、CH₂ またはCH₃を省略して書き、

2重結合があるところを、2重線で示しています。 ま、記法はどうでもよいのですが、
このように表したときに、カルボキシル基から一番遠い“端”が“オメガ”で、ここから、
3つ戻ったところに2重結合がある(始まる)脂肪酸を「n-3」系、「ω3」系と、呼ばれ
ています。 同じようにして、端から6番目に(から)2重結合があれば、「n-6」「ω6」
と呼ばれているのです。

 化学記号が左右逆になりますが、下表まとめられていますので、ご覧ください。

      食品中に含まれる主な脂肪酸の例


                                                        (農水省HPより)

 上の表で、一番下のドコサヘキサエン酸では、端から3つ目に2重結合が始まりますから
n-3つまりω3、α-リノレン酸もω3ですね。リノール酸はω6、アラキドン酸もω6、
オレイン酸はω9・・なんですね。 炭素数、2重結合数なども記されています。


 以上には構造からみた脂肪酸の分類でしたが、それでは、これら脂肪酸の機能、働きに
ついて、見てみたいと思います。
 まぁ、脂肪は、一般に“うまみ”成分の一つですね。 しかし、あまり採りすぎると、
コレステロールが増えるとか、いろいろといわれていますが、以下にまとめてみました。


 脂肪(脂質)は、食べ物に含まれる大切な栄養素の一つであり、食べ物の味を美味しく
感じさせたり、食べやすくしてくれています。また、
脂肪酸は、カラダの中でグリセリン
と結合して『トリグリセリド』という物質に変化して、私たちのエネルギー源として蓄え
たり、消費したりしています。
 そして、その脂肪酸の役割は、 ①中性脂肪を形成する  ②コレステロールの原料と
なる、そして、全身の細胞膜をつくる ③リン脂質の主成分になり 更に 脳/神経組織
をつくる ③リン脂質、糖脂質の成分になる  また、代謝を調整するホルモン様物質に
なっているのです。 ここで、
 
 ① の 中性脂肪 は、エネルギー源になり、体温を維持する、内臓や皮膚を保護するな
どの役割があり、
 ② の コレステロール は、ステロイドホルモンになるもので、脳/
神経組織をつくる、全身の細胞膜をつくる、胆汁酸の材料になる、ビタミンDにかわる
などの役目があり、
 ③ の リン脂質 は、全身の細胞膜をつくる、細胞間の情報を伝達、
細胞内外の情報を伝達するなどといった役目があるのだそうです。
 中性脂肪やコレステロールといえば、なんだかすぐに“良くない”イメージが先行して
しまいますが、脂肪酸はカラダの細胞膜、脳、神経組織、ホルモン様物質などさまざまな
カラダの組織づくりのベースとなるもので、非常に大切なんですね。
 そして、食事によってこの脂肪酸を変えることができる・・というのですね。

 脂肪酸の役割についてまとめた表がありましたので、掲載しました。

代表的な脂肪酸の特徴比較(ネットより)

 不飽和脂肪酸

 一価不飽和脂肪酸

 オレイン酸

  1. 血中のLDL(悪玉)コレステロールを下げる。
  2. 血中のLDLコレステロールの酸化を抑制して動脈硬化の進行のを予防する。
  3. HDL(善玉)コレステロールは下げない。
  4. 比較的酸化(劣化)しにくい。

 多価不飽和脂肪酸

 リノール酸(オメガ6(n-6系脂肪酸))

  1. 血中のLDL(悪玉)コレステロールを下げる。
  2. HDL(善玉)コレステロールは下げない。
  3. 比較的酸化(劣化)しやすい。

 α-リノレン酸(オメガ3(n-3系脂肪酸))

  1. 体内で一部がEPAやDHAに変わり、健康機能を持つ。
  2. 血中の中性脂肪を下げるほか、血栓の生成や不整脈を防ぐなどの生活習慣病を予防する。
  3. 免疫機能をととのえる作用がある。
  4. 非常に酸化(劣化)しやすい。

 飽和脂肪酸

 パルミチン酸

  1. 血中のLDL(悪玉)コレステロールを上げる。
  2. 血中のHDL(善玉)コテステロールは変化させないか、やや上げるといわれている。
  3. 摂取量の多い人では、心筋梗塞の死亡率が上がる。
  4. 酸化(劣化)しにくい。


 つまり、必須脂肪酸であるω3やω6を含む食品を意識して摂取することが大事である
ことが分かりました。
 ネットを繰って行きますと、医療法人社団 ひさわ会HPの「病気と健康」ページに、以下
の記事が目に留まりました。大変重要な事項であると思いましたので、ここにコピペさせて
いただきました。 

必須脂肪酸の役割 

『 細胞は細胞膜で細胞内を隔て、物質の出し入れをして細胞内の環境を整え、活動して
います。必須脂肪酸が欠乏すると、水分の維持が傷害され、ヒビや乾燥肌といった症状が
でます。
最近注目されているのは、必須脂肪酸の中でも特にオメガ3系脂肪酸の働きです。

 1)虚血性心疾患のリスクを減らす 

  血管の弾力性を維持し、炎症を予防・改善して、血液の循環をよくします。

  2) 自然な抗炎症作用がある
  関節炎、喘息、イースト菌感染、皮膚炎などにも有効です。
  3) 網膜の機能の維持に必要
    緑内障や網膜色素変性症を改善します。
   4) 脳の活動に必要な物質
    うつ病、統合失調症などの改善に効果があるのではないかと期待されています。
    また、脳の老化も防ぎます。
   5) ガンの予防に必要
    オメガ6とオメガ3のバランスがとれていると、免疫システムがよく働きます。』

