蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

本居宣長  (bon)

2015-09-30 | 日々雑感、散策、旅行

               大雪山、岩木山など今年“初冠雪”の便りが届く頃となりました。
                         あれほど続いた猛暑は、いまは懐かしくさえあります。
               株価は、2日間で1,000円以上下落するなど荒れ模様となっています。
               あのジェームスディーンが事故死(24才)して今日で60年だそうです。

 

 人物題が続きますが、本居宣長(1730-1801)は、9月29日(旧暦)が命日なのだそうです。
江戸中期の国学者で、今から、200年ちょっと前の人なんですね。 
本居宣長は、三重県松阪の木綿商の次男として生まれ、15歳の頃に商売の勉強のために江戸に行くが
1年で戻り、商売に適していないと、母に相談して医業を学び、地元・松坂で医師として40年以上にわたり
活動したとあります。 昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った
そうです。

         本居宣長
            (ウイキペディアより)

 

 我々の良く知る本居宣長は、何といっても「古事記伝」にみられる当時解読不能と言われた日本最古の
歴史書「古事記」を35年を費やして解読に成功したことであり、その成果はその後の国学の源流を形成した
ことです。 さらに、「源氏物語」の注解「源氏物語玉の小櫛」、を著すなど、言葉や日本古典を講義し、
源氏物語に見られる“もののあはれ” という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、
大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義として、外来的な儒教の教えは自然に背く考えであると
非難し、ために荻生徂徠を批判したとあります。 
また、法学においても特記される提言を行っており、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で
『定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。
たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし』とその
背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めています。

 本居宣長名言として、以下の3つが挙げられていました。

『かぎりを行うのが人の道にして、そのことの成ると成らざるとは人の力に及ばざるところぞ。』

『才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思いくずおれて、止ることなかれ。』

『人の情の感ずること、恋にまさるはなし。』

この最後の、明言は、まさしくそのことながら、彼から出た名言とはちょっと不思議なくらいです。 
まあ、彼は、“鈴”のコレクターで有名だとか、で、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所蔵していたり、
自宅を「鈴屋」という屋号をつけていたそうです。

         本居宣長記念館(三重県松阪)
            (ウイキペディアより)

 

 3大業績として、「古事記」研究、「源氏物語」研究、日本語研究が挙げられており、著書もたくさん
ありますが、実際的な政治や経済の具体策が書かれている 
日本式経済論:本居宣長『秘本玉くしげ』の章 として、“ ウエブサイト「日本式論」 管理人モト”に、掲載されていましたので、
その中から各節を列記し、最後の第十三節だけ転写しました。

 第一節    時世と先規

 惣體世の中の事はいかほとかしこくても、人の智恵工夫には及ひかたき所のあるものなれは、
たやすく新法を行ふへきにあらす  すへての事、たた時世のもやうにそむかす、先規の有来りたるかたを
守りて、これを治むれは、たとひ少少の弊は有ても、大なる失はなきもの也。何事も久しく馴来りたる事は、
少少あしき所ありても、世人の安んするもの也 

第二節 根本の道理
 根本の道理によりておこなふときは、まはり遠き如く、却て思ひの外に速に其験ありて、よく行はるる
事も有  或は當分はそのしるしみえされとも、つひにその験あらはれて、永久に行はれ、或は目に
見えてはしるしなきやうにても、目に見えぬ所に、大なる益ある事なともあるなり

 第三節 百姓の困窮
 近来百姓は、殊に困窮の甚しき者のみ多し。これに二つの故あり。一には、地頭へ上る年貢甚多きか故也。
二つには、世上一同の奢につれて、百姓もおのつから身分のおこりもつきたる故也  不便に思召て、
有来りたる定まりの年貢の上を、いささかもまさぬやうに、すこしにても百姓の辛苦のやすまるへきやうにと、
心かけ玉ふへき事、御大名の肝要なるへく、下下の役人たちまても、此心かけを第一として、忠義を思はは、
随分百姓をいたはるへき旨を、常常仰付らるへき御事にこそ  抑此事の起るを考るに、後にいつれも、
下の非はなくして、皆上の非なるより起れり

第四節 民と国と天下
 平民の身一分のうへにては、いかにも何わさをしてなりとも、金銀を得る事の多きか利なれとも、
上に立て民を治むる人の身にとりては、領内おしならして利益あることならては、損ある也   
天下と一國一國との差別あり。たとへは何にもせよ、世上に無益の奢のために用る物を多くつくり出す國
あらんに、これは天下のうへよりいへは損なれとも、其國にとりては損にあらす  天下と一國一國との
上にて、その趣のかはる事、外にも多し。さて又、交易のために商人もなくてはかなはぬものにて、
商人の多きほと、國のためにも、民間のためにも、自由はよきもの也。然れとも、惣して自由のよきは、
よきほと損あり。何事も自由よけれは、それたけ物入多く、不自由なれは物入はすくなし

第五節 貧富の動き
 富る者はいよいよますます富を重ねて、大かた世上の金銀財寳は、うこきゆるきに富商の手にあつまる
こと也  富める者、商の筋の諸事工面よき事は申すに及はす、金銀ゆたかなるによりて、何事につけても、
手行よろしくて、利を得る事のみなるゆゑに、いやとも金銀は次第にふゆる事なるを、貧しき者は、
何事もみなそのうらなれは、いよいよ貧しくなる道理也   惣して今の世は、大抵利を得る事は難くして、
損はしやすき時節なるゆゑに、富商は随分金銀をへらさぬ分別を第一として、慥なるかたにつく故に、
まつは減する事はすくなくて、とにかくにふゆる方おほき也。さてそれも少し不廻なる方に趣くときは、
又万事みな右のうらへまはる故に、鉅万の金銀も消やすき事も、又春の雪の如し

 第六節 財産の配分

 世上の金銀財寳は、とかく平等には行わたりかたきものにて、片ゆきのするは、古今のつねにて、
ほとよく融通するやうにはなりかたき事也  上に立て治め玉ふ人の御はからひを以て、いかにもして、
甚富る者の手にあつまるところの金銀を、よきほとに散して、専ら貧民を救ひ玉ふやうにあらまほしき
もの也  但しその散しやうは、その者の歸服して、心から出すやうにあらては、おもしろからす。
いかほと多く蓄へ持たれはとても、これみな、上より玉はりたるにもあらす、人の物を盗めるにもあらす、
法度に背きたる事をして、得たるにもあらす、皆これ、面面の先祖、又は己か働きにて得たる金銀なれは、
一銭といへとも、しひてこれを取へき道理はなし  とにかくに、しひてこれを召んことは、心よからす、
又其金銀を他の事に用ひんも、心よからす、ひたすら貧民を救はまほしきこと也。上より民を救ひ玉ふ
御仁政の専行はれて、貧民其御めくみを有かたく存し奉る様子を見は、仰付られす共、おのつから富人は、
救ひの志出来へきこと也。さてもし志ありて、貧人を救ふ者あらんには、そのほとほとに厚くこれを賞美
したまはは、いよいよ相はけみて救ふ者多かるべし  貧民を救ひて賞せられんは、世の中の人の甚悦ふ事
なれは、そねみにくむ者はなくして、これをうらやむもののみ多かるへし。此所をよく考へて、
富人の金銀を散して、貧民を賑はすへき仕方はあるへき事也 

第七節 人間の分限
 人は何事も、その身の分限相應にするかよき也。分限に過て奢るかわろき事は、申すに及はす、
又あまり降して輕くするも、正道にはあらす。大名は大名相應に、御身を持玉ふよし  倹約を心かくれは、
おのつから悋嗇きかたに流れやすきものにて、必すすへき事をも、止てせす、人にとらすへきものをも
惜みてとらさす、甚しき者は、人のものをさへ、奪はまほしく思ふやうの心にもなりやすし。然に此所を
よく心得て倹素にして、しかも悋嗇に流れぬやうには、ありにくきもの物也  殊に上にたつ人なと、
此のわきまへなくして、悋嗇なるときは、下の潤ひかわきて、甚よろしからす。されは倹約も實には
宜しき事のあらす。とかく上中下、各身分相應にくらすかよき也  ものはかきり有て、のほりきはまる
時は又おのつから降ることなれは、いつそは又、本へかへる時節も有へきに、されと此世上の奢りなとの、
左様に自然と質素の方へかへるといふことは、まつは何そ變なる事なとのなくては、かへりかたきこと
なれは、その變の有て、自然とかへるを、安閑として待居るへきにもあらす   
されは、上にたつ人は、
随分なるへきたけは工夫をめくらして、自他奢の長せさるやうに、少しつつにても、質素の方へかへるやうに、
はからひ玉ふへき也。すこしつつにても、質素の方にかへりて長することなけれは、起るへき變事も
おこらすして、長久に無事なるへし

