蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

妙高山  (bon)

2013-07-30 | 日々雑感、散策、旅行

 夏のイベントの一つ、三究会(夏山行き)も終わりました。

 毎年一つずつ年を重ねて今年、28回目となりました。
今まであまり気にも留めていませんでしたが、参加者12名の年齢構成が、50,60,70,80才代と
4代にわたっていることを再確認しました。 最高齢は、なんと88歳(米寿)のお元気先輩です。

 今回は、初めて登山計画はなく、妙高山(越後富士)中腹の散策ということでしたが、
山頂にガスがかかって、きれいなその姿は雲の中でした。 ゴンドラの山頂駅1215mは冷んやりとしていました。
 妙高、赤倉スキー場の長いゲレンデを“斜滑降”よろしく、ななめ下りを1時間余り、芝生のじゅうたんを下りました。 
急な下りの連続でしたから、これでも脚にグッと来て、まぁ、まぁの手応え(脚応え)を感じたのでした。

 麓の“いもり池”には、一面水連が咲き誇り“水連まつり”最中でした。 
  一面水連の花が咲くいもり池          いもり池から霧中の妙高山(越後富士)
   

1泊目は、茅葺の大きな民宿で、もっぱら冬のスキー客が中心のようですが、快適でした。
途中、ブルーベリー園で、摘み取りなどに興じたりもしました。
 茅葺民宿内部                        ブルーベリー園
   

 2日目は、“信州、渋温泉”佐久間象山ゆかりの温泉宿で、さすが老舗の温泉街中心に位置した宿は、
三究会の意とする一つ“お湯を究める”にまさしく相応しいところでした。宴会、談笑は延々と深夜まで続くのでした。
   象山露天風呂にて・・
      (映倫

 

 28回目の今回は、頂上を目指す登山計画がなく、やや緊張感に欠け厚味が少ない分、グループの
コミュニケーション機会が多く、アルコールも手伝って、各自のこれまで知らなかった一面を伺うことが出来たり、
各々の人生観なども聞くことができ新しい発見がありそれなりの充実感のうちに、また来年を約束して
わらじを脱ぐこととなりました。


 帰宅すると、ベランダでは“グラジオラス”が色鮮やかに咲いていました。
  グラジオラス                     ことし3回目に咲くバラ 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

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コスモス   (bon)

2013-07-26 | 花鳥風月

 一面に咲き乱れるあのコスモスですが、先だって種を買ってプランターに蒔いてみました。
これまでも、“変わりコスモス”とかのふれこみで、花びらが筒状になったようなコスモスを蒔いてみたことがありましたが、
どうも途中で倒れたりしてうまく花が咲きませんでした。
蓼科の畑に乱舞する色とりどりのコスモスの種を蒔いたときもうまく行きませんでした。

 ありふれた花ですが、もう一度チャレンジ(というほどのことではありませんが)して、蒔いた種が、
今はそれなりの花が咲いてきました。取りたてて言うことでもありませんが・・、
まぁ、余興の一つに入れてもらえるかも・・。

  ベランダのコスモス
      
 上のコスモスの画像 Ctrl+クリックすると山口百恵の秋桜が聞けます。(mak)


 ウイキペディアによれば、原産地はメキシコの高原地帯だそうで、18世紀末にスペインマドリードの植物園に送られ、
コスモス(cosmos)と名づけられた。
日本には明治20年頃に渡来したと言われる。秋の季語としても用いられる。とありました。

 

 焼けつくようなベランダには、グラジオラスが咲いています。白の花をアップしてみました。オレンジや赤はまだ蕾が硬く、しばらくかかるようです。

 グラジオラス
       

 

 蓼科用に ポット播きした“バジル”です。 7月初めの“七夕まつり”では、蓼科の畑のバジルがまだもうちょっと・・という感じでしたので、帰宅後7月10日にポット播き(10個ぐらい)したのですが、腰水にしようと思って、発砲スチロールの箱に、ポットを並べておいたところ、何日か前の豪雨(めったに降らない)の時に、この箱が水浸しとなり、おそらく種が根付くかどうかの時だったので、流れてしまったようです。写真は、無残に残ったポットの今の状況です。これっぽっちじゃしょうがないな、でも、今からじゃ間に合わないし・・2週間でこれですから。 まあ仕方なく、次回8月初めにはこれでも持参するしかない・・と諦めています。

 バジル
      

 

 明日から、“三究会”の夏山です。 
山といっても、今年は高原を散策して、温泉を楽しむ・・らくらくコースのようです。
今年、28回目といいますから、全員28歳積み重なっていますので、相応な計画になったのでしょう。
楽しんできまぁ~す。

 

 

 

 

 

 

 

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暑気払い   (bon)

2013-07-25 | 日々雑感、散策、旅行

 昨夜は、昔の職場の仲間との恒例になりました夏の“飲み会”でした。

既に40年近くも経った、当時たまたま同じ職場で過ごした仲間がこのようにいつまでも参集して、
相互に語り合い楽しいのは、長い仕事人生の中で、当時みんながそれぞれに青春を燃やした想い出が、
それだけ強いからかもしれません。 
 会社の伝統と文化をそれなりに引きずりながら、それらに捉われない自由な発想と行動の中で自らが切り拓いていた、
そんな楽しい思いと自負の中での数年間を過ごした仲間の想い出が、いままで長い間このように“引力”を
強めているのかもしれません。

 昨夜のメンバー(20名弱)も、今は、良い年頃になっていて、考えてみれば当時の我々の年齢は、
ちょうど現在の各自の息子達と同じ頃で、改めて時の流れを感じるとともに、当時の思い入れが強くなるのでした。 
参集したメンバーの年齢差は大たい20歳くらい離れていて、半数ほどの人は完全リタイア組で、
半数ほどは当時の会社は退職しているが、今まだ“社長職”や“本部長職”など、責任ある地位のバリバリの
現役で活躍されている。 
リタイア組も旅行や趣味を活かした近況などをご披露されるうち、アルコールメーターもかなり上がった
のではないでしょうか? 今朝は、いつも通り目覚めましたが、二度寝をむさぼりました。

 

 このような集まりに席を置く幸せと、楽しい想い出を語るうち、みんなから受ける明日への
エネルギーに感謝しているのです。


 追)会の始まりには、まだ少し早かったので、近くの量販店を覗き、先日の畑で話題になりました
Kさんの “タブレットに八ヶ岳の写真が出ない” を確認してみようと思いました。 
パソコンコーナーにくると、今夜のメンバーの何人かと出会い、打ちそろってタブレット議論に
なりました。  

展示されていたタブレットで試してみると、なんと・・!
“ブログ画面の八ヶ岳の写真が出て来た。”   機種は、アマゾン製だった。

F社製で試す時間はなくその店を後にしましたが、店の人に聞くと“タブレット”の製造メーカにより
ソフトの設定が異なるため“出たり、出なかったり”するのかもしれないとの回答でした。

購入されたお店に、持参されて現物で確認されてみてはいかがでしょうか?