 もう一度、オメガ系脂肪酸と代表的な食品を表にまとめてみました。

   

 最後に、不飽和脂肪酸の一種に「トランス脂肪酸」というのがあり、これは、マーガリ
ンやショー
トニングに含まれる人工的に作られた脂肪酸で、自然界から見ればまだ、
100年ほどしか摂取実績がなく、摂りすぎると悪玉コレステロールを増価させ、動脈硬化や
心臓病のリスクを高める危険性があると問題視されています。とくに、工業的に作られた
トランス脂肪酸による健康被害、メタボ、糖尿病、心臓病など、多くの現代病の原因と
なりえる「もっとも悪い脂肪酸」として多くの研究が進められているとありました。

 イワシやさばなどの青魚が良い、亜麻仁油なども見直されているのはこのようなこと
からなんですね。

 わかりにくい長文で、お疲れさまでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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世界トイレの日  (bon)

2017-11-19 | 日々雑感、散策、旅行

  今日11月19日は「世界トイレの日」なんだそうです。

 2013年に開催された国連総会で、この日を「世界トイレの日」と制定し、『トイレに
かかわる問題への人々の意識を高め、問題解決に向けた国際社会の取り組みを加速させる』
としたとあります。
  もともと、2011年11月19日にシンガポールで開催された「世界トイレサミット」を記念
して、この日を世界トイレの日として、世界各地でトイレの問題を考える取り組みが行われ
てきていて、この広がりを受けたものだそうです。

 ネットを調べていましたら、日本では、1986(昭和61)年に「日本トイレ協会」(1985年
発足)が「トイレシンポジウム」を開催した“11月10日”を「いいといれ」の語呂合わせで
「トイレの日」と制定していました。

              世界トイレの日プロジェクト
          (ネット画像より)

 

 我々は日常、普通にトイレを使っていますし、だいたいどこに行ってもトイレが設備され
ていて それが当たり前だと思っていますが、ユニセフでは、「トイレが使えないことは
子どもの健康と成長に深刻な影響を及ぼしている」と指摘し、早くから「屋外排泄をやめ、
トイレを使えるようになるために、社会的な変化を起こすべく活動」して来ており、1990年
以降、約19億人が改善されたトイレを使えるようになったそうですが、今なお、2011年時点
で世界の人口約69億人の36%、およそ25億人がトイレを使えていない状況にあるのだそうです。

 トイレがないことで、屋外排泄による、安全な水やトイレ、衛生習慣がないことから、5歳
未満の子どもたちが下痢を患い、その結果、毎日約 1,600人の子どもたちが命を失っている
とユニセフの報告がありました。おとなは病気にかかり、成長は鈍化しているとも指摘して
います。
 これらを受けて、各国でも改善の取り組みが行われていますが、トイレがあるかないか・・
などの話題はともすればタブー視され なかなか進展していないことから、「世界トイレの日」
を制定して表面化して大々的に推進することとしたようです。

 
 今、神宮外苑で開催されている「いちょう祭り」の中で、ある設備メーカーによる「~世界
の衛生問題を、自分ごとに考えてみよう。~」というイベントで、シースルートイレが体験
できるようになっているとか。  もちろん、実際に用を足すことは出来ないようですが、
マジックミラーで仕切られたその中からは外が丸見えで、とても落ち着けないようです。
先日のテレビで、体験話が出ていました。

 シースルートイレ ~外苑イベント~
       (ネット画像より)

 ネットを見ていますと、“人は一生涯に20万回トイレを使う”とありましたが、日本の
トイレは世界の中でもきれい、というか清潔であるようです。
 もうだいぶん前のことになりますが、香川県の瀬戸大橋が見える丘に「世界のトイレ館」
というのがあって、そこを訪れたことがありましたが、なんでも黄金の便器があったり、
ひろ~い空間がトイレであったり、ちょっとユニークな展示があったのを思い出しましたが、
その展示館は今はもう閉館しているのだそうです。
 トイレで、もう一つ思い出したのは、これも随分前の話ですが、開高健著の「ベトナム
戦記」(1965年)に、トイレのくだりがありましたて、またがった下は遥か下の方に川の
流れがあり、紙はなく、巻いたロープがあったというような感じでしたね。
いやはや・・!



 

 

 

 

 

 

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神代植物園  (bon)

2017-11-17 | 日々雑感、散策、旅行

 秋の神代植物園に行ってきました。

 12月中旬の冷え込みと予報されていた今朝(11/17)は、さすがに寒い感じでしたが、
会社OBで構成する“園芸友の会”屋外例会で、10時半前には、植物園正門前広場に集合
しました。 まだ静かな広場は、少し秋色に染まって一層奥行きが広く感じました。

 ここ、神代植物園は、数年前の春(5月)に屋外例会で来たときには、入口を入ると
一面のツツジ歓迎を受けたのですが、今回は、ずらりと菊のコーナーが並んでいました。
季節の変化に応じた 新しい変化に、今回もまた、違った刺激があり楽しむことが出来
ました。

 神代植物前広場            菊見コーナー(写真は、肥後菊)  
  

 

 この時季予期していませんでしたが、ダリアの大輪が見事に咲き誇っていたり、バラ
たちもきれいな色を付けていて、まだ、大きな蕾も見せていました。

                 真っ赤なダリア  
                       

 すぐ後ろ一面には、シャクヤク、ボタンのコーナーが続き、シャクヤクは宿根草です
からもはや、土の下に埋まっていますが、ボタンは、丁寧に剪定され、冬越し準備に
入っていました。ダリアと全く対照的な光景となっていました。