第八節 実体経済と資本経済
 商人なから、物の交易をもせす、たた金銀のうへのみを以て世を渡る者も、おひたたしく、富人は別して
これによりて、ますます富を重ぬること甚し  惣して、金銀のやり引しけく多き故に、世上の人の心、
みなこれにうつりて、士農工商、ことことく己か本業をはおこたりて、たた近道に手早く、金銀を得る事に
のみ、目をかくるならひとなれり  世に、少しにても金銀の取引にて利を得る事あれは、それたけ、
作業をおこたる故、世上の損也。いはんや業をはなさすして、たた金銀の上のみにて世を渡る者は、
みな遊民にて、遊民の多きは、國の大損なれは、おのつから世上困窮の基となれり 

第九節 国政の対策
 天下のため、國のために害なる事、世に多し。其中に、實は大に害あれとも、害と見えさる事もあり。
又ここにはあれとも、かしこに害あることあり   又當分はあるやうなれとも、後日に大害となること
あり。これら皆、人の惑ふこと也。國政をとらん人、つねに心を付らるへし  たたつねつね、善事は
そのかたのくつれぬやうに、止ぬやうにはからひ、惡き事は少少つつも消するやうに、長せぬやうにと、
心かけ、さて又新規に始めんとする事は、よくよく考へて、人人の料簡をもきき、他國の例なとをも聞合せ、
諸人の歸服するかせぬかをよく勘へて、行ふへし  さしつまりてやむことを得さるときは御家中の禄を、
年を限りて減じ給ふより外の上策はなし。これ、當然のあたりまへ也   
なるへきたけは、此事は
なくてあらまほしきものなれとも、上の御身分につきたる御物入ともをも、なるへきたけ省略減少せられ、
はしはしくまくままて、御手をつめられて、このうへやむことを得ぬときは、此法より外に、作略は
有ましきこと也 

第十節 意見
 大小の事、何によらすよき料簡あらは、たとひ輕き人なりとも、少しも憚ることなく、申出るやうに、
有たきもの也  とかく御政務につきては、御前へ出たる人、あまりに憚り恐れす何事もうちくつろきては
料簡を申上るやうにし、輕き役人をも近く召れて、心やすく何事をも申上るやうに、あらまほしきもの也

第十一節 賄賂
 すへて世中に此筋盛んなるゆゑに、おのつから國政正しくは行はれかたく、又上に損失ある事おひたた
しく、下にも損害甚多し  國政の大害、下民の大害、此賄に過たるはなし   そもそも賄はつかふ者
にはとかなくして、罪は取者にある事なれ共、取者をのみ制しては、止かたけれは、つかふ者をいましむる
も、一つの權道なるへきにや 

第十二節 時代
 諸事をいかやうにつめてなりとも、物入の少なきやうにして、是非とも御収納にて何事も事足るやうに
相はたらかんそ、肝要なるへき   時代のうつるにつきては、世中のもやう、人の氣質なともうつりかはる
ものなれは、昔の法のままにては今は宜しからさる事もあるへけれは、其時代時代の世中のもやう、
人の氣分なとをよく辨へて、昔の法をもこれに引當て考ふへき也 

第十三節 『秘本玉くしげ』考 (この節は原文のままとしました。)
 本居宣長の『秘本玉くしげ』には、経済についての方策が示されています。
宣長は、安易に新しいことに手を出すことを戒め、時世に沿って先人の規範を守り、道理に適うように
急がば回れと説いています。効果が表れなくても、最後に表れたり、見えないところに表れたりすることが
指摘されています。

 百姓の困窮については、年貢の多さと贅沢が原因として挙げられています。年貢を増やさないようにする
のが上の役目であり、下には非はないというのです。

 利益については、個人経済と国家経済と世界経済には、差異があることが認識されています。
 交易には商人が必要であり、自由が広がります。ただし、自由すぎることによって不自由になることも
あると指摘されています。便利だと出費が多く、不便だと出費が少ないということもあるからです。

 富については、富が富を次々と産み出すことが語られています。金銀は流通して、富裕層へ集まると
いうのです。しかし、良くない方に傾くと逆へ働くため、巨万の富も雪のように消えやすくなることも
あるというのです。

 世間の財産は平等ではないため、為政者が富裕層の財産を分配し、貧困層を救うべきことが説かれて
います。それには、富裕層の納得のいく方法でなければならないとされています。

 分限については、人間は身分相応にするのがよく、地位に応じた振る舞いが求められています。
上に立つ者がケチであるとき、下の者が潤わないので宜しくないと考えられています。

 物事の限りについては、上がりきれば自然に下がって本来の形に戻ると考えられています。しかし、
世間の贅沢などは変化がないと戻らないため、上に立つ者は自他共に贅沢にならず質素になるように
計るべきだというのです

 商人が実体経済に関わらず、資本経済で利益を上げることが多くなれば、世間の人は本業をおろそか
にし、自然と世の中は困窮していくと指摘されています。

 世の中の害については見えないこともあり、利益に害が付随することもあるため、短期的な害だけでなく、
長期的な害も含めて為政者は注意すべきだと説かれています。

 新しいことについては、考慮して他人の意見を尊重し、他国の事例を参照して、皆が納得するかしないか
を考えて行うべきだと説かれています。

 緊急事態には、あらゆる支出を抑えて、それでもやむを得ないときには給与を下げるしかないとされて
います。

 政治の意見については、良い考えがあれば、身分に依らず申し出るような環境が良いとされています。
 賄賂については、盛んなほど国政が正しく行われず、上も下も損害が激しいとされています。
賄賂を止める方法として、贈る者も受け取る者も罪に問うことが挙げられています。

 宣長は、いろいろと工夫して、収入に見合った生活が肝心だと述べています。そのためには、その時代に
合わせて昔のやり方を当てはめて考えるべきことが説かれています。

 

  

 

 

East of Eden エデンの東   画面の右下をクリックしてください。

 

 

 

 

 

 

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中秋の名月  (bon)

2015-09-28 | 花鳥風月

 旧暦での秋は、7,8,9月で、その真ん中、8月15日が中秋で、その日のお月様を“十五夜”の月として、
親しまれてきました。
 月齢では、13.8歳とありますから、満月にはもうちょっとなんですね。
今日、28日が満月なんです。

 中秋の名月(27日午後7時頃)                アップしてみました
    

 

 月々に月見る月は大けれど月見る月はこの月の月(詠み人知らず) 
ベランダで、ひとしきり眺めた後、和菓子屋で買った“月見だんご”を楽しみながら、手振れを気に
しながら撮った写真を評したりしました。
 今日の満月も、晴れのようですからもう一度楽しめますね。

  昨日、午後あたりからお天気が回復してきましたので、ベランダを見回して、被写体になるような
ものをパチリとしてみました。ヒガンバナは、残念ながらもう終わり近くなっていてショボクレテいました。
 ありきたりのものばかりですが・・並べてみます。

  レモンです。(テニスボールくらいのが4つ出来ていました。)
       

 

 百日草に偶然止まったジャノメタテハチョウ   タマスダレ
    

 

 キンモクセイ第2弾             季節外れのクチナシ
    


  
「行あきや手をひろげたる栗のいが」(芭蕉)

 

 

 

 

 

 

 

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後醍醐天皇  (bon)

2015-09-26 | 日々雑感、散策、旅行

               明日9月27日(日)は、旧暦8月15日で、中秋の名月であり、その翌日28日は、満月で、
                      2日連日お月見が出来るわけで、お天気の方も気圧配置が気を利かせて、両日とも晴れの
                      予報となりました。 お月見などは如何でしょうか?