 

 








 

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生活不活発病  (bon)

2013-07-24 | 日々雑感、散策、旅行

 毎日暑い日が続いていますが、そろそろ花火のシーズン到来です。
昨夜の首都圏での豪雨で中止になった葛飾区の花火大会で、先の渋谷で活躍した“DJポリス”が、
絶妙の誘導で混乱が避けられたとか・・。
最近でこそあまり観に行く(花火)こともなくなりましたが、若い頃は、有名どころ(近場)には割と出向いた方かもしれません。

 例によって知人の、H氏からネット配信して下さる情報記事に興味のある記事がありましたので、
氏には無断ながらご参考にアップさせていただきました。

********************************

 『「動かない」と人は病む』  ‐生活不活発病とは何か

                   大川 弥生 著 (講談社 2013/05 232p 798円)

  1.本人と家族の積極的取り組みを

 2.外の世界とのかかわり

 3.日常生活の中で

 4.障害に生活不活発病が加わることも多い

 5.「寝たきりを防ぐ」から 「つくられた歩行不能を防ぐ」時代へ

 6.遠隔介護予防のすすめ

 7.病気としての生活不活発病の特徴

 8.生活不活発病研究の歴史

 9.善意の支援が生活不活発病を生む?

 10.人が「生きる」ことの構造

 

【要旨】「運動をしないから体がなまった」とは、我々が日常生活でよく口にする言葉である。
技術の進化によって人々の生活はますます便利になり、今や自宅でパソコンの前に座っているだけで、
世界中の情報が得られ、コミュニケーションをとることができる。
運動不足により肥満などが問題になるが、実はもっと深刻な病の危険性も指摘されている。それが本書のテーマである

「生活不活発病」である。「体がなまった」状態がさらに深刻化し身体や脳の機能が低下していく病気で、
「廃用症候群」とも呼ばれる学術的に認められた疾病だ。とくに高齢者に多くみられるこの病に対処することは、
超高齢化社会に突入する日本社会の重要な課題の一つともいえる。
本書は、まだ一般には馴染みのうすい生活不活発病の原因から治療・予防についてまで、く
わしく解説したものである。
著者は現在(独)国立長寿医療研究センター生活機能賦活研究部部長を務める医師で、「生活不活発病」という名称の提唱者でもある。

  ------------------------------------------------------------

  あなたご自身やご家族・お友達などについて、「最近体が弱ってきたようだが、年だから仕方ないか……」
「病気した後、いつまでも元気が戻らないけど、年のせいで病気が治りにくいのだろうか……」などと思われる
ことはありませんか? 
これが実は「生活不活発病」という病気のため、あるいはふつうの病気に生活不活発病が加わっていたため、
ということが少なくない
のです。

 

 生活不活発病とは、その名の通り、「生活が不活発になった」ことが原因となり、あらゆる体や頭のはたらき(機能)が
低下する病気です。この病気は誰にでも起こる可能性がありますが、特に高齢者に起こりやすいものです。
また、うっかりしていると「寝たきり」にまでなってしまいかねない、「こわい病気」でもあります。

  「生活不活発病」は、アメリカのリハビリテーション専門医であるハーシュバーグ博士が、
はじめディスユース・シンドローム(disuse syndrome)と名づけたもので、日本ではこれを訳して、
学術用語としては廃用症候群と呼ばれてきました。廃用(心身の機能の不使用)という共通の原因から、
さまざまな心身の機能の低下が起こってくるという意味です。しかし廃用症候群と
いう言葉にはいろいろ問題があり、
最近は生活不活発病の方が一般に使われるようになりました。

 

 生活が不活発とは、一日全体を通して、自然にどのような生活動作をどのぐらいしていて、
その結果どのように体や頭を使っているかで決まるものです。
ここで問題となる生活動作とは、たとえば屋外・屋内を歩くことや食事、入浴、洗面、トイレなどの身の回り動作、
家事や仕事など、ふつうは全く意識しないでしている、生活の中で目的や意味を持って行う動作すべてが含ま
れます。

  不活発になるきっかけは、ほぼ次の三つに整理することができます。

(1)社会参加の低下

・「することがない」:転居と家族との同居、災害、また友人が引っ越したり、亡くなった等々の、境遇の変化による状態です。

・遠慮、社会通念による「自己制限」:「年だから動きまわるのはよくない」「災害時に遊ぶなんて」「近親者や友人に
不幸があったのに」などと周囲の目を気にして、やりたいことまでしないことです。

 (2)生活動作自体の「やりにくさ」

・病気のため:脳卒中による片まひや、膝の痛み等のために、生活動作自体が「やりにくく」なり、
だから「やらない」という状態です。

・環境の悪化:災害の場合、道や避難所、仮設住宅などの環境が不適切なために、たとえば外を歩くなどの
生活動作が「やりにくい」、だから「やらない」状態です。

 (3)生活動作の量的制限

 生活動作の量的制限とは、やろうと思えばできるのに、していない状態です。

・病気のあと:その病気自体では「歩きにくい」などの生活動作の症状は出ないのに、
「病気の時は安静」という「通念」にしばられて、必要もないのに生活動作を自分で制限してしまうことです。

・介護や支援のありかた:車いすに乗ったために歩かなくなってしまったり、「代わりにしてあげる」ような
「補完的な」介護や支援によって生活動作を自分ですることが減ったりします。

・季節の影響:夏は暑く、冬は寒いため外に出ることが少なくなります。

 
 生活不活発病は、本人や身近な人なら、毎日の生活の中で、すぐに気がつくことができます。
しかし、生活不活発病は、病気だと気づかれないことが多いのです。生活動作の不自由さを「年のせいだ」などと
思ってしまい、病気だとは思わず、病院にも行かず、人に相談もしないので、解決が遅れたり対策がなされないまま、
という危険もあります。
また残念ながら現状では、医療や介護の専門家にも、生活不活発病についての正確な知識がまだ常識とまではなっておらず、
気づくのが遅れがちです。それは、患者さんの生活に重きをおいて考えたり、また指導したり一緒に工夫する
専門家が少ないこととも関係しています。

 

 人が「生きる」ことは、次のような構造を持っています。

(1)「社会参加」「生活動作」「心身機能」の三つのレベルからなる

(2)これらは「社会参加」をトップにした三層の「積み重ね構造」をなしていて、これら三つのレベルは互いに影響している

 