 

 今回も、温室に入りました。 温室では、ラン、ベゴニアが華やかに室内を賑わせて
いました。こんなにも種類が多くさんあるのか・・どれも、丁寧に管理されているので
しょう、今を見頃にはちきれそうに咲いているのです。温室は、春に来た時も同じよう
ではありますが、その時々の印象はまた違ったインパクトを与えて、かつ注目する花も
また異なるのです。
 今回、オンシジュームの仲間でチョコレートの香りがするのに目に止まり、また、
食虫らんのネペンテス(ウツボカヅラ)も注視しました。

オンシジュームスウイートフレグラン   ネペンテス   
  

 

 熱帯植物では、今年千葉フラワーパークで見た「タビビトノキ」が、もっと分かり易く
聳えていたし、パパイアにはたくさんの実が付いていました。 

タビビトノキ             パパイア   
  
  (中央に広がっているのがそれです。)

 

 さらに、乾燥植物コーナーでは、“ありました”・・「奇想天外」です。当ブログの
「おもしろい花の名前」(2017.10.16)の記事にもありますが、一生に2枚の葉しか出さ
ないという変わり者なんですね。

          奇想天外(Welwitschia mirabilis)   
                      

 

  広い園内を奥へと進み、「カエデ園」を目指しました。燃えるような紅葉を期待し
ながらでしたが、まだ少し早やいようでした。 しかし、緑が残る、モミジもそれなり
に美しい光景ではありました。 さらに、奥には、さざんか園が広がっていて、こちら
は、咲き初めの若々しい花たちで賑わっていました。椿とさざんかの違い・・など、
みんなで話しながら、風もなく暖かな陽だまり状の植物園を後にしました。

カエデ園                   さざんか園   
 

 

 植物園の深大寺門を出ると、もうそこは深大寺でした。 ちょうど七五三詣でなど、
のどかな境内のお昼時は、賑わっていました。 境内に「なんじゃもんじゃの木」
(ヒトツバタゴノキ)があることは、春に来たときに白い花が咲いていましたので、
名前も変わっているところからはっきりと覚えていました。 今回は、花はありません
でしたが、小さな黒い実がなっていました。
 門前にならぶ店屋さんは、お客さんも多く、秋色と共に風情がありました。

 深大寺                         深大寺門前風景 
       

 

 私たち友の会一行は、予約されていた、おそば屋さん「多門」の二階で、新そばを
味わいながら、情報交換をし、ひと時楽しい時間を過ごし、例会は終了となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ジャポニスム  (bon)

2017-11-15 | 日々雑感、散策、旅行

 今日(11/15)は穏やかな暖かい日差しの中、友人たちと上野に集合しました。お目当て
は、国立西洋美術館の「北斎とジャポニスム」~北斎が西洋に与えた衝撃~、ならびに
国立科学博物館 企画展の「フローラ ヤポニカ」(Flora Japonica)でした。

 お昼前に集まって、先ずは腹ごしらえをして、美術館に向かいました。 JR上野公園口は
既に、大変な人出で、平日の水曜日なのに・・と驚いたところでしたが、上野の森美術館の
前に来ると、ナント! 森の中に長蛇の列が出来ていて最後尾は見えない程の行列でした。
「怖い絵」展(Fear in Painting)を見るための行列だったのです。  これほどまでに、
怖い絵を見たい人が多いということなんだと驚きました。

JR上野駅公園口            上野の森美術館 長蛇の列  
 

 そんな列を横目に、西洋美術館に向かいました。こちらは、チケットはすぐに購入でき、
待つこともなく入館できましたが、入った途端、入り口付近の展示に長い列が出来て
“これは大変”ということで、それはパスして中へ入りましたが、人人で、間近く見ること
は不可能といった感じでした。

         北斎とジャポニスム 
           (パンフレットより)
  

 「HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」との副題が示しますように、幕末~明治初(19世紀後半)
来日した外交官たちが持ち帰った資料や工芸品、パリ万博などがきっかけとなり「北斎漫画」
に代表される浮世絵などが、当時の西洋の画家、特にモネやドガなどの印象派に大きな影響
を与え、「ジャポニスム」という現象が生まれたとありました。

 とりわけ注目されるのが、天才浮世絵師、葛飾北斎(1760-1849)で、人物から風景、動物、
植物、建築、戯画まであらゆる画題を描いた 絵の教科書とよばれる絵手本『北斎漫画』
(全15編)は、当時遠近法を中心とした、どちらかといえば静止した、納まりの良い構図など
の画風に大きなインパクトを与えたのです。
 浮世絵に代表される遠近法ではない平面画法?の中に、動きのある画風、つまり人物の
動作、微妙な仕草などの表現、さらに、海、波、山などの風景を捉えた奇抜な構図、動物、
植物などの構図は、当時の印象派画家だけでなく、広く影響を与えていたことが良くわかり
ました。

 ルーブルやオルセーなどで見る大作に圧倒され、感動しますが、今回、この展示を観て、
浮世絵に見る“何気ない”(と思える)線が動作・仕草を醸していて、植物等においても、
花や葉、木として見るのではなく、土に根を生やし、イキイキと生きる姿が描かれる・・
といった、そんな感動を改めて覚えるのでした。
『本展は、西洋近代芸術の展開を"北斎とジャポニスム"という観点から編み直す、世界初の
展覧会です。』との、企画は、余すところなく見事に表現されていたのでした。
 絵画だけでなく、ガラス工芸品、絵皿などの食器、家具などへの広い範囲にその影響が
あることも示されていました。