 さて、突然、後醍醐天皇ですが、時は1333年、鎌倉幕府を倒し、それまでの武家中心の社会を
天皇中心の社会に戻したいわゆる 建武の中興 は、ちょうど、明治維新によって江戸幕府から実権を
取り戻し明治政府を樹立した明治天皇にとって意義深いものであり、明治以降、建武の中興に関った
人々を祀る神社がその縁地などに作られたそうです。
 後醍醐天皇は1339年に崩御され、南朝を立てた奈良県吉野に、吉水神社としてお祀りされていましたが、
明治25年(1892年)、明治天皇によって吉野宮が創建され、現在は吉野神宮として、4月には春の大祭として
「建武中興記念祭」、9月27日には 秋の大祭として「後醍醐天皇崩御日」の行事が執り行われるのです。

           後醍醐天皇
             (ウイキペディアより)

 

 明日27日に執り行われる吉野神宮の大祭に因んで、後醍醐天皇について、ウイキペディア、吉野神宮HP、
歴史年表などにより少し調べてみることにしました。

 冒頭にも、書きましたが、後醍醐天皇は 建武の中興(新政)で有名ですが、鎌倉時代
(1185~1333)
の末頃、1324年の「正中の変」、1331年の「元弘の変」の2度にわたる天皇の討幕計画は失敗に帰し、
天皇は隠岐に流されてしまいますが、諸国の反幕勢力が結集して、とうとう1333年に鎌倉幕府を倒した
のです。 天皇は京都に帰り、天皇親政の下に種々の新政を行うのですが、その改革があまりに性急で
あったこと、皇室と旧勢力中心の復古主義で政府内に対立が起こり、また論功行賞の失敗などから
政治運営につまづき、建武の中興は僅か2年半で倒壊してしまうのでした。
 足利尊氏らが、京都に北朝を開き、後醍醐天皇は吉野に南朝を立て、南北朝の対立となり全国的に
大きな動乱時代となるのです。 天皇側の楠正成、新田義貞らと足利尊氏と戦った「湊川の戦い」(1336年)
については、当ブログ“楠公祭”(2014.5.27)にアップしています。

 南北朝時代は、約60年続いて、1392年ようやく南北が合一されて室町時代へと歴史は進んで行くのです。

 いつの世も、権力を求めての争いは、その形は違え、世界中どこも同じ構造を繰り返しているのですね。
そして、その根源には、権欲、財欲に対する人間の本質があり、時代の流れと共に手段、構図は変わって
いますが、つまるところは同じで、如何に租税を確保するかなんですね。 ごく最近の政治の世界でも、
政権奪還騒動で混乱をきたしましたが、ちょうど、建武の中興を成し遂げた時代背景の読みは正しかったが、
それを樹立したあかつきの新政の焦りの禍と、新組織体の基盤の脆弱さなどから長期政権は望めないのでした。

 今や、盤石の基盤を誇る政権は、留まるところを知らないほどの勢いで新政が繰り広げられていますが、
急ぐあまり消化不良とならないことを願うばかりです。

 

 ついでといえば、お叱りを受けますが、建武中興十五社というのがあり、建武中興に尽力した
南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社が、明治天皇の命によって作られているのです。

            吉野神宮
             (ウイキペディアより)


 一例として、吉野神宮(後醍醐天皇:奈良県吉野)、鎌倉宮(護良親王:神奈川県鎌倉)、
湊川神社(楠正成:兵庫県神戸)、阿倍野神社(北畠親房、顕家:大阪市阿倍野)、藤島神社
(新田義貞:福井県福井)、四条畷神社(楠正行:大阪府四条畷)などがあります。

 

 

 

 

 

 

 

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羽咋相撲祭  (bon)

2015-09-24 | 日々雑感、散策、旅行

 正しくは、唐戸山神事相撲・・は、毎年9月25日に行われるのですが、その前日24日、25日とこの地域、
秋を飾る最大のお祭りとして、これまで2千年の歴史を有しているといいます。
 明日25日当日には、夕方5:30頃から“稽古取り”“協賛相撲”が行われ、20:00頃から神事相撲が
執り行われます。 土俵の四方に篝火を焚き、力士の土俵入り、相撲甚句、神事太鼓が披露された後、
前弓・中弓・奥弓と取り組みが進められるのです。

 唐戸山(からとやま)というのは、地名で、JR羽咋駅に近く、山といっても平地がすり鉢状に掘られて
いて、その真ん中の低いところに土俵が作られているのです。

            明治の頃の神事相撲
             (羽咋市HPより)
 

 石川県HPから拾い読みしますと、「伝承によれば、羽咋神社の祭神である第11代垂仁(すいにん)天皇の
皇子の命日に、北陸各地から力士が集まり、相撲により神霊を慰めたことが始まりであると伝えられている。 
 唐戸山相撲場の、窪地の土俵は円形で四本柱はない。 当日は、羽咋神社で奉額祭及び神社相撲祭、
立行司に白木の軍配を授ける任命式が行われる。その後、相撲場において、稽古取りと協賛相撲が
行われた後、神事相撲が執り行われる。  神事相撲は、土俵の四方に篝火を焚き、力士の土俵入り、
相撲甚句、神事太鼓が披露された後、前弓・中弓・奥弓と取り組みが進められる。

  力士は、東・西ではなく、越中と加賀の方面を「上山(かみやま)」、能登方面を「下山(しもやま)」と
2つに分けられて、『水なし塩なし待ったなし』で2番勝負の相撲を取り、最後まで残った上山と下山の
各1名の力士が慣習により大関となる。取組が終わった後、両大関は他の力士の組む肩車の馬に乗って、
相撲場から約1キロメートルの参道を走り、羽咋神社の拝殿に駆け込む。大関となったものは、翌年の
相撲に額を奉納し、親方となるのが通例となっている。」 とあります。

           両大関
            (石川県HPより)
 

 羽咋というのは、JR金沢から特急で30分の能登半島の丁度付け根あたりに位置していて、その昔、
男女同時開催のゴルフ“ミズノオープン”が行われた「朱鷺の台カントリークラブ」があり、当時、
楽しみに観戦した想い出があります。 そして、海岸沿いの砂浜の水際まで車で走ることが出来る
千里浜なぎさドライブウエーがあり、もう、30年も前になりますが、日本訪問のドイツババリア地方の
要人ご一行14名を、わざわざ金沢にお招きした時、彼ら地方は海から離れていることから、この千里浜
なぎさドライブに誘い、途中砂浜で下車した時は大変不思議がられ、また喜ばれたのでした。

         千里浜(夏の海水浴風景)
            (羽咋市HPより)
 

 そんな想い出もある地方のお祭りですが、相撲といえば、今、国技館では、大相撲秋場所11日目が終り、
石川県(七尾市)出身の人気力士 遠藤 は、5-6と黒星先行で苦戦しています。先輩力士には、
出島、輪島らがいましたね。

 

 

 

 

 

 

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宮澤賢治  (bon)

2015-09-22 | 日々雑感、散策、旅行

  有名な宮澤賢治ですから、どなたも良くご存じのことと思います。
学校でも“アメニモマケズ・・”で習いましたし、「風の又三郎」などの良く知られた小説もありますが、
私は、ご本人については、あまり知らなかったのです。あまり・・というよりは、殆ど知らないのでした。
それで、昨日9月21日が、命日でもあるということから、この機会に少し調べてみました。

 宮澤賢治は、1896年(明治29年)- 1933年(昭和8年9月21日)で、わずか37歳という短い生涯
なんですね。 詩人、童話作家という肩書ですが、裕福な家庭に育ちながら、農民の苦しい環境との対比で
物事を見、また自然(地質、天文、物理・・)などにも科学的造詣が深い理系的素養の強い人である半面、
哲学、心象など文系にも秀でた人のように思います。

           (ネットより)

 


 イーハトーブなど独特の造語をたくさん作ったり、理想郷など想像の世界観と現実との対比という
視点を重視されているとともに、表現手法に、オノマトペが多用されている・・そんな、プラネタリウムに
映し出される人のような感じもしました。