 社会参加は、さまざまな生活動作から成り立っています。いいかえれば「『社会参加』の具体像は『生活動作』」なのです。
そしてさらに、これらの「生活動作」は、それぞれさまざまな「心身機能」から成り立っています。

歩く、階段の上り下り、重いものを運ぶ、本のページをめくるなどの動作をするたびに、体や頭のさまざまな機能を使います。

 

 このように考えてくると、三つのレベルは、「目的と手段と要素」の関係として捉えることができないでしょうか。
まず「社会参加」と「生活動作」との関係は、「社会参加」は生きることの目的であり「生活動作」はそのための手段といえます。
一方、生活動作と心身機能は「手段と要素」の関係にあたります。ある一つの生活動作、たとえば屋外を歩くという
手段のために、
多数の「要素」となる「心身機能」を組み合わせてはたらかせているのです。

 

 生活不活発病は「上から下への因果関係」で起こってきています。
すなわち、(1)「社会参加の制約」が、(2)「生活動作の低下」を起こし、(3)「心身機能の低下」を起こす、という順序です。
予防・改善でも、同様に「上から下へ」の因果関係が大事です。(1)社会参加が活発になればなるほど、
(2)多くの生活動作を回数多く行うようになり、(3)自然に体や頭(心身機能)を使う機会が増えるのです。

  この「上から下へ」は、ふつうの病気の起こり方とは逆です。
通常の病気では、(1)まず、病気のために「心身機能」が低下する。(2)それによって「生活動作」の不自由が生じ、
(3)「社会参加」の制約が生じます。また治療・改善についても、ふつうの病気では、まずは薬や手術などで
心身機能をよくします。それによって生活動作がよくなれば、社会参加がよくなる
と考えていきます。
これも「下から上へ」です。

 病気は「下から上へ」起こるものだということに、多くの人が「呪縛」されてしまっているとすらいえます。
生活不活発病を理解し、効果的にそれを防ぎ、生きがいのある生活(豊かな社会参加の状態)を築くためには、
この「誤った常識」から脱却し、「呪縛」から自由になる必要があります。

  ただし、生活不活発病について「下から上へ」の因果関係を考える必要がない、と言っているのではありません。
ふつうの病気と生活不活発病の両方を同時に持っている人も多いのですから、病気による心身機能の問題を治すことも
十分に行う必要があります。要するに従来の「下から上へ」だけでなく「上から下へ」のものの見方・はたらきかけ方の
両方を身につけ柔軟に適切に使い分けることが大事なのです。それは生活不活発病の予防・改善だけでなく、
患者・利用者中心の医療・介護・福祉の発展にもつながることと思います。

 

コメント: 生活不活発病における「上から下へ」という考え方は「ホーリズム(全体論)」に近いものとはいえないだろうか。
単純にいえば「木を見て森を見ず」を避けるということ。本書によれば、人の生活習慣、人生観、人間関係などの
「全体」を見なければ生活不活発病の治療・予防はできない、ということだからだ。そしてこの生活不活発病への対処法、
たとえば因果関
係を逆さにして考えてみるアプローチなどは、医学以外のさまざまな問題解決にも応用できるのではないか。

 Copyright:株式会社情報工場

********************* 

具体的には本の中に記述されているのでしょうけど、ここで指摘されているように確かに“動く”ことが
少なくなっていることは事実です。
組織に参画している場合には、仕事とかその他のことで、義務的に、連続して動かざるを得ない環境にありました。 
が、それらから離脱した環境では、結構“動く”ことはあっても、“連続”して動いている・・ということがどうしても
少なくなりメタボ?に近づき、老化を促進しているという反省はあります。


 





 

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八甲田山   (bon)

2013-07-23 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日(22日)、テレビで映画「八甲田山」を見ました。

1977年(昭和52年)放映の映画で、この時は有楽町あたりの映画館で会社の連中と見たのでした。

 私はこの当時、会社ではこれまで全く経験してこなかった、未来型サービスシステムとして映像を主体とした
企業・個人向けのサービス開発のグループに所属していました。
何名かの担当リーダに分かれたそれぞれの部隊が、そのサービスシステムを分担して開発していた。
こうすればうまく行く、こういうサービスが求められている・・などの、確かな道しるべがないまま、各種の調査や
推定から開発を進めなければならなかった。

 私は、サービスシステム技術開発担当で、もう一人のサービスそのものの開発担当とはきわめて密接な関係があり、
常に連携しながら開発を進めて行かなければならない、そんな間柄にありました。
さらに、これら我々の開発推進部隊のほかに、より全体を包括的に鳥瞰してアドバイスやコメントする立場の
老練の調査役がおられた。

 前置きが長くなりましたが、この調査役が上映中のこの映画を観て、われわれにさも身近な出来事のように
噛み砕いて話されたのでした。  すなわち、神田大尉、徳島大尉よろしく精鋭部隊を引き連れて、
少なくない予算を使用しながらまだ見ぬ未来型サービスシステム開発に邁進している・・この姿を、
新田次郎のこの小説を基とした映画の困難を極めた“雪中行軍”に見立てていた。

 徳島大尉の率いる部隊は、何とか八甲田山踏破に成功するが、神田大尉率いる部隊は、
調査部隊として加わった山田少佐(大隊長)が、指揮権がないにもかかわらず、案内役を断ったり、
行動について口を出し、あげく部隊の指揮が乱れ、この大部隊は混乱し、210名中199名が死亡する大事件となった。

 映画を観てきた、老練な調査役氏自身がどうやら、社内のこの開発事業で山田少佐の立場を演じていると
認識している風であった。 つまり、我々の開発事業は、つまるところ失敗に終わるのではないか? 
というような示唆的な意味を含めて、映画のシナリオを現実のわれわれの部隊に当てはめて語られた。 
当然、この話を聞いた私たちは、上映中の映画館に入ったのでした。

 昨日テレビで、再びこの映画を観ながら36年前の当時のことが脳裏に浮かび、懐かしさとともに
改めて内容を噛みしめたのでした。

 

 24~5年後に、“当事者意識研修”という3泊4日の研修を珍しく受けた時の、出だしに
この“八甲田山死の彷徨”(小説)の一部が取り上げられて、神田大尉率いるこの部隊の失敗の原因はどこにあるか? 
というような設問だったと記憶しています。 
 指揮官の神田大尉を差し置いて、山田少佐がその地位を利用して口出しし組織を乱したことが原因だと
思ったのでしたが、 さらに詰めて行くと、山田少佐にそうさせてしまった神田大尉の当事者意識に
問題があったとも考えられる・・と。