 この展覧会を見て、北斎という人の奥行きの凄さを改めて知るところとなりました。

 上野公園 秋2題  
 

 

 国立科学博物館の「フローラ ジャポニカ」は、その名の通り、日本人画家が描いた日本
の植物画の展示で、昨年9月から今年3月まで英国キュー王立植物園に出展されていた作品の
中から数10作品が展示されていました。
 お馴染みのイロハモミジやキリの花、つわぶき、フジなど本物そっくり・・というより
本物以上に精密に描かれている? ことに驚きに似た感動を覚えるのでした。 葉っぱの、
葉脈、その裏側、根の状態、果実がはじける様子などなど、図鑑として価値を生み その点
からは学術的側面もあると思いました。
 我が家のベランダで、この時季色づいている“メグスリノキ”もありました。

 日本人画家のこれらの作品の他、18世紀に創刊され 今も刊行されているという『カーティ
スのボタニカルマガジン』のイラストレーション原画も展示されていました。
 それは、19世紀のナンテン、ジンチョウゲ、アサガオなどから21世紀のイチョウ、ヒロハ
カツラなど、こちらも興味深い展示がなされていました。
 キュー王立植物園に出展されていた日本人画家による日本の植物画は、この展示の他、
練馬区にある牧野富太郎記念館にも展示されているそうです。

 

 上野公園の賑わいは、これらの美術館、博物館への入場のほかに、動物園は勿論、この
時季 11/10~19開催の「TOKYO数奇フェス」(好きフェス)も人を呼んでいたのでしょう。
 私たちは、すでに16時頃でしたから、何も見ずに素通り?して、不忍口にある「びわ湖
長浜KANNON HOUSE」に足を延ばして、時限展示の『聖観音立像』(平安時代後期)他を
拝観しました。

       TOKYO SUKI FES 2017 (寛永寺のイメージ)  
            
           (噴水広場にて 16時過ぎ 西向き撮影)

 

 あれこれ、俄かな詰め込み展覧は、人の多さも手伝って、かなり疲れてしまったようで
した。途中長めのお茶タイムも含めて、すでに日は暮れてラッシュ時になってしまいました。

 各人、少なからず余韻を抱いて三々五々となりました。 良い一日でした。

 

 写真は撮影できませんでしたので、北斎とジャポニスムなどのネット記事をご参照され、
その雰囲気を共有いただければ幸いです。

 

お伝えしたい雰囲気は出ていませんが、いくつかの絵が紹介されていましたので・・。

 

 

 

 

 

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大収穫祭 '17  (bon)

2017-11-13 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 今年の大収穫祭は、台風22号の直撃予報で急きょ日程変更を余儀なくされ、予定の3週
遅れの11月9~12日に "畑じまい"と合わせて実施することになりました。 急な日程変更で
参加メンバーの都合が合致せず、全員が揃うのは11/11(土)となり、"さみだれ集合"みた
いな やむなき状態となりました。

 例年よりもぐっと遅い収穫祭は、既に真っ赤なドウダンつつじなどの紅葉は終わって
いましたが、一面のカラマツは、きれいな黄色に衣替えしていて、われらが畑のシンボル
ツリーも青空に映えて、八ヶ岳をバックに美しく悠然と聳えていました。 K邸の庭の
モミジもシャクナゲのカンバスに美しい絵模様を描いていました。

 秋色に染まる 八ヶ岳                     シンボルツリー
  

 

 K邸 晩秋の庭              シャクナゲを飾る
  

         到着時の畑の姿(pookyさん視察?)
          

 日中の畑作業は、お天気が良く順調にはかどりましたが、それでも収穫と畑じまいの
両作業が重なったために、“おお忙し”の状態となりました。

 

 サトイモは霜にあって、枯れ果てていましたが、豊作でした。この秋口に根元に土盛り
をした成果?でしょうか、昨年のような“頭が青くなった子芋”は、さすがにできておら
ず形もよいのができていました。 大きな株はスコップで回りを掘っても、容易に抜けな
い程立派に育っていました。

サトイモ(霜で上部は枯れる)       サツマイモの葉は枯れる 

 
          サツマイモ(1株にこんなに・・)
          

 

 サツマイモは、植え付け時の天候に左右されるのか、根つきが悪かったと想定され、
大体半分ほどの成果でした。 こちらもサトイモ同様、霜にあって完全に枯れ果てていま
したが、成長した株は写真のように出来すぎの株もありました。  また、ゴボウは、
肥料袋に土を入れた“簡易プランター?”でしたが、十分に太い、ねじれたりしたゴボウ
が収穫できました。 柔らかくとても香りのよいゴボウでした。 黒豆も、昨年に比べて
品質、収量とも上出来のようでした。 みんなに分けて持ち帰りました。

おにぎりタイム               越冬するタマネギ、ニンニク 
 

 

 サトイモ、ゴボウ、ダイコン、白菜、ネギ、サツマイモ、サラダ菜、タマネギ、パセリ
などこの時季に収穫できた 自家製の野菜たちを食材に取り込んだ、芋煮、サラダ、鉄板
焼きなど、自然の恵みを堪能したのでした。

     芋煮と焼き肉パーティー(懐かしい高校時代のセーラー服姿サプライズ) 
          

 

 収穫祭のメインイベントは、例年、自然の真っただ中の畑で、芋煮会パーティーとして
いますが、今年は夕方の時刻に差し掛かるため寒くなりますので、K邸の室内での宴会風?
パーティーとなりました。 いつもの、庭でのファイアーストーム、懐かしい歌を合唱し
たりも、時間切れで中止としましたが、屋内の整った設備での宴会スタイルも、それは
それで落ち着いた雰囲気で大いに盛り上がるのでした。