 この機会に、彼の作品のサワリを見てみたいと思います。

・アメニモマケズ

  雨ニモマケズ  風ニモマケズ  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ  慾ハナク  決シテ瞋ラズ  イツモシズカニワラッテイル   一日ニ玄米四合ト  味噌ト少シノ野菜ヲタベ  アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ   ヨクミキキシワカリ  ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ   小サナ萱ブキノ小屋ニイテ  東ニ病気ノコドモアレバ  行ッテ看病シテヤリ   西ニツカレタ母アレバ  行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ  南ニ死ニソウナ人アレバ  行ッテコワガラナクテモイイトイイ  北ニケンカヤソショウガアレバ  ツマラナイカラヤメロトイイ  ヒデリノトキハナミダヲナガシ  サムサノナツハオロオロアルキ  ミンナニデクノボートヨバレ  ホメラレモセズ  クニモサレズ  ソウイウモノニ  ワタシハナリタイ

 

・銀河鉄道の夜  六、銀河ステーションから(部分)

  ・・・
 そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、 しばらく
螢(ホタル)のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。
 それはだんだんはっきりして、とうとう、りんとうごかないようになり、濃い鋼青(コウセイ)のそらの
野原にたちました。いま新しく灼(ヤ)いたばかりの青い鋼(ハガネ)の板のような、そらの野原 に、
まっ すぐにすきっと立ったのです。
 するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云う声がしたかと思うと、
いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の螢烏賊(ホタルイカ)の火を一ぺんに化石させて、
そら中に沈めたという工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと
獲(ト)れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒(マ)いた
という風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは思わず何べんも眼を擦ってしまいました。
 気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけて
いたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ
車室に、
窓から外を見ながら座(スワ)っていたのです。車室の中は、青い天鵞絨を張った
腰掛けが、
まるでがら明きで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮(シンチュウ)の大きなぼたんが
二つ
光っているのでした。
 すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ている
のに気が付きました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、
そう思うと、もうどうしても誰だかわかりたくってたまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を
出そうとしたとき、俄かにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。
 それはカムパネルラだったのです。ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からこゝに居たの、
と云おうと思ったとき、カムパネルラが、「みんなはね、ずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。
ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」と云いました。・・・

 

 ・風の又三郎  九月四日から(部分)

  ・・・
 「今朝ほんとに天気好がったのにな。」「うん。又好ぐなるさ。あ、雨漏(モ)って来たな。」 
一郎の兄さんが出て行きました。天井(テンジョウ)がガサガサガサガサ云います。おじいさんが笑いながら
それを見上げました。
  兄さんが又はいって来ました。 「おじいさん。明るぐなった。雨ぁ霽(ハ)れだ。」 「うんうん、
そうが。さあみんなよっく火にあだれ、おら又草刈るがらな。」
 霧がふっと切れました。陽(ヒ)の光がさっと流れて入りました。その太陽は、少し西の方に寄って
かゝり、幾片(イクキレ)かの蝋(ロウ)のような霧が、逃げおくれて仕方なしに光りました。
 草からは雫がきらきら落ち、総(スベ)ての葉も茎も花も、今年の終りの陽(ヒ)の光を吸っています。 
はるかな西の碧(アオ)い野原は、今泣きやんだようにまぶしく笑い、向うの栗の木は青い後光(ゴコウ)を
放(ハナ)ちました。
  みんなはもう疲れて一郎をさきに野原をおりました。湧水(ワキミズ)のところで三郎はやっぱりだまって、
きっと口を結んだまゝみんなに別れじぶんだけお父さんの小屋の方へ帰って行きました。
  帰りながら嘉助が云いました。「あいづやっぱり風の神だぞ。風の神の子っ子だぞ。あそごさ二人して
巣食ってるんだぞ。」 「そだなぃよ。」一郎が高く云いました。
 

                 (ウイキペディアより)

 
 こんなエピソードもあるのですね。(ウイキペディアより)

 ・ 賢治は熱心な音楽好きであり、暇を見つけてはレコードを買っていた。賢治が頻繁にレコードを
買っていくため、地方の店の割に新譜レコードが多く売れるとして、行きつけの楽器店がイギリスに
本社を置くポリドール・レコードから感謝状を贈られたという。
蓄音機の竹針を炒め、音質を高める針を発明したこともある。 米国ビクター社にサンプルを送り、
製品化には至らなかったものの、その発想は高く評価された。

 

 宮澤賢治作詞作曲の 
 





 

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近場の話題  (bon)

2015-09-20 | 日々雑感、散策、旅行

 秋らしく、一昨日は園芸友の会例会、昨日は、混声合唱定期演奏会に、どちらも近場の文化?に
出向いてきました。

 園芸友の会例会では、今回は、会員報告として「二十四節気」にまつわる話題を、私から、
“二十四節気など”のテーマで、二十四節気の成り立ちから、太陽と月の関係、月の役割、潮汐と農業などに
ついて話題提供しました。 また幹事からは“二十四節気と花”について、文化的な切り口で俳句との
関連などにも触れられ、それに因んだお菓子(銀座あけぼの謹製)が配られ、二十四節気それぞれに
季節の花と俳句の紹介がありました。古代ローマに話題が飛んだり、宇宙のなぞなどにも移りましたが、
遥か昔の中国で生まれた節気、中気の漢語、例えば、春分、夏至、冬至、白露などなど、難しい部類には、
啓蟄、穀雨、などがあり、現在では本来の目的であった農耕との関連はあまりないかも知れないですが、
季節感などにそれなりの存在があり馴染んでいるのでは・・などの感想がありました。

 二十四節花(にじゅうしせつはな)     花と俳句例(いずれも銀座あけぼのHPより)
          

 講師先生からは、秋の草花、野菜などの作業注意点などのお話や、先生自作のチューリップ、
アイリスなど球根の“おもしろ栽培”について、実践されたいくつかが紹介され、園芸における遊び心に
話題が移りました。
 また、フィレンツエのウフィツィ美術館のボッチチェリーの「プリマヴェーラ(春)」のB4コピーが
配られ、そこには40種の春の花が描かれており、時のメディチ家の婚礼を祝福するものであるが、
後に多くの研究者によって、絵画の意味や花の種類などが研究されてきて、ようやく500年も過ぎた、
1940年代になって、植物学者がこの大作に描かれた植物のリストを作成し、さらに1982年に
洗浄され、明るく鮮やかになった画面を精査してようやく40種の植物の識別がなされたとのことなど
壮大なロマンが語れました。

         ボッチチェリー作「プリマヴェーラ(春)」
             

 

 この日、近くの日比谷公園では、“オクトーバ・フェスタ”の事前興業としてのイベントが行われて
いましたが、生憎ちょうど雨上がりでしたので、人影がなく噴水とベンチが寂しい感じでした。

          雨上がりのオクトーバ・フェスタ
              
 

 松本楼                   はにわ(日比谷公園内)
    

 
 昨日は、やや暑さが戻った良いお天気でした。会社同期のWさんが、退職後所属している板混
(板橋区混声合唱団)の定期演奏会に行きました。 我々同期の連中が何人か来ていましたが、
区民大ホールは満席の盛況で、ひとときコーラスの美しい調べに引き込まれました。 第2ステージでは、
“花”をテーマにした馴染のある曲を数曲披露され、 休憩の後には、“みんなで歌おう”タイムで、
「花は咲く」を客席みんなで合唱しました。
 第3ステージは、ケニアに在住した経験のあるアメリカの作曲家による「MISSA KENYA」はすばらしい
演奏でした。 ピアノ、ホルン、パーカッションという珍しい編成で、アフリカのリズムと宗教的な
旋律の技法が見事に融合した 一風変わったミサ曲でした。パーカッション、ホルン、ピアノと合唱の
盛り上がり部分は感動的でした。

 板混定期演奏会               第3ステージ「ミサ・ケニア」
   

 演奏終了後、来ていた同期連中は揃って飲み会に出かけましたが、私は友人を誘って行きましたので、
同期には失礼して別途お茶することとしました。

 

 2日にわたり、どちらも身近な文化行事に触れましたが、平和な対象に対して、人と共有する場、
時間は楽しく、そしてその後には充実した感動の反芻があるのですね。

  ライヴの迫力には及びませんが、u-tubeから・・

 

 

 

 

 

 

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キンモクセイ’15  (bon)

2015-09-18 | 花鳥風月

 2、3日前から、ベランダ 一面に良い香りを漂わせて、今年も小さな黄色い花をいっぱいつけていました。 
ちょっと早いのでは・・? と思って、昨年のブログを確認しましたら、確かに早く、昨年は、
9月27日ですから、10日も早い計算になります。 そういえば、サギソウも早かったし、ヤマボウシの
赤い実が出来たのも昨年は、ちょうど今頃(18日)ですから、やはり10日ほど・・。 
今年、暑かったせいですね。

 香りに誘われて、小さな花を拡大してみました。 写真は、いずれも9月16日に撮影しました。

キンモクセイ(アップ)           全体の姿・・

    


 こんなに良い香りなのに、多くの虫たちを寄せ付けず、ハナアブのなかの一部の種類だけが喜んで
この木を訪れるのだとか・・とネットにありましたが、もったいないですね。
良い香りといえば、初夏の柑橘類の香りもなかなか甲乙つけがたいですね。 季節が違っていて、
比較が難しいですが、 強いて言えば、柑橘類のそれは、もう少し甘く、若い 晴れやかな感じのようで、
キンモクセイのは、その香りがやや深みを帯びてしっとりと 齢を重ねた感じに思えますがいかがでしょうか?