 この映画は、真冬の八甲田でロケをし俳優、カメラマンなどスタッフ一同度肝を抜かれた過酷な撮影だったそうですが、
興業も大ヒットで当時大きな話題をさらっていました。
今また、再びテレビでこの映画を観てあれこれ思いを巡らせることとなってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

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大暑   (bon)

2013-07-22 | 日々雑感、散策、旅行

 昨夜は熱気に包まれたところも多かったのではないでしょうか。
それにしても自民党の圧勝で、6年前の図式とは全く逆の展開でした。

 一夜明けた今日7月22日(月)は、土用の丑の日で、品薄のうなぎは、コンビニあたりでは
予約注文の形で販売されていました。
この時期が一番暑い~ということで、明日(23日)は、今年の“大暑”の日にあたります。

 大暑(たいしょ)は、二十四節気の第12番目で、この日とこの日から、次の節気の立秋前日(8月6日)までの
期間をいいます。
定気法では太陽黄経が120度のときで7月23日ごろ(稀に22日のこともある)です。
旧暦では、暦と季節がずれるため、このような季節に合わせた呼び方(大暑など二十四節気)を付け
農作業などに便利なように工夫されていたのですね。

    二十四節気
       (ネットから拝借)
 

 昔、農家にとっては田の草取り、害虫駆除など暑い中での農作業が辛い節目の日であったのですね。

 ネットから、東京の7月の気温を調べて、過去30年の最高、最低気温の平均と今年の最高、最低気温をグラフに示してみました。

       (ネット数字を編集してグラフにしました。)


 平均と比べるからでしょうが、やはり“暑さ”は、只者ではなかったのですね。
しかし、まだまだこれから“残暑”があり、過去の8月の気温では、さらに右肩上がりになっているのですね。
熱中症にはくれぐれも注意したいですね。  やれやれ~。

 ネットから・・

     「兎も片耳垂るる大暑かな」  芥川龍之介

     「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」   村上鬼城

 

 

 

 

 

 

 

 

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むくげ   (bon)

2013-07-21 | 花鳥風月

 ここ数日、むくげ(木槿)が元気良く咲いてきました。
一日花ですから、“こんなに蕾が・・” と思うほどです。
 今年、冬に鉢の植え替えをし、肥料もキチット施しておいた成果?かも知れませんが、
昨年より大きめの花がたくさん咲いてきました。

毎日新しい花ですから終わるまでかなりの数になりますね。  樹高は1mもありませんが、
花の直径は、だいたい10cmくらいですから、
地植えの木と遜色なく育っていると思います。

ベランダのむくげ
          
 

 ウイキペディアによれば、“栽培されているものはよく剪定されてしまうため、高さは3-4mくらいのものが多く、
灌木であると誤解されるが、放置すると10m以上の樹高になり、桜の木よりすこし小さいくらいの大きさになる。
花期は7-10月。花の大きさは10-18cmほど。花芽はその年の春から秋にかけて伸長した枝に次々と形成される。” 
とあり、原産は、インドや中国で、中近東にも自生している。日本へは奈良時代に中国から渡来したとあります。 

 花の色は、白、紫、赤などがあり写真のは“白”で、中心のところが赤くなっていて、“底紅種”と呼ばれる種で、
千利休の孫である千宗旦(せんそうたん)が好んだことから、「宗丹木槿(ソウタンムクゲ)」とも呼ばれるそうです。
 むくげは、夏の“お茶花”としても欠かせない花の一つだそうですが、一日花のため
“華道”では、あまり用いられないとのことです。

 かの一茶に「それがしも 其(そ)の日暮らしぞ花木槿」などがあるとのこと。
俳句の季語は、“秋”だとか・・夏に咲くのに。

 中国語では「木槿/木槿」(ムーチン)、朝鮮語では「무궁화」(無窮花; ムグンファ)というそうで、
かって韓国ドラマの可愛い娘の名前に“ムグンファ”というのがありました。 
むくげは、韓国の国花で、国章にも意匠化されており、
ホテルの格付けなどの星の代わりにも使用されているそうです。

斉藤茂吉の句に、「雨はれて心すがしくなりにけり窓より見ゆる白木槿(しろむくげ)のはな」 がある。

今日の日曜日も、かなり暑くなりそうです。

 

久しぶりにフォレスタで・・

    

 

 

 

 

 

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男装の麗人? 卑弥呼  (bon)

2013-07-20 | 日々雑感、散策、旅行

 邪馬台国はどこにあった? の論争はこれまで何度かありその都度、あぁ、そうなのか・・ぐらいの
知識しかありませんが、先日届いた“会報”に、掲題のような講演記録(13ページ)がありました。

 この記事は、武田佐知子氏(阪大大学院文学研究科教授)の、“邪馬台国の女王卑弥呼の謎
~卑弥呼は男装の麗人だった?~” と題する関西講演会での内容ですが、日本古代史、服装史、
女性史などを専門分野とされる氏のユニークな内容でしたので、ここに、かいつまんでご紹介したいと思いました。

 “宝塚歌劇は、女性だけが登場してストーリーが成り立っている演劇で、世界に稀な劇団の例だといわれている。 
また、歌舞伎は男性だけの演劇ですが、これも日本では大変ポピュラーであり・・”で始まっているのですが、
丁度、折しも “タカラヅカ”音楽学校創立100周年で大々的なイベントがあったとか昨日のテレビで、報じていました。

 つまり、日本では男装、女装が割合普通として受け入れられている・・というのです。
最近のテレビでも、女装のような歌手やタレント、逆に男装したタレントなどが目だったりしますが、
違和感なく存在しているようです。  が、この記事によると、ヨーロッパの留学生が一番驚くのは
テレビで男性が女装して出てくる番組が結構あるということだそうです。
女装した男性が堂々と存在していることに驚いているのだそうです。  
ヨーロッパでは、男女の服装についてはかなり厳格な区別がなされているという。例えばジャンヌダルクは、
女性がズボンをはいたことで処刑されることになったと、“ジャンヌダルク処刑裁判記録”に明らかにされているという。

 “神功皇后(第14代仲哀天皇后)が三韓征伐をした時、彼女は髪を角髪に結い男装して出征したとか、
巴御前が男装したなど、日本では異性装の例が割とありますが、女性の男装、男性の女装は全く非難の対象になっていない。”

 日本では、これらの異性装が極めて許容的であるのに対し、ヨーロッパ世界はそうではない背景に、
“着物”があると述べられている。
男性も女性も同じ形の衣服を着ていたことがその基本にあると論じられているのです。