     

 残念ながら、今回もアクシデントがありました。 9月末の「収穫祭準備」でmakさんが、
今回はpookyさんが、S中央病院のお世話になりました。pookyさんの場合は、初日でした
から収穫祭に参加できませんでした。

 傘寿を目前にしたメンバーの野良仕事三昧は、これまで元気印を自負しながらやって
きましたが、やはり何かとトラブルに見舞われ易くなってきているのかもしれません。

 

       みんな揃って(頑張った青年たち)
          

 

 マルチ、防草シートそれと黒豆の枝、サツマイモのつるなどの廃物は、今回は時間が
なくそのまま越冬することとなってしまいました。来年、雪が解けて、畑開きをする前に
これらの片づけをすることとしました。


 終盤でいろいろと変化の大きい「蓼科農園」でしたが、一年を振り返ってみると いろ
いろと楽しい想い出の集積が今年も皆さんの心に深く刻まれていることでしょう。
 どうぞ、良い年末を迎えられ、来年再び元気で勢ぞろいできる喜びを期待して今年の
幕とします。

 皆さん、ありがとうございました! 

 

 

 お楽しみオートスライドです。ご覧ください!(5分弱)





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お弁当  (bon)

2017-11-09 | 日々雑感、散策、旅行

 
 行楽地やハイキングのお弁当、学校時代のお弁当など、何か懐かしい感じがします。今も、
毎日お弁当のお世話になっている人たちも多いことでしょう。

 この「お弁当」が、なぜお弁当(おべんとう)というのか? そんな、どうでもよいよう
なテーマですが、お弁当の歴史をたどってみました。


 弁当(べんとう)とは、ウイキペディアに、『携帯できるようにした食糧のうち、食事に
相当するものである。 家庭で作る手作り弁当と、市販される商品としての弁当の2種に大別
される。 後者を「買い弁」ということがある。日本国外でも「Bento」として日本式の弁当
箱とともに普及し始めた。』とあり、今や世界に、その名を馳せているというのですね。

 『辨当、便当などとも書かれることも、まれにある。 「弁当」は、「好都合」「便利な
こと」を意味する中国南宋時代の俗語「便當」が語源ともされており、「便當」が日本に入り、
「便道」、「辨道」などの漢字も当てられた。 「辨(そな)えて用に當(あ)てる」こと
から「辨當(弁当)」の字が当てられ、「辨當箱」の意味として使われたと考えられる。』

 さらにネットを繰って行きますと、その起源なども解説されていました。
 弁当の起源は、平安時代あたりまで遡るようで、当時は「頓食(とんじき)」とよばれる
 おにぎり や、「干し飯(ほしいい)」という調理済みの乾燥米が携帯用の食料として利用
されていたようで、これは、時代劇、特に戦さものなどでも見ることがありますね。
 安土桃山時代には、漆器の弁当箱がつくられ、花見や茶会などの場でも食べられていたそう
です。

 江戸時代になると、天下泰平を反映して、旅行や観光巡りなどにいわゆる“腰弁当”などの
普及で 竹の皮におにぎりをつつんだり、竹籠に入れたり優雅なひとつの文化として発展して
行き、さらに能や歌舞伎の観覧で“幕間(まくあい)”に食べる「幕の内弁当」などもこの
ころにできたそうですが、今もそのまま人気弁当の一つとなっています。 都市部では、折詰
弁当専門店が現れたとあります。

        定番 幕の内弁当
         (ネット画像より)


 明治に入ると、弁当はさらに広範囲に発展するのです。今のように外食施設がそれほど発達
していなかったし、まして給食制度などもありませんでしたから、お役所や学校へはいわゆる
「腰弁」なる弁当持参だったのです。 

 このころ、鉄道駅で販売される「駅弁」が生まれたそうです。ネットには、『はっきりして
いないが、1885年(明治18年)に宇都宮駅で発売された、おにぎりと沢庵漬けを竹の皮に包ん
だ弁当が発祥とされている。 また、折詰に入った駅弁は、1890年(明治23年)に姫路駅で
まねき食品が発売したものが最初であるとの説がある』とありました。また、サンンドウイッ
チのような弁当もこのころ(明治31年)なのだそうです。

 その後、大正時代には、一時期、地方から都会への移住者が増え、所得格差が大きくなり、
学校での弁当にも貧富の差が現れ、この現象は子供たちに好ましくない影響を与えかねないと、
弁当廃止などの社会問題に発展することがあったそうですが、昭和に入ると弁当はまたまた
大きく発展するのです。
 アルマイトの弁当箱が開発され、何とも近代的で、洗ってまた使える便利さなど大きなイン
パクトとなったのです。折しも、冬場は学校にストーブが入り、このアルマイトの弁当箱を
ストーブで保温したりして、弁当が大いに普及するのです。弁当に関する料理本等も出版さ
れおかずも多彩になって行くのです。

 おにぎり
       
                         ( 共に ネット画像より)

 戦後(第2次世界大戦後)は、次第に給食に切り替える学校が増えてきました。私の経験で
は、大阪南区の小学校2年のときに、週に2度ほど「味噌汁」みたいな“おつゆ”が出るので、
そのためにその日には“お椀とお箸”を持参しました。それからしばらくして、毎日いわゆる
“給食”が始まったようでした。米軍の支援による給食では、強化ミルクとかスープみたいな
嫌な給食がありましたね。
 中学頃には、アルマイトの弁当箱で弁当を持参し、それこそストーブで温めたりすると、
誰かの弁当から“沢庵”の匂いが教室いっぱいに広がったようなこともあり、弁当箱のフタに
お茶を入れて飲んだり・・と懐かしい記憶がよみがえります。