  久しぶりに、トンボが来ました。都会の、ここは6階のベランダですが、じっと止まっていましたので、
無断でパチリトしました。 近寄ると、逃げるので少し離れたところから望遠で・・しかし、手振れがなく
きれいに撮れました。 フト気が付くと、シジミチョウが一羽ひらひらと飛んでいました。一円玉くらいの
小さいグレーがかったチョウですが、なかなか止まらないのであきらめていましたら、目の前で止まった
のです。これもパチリトしましたが、あまりにも小さいために、自動ピント機能が働かなかったのか、
ぼやけた影が映っただけでした。

 トンボ                 シジミチョウ
   

 

そして、季節を間違えて?いるのがありました。 八重のクチナシです。 今年、6月12日のブログに、
この花が咲いたことを記事アップしていますから、今年2度目の花になります。 一つだけではありません。
2つ目の花ですが、まだ蕾がたくさんあるので、どうしたことか、全く季節を間違えているのですね。
花の大きさも、大差ありませんから、自然界にもこんなことがあるのですね。

 クチナシ               咲き続けるルリフタモジ(おまけ)
    

 太陽を受けていると、まだ暑いですが、何とも秋の訪れを感じ、ほのぼのとする午後でした。 
豪雨などで被災された方々を思うとき、まだまだそんな気になるどころか、大変な毎日を過ごされて
いるのに・・申し訳けありません。 参院特別委員会でも混乱が続いていました。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ぶどう  (bon)

2015-09-16 | 日々雑感、散策、旅行

 子供の頃には、堅下ぶどう(デラウエア)かキャンベルそして滅多に口には出来なかったマスカット
くらいだったような記憶があるブドウの品種は、最近では、それこそたくさんの品種が店先に並べられて
います。 品種改良が進み、糖度高く、粒大きく形良し、収量豊富な品種が次々と出現しているのですね。

 少し前になりますが、友人から思いがけずズッシリと重いぶどうが、山梨から宅配されてきました。 
箱を開けると、巨大な房の、500円玉くらいあるかと思うような大きな粒の立派なぶどうでした。
1.4㎏ありました。 しおりには、“藤稔”とありました。 巨峰などの上を行く高級品種か?などと
思いながら美味しくいただきました。

                 ブドウいろいろ
                        (ネット画像)
 

 今になって、この藤稔をちょっとネット調べしてみました。なんと!ウイキペディアに
藤稔(ふじみのり)は、神奈川県藤沢市で生成されたブドウである。 父種は『ピオーネ』、
母種は『井川682』である。 藤沢市の長後地区にすむ青木一直が、『人々に喜ばれる葡萄』をテーマに
苦難の末開発した。 当時、青木果樹園では『井川682』を栽培していたが、大粒で栽培が容易で実りやすい
長所がある一方、肉質が良くなく貯蔵性も良くないという短所があった。 また、『ピオーネ』は
旨みがあり貯蔵性も良く、肉質や品質が良好という長所がある一方、栽培が難しく実りにくい短所があった。
青木は両品種を交配し、藤稔を誕生させた。1985年に品種登録された。」
とありました。確かに、 粒は大きく、巨峰よりも糖度が高く、味も良好でした。

                       藤稔
                         (ウイキペディアより)
 

 開発は、神奈川県のようですが、現在の栽培は山梨県42%、兵庫県9%、神奈川県6%などの順と
なっているようです。この品種は、栽培しやすい利点があり農家
にも人気があるとのことですが、
欠点として、実落ち(枝から実が離れる)しやす
く、長距離の輸送に向かないという難点があるそうです。

 なるほどそのような種類のぶどうでしたか! と振り返りながら、さらにネットで、ブドウの種類は
いったいどのくらいあるのか? 見てみましたら、アッと驚くくらいありました。
大きくは、ヨーロッパブドウとアメリカぶどうそして雑種に分けられるようですね。ヨーロッパブドウ45種、
アメリカブドウ7~11種、雑種61種。 そして、ワイン用と生食用(含む乾ぶどう)という分け方に。

 名を知っている種類を元の表からピックアップしてみました。 はっきりとは分かりませんが、
ワインの種類は、その名前から大体そうではないかと自分勝手に分類しています。ワインのぶどうは、
それだけ原種に近いのかもしれないなどと・・。

     (ウイキペディアより変形) 

 

  この表で、3倍体、4倍体とありますが、生物の染色体の数が、基本染色体の整数倍となっている
個体をいいます。動物では、一般に、両親からそれぞれ1セットのゲノムを受け取り2セットのゲノムを持つ
2倍体です。 しかし、植物の場合は、自然状態でもn倍体のものが存在する上、人工的に性質向上のため
3倍体、4倍体の個体を作っているのです。 偶数倍体では実や種が多くなり、奇数倍体では逆に少なくなる
という性質があるそうです。一般に偶数倍数体は基本倍体の個体よりも大きく育つ傾向にあるそうです。
種なしスイカなどは、2倍体と4倍体を掛け合わせて作った3倍体だそうです。4倍体の代表にジャガイモが
あるそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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乃木希典  (bon)

2015-09-14 | 日々雑感、散策、旅行

良くご存知の、あの日露戦争の乃木大将です。

 旅順攻撃で多数の戦死者を出したこと、西南戦争の時、敵に軍旗を奪われたことなどを悔やみ、
大正元年(1912年)のこの日(昨日9月13日)午後8時頃、静子夫人と共に自決されたのでした。
この日は、明治天皇の大葬が行われた日でした。  満62歳だったそうです。

 乃木将軍が日露戦争から凱旋した1906年新橋駅では、他の諸将とは異なり大歓迎ムードであったそうです。
難攻不落の旅順要塞の攻略、二人の子息を戦死させたことなどから歓迎ムードは一段と高まったそうですが、
それに反して、本人は旅順攻撃における多数の将兵を戦死させた自責の念から、「戦死して骨となって
帰国したい」、「日本へ帰りたくない」、「蓑でも笠でもかぶって帰りたい、」などといい、
凱旋した後には各方面で催された歓迎会への招待もすべて断ったとそうです。 明治天皇に日露戦争の
復命を奏上した時も、旅順での多量戦死者を出したことを詫び、自刀を申し出るも、天皇から
「~今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」との趣旨の
発言があったことからこの日を選んだのかもしれません。

        乃木希典大将
           (ウイキペディアより)

 

 世界的にも賞賛されている「水師営の会見」では、敵将ステッセルへの配慮を重んじた紳士的会見に
その人柄を見ることが出来るのです。 ステッセルらロシア軍人の武人としての名誉を重んじ、会見写真は
一枚しか撮影させず、「敵将(ステッセリ)に失礼ではないか。 後々まで恥を残すような写真を撮らせる
ことは日本の武士道が許さぬ」と優遇したとあります。 現、ロシアの傍若無人ぶりを、この事実を見て
改めてもらいたいですね。 乃木将軍は多くの兵士からも慕われていたそうで、また教育者でもあり、
明治天皇は後の天皇(昭和天皇)が通うことになる学習院の院長に彼を任命したとありました。
近衛文麿(総理大臣)などの師でもあったそうです。