 “魏志倭人伝”には、“貫頭衣”との記述があるが、メキシコなどのインディオのポンチョのようなものではなく、
30cm位の布を2枚並べて、膝から肩の2倍の長さにして、肩で折り曲げるようにして背中だけ縫い合わせて、
前は紐か何かで結んだ・・そんな形が提案されています。

 貫頭衣2例(ともにネットから転写しました。)
       
 

これを着たところは、頭を貫いたような形だとされており、いうなればスカートが上から通じている“ワンピース”で、
3世紀の邪馬台国の人々は、スカート型のワンピースを着ていたと推定しています。
そして、この衣服の形は、以降の日本人の衣服の基本型になっていると断定されている。

 このワンピース型の衣服は、女性ばかりでなく男性も着ていたと推定し、8世紀の農民も日常着として貫頭衣を着ていた・・
との説を発表されている。 
 貫頭衣は、水田耕作民の労働者として、水田耕作と一緒に中国から伝えられ、これが根本の衣服になり、
これに袖が付いて長くなったものが今の和服だと述べられています。

 色はこの当時、赤色と青色しかなかったそうです。  卑弥呼が、親魏倭王に即位する時、自らの権威を
中国に認めてもらい、金印とともに男性用の衣服をもらってそれを着たと考えられる。
当時、王を認めた時 “朝服を授けた” や “衣冠を授けた” などの記述がみられるからだという。 
 ところが問題なのは、卑弥呼が女性だったことで、中国の儒教的な価値観から女性の“王”は承服しがたい存在
だったのですね。 
“中国には“則天武后”という大変な女傑がいて、彼女は正式な手順を踏んで皇帝になりましたが、
“中国史上最大の汚点である”とされているように、中国では、彼女が皇帝位に着いたことは一番抹消したい事実
だったのではないか。“則天皇帝”とは呼ばす、“則天武后”のままですね。”

  で、卑弥呼の場合は、中国からの使者に何とか合わせずに事なきを得たそうですが、632年に女性で新羅の王に
なった“善徳女王”(そんとく女王)の時も、いろいろと釈明があったとのことで、その後、高句麗と百済に
攻め込まれた時、唐に援軍を求めた際、“女だてらに王になるからで、お前が退位すれば済む・・” 
とつれない返事をしたとか。

  
 中国の皇帝は、卑弥呼は当然男性だと思ったに違いなく、彼女に送った衣服は男性用の衣服であったと考えられる・・
というのですね。 ところが、邪馬台国は、男性と女性の衣服の区別のない社会なので、卑弥呼がその男性用の
衣服を着ていても何の違和感もなかったと・・。

 

 また、記事の最後には、天皇についての記述部分があり,“古代において、第33代 推古天皇(初代女性天皇)
から始まって、6人による8代の女帝が出現し得たのは、天皇の衣服の男女同形が大きく関わっていたのではないか、
おそらく天皇は、性を超越した存在として位置づけられていたからだろうと考えている。”とも述べられています。
それというのも、“820年、嵯峨天皇(第52代)になって、中国風の装飾のある衣服(男性用)を着用するようになって
からは、女帝の出現がごく稀になっている。 
女性天皇の衣服は、真っ白で模様のない衣服のまま取り残された。” とあります。

 

 1889年(明治22年)明治憲法発布の時に、皇室典範が定められ「皇位は直系の男子が継ぐ」という規定になり、
女性が皇位継承から排除されたのでした。
“明治天皇は、1873 年(明治6年)以降公式の場面ではすべて洋服を着てズボンをはくようになった。 
それまではお歯黒を付けて、白粉を顔に塗って女房言葉で過ごしていた。この日、突然、髷を切って洋服になって、
大奥から帰ってきたときには、宮中の女官たちが、それは驚いたという記録が残っている。”
というお話でした・・。 

 

 

 

 

 

 

 

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劇団四季 異国の丘     (mak)

2013-07-18 | スポーツ、芸能、映画

 

*映像にマウスを当てて、キーボードのCtrlを押しながらクリックすると別窓(タブ)で
Youtubeが開かれ、曲「異国の丘」を聴くことが出来ます。 

*下記の文章の緑色の部分をCtrlを押しながらクリックすると説明が開きます。


浅見慶太演出によるミュジカル「異国の丘」2001年初演を、浜松町の劇団四季の劇場で観た。

68年前、日本は戦争に負けた。1945年8月15日にポツダム宣言を受託。その7日前の8月8日に日ソ中立条約を破り、ソ連は日本に宣戦布告。ソ連は民間人を含む日本人捕虜をシベリヤに抑留、強制労働に従事させた。抑留は長いもので11年も続き、その数60万人、うち6万人が亡くなったと言われている。その一人に近衛文隆がいた。 

 極寒のシベリヤで愛と祖国に殉じたある貴公子の物語。この貴公子というのは、戦前の五摂家の筆頭近衛家の第30代当主で3度にわたる総理大臣に指名された近衛文麿の御曹司の近衛文隆である。 

 近衛文隆をモデルとする主人公が日中戦争から太平洋戦争敗戦期に送った波乱の人生を題材としたミュジカル。

第一幕:第2次世界大戦後、極寒のシベリヤ。ソ連に抑留されていた文隆は、過酷な強制労働を課せられた上に、毎日執拗な尋問を受けていた。ソ連は日本を代表する名家の御曹司である文隆を、スパイに仕立てようとしているのだ、疲れ果てながらも収容所仲間と話すうちに、彼はあめりかに留学していた青春時代に思いを馳せる。

近衛文隆昭和1915年ー1956年、学習院中等科卒、アメリカの高校に留学、1937年 日中戦争が始まり、東アジアにきな臭い匂いが立ち込めている頃、プリンストン大学に学生生活を謳歌していた。ゴルフ部主将として全米大学選手権大会で優勝した祝賀会で、美しい東洋人女性 宋愛玲と出遭う。文隆と愛玲は運命に導かれるまま踊り始める。お互いの素性を語ってはいけないルールのため、再開の約束をしてその日は別れる。次の日、文隆は英国戴冠祝賀パーティーに出かけた。その席には、中国国民政府の蒋介石総統の夫人宋美齢の姿もあり、日本の侵略批判と中国への支援を訴えていた。そこで愛玲の姿を見つける。偶然の再会を喜び、二人の心は結びつく。が、文隆は日本の首相の御曹司、愛玲は敵国・中国の政府要人の令嬢。しかも彼女には蒋介石と前妻との子との許嫁がいた。折しも愛玲の故郷・上海への日本軍による攻撃が開始され、両国の全面戦争は決定的となる。二人は束の間の別れの言葉を交わしただけで、帰国の途に就かなければならなかった。