 高校、大学などは、学校に食堂がありそれを利用することもありましたが、私はたいてい
弁当持参の組だったようです。大学の研究室時代、下宿している友人と2人同室でしたので、
自宅から持ってくる弁当は、ドカベンで、おかずは偶数にしてもらって、お昼にはその友人と
弁当を分け合って食べたことも懐かしい思い出となっています。 この当時、チキンラーメン
などが出回周り始めていました。

 現代は、駅弁にしても地方色豊かなお弁当があり、あの路線に行けば、あそこの駅弁を・・
というような、観光の一分野を構成するといった内容に発展するとともに、日常の弁当として、
街中で販売されるお弁当が普及し、ほっかほっか亭のお弁当が全盛を極めたり、最近では、
コンビニ弁当も多彩になって、おにぎりなどの種類も豊富になっているし、スーパーにもお弁
当コーナーができたり、お弁当市場が構成されているのですね。

 弁当箱の方も、ジャー式の保温弁当箱が開発され少々持ち運びには不便さはありますが、
根強い人気があるようです。


 屋外や移動先での食事を賄う必要性から生まれたお弁当は、時代とともに、容器、中身とも
大きく発展し、文化として、お楽しみとしてそれぞれのタイミングを豊かに満たしてゆく一つ
の大事な要素としての地位を得るまでになってきたのです。

 お弁当に、それぞれ、想い出があるのではないでしょうか。



  今日、これから蓼科農園の収穫祭に行ってきまぁ~す。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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立冬  (bon)

2017-11-07 | 日々雑感、散策、旅行

 
  今日(11/7)は、陽射しが暖かいですが、早や 立冬です。 カレンダーも2枚を残す
ばかりとなりました。

 列島は、トランプ大統領来日で、あわただしく、関係筋は半ば上の空みたいな、秒読み
と緊張の中での出来事のようでしたが、とにかく無事終わりました。


 古代中国(紀元前1000年ころ)では、日時計などから、「2至2分」は、早くから決め
られていたようです。つまり、最も日が短い冬(日短)と最も長い夏(日永)、それ
とそれらの中間の春(日中)、秋(宵中)です。
 そして、日が最も短い冬至を基準として年の始まりとしていたのが、戦国時代に入って、
冬至の翌々月、すなわち冬至と春分の中間を 年の始まり(正月)と決め立春ができ、1年
12か月を春夏秋冬に分けることとして、これが後々まで続いてゆくことになったのだそう
ですね。

                  二十四節気と立冬
          

  1~3月を春、4~6月を夏、7~9月を秋、10~12月を冬と定め、それぞれの始まりを立春、
立夏、立秋、立冬、つまり4立(しりゅう)
が設定されたのです。 このようにして二十四
節気が設定され、月の運行を基準とした暦が、実際の太陽との関連による季節のずれを補完
していたのですね。

 したがって、今日、立冬は昔でいう“冬の始まり”なんですね。ま、中国と日本では季節
も違うと思いますが、現実は、ちょうど今、秋真っ盛りという頃で紅葉の見頃が各地で伝え
られてくるでしょう。

 

 今年1年を振り返ってみますと、春(立春2/4~立夏5/5)、夏(立夏5/5~立秋8/7)、秋
(立秋8/7~立冬11/7)、冬(立冬11/7~立春2018.2/4)ということになります。 ここで、
今年の立春は旧暦の1月8日で、上で述べました正月(1月)にありますが、来年 2018年の
立春は旧歴では12月19日とあり、正月とはならず、“年内立春”ということになります。
(年内立春については、当ブログ2014.1.31「立春と冬至」をご参照ください。)

 さざんか つぼみ             さくら
  
      (2017.11.7  ベランダ でパチリとしました。下2枚も同じです。)

 

 先日、寒い日がありましたが、「木枯らし一番」だったそうですし、ベランダの山茶花の
つぼみは、いよいよ膨らんできています。そういえば、このところベランダにも赤とんぼが
遊びに来ていたり、さくらやドウダン、メグスリノ木などは、赤く色づいています。
  先週にまいたツタンカーメンエンドウ豆は、3㎝位芽が出てきました。風のないお昼時は、
ぽかぽかと暖かく ひと時、情報機器から離れて のどかな気分に浸ってしまいました。

 ツタンカーメン エンドウ         ムスカリ
  

 

 

 





 

 

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島村抱月  (bon)

2017-11-05 | 日々雑感、散策、旅行

        昨夜の日本シリーズは、見ごたえがありました。今日は、トランプ大統領来日で、
       関係者は緊張のなかにあることでしょう。 警備だけでも、2万人にい及ぶとか・・
       イベントがいろいろと組まれていて大変ですが、どうぞ何事もなく過ぎることを
       祈るばかりです。

 

 島村抱月・・そうです、あの松井須磨子との熱烈な恋物語が、その昔のドラマか何かで
見たのを、なぜか印象深く記憶しているのでした。 調べてみたら、どうも、1965.7.1に
放送されたNHKドラマ『風雪』シリーズの第63話目の『女優松井須磨子』でした。明治~
大正までの日本の様子を 1話完結型のドラマで、この時の配役は、島村抱月を下元勉、
須磨子役を原佐知子とありました。 あぁ、そうだったのか!と改めて思うのでした。