 大義のために、ただひたすらに行動し、多くの人から人望を得、献身的とも思える偉人は、現代において
当てはめると誰が想像できるでしょうか。 明治維新で活躍した志士たちもそうであったようですが、
自己の財産のためや身の保全のためが最優先される今日の為政者を思うとき、時代が違うといえばそれまで
ですが、あまりの落差に愕然とするのです。

 このような人(乃木)も、若いころは遊興におぼれ、30歳あたりからドイツ留学するまでの約10年ほどは、
放蕩三昧で自宅に帰ることも少なく、夫人との祝言の時も遅れてくる始末であったそうです。
そんな将軍が、留学から帰国後は、蕎麦をご馳走とするほどの質素倹約の人となり、人望を集めた
魅力の人となられたのでしょう。 忠孝・質素・仁愛の志が厚く教育者としてもすぐれた人物として
評されているのですね。

9月13日は、赤坂の乃木神社では、しめやかに墓前祭が行われました。

           乃木神社
             (ウイキペディアより)

 


 

 

 

 

 

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今、ウイスキー  (bon)

2015-09-12 | 日々雑感、散策、旅行

                         雨の後は、地震!
                                    東京湾が震源地の地震で目が覚めました。
                         調布が震度5だそうです。私んちは、震度3でした。

 

 もう、20数年も前に、新しい会社の立ち上げ時期からご一緒に苦労を重ねた、富士ゼロックス㈱から
出向してこられた 若林成明氏(通称 若さん)から、このほどご自身の近況などを交えた、ウイスキーに
まつわるエッセイが届けられました。(原題は、ウイスキー・中国・神楽坂) 
 神楽坂界隈にも、これまで何度かご一緒させていただきましたが、当時のワインから さらに進化?され、
今回は、ウイスキーを中心に、氏の想い出とともに面白く語られていましたので、お許しを得て掲載させて
いただきました。

 

**********************************

 

 ウイスキー・中国・神楽坂   (若林成明 2015.9.9)

 

 7月27日の上海株式市場暴落以来、中国関連ニュースで朝が明けます。 
世界の株価が余震で揺さぶられ、事故なのかテロなのか未だ原因不明の天津化学品貯蔵所大爆発、
蒋介石の国民党との日中戦争だったのに、共産党が抗日戦勝利したかのような70周年パレードをぶち上げ…
などなど。 周近平の重点施策は海洋進出、一帯一路などに代表される外向き領土・経済圏拡張路線。
 一方、内向き施策としてはエロ、テロ、ワイロ
撲滅3ロ線が顕著です。地方都市での典型的共産党幹部
癒着構造の温床である売春徹底摘発、テロ対策を口実にウイグル自治区、チベット等で共産党独裁批判勢力
(少数民族)の弾圧、共産党内部にはびこる癒着構造のなかで“ハエも虎もたたいて!”なんと5万人...
これは体制の病理現象でなく生理現象なので果てしなく続くと・・いう説もあります。

  そんな中、8月29日早朝のNHK BSニュースになんとも景気の良い話が出現! 
昨年はNHKが竹鶴正孝とリタをモデルにしたマッサンがウイスキーブームを盛り上げ、さらに、2004年頃から
英国WWA最高賞受賞、蒸留酒の世界的品評会(ISC)などでニッカ、サントリーが受賞歴をつみあげ 
今や世界の5大ウイスキーのひとつとしてブームを加速してきました。

オーシャン*1軽井沢蒸留所1960年の希少ウイスキー

         香港のオークションで1本1,422万円落札の新記録!
                       

 

 しかし、まさか一本1,400万円超の国産ウイスキーが香港のオークションで落札されるとは夢にも思って
いなかっただけに目の覚めるニュースでした。 国内よりも海外から国産希少ウイスキーが投機対象として
注目を浴びているようです。 上海株価暴落、低迷の真っただ中なのにアジアの投機筋には全く関係ない
ようです。 落札者は東南アジアの人ということ以外明らかにされていませんが、おそらく爆買い系の国の
人のような気がします。 いまやワインより希少ウイスキーは投資として大きな妙味があるようです。
2008年からの6年間でスコッチ・トップ100銘柄はなんと平均440%(年率28.1%)の値上りでした。

 
実は、その軽井沢1960年を飲んだことがあるかも…!?

 振り返ると2003年(平成15年)11月、ボージョレイ・ヌーボーの解禁日、京橋の出版社の友人から
“ボージョレイおごるから京橋メルシャン*2に集合”とのお誘い…指定時間に合流し会場の各局TVクルーが
撮影しているなかで乾杯( Santé)。 そのあとメルシャン鈴木社長が会場をあいさつに巡回 “今日は
うちの酒なんでも飲んでいってください”と実に剛毅なお言葉に感激! 友人がおごってくれるというのは、
バーチャル・プレス関係者ということでメルシャンの無礼講にあずかることだったのでした。
2003年といえばメッツから日本に戻った 新庄が翌年北海道に移転する日本ハムに入団、ボージョレイも
100年に一度の出来というふれこみの年でした。 

 しかし! メルシャンはあのオーパスワン(OPUS ONE)を生んだナパのロバートモンダビ
(Robert Mondavi)のインポーターだと気づき、カリフォルニアワイン捜索に転進、会場内を物色していると…
奥まった薄暗いテーブルにワインではなくひっそりとウイスキーのデキャンタ・ボトルを発見! 
メルシャンといえばワインというステレオタイプしかなかった私には謎のウイスキーに想定外の遭遇でした。

 ボトルの前に、手書きと思しきラベルがあり“軽井沢蒸留所xxxx年”と書いてあったと思います。
古い熟成もので飲んだことがあるのは免税のバランタイン17年物という私にとっては、とにかくとんでも
ない長期熟成ウイスキーをなんとメルシャンが・・とびっくりしました。

                     

 とにかくまずは試飲だと、ただカウボーイ・スタイルで一気飲みしました。 直後、ガツーンと別次元の
テイストに引き込まれました! 芳醇ながら力強いインパクトある未知の感覚の味でした…そして一瞬、
秋の軽井沢の森の中を歩いているような香りにつつまれました。(笑)

スーパーニッカのボトリングを六本木工場で経験

 その時ふと思い出したのが、1969年(昭和44年)3月の春休み、首都圏大雪の中、毛利庭園の通称ニッカ池の
かたわらの木造ボトリング工場(現六本木ヒルズ毛利庭園、赤穂浪士討ち入りの翌年、全員本懐を遂げた
屋敷として知られる毛利甲斐守邸)でのバイトのことです。雪積る余市ではなく、一面雪景色の六本木です。
スーパーニッカとしてブレンドされ、仕上がったウイスキーの色合い、ボトリング工程そのものをつぶさに
見た経験があるので、軽井沢の樽で超長期に熟成したウイスキーの深い色合いと香り、そして味わいの違いは
かなり強烈でした。

                

 

 シェリー樽と浅間山系の水にこだわり熟成された命の水の濃い琥珀色を見つめていると 全く別の次元の
ウイスキーの世界に吸い込まれました。 スーパーニッカは竹鶴正孝が愛妻リタ亡きあと翌年哀悼を込め
1962年(昭和37年)息子とともに作った渾身の一滴という…ほとんどシングルモルトに近いブレンドの
ウイスキーだったそうです。 その年、ゼロックス914発売、王の一本足打法で活躍が話題、大卒初任給
17,000円の時、一本3,000円(現在価値4万円)は超高級ウイスキーでした。
 結局、メルシャンでいただいた軽井沢はグラス2杯(約50cc)でオークション価格(700cc=1400万)に
換算するとなんと100万円! その後、某出版社の高校時代の同期の友人は2年後帰らぬ人になってしまい
ました。あのバーチャルなおごりが100万円相当だと思うと実に12年後記憶の樽で熟成された今になって
思い出深いものになりました。

      