 1938年帰国し、父親の秘書官となっていた文隆は和平工作のため。父の密命を受けて単身、翌年東亜同文書院の講師兼学生主事として上海にわたる。

 アメリカの友人の助力で愛玲と再会した文隆は、両国の和平実現のために協力を誓いあうとともに、愛玲に求婚する。許嫁の存在を内訳できずに苦悩する愛玲。二人は、文麿、蒋介石双方の親書による和平工作を開始する。

一方、日本の軍部、憲兵隊は文隆らの動きを察知し、親書奪還と和平工作阻止に動き出す。文隆が日本から持ち帰った近衛文麿の親書は、愛玲の父の協力で重慶にいる蒋介石へ無事渡る。そして愛玲に蒋介石の親書を託したのは許嫁だった。二人の男の愛に心引き下がれながらも、上海に戻ってきた愛玲。しかし、親書を受け取りに来た文隆の現前で、愛玲は仲間の裏切りにより、銃で撃たれる。和平の実現を信じつつ、愛した男の腕の中で死んでいく愛玲。憲兵隊に取り囲まれた絶望の淵で、彼女をを抱きしめてつぶやく。(戦争は終わらない.....。日本は敗れるであろう....」と。

 軍部に反抗した文隆は。懲罰召集で満州に配属され、敗戦直前に侵攻してきたソ連軍にとらえられて、シベリヤに抑留されてしまう。 

 

ソ連邦側は、文隆の身分や立場を知りなんとかソ連の協力者になるよう説得するが、 しかし彼は最後まで不服従の節度を貫き、自己の信念を変えようとせず、ソ連側もその頑固不屈さに手こずり、密かに毒殺を図りついにそれを実行に移した。1954年日ソ共同宣言で戦争終結、これによりソ連に抑留されていた日本兵全員の帰国が実現した。しかし、文隆の姿が帰国者の中にはなく、敢え無く41歳の若さでその人生をシベリヤの地で閉じたのである。

 

 

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白鳥路  (bon)

2013-07-14 | 日々雑感、散策、旅行

 金曜日は金沢に行ってきました。  恒例のパーティーに出席するためです。
今年は第27回ということで、月日の経つ速さをまた改めて感じたのでした。

 毎年合う面々は、お互いに齢を重ねているからその違いに気が付きにくいですが、久方ぶりに会に出席された昔のその面影は、
やはり年輪を感じさせ、懐かしさの中にその隔たりもまた現実と認識されるのでした。

 

 翌日(土曜日)の金沢は、小雨が降っていました。
ちょっと早めにホテルを出て、お目当ての “玉泉園” を目指しました。
兼六園のすぐ近くなのに、以前には気にも留めていなかったところですが、先日このブログにノウゼンカズラを取り上げた時に、
ネットを検索していましたら、この玉泉園に “秀吉が朝鮮から持ち帰ったといわれている” ノウゼンカズラがあると記されていたからです。

 ホテルを出て、それなりに記憶をたどりながら、ちょっと近道もしながら大手掘り通りを通り、
白鳥路を久し振りに歩いてみることにしました。
金沢城に隣接して、官庁街のようなところに、小さなせせらぎを配して、今は“ホタル”も見られるという閑静な文化の香を漂わせた
小路なんです。
今日は、小雨に少しけぶっているようで、朝もまだ9時前ですから人もほとんど見当たりません。

  大手掘り通り                          白鳥路入口

  

 

         金沢の生んだ 文豪3人 (左から、室生犀星、泉鏡花、徳田秋声・・白鳥路の中ほどに)

                 

 

 そんな、“白鳥路”を抜けて、兼六下の交差点に出て、“玉泉園”へ。 雨足は少し激しくなっていました。蒸し暑い。
案内板がありすぐにわかりました。 9時開園と書いてあったので、2~3分過ぎにそばまで来て、“これが入口?”

木戸は空いていない。少しゆすってみたがしまっているようだ。 兼六園より古い由緒ある庭園だそうで、中の庭園や茶室は
それは、値打ちがあるのかもしれませんが、外から見る限り、わざわざ雨の中を来た期待は全く裏切られた格好で、
“開園時刻”も過ぎているのに待ってまで入る程のことではない・・と決めて、そのまま後にしました。
  玉泉園入口                       いわくのノウゼンカズラ?

           

 

 雨は小止みになったりしたので、蒸し暑いけれども少し歩いてみることにしました。
兼六園のそばを通過する時、観光客が何名か入るのを見て、久しぶりに入ってみるか? とも思いましたが、
結局は入らずにそのまま、広阪まで下ってしまいました。途中、絵葉書によくある石川門を久し振りに見ることになりました。

      石川門
        
 

 広坂交差点の横には、私がいた頃には、石川県庁、石川県警の大きなビルが2つ並んであったところが、
きれいな公園に姿を変えていました。 これらは駅西の方に移転するとは聞いていましたが、こんなにきれいに・・。
そして、お城の石垣がくっきりと見通せるのでした。

      石川県庁跡から見る金沢城(石垣)
        

 

 百万石通りを香林坊方面に歩いて、左に金沢市役所を見ながら香林坊交差点まで・・
結局、朝からお城の周りをぐるりと廻ってしまったような形になり、懐かしさに引っ張られながらでしたが、
蒸し暑さに少々疲れ、昨夜のアルコールはすっかりどこかへ消えていました。

     (カメラを持参したのですが、電池が無くなっていて携帯パシャとなりました。)

 

 

 

 

 

 

 

 

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ベランダのスイカ   (bon)

2013-07-12 | 花鳥風月

 前置きが長くなりますが、今年、4月25日にかぼちゃとスイカの種をポット蒔きしました。
いつもなら、pookyが蒔くところ、ロスに行って留守なので代わってこの2つの種は私が蒔くことになりました。
蓼科農園に移植するためです。

 今年は、5月初めに蓼科農園がスタートし、この時期にはまだ霜が降りるため6月初めの“大合宿”時に定植するために持参しました。
100%発芽したカボチャはすでにかなり大きな苗になっていました。
スイカの方は、発芽50%で、苗もまだ小さかったです。 

 で、その時には、まだ発芽していなかった残りのポットから、その後に1つだけ小さな芽が出てきたのです。
つまり、種を蒔いてから40~50日目くらいに発芽した計算になります。

 その遅まきの、スイカをプランターに定植したのが、今、このような姿に成長しました。

   ベランダのスイカ
        

 大きい球はソフトボールくらい、下の方の小さいのがピンポン玉。
しかし、こんな小さいうちからキチットあのスジが入っていて頼もしい。 
無事に口に入るかどうかは分かりませんが、何とも楽しい、微笑ましい感じです。
蓼科農園のスイカは、まだパチンコ玉くらいでしたから、やはり気温の差があるのかもしれません。