        島村抱月
         (ウイキペディアより)

 今日(11月5日)は、島村抱月の忌日でした。1871年(明治4年)~1918年(大正7年)で、
47歳の若さで他界した、劇作家、演出家、小説家で、新劇運動の先駆者とも言われています。

 実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となり、同裁判所検事・島村
文耕から学資の援助を受け上京し、20歳の時、島村文耕の養子となります。

 その後、現早稲田大学を卒業し、新聞社で仕事をしますが、早稲田の講師となり、海外
留学生としてイギリス、ドイツなどで学び 帰国後早稲田の教授、「早稲田文学」誌を刊行し
自然主義文学運動の旗手として活躍するのです。

 1906年(明治39年)には坪内逍遥とともに文芸協会を設立し、協会附属の演劇研究所に
おいて本格的に新劇運動をはじめるのです。 しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と
研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となり、抱月は文芸協会を辞めることに
なり、須磨子は研究所を退所処分となってしまいます。

        松井須磨子
         (ウイキペディアより)


 同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成します。1914年(大正3年)にトルストイ
の小説を基に抱月が脚色した『復活』の舞台が評判になり、各地で興行が行われ、須磨子が
歌う劇中歌『カチューシャの唄』はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になります。
 翌1915年(大正4年)にはツルゲーネフの『その前夜』を、2年後にはトルストイの『生け
る屍』を上演し、新劇の大衆化に貢献しました。これらも劇中歌の『ゴンドラノ唄』『さす
らいの唄』がヒットするほどの評判となったそうです。
「カチューシャの唄」のレコードは、蓄音機の普及が進んでいない時代にあって、2万枚の
売り上げを記録したとありました。

 しかしそれらの成功も束の間で、1918年(大正7年)、抱月はスペイン風邪に急性肺炎を
併発し急死しました。 須磨子は抱月の死後も芸術座の公演を続けましたが、やがて抱月の
後を追って自殺、芸術座も解散(1919年)になりました。(須磨子は、33歳でした。)

カチューシャの唄』は、1914年(大正3年)に短篇映画として、“日本キネトフォン”が
製作・配給し、浅草・日本座で公開され、好評を得たとあります。 ここで、キネトフォン
というのは、エジソンが発明したもので、サイレント映画に蓄音機を連動させたトーキー
映画で、日本で最初に上映されたそうです。なお、本格的なトーキー映画は、まだ10年後
なんですね。

 
あれやこれやで、「復活・カチューシャの唄」は、大変流行し、全国の高等女学校・中学
校・女子専門学校・高等学校の学生までにも及んだため、生徒たちに『復活』の観劇を禁じ
る学校が相ついだり、唄の方も歌唱の禁止令が出たりするほどだったそうです。

 

大正4年録音?

 

 

 

 

 

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文化の日  (bon)

2017-11-03 | 日々雑感、散策、旅行

 
 今日、11月3日は文化の日ですが、これは、昭和23年(1948年)に公布・施行された
祝日法で「文化の日」と定められたのです。その理由は、昭和21年(1946年)11月3日に
日本国憲法が公布された日であるから・・となっています。
(憲法の施行は、翌、昭和22年5月3日で、この日は「憲法記念日」とされています。)

 一方、11月3日は、明治天皇の誕生日(1852年)であり、すなわち「天長節」で休日と
なっていましたが、昭和天皇の即位(1927年)で、明治天皇の天長節は「明治節」として
復活します。(大正天皇の誕生日12月25日は大正天皇祭となる。)
 したがって、これにより、それまで祝日とされていた三大節(新年節、紀元節、天長
節)に明治節が追加され、四大節となったのです。
 天長節は、天皇の誕生日ですから、昭和天皇の天長節は4月29日ですね。

 そして、この明治節は、制定された1927年から1948年の休日法が制定されるまで、
すなわち 1947年(昭和22年)まで、休日として存続していたのです。 つまり、翌年
(昭和23年)からは 同じ休日ですが「文化の日」となったのです。

        (ネット画像より)

 ややこしいですね。 ウイキペディアに、このあたりの事項が次のように述べられて
いました。『文化の日は上記の経緯(訳注:明治節)と関係なく定められたということ
になっているが、当時の国会答弁や憲法制定スケジュールの変遷をみると、明治節に
憲法公布の日をあわせたとも考えられる』

 

 天皇が代われば、その誕生日である「天長節」は、当然 変わりますが、これは、
継承される天皇の誕生日に自動的にスライド(移行)するのではなく、その都度法律に
よって定められるのです。
 昭和天皇の誕生日(天長節)は、昭和23年の休日法制定時に、「天皇誕生日」と改めら、
今上天皇は、12月23日で、先の2017年(平成29年)6月16日に公布された天皇の退位等に
関する皇室典範特例法では、現皇太子殿下の誕生日2月23日が予定されているのですね。

 

 ちなみに、昭和天皇の誕生日(4月29日)は、平成元年(1989年)から平成18年
(2006年)まで、「みどりの日」として休日でしたが、先の祝日法制定時に、この日は、
「昭和の日」と改め、連休を継続させるため、5月4日を「みどりの日」とした・・とあり
ます。

 また、『祝日法は「祭日」の概念を採用しないため、歴代天皇の崩御日に相当する
神武天皇祭と先帝祭(施行当時は大正天皇祭)は、明治初期から続く休日であったにも
かかわらず廃止となった。』ともありました。

 

 カレンダーを見て、“あ、この日は祭日で・・”などは、正確には、“休日”であり、
それぞれの休日には、それなりの理屈と意味合いが込められているのだと改めて理解した
次第です。