古いばかりがおいしいウイスキーではないようです。

 スコッチでアイラ島のシングルモルト・ウイスキーは愛好家垂涎の的で聖地ともいえる生産地の一つです。
世界的有名な老舗ボウモア社(Bowmore)のシングルモルトのBlack Bowmore1964年は限定販売で愛好家でも
手の届かない長期熟成の銘酒です。友人が逝った年の2005年(平成17年) 125年ぶりにアイラ島に
新進気鋭の蒸留所が誕生。キルホーマン蒸留所(KilchomanDistillery)です。 新しいものの方が
“うまい”という信念のもと作られているウイスキーです。 スコッチ・ウイスキーと名乗るのは3年の
熟成が条件なのに 2年熟成でNew Spiritsという名前でデビュー! 若い熟成のものでも長期熟成に
劣らないテイストが愛好家の好みにミートし新規市場参入に成功しました。 数年という短い樽熟成の
モルトは色合いが透明に近くあの長期熟成の琥珀色にはなりません。でもウイスキー独特の発芽を止める
乾燥に用いられるビートからのスモーキーな香り、樽から熟成の時移るフルーテイ・フレーバーなどで
かもし出された味はシングルモルト・ファンに新しい世界を提供しました。
 シェリー・カスクのキルホーマンを近所のバーで試飲しました。若いながらもシェリー樽特有のピンク
がかった色合いとフルーテイな香りがたち、なかなかすてきな飲み心地でした。
 

秩父の新人イチローズ・モルトも健闘!

v2004年(平成16年)秩父山地にかこまれ、地域のほとんどが国立公園、県立自然公園という埼玉県秩父市の
モルトウイスキー蒸留所が頑張っています。 前身の羽生蒸留所のモルトをイチローズ・モルト・
カード・シリーズとして売出しました。 英国で日本ウイスキー部門の金賞をとり希少ウイスキーとして
人気を高めています。 すでに海外から注目され今回の香港(Bonhams)のオークションではシリーズの
54本セットが5,700万円(@105万円)で落札されています。ミズナラの樽のフレーバーがなんとも特徴的な
おいしいウイスキーだと思います。しかしすでに投機筋の買い占めのためか市場で入手困難になりつつ
あります。品質を落とさず、値段も手の届くレベルのウイスキーとして市場に戻ってくることを期待しています。

                      


裏神楽坂のシングルモルトを軸にしたバーで勉強中

 大江戸線牛込神楽坂の駅から3分牛込北町の交差点近くに“STOCK”という実に目立たないバーで
勉強しています。 経歴もルックスも川越達也シェフ似の沢村さんという元フレンチの料理人から転身した
オーナー・バーテンダーのお店です。 美術出版関係の某社長から頂いたワイナート別冊ウイスキー
基本ブックで秩父のイチローモルトの存在を知っていました。初めて飲んだのはこの店でした。
札幌薄野で生まれ、育った私としては自然とニッカファンと言わざるを得ません。 母の高等女学校の
同級生が竹鶴さんの養女でした。もちろんビールはサッポロ黒ラベル。もっぱら余市のシングルモルトなどを
ハイボールで飲んでいますが、時々イチローやハイランドウイスキーなどを沢村さんにすすめられ
ウイスキーの飲み手として勉強しています。サンフランシスコ近郊に住むITバブルの友達は、ワインは卒業、
ウイスキーに関心が高まり スントリー(Suntoryの英語読み(笑)白州25年のリクエストが私に来ます。

 

神楽坂にはお酒の先生が身近にたくさんいます。

 神楽坂で20年間飲んでいて楽しいと思うことの一つは、お酒の勉強ができることです。
スナックといわれるママ一人のカウンターのバーで6-7年前から、ニッカのシングル・モルト・
ボトルキープが焼酎を圧倒してきました。 しかし最近は原酒枯渇し、しかも値段が一気に高騰して逆に
ウイスキー離れがおきないか気になります。

 千代田区飯田橋にフランス学校(リセ・フランコ・ジャポネ)があったことや日仏学院
(Institue Francais)があることで仏人住人が数多く住んでいます。自然と仏人経営のフランス料理店も
増えてきて、ワインやチーズの楽しみ方が自然とできます。

 あのお酒大好き勘三郎さんは、神楽坂大好きでいきつけのお店で一緒になることもありました。
袋町のCABANEのオーナー・エリックは輸入ワインのベテランセールス。ルバイヤートは勝沼の120年の
歴史を誇る甲州ワインの品質を国際級に高めたワイナリーの東京店で大村兄弟には大変勉強させていただき、
サンフランシスコ周辺でのワイナリーや愛好家との会話のネタをたくさんいただいています。
アカデミー・ド・バン(Academy de vin)の仏人先生なども良くお店で同席します。
日本のカルヴァドス協会の大使でChampaign のPerrier 社アドバイザーのフィリップさんなどは気楽に
新製品をごちそうしてくれたりしますのでついファンになってしまいます。もちろん神楽坂には桝本酒店の
灘の銘酒、伊勢神宮御領酒の白鷹も楽しめます。
神楽坂で日欧米のワイン、ウイスキーを飲みましょう! ”乾杯“

            

*1 大黒葡萄酒がオーシャンと改名、のちにメルシャンと合併。2011年閉鎖、メルシャンはキリン
グループに吸収。1960年蒸留の軽井沢は皇太子・雅子様ご成婚時(1993)に限定発売。その後英国企業が
閉鎖後の残った樽を持っていた秩父の会社から買収し2013年41本限定で200万・本で発売。

*2 メルシャン(株)味の素鈴木家次男鈴木忠治が昭和9年合成酒製造会社として創業。昭和24年
三楽酒造に名称変更。昭和36年勝沼日清醸造(株)ブランドメルシャン買収、大黒葡萄酒(株)の
ウイスキー醸造所(オーシャン)も買収し総合洋酒メーカーに転身。90年社名をメルシャン(株)
に変更し。2006年キリンビール傘下企業となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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歌謡コンサート  (bon)

2015-09-10 | 日々雑感、散策、旅行

 一昨日、久し振りに東京国際フォーラム(有楽町)のAホールに行ってきました。
チケットをもらったので“布施明、夏川りみジョイントコンサート”に行ったのでした。歌謡番組は
好きなので、
普段テレビなどで時々出演するお2人ですが、広い(5,012席)ホールで、しっかりした
音響のライブは やはり迫力が違います。 席は、後方で良い席ではありませんでしたが、ステージが
始まると舞台がクローズアップする感じで十分堪能しました。

         

 

                                        (パンフより)


 昨年は、森山良子で、そういえば毎年出かけていて、美川憲一、中村美津子などそのクラスの演歌を
聞きに行っているのでした。

 小さい頃からラジオから流れる“流行歌”は好きな方でした。年頃には、ポピュラー、映画音楽、
ジャズ、ラテン、タンゴ、シャンソンなど音楽ジャンルを絞らず受け入れている方でした。 
クラシックも大好きで、シンフォニーコンサートには割と出かけたりしていました。 
当時、ラジオ少年の名残で“ハイファイ・コンポ”と呼ばれる時代に、自作の音響機器で、“レコード”が
中心でした。 レコードの中には、歌謡関連は1枚もありませんでした。

 自作アンプといえば、最終出力段(真空管)を“2A3”のプッシュプル、ラックスの出力トランス、
ダイナミックスピーカ・・など、オタクだったようです。 音楽を楽しむ一方で“音”を聴いていたのかも
しれません。

 孫たちは、この夏、“関ジャニ∞”のライブコンサートに早くから予約し、北陸新幹線で長野まで
聴きに行きましたから、好きともなれば、距離も暑さも厭わないのですね。

 

 そんなことで、ライブステージは撮れませんので、u-tubeから聞きなれた歌を・・・。
布施7曲、夏川6曲の中にも入っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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蓼科農園9月合宿  (bon)

2015-09-08 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 このところずっと雨続きの不安定なお天気が続く中、9月5日~7日の短い合宿は、雨を避け
ほぼ毎月の畑の手入れ、草刈り、収穫などを行いました。

 例年この時期は、“かぼちゃ祭り”として、カボチャの収穫が目玉の作業となっていましたが、
今年、どうしたことか かぼちゃが不作で、とても“祭り”とは呼べないため、“9月合宿”などと、
平板なネーミングとなりました。

 雑草にかこまれて ・・            先ずは草刈
  


 秋景色                  コスモスと吾亦紅
  



 
 しかし、今年のエポックとしては、横浜から“MACの会”主宰の H氏他2名(計3名)のゲストを
お迎えする楽しみがありました。 K邸パティオでのシュラスコ、BBQとファイアーストームなど
盛りだくさんの 非日常的イベントを計画していましたが、生憎の雨、それも午後2時前の縄文の湯での
待ち合わせ時には、音を立てる豪雨となり、予定の 畑でのイモ堀(ジャガイモ)などの体験どころか、
初対面挨拶もそこそこに、車の中に避難するような形で、畑でのプロローグがとれないまま、
予定が
まるで外れて、いきなり“河童の湯”へ直行となりました。