 

ベランダの日中は、照り返しもあってすごい暑さです。この過酷な条件の中、イチジクは、たくさんの実を付けていますし、
みかんも硬めのこい緑色をしながら成長しています。

   イチジク                           みかん

   

 

小さく選定した“くちなし”は純白の花を輝かせていました。 

      くちなし                          白いサルスベリ

  

 

 花木、草花ばかりでしたが、“成り物”もそれなりに楽しみがあります。
食するよりも鑑賞ですけど・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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蓼科浪漫倶楽部2013七夕まつり  (bon)

2013-07-09 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

今年5月からスタートした蓼科農園は、春合宿(5月)、大合宿(6月)に続く3回目の“七夕まつり”は、
梅雨明けした7/5~8に実施しました。

標高1,300mのK邸はいま、庭のヤマボウシが満開でした。

      

 

覚悟していた暑さは、めぐみ?の曇りがちのお天気で何とか凌げました。

春合宿に植えたジャガイモは花盛りで、畝の間に敷いた除草シートは見事な効果を発揮していました。 
まだ1か月のサツマイモ、スイカ等は、まだまだ小さい姿でしたが順調に育っていました。
すでに、スイカの赤ちゃんがいくつか見えましたから、今年は“スイカパーティー”を楽しめるかもしれません。

  ジャガイモは花ざかり                    サトイモと黒豆

  

 

      スイカの赤ちゃん

               

 お試しで敷いた透水性防草シートは十分雑草を抑制する効果が証明されましたので、今回、全面に採用しました。
夏場の雑草との戦いは、これでいくらか軽減されることでしょう。

 3日目のお昼、全く予期していなかった N夫妻が 滋賀から“差し入れ”を持参され飛び入り参加され、
大きな“サプライズ”がありました。総勢8名の楽しいランチタイムとなりました。

     楽しいランチタイム

               

 

 

 好評のスライドショーでお楽しみください。(6分半)

           

 

 

 

 

 

 

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ナバロンの要塞   (bon)

2013-07-04 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日、お昼にテレビで映画“ナバロンの要塞”を見ました。
この映画、もう何度目か見るのですが、いまだに初めて見たような場面があったり、セリフがあったり・・何度見てもそのスリルと
戦争の中の人間模様というか, 厳しい中にも暖かい人間関係を改めて見ました。

 世界的な登山家が、難攻不落のドイツ軍の要塞を破壊する物語で、1961年ですからもう随分前ですが、
グレゴリーペック、デヴィッドニーヴン、アンソニークインなど懐かしい顔ぶれに再会し・・映像もリアルでいかにも
ドイツ軍らしい威圧的な戦争設備などにも目が届きまたまた楽しめました。 

 参院選挙を控えて、内幸町のプレスセンターで、党首による討論会が開かれ、こちらも熱のこもった討論でした。
このようなときに、のんびりと映画などに見入っていて良いものか? とも思いましたが、
うまい具合に録画という手段によってタイムシフトしながら・・従いまして、長時間テレビの仲良しとなっていました。


 映画の音楽は、有名なデミトリーティオムキンになるもので、この作曲家の名前も久しぶりに懐かしく感じられました。
早速、ネットで、彼の作品集をひも解くと・・真昼の決闘、OK牧場の決闘、ローハイドなどの西部劇、ジャイアンツ、老人と海などまだまだたくさんの映画音楽を作り出しています。

 

 

 

 

 

 

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30年後の日本の衝撃  (bon)

2013-07-03 | 日々雑感、散策、旅行

 ちょっとショックなタイトルですが、知人のH氏から配信していただいた情報記事にありましたので、
受け売りですが以下にご紹介させていただきました。

 これまでも、人口減少の問題は、種々論じられてきましたが、いよいよ差し迫ってきた切実感をもってこの問題を注視するようになって
来たようです。 そして、人口減少は、その国の産業・国力の弱体化とともに国が属する地域の位置づけが変化し、
それがまた影響する・・というところまで、やはり考えておかなければならないのですね。改めて考えさせられる問題です。

 国立社会保障・人口問題研究所(HP)による将来人口推計結果からいくつかグラフを本文記事とは別に再掲させていただきました。

なお、文末の“コメント”は、H氏によるものです。

*********************

 文藝春秋 2013年07月号 p94-111

       「30年後の日本『人口激減時代』の衝撃」    藻谷 浩介(日本総研主席研究員)

 【要旨】日本が「少子高齢化」という大きな問題を抱えていることは、全国民の共通認識といっていいだろう。
本記事は、それだけに留まらず、人口予測データをもとに、今後30年の間に全人口が激減すること、なかでも15~64歳の
「現役世代」が大きく減少し、一方で65歳以上の高齢者が増加することを指摘する。
さらに、過疎に悩む地方圏だけでなく、大都市圏においても高齢者の急増が懸念され、大都市全体が“老人ホーム化”するとまで表現。
詳細な予測数値と豊富な事例を挙げながら、経済の衰退と税収減、そして医療・福祉の需要急増などの“危機”に警鐘を鳴らしている。
筆者は、長らく日本社会を苦しめていたデフレを人口増減の観点から鋭く分析しベストセラーとなった『デフレの正体』(2010年、角川書店)の著者でもある。

  ------------------------------------------------------------

 人口予測の示す30年後の日本を探ってみよう。準拠するのは、国立社会保障・人口問題研究所の発表した、最新の
都道府県別予測・市区町村別予測である(以下、「社人研予測」と呼ぶ)。
最新の出生と死亡・人口流出入のトレンドが今後も続くということを前提に計算されたもので、改訂されるたびに精度は高くなっている。

  総人口で言えば、2010年の1億2800万人が、2040年には1億 700万人まで、16%以上減るものと見込まれる。高齢化率(65歳以上人口を総人口で割った比率)は、2010年の23%が、2040年には36%まで上昇する。

  医療や福祉の需要は高齢化率ではなくて高齢者の絶対数に連動する。そこでより重要な絶対数の変化に話を移せば、
この間に全国では、15~64歳人口は8173万人から5787万人へと、2387万人・29%も減少し、65歳以上人口は2948万人から
3868万人へと、 919万人・31%も増加する。後期高齢者とも呼ばれる75歳以上人口となると、1419万人から2223万人へと、
804万人・57%の急増だ。俗に「少子高齢化」と言われる現象だが、「現役世代の減少と後期高齢者の急増」と表現する方が誤解がない。