 それにしても、今年もカレンダーはもう2枚を残すだけとなりました。

 

 

 

 

 

 

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自衛隊記念日  (bon)

2017-11-01 | 日々雑感、散策、旅行

 今日、11月1日は自衛隊記念日だそうです。

 1954年(昭和29年)の7月1日に「防衛庁設置法」「自衛隊法」が設置され、防衛庁、
自衛隊が発足したことを記念した日なのですが、台風や自然災害に伴う自衛隊の出動が
予想されるこの時期を避けて、今日の日が制定されたとありました。

 自衛隊記念日は、自衛隊の設置を記念して各種のイベントが行われており、3年に一度
「中央観閲式」が、埼玉県朝霞市の「陸上自衛隊朝霞訓練場」で開催されています。
 陸上自衛隊はその目的を「自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣(観閲官)の観閲を
受けることにより、隊員の使命の自覚及び士気の高揚を図るとともに、防衛力の主力を
展示し、自衛隊に対する国民の理解と信頼を深める」とあります。
 私も、この地近くに住んでいて、かって、観閲式を見たことがあります。空挺部隊、
戦車部隊、編隊飛行など大変な迫力でした。

 先の衆院選挙でも、憲法改正が一つの論点にもなっていて、その最大の論点が憲法9条で、
自衛隊の扱いをどうすべきかが話題となっていましたので、改めて自衛隊について、ちょっ
と振り返ってみたいと思いました。

 

 1950年6月朝鮮戦争が勃発し、在日米軍が朝鮮に出動し、7月には連合軍最高司令官マッ
カーサー元帥は、国内治安を確保するため警察力の補充として、警察予備隊の設置を指令し、
8月には7万5千人の警察予備隊(陸上自衛隊)が誕生したのです。

 次いで、1952年(昭和27年)には、防衛の統合官庁として保安庁が発足し、警察予備隊は
保安隊に発展し、海上警備体も保安庁の元に統合されました。そして、1954年(昭和29年)
に、冒頭にあるように「防衛2法」が成立し、7月1に施行されたのです。これにより、保安庁
は防衛庁となり、保安隊(陸上)と警備隊(海上)は、新設の航空を加えて陸・海・空の
3自衛隊(15万2千人)に進展したとあります。

         警察予備隊(1952年5月3日)
          (ウイキペディアより)


  自衛隊の任務は、防衛庁設置法第4条に「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つ
ことを目的」とあるそうです。

 先の記念日(2015.10.29)での安倍首相の祝辞では、『 自衛隊は、1954年7月1日に創設
されました。これは私が生まれた年でありました。自衛隊と私は共に同じ歳月を歩んできた
わけであり、毎年、自衛隊記念日は大変感慨深いものがあります。(中略) 自衛隊創設以来、
自衛隊員の諸君は荒波を恐れず、乱気流を乗り越え、泥まみれになってもなお、ただ一心に
そして黙々と、日本の平和を守り続けてきました。24時間365日、大きなリスクもいとわず、
任務を全うしてきました。今年行われた最新の世論調査では、自衛隊に良い印象を持っている
と回答した人の割合は、実に92.2%に上り、調査開始以来、最高の評価をいただきました。
これは、東日本大震災の後に行われ、過去最高であった前回の調査を更に上回るものでありま
す。
 自衛隊に対する国民の信頼は、文字通り揺るぎないものであり、自衛隊の最高指揮官と
して大変誇りに思う次第であります。海外に目を転じれば、冷戦終結後、延べ5万人の隊員が、
アジア、中東、アフリカ、中南米、太平洋、インド洋、文字通り世界中で国際平和協力のため
に、汗を流してきました。・・』

 

 確かに、台風、地震、水害などの自然災害や噴火などにも自衛隊の活動はいかにも頼りになっ
ていますし、海外でも国連平和維持活動(PKO)で大いに活動され成果が報じられているところで
す。 しかし、海外において、紛争地に派遣され後方支援などの役割を果たしていますが、紛争
地であるが故の 身の危険と隣り合わせであることもあり、攻撃を受けたときに反撃することが
出来ない、他国が戦っているときに、わが自衛隊は戦いに参加できない・・などの憲法上の壁が
あり、身を守る、国際社会との連携を図る上から“憲法改正”論がある一方、それを可能とすれ
ば、自衛隊が相手を攻撃することができる論拠を与えることとなり、日本が誇る“平和憲法”の
底が抜けてしまう。そんなことが昨今、大きな話題として存在しているのですね。

 先の国会で、大議論となった『南スーダン』の日報などもこれらの事実関係を明らかにすべく
応酬だったのかもしれません。 俄か仕立てのわが身などでは、とても、議論の端にも及ばない
ので、先の東京支部総会で講演された憲法学者の谷口真奈美氏の見解など、聞いてみたいところ
です。

 

 今年(2017年)の記念日の観閲式は、航空自衛隊が担当で、茨城県の航空自衛隊百里基地を
会場に10月29日(日)に開催される予定でしたが、台風22号の接近で悪天候のため中止となりました。

 主催者は小野寺防衛大臣、実施責任者は杉山航空幕僚長で、規模は人員が観閲地上部隊として
約860名、車両が約25両、航空機はヘリコプター、戦闘機、輸送機など約80機であったそうです。
観閲飛行に加え、ブルーインパルスの展示飛行、オスプレイの祝賀飛行などが予定されていた
そうです。

   

 11月1日は、“計量記念日”でもあります。また、今年の“十三夜”で、晴れていればきれい
なお月さまを眺めて見ましょう。


 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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