  結局、今回の9月合宿では、到着日の午後3時間、翌日午前中3時間余りの計6時間強しか作業が出来
ませんでした。 それでも、雨が来ないうちに・・と追われるような気持ちで、せっせと手早く作業を進め、
ジャガイモの収穫、除草、回りの草刈りなど一通りの作業は完了しました。

 かぼちゃは不作でしたが、今年初めての“そうめんかぼちゃ”は、10数個出来ていたり、スイカが
ごろごろと、小玉スイカ大のがたくさん出来ていました。 前回8月時点では、実もまだ白っぽく
若すぎましたが、あれから1か月、実も赤く、それなりに甘味もあっておいしくいただきました。 
動物は良く知っていて、いくつものスイカを喰いちらし、中には皮だけを残してきれいに食べていました。

 スイカ
  


じゃがいも、なす、パプリカ、大根、とうがらし、万願寺などを収穫し、一部は今夜の食材となりました。

 ゲスト晩餐は、雨天のため室内BBQとなりましたが、シュラスコは、縁先のBBQコンロで焼いたりした
室内・外のコンビネーションスタイルの夕食では、出会い時の豪雨インパクトの余韻とアルコールの
勢いが相乗して、話題は急速に発展し、初対面とは思えぬ打ち解けたムードは、いつしかホスト、
ゲストを忘れ、内在した若いエネルギーが噴出した双方の主張は、折り合うことを知らず門限まで
続くのでした。

 テーブルを囲んで            翌朝 K邸でのお別れ
  

 翌朝も、今にも降りそうなお天気は、デッキでの開放的な朝食は能わず、昨夜のややぎこちなさが
残るも、なごやかな雰囲気の中 お腹を満たし、ご一行はK邸を後にして、畑に寄り帰路に着かれました。 
あまりにも短かく、そしてインパクトに満ちた蓼科浪漫は、昇華されるにつれて、深い良い想い出として
いつまでも残ることでしょう。


 あっという間に過ぎた、今回の合宿は、それでも予定作業の8割近くは進捗したと言い聞かせて
いますが、八ヶ岳の勇姿が一度も顔を出さなかったのは残念でした。

         9月合宿で、きれいになりました。
           


 今年も、このあと収穫祭準備、収穫祭本番、畑じまいを残すばかりとなりました。周囲の田圃には、
黄色くなった稲穂が実りを付けはじめ、次回には一面黄金色の世界が広がることでしょう。

 

 お楽しみ、オートスライドをご覧ください。(約5分強)

 

 

 

 

 

 

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1年は12か月  (bon)

2015-09-03 | 日々雑感、散策、旅行

 当たり前のことですが、どうして12ヶ月なんでしょう?

以前このブログ(2014.10.19月の満ち欠け)でも、少し触れたことがありましたが、“月”が絡んでいる
のですね。

 古代、紀元前の話で、天体・・月を観察したことから始まっているようで、月の満ち欠け(29.53日)を
基準として、季節が一巡する間にこの満ち欠けが12回繰り返すことが分かった。
そのことから、1年=12.37回(月の満ち欠けが12回ある)・・12か月となったのですね。

 しかし、それよりさらに昔・・紀元前8世紀頃は、1年を10か月としていたようです。10か月とは、
人間の妊娠期間をベースとしたというのですが、これでは、季節とのズレが激しく 人々からのクレームが
絶えなかったそうです。そこで、自然現象と合わせた、12か月が採用されたのでした。 もともと、
1年を10か月としていた頃は、今の3月が1番目の月として、4番目までを、ギリシャ・ローマ神話の
神様の名を当て、5番目以降は、数字を当てていたのです。(ロヌムス歴) で、12か月とするために、
太陽の一番短い(これから太陽=昼が伸びる)冬至のあたりを最初の月(1月)として2ヶ月付け足したのです。

 その後、天文関係にも大変造詣が深かったジュリアス・シーザが暦を制定した(ユリウス暦)のですが、
この時(BC45)シーザはエジプト遠征に勝利したことを讃えて、番号月の最初(5番目)の月を自身の
名前Julius(ユリウス)と命名しました。そして、時のローマ皇帝アウグストゥスは、自身の名を
誕生月である6番目に当てました。 この月は、もともと30日だったのですが、シーザより1日少ないことを
嫌って、1日追加して31日としました。この1日の調整を2月から持ってきたそうです。
もともと3月が1番目でしたから、後で追加したふた月の後、つまり2月がいちばん最後ということで
調整月なんですね。 現在でも、閏の調整は2月でなされていますね。このあたりの変遷を含めて
表にまとめてみました。よくわかりますね。 ユリウス暦では、折角、各月を交互に31日と30日に
整理したのに、アウグストゥスのために、7~8月は31日が続くことになってしまいました。 


   1年の月名の変遷
     

   
表にも注釈していますが、後で2ヶ月追加したために、もともとの番号月(7番目の月~10番目の月)が
2つずつズレてしまいましたが、呼び方はそのまま、9月をSept. 10月をOct.  11月をNob.
12月をDec.としてしまっているのです。本来は、Sept. Oct.  Nob.  Dec.は、7,8,9,10を意味する
のですね。

 ついでですが、12進法の12という数字は、大変便利な優れた数字だというのです。1と自分以外の約数は、
2,3,4,6の4つあり(合計6つ)、さらに、4も6も約数を持つ。これに反して、10進数は、
1と自分以外の約数は、2と5しかなく、2で割ることはよくあるが、
5で割ることは少ない。 
この12進法は、歴史ものなんですね。 
さらに、古代エジプトでは、1以下の数字を60進法で表していたそうです。
1時間=60分、1分=60秒など・・。

 

 

  

 

 

 

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曇天続き  (bon)

2015-09-01 | 花鳥風月

というか、小雨交じりの寒い日が続いています。 今日から9月に入りました。

 連日、肌寒い小雨の日が続き、草花や、畑の作業が全くできず気分も晴れない毎日となっています。
調べてみましたら、この8月、東京の気候は、出だしから前半は、35℃以上の猛暑日が続き 各地で
熱中症患者が出て、
テレビでも毎回のように熱中症予防の注意が報じられていました。 それが、
8月16日から太陽が出たのは2日間だけで、
他は曇りか小雨で、8月25日以降とうもの、手のひらを返した?
ように、気温も急激に下がり、最高気温は22~3℃で、
最低は17~21℃。
今日から9月ですが、3日まで雨の予報、太陽が出るのは5日と報じられていて、しばらくは秋晴れは
望めないようです。 例年ですと9月に入っても、暑い日が続いて、朝夕に涼しい秋の入り口を感じるのに・・
どうしたことでしょう。

 ついでに、東京の過去30年のお天気出現率というのを見ますと、8月25日~31日の、晴れの日40~73%、
曇りは10~30%、雨は16~40%とありますから、殆どの日が曇りか雨だというのは、やはり異常なのかも
しれません。

 そんな中、昨日午後には、小雨も小休止しましたので、ベランダに出てみましたら、レインリリーは
揃って花が咲いていましたし、ヤマボウシは早やオレンジ色の実を付けていました。

レインリリー             ヤマボウシのオレンジ色の実
  


 サギソウは、手近かな出窓ですから、ちょこちょこと観察していましたので、この間の様子を並べて
みました。

 サギソウ地際               開花直前
  

 

 小雨に濡れて・・             2ショット
              


 また、百日草は、やはり太陽の光を受けた花の色に勝るものは無く、くすんだような色づきでも、律儀に咲いているのでした。

             百日草
               


 良いことといえば、ベランダの花たちへの水遣りが省略できることです。毎朝の日課が助かるのですね。
しかし、草引きとか、落葉や落ち花などが、濡れたりして見苦しくなり、やはり、たまに降る雨は歓迎
ですが、続くのはどうも・・。
そろそろ、秋植えの準備や、畑の土作りなどの作業が待っていますので、いいかげんにお天気になって
ほしいものですね。
 何やら愚痴っぽくなってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

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