  この間の最大の問題は、働いて稼いで年金と税金を納めて旺盛に消費する現役世代の減少である。
急増を続ける後期高齢者への対応も問題だ。高齢者医療・福祉の需要は今後も爆発的に増えていくことになる。

  そのような現役世代の減少と高齢者の急増は、主に日本のどこで起きるのか。

 30年後の地方圏では、現役世代のみならず高齢者も減り始め、活力もないが医療福祉負担の絶対額も減る。
逆に首都圏など若者の集まる一部の大都市圏は、それでも現役世代の減少を止められず、他方で高齢者は急増を続けるので、
巨大な老人ホームのような状態になっていく。

  首都圏での今後30年間の高齢者の増加ペースは53%と、全国を大幅に上回る。後期高齢者ともなれば89%とほぼ倍増のペースだ。
他方で、首都圏でも現役世代の減少は24%と、全国とさほど変わらないペースで進む。首都圏の出生率は地方圏に比べて大幅に低く、
せっかく集めた若者はあまり子供を生まないまま、どんどんと高齢者になって行くからだ。地価や人件費が高く、人と人との絆の弱い都会で、
急速な需要の増加にあわせた高齢者医療・福祉システムの充実は可能なのだろうか?

 逆に過疎化の進んだ地方では、高齢者も後期高齢者も、早晩減少に転じる。現役世代の減少ペースは都会以上に深刻だが、
医療福祉負担の絶対額は伸びない。

  社人研予測によれば、30年後の15~64歳人口が現在よりも多い市区町村は、全国に15ヵ所存在する。
これら15市区町村に共通するのは、住宅開発が遅かった分、住宅を購入した中心的な層が65歳を超える時期が、
2040年にはまだ到来していない、ということだ。

 だが高齢者の激増と現役世代の減少という未来は避けられない。しかもその際には、相対的に高齢者が少なく自家用車への依存度が
高い地域であった分、他よりも医療福祉体制の未整備や公共交通の不在が問題化しやすいだろう。

  これらの地域の将来がどうなるのかは、先んじて人口流入が止まり高齢化が進んでいる地域と比較することで見えてくる。

 札幌市南区は、都心から地下鉄で20分弱だが自然は豊かで、かつては子持ち世帯の流入が進んだ。
しかし現在では若者の流出が目立つようになり、他方で過去に流れ込んだ住民の高齢化が深刻になっている。
首都圏をはじめとする大都市圏の郊外ベッドタウンに、同様の状況になっている市区町村は無数に存在する。

  札幌市南区の現役世代は、今後30年で半分以下になるとの予測になっている。増え続ける家族向けの空き家を、
安価に若い世帯に提供するシステムができれば、ここまでは減少しないかもしれない。
しかし、人口増加時代を生きてきた高齢の所有者には、資産の値下がりを受け入れる意識がなく、たまに現れる買い手には
実勢を遠く上回る価格を提示し、結局売れないので放置する。

 他方で、高齢者は今しばらく急増を続ける。この区の場合、医療福祉体制は札幌市全体で構築されているが、
独立した市町村の場合には、納税者の急減と後期高齢者の急増というダブルパンチが財政危機をもたらすことは間違いない。

  都心部では空き家が増えるのではなく、高齢者のみの世帯が増えていく。地価や人件費が高く、新たな医療福祉サービスの拠点を
設ける余地が乏しい分、健康を損ねた場合の暮らしの困難は大きくなるかもしれない。

 東京都台東区は23区の中では、突然変異のように後期高齢者があまり増えない。15~64歳の比率も全国有数の高さだ。
便利でスラム化もしにくい場所である割にはマンション開発が進んでこなかったなど、幾つかの特殊な要因が重なった結果である
と思われる。これに対しバブル崩壊以降に急速にマンションの増えた都心各区や山手地域では、後期高齢者の急増が避けられない。

  筆者が現実的な手段としてお勧めするのは、自分の身の回りに、会話のできる相手、顔見知りの店、かかりつけ医など、
小さな絆をつなぐ相手を増やしていくことだ。高齢者介護などのボランティアなどに積極的に参加することで、自分の番がきたときに
お世話してくれる相手を増やしておくこともいいだろう。それができない、やりたくない人は、どのような地域に住んでいても、
年老いながら孤立していくことを免れないのではないだろうか。

  また、これは日本だけの問題なのだろうか? 以下のA説とB説はどちらが正しいか。

 A説:30年後には、人口が減る日本と、中韓など人口の減らない他の東アジア諸国との勢いの違いが今以上に明確になっており、
日本の国際的な地位は大きく凋落している。人口の増える日本以外の東アジア地域は、世界の経済の中心としての地位を高めていく。

 B説:30年後には、東アジア諸国でも現役世代の減少と高齢者の激増が進み、急速な経済成長は過去の話となっている。
世界に先んじて高齢化が進み、もう高齢者も増えなくなった日本では、医療福祉負担が伸び止まるなど、むしろ再生の芽が出てくる。

  国際連合人口部の世界各国の人口予測によればA説はまったくの勘違いだ。世界はB説の方向に向かっているのであり、
30年後には世界に先駆けて高齢化を潜り抜けてきた日本の、社会運営や企業経営のノウハウを世界中が学ぶ時代になっていることだろう。

  日本は孤立を深めつつ衰えているのではなく、他に先駆けて問題に直面し、解決を模索しているだけだ。
しかしながら、金融緩和といった経済成長も人口成長も当たり前だった20世紀型の手法は、もう役には立たないだろう。
そもそもこの問題に関して、まだ人口が増えている米国に学ぶものはない。現場の実情に立った工夫を現場から進めることでしか、
解決はもたらされないのである。

 

コメント: 作家の五木寛之氏は、2011年12月に発表した『下山の思想』(幻冬舎新書)で、日本社会はゆるやかな「下山」の段階にあるとし、
下山することによって新たに「別の山」をめざすことができるという考えを示した。 本記事で指摘されている「人口激減」や
「現役世代の減少と後期高齢者の急増」などの現象も、五木氏のいう「下山」にあたるのかもしれない。
 であるならば、下山し行き着いた「少ない人口」「超高齢化」という地点からもう一度新しい価値観による社会を築いていく、
という意識を、我々一人ひとりが持つべきなのだろう。それはたとえば、「経験知」により“若い”国々にヒントを与えるような国や社会のあり方だと思う。

 Copyright:株式会社情報工場

国立日本社会保障・人口問題研究所からのグラフ(抜粋)

     

同研究所数値データを一部割愛してグラフ化しました。

  

 

 

 

 

 

 

 

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自転車   (bon)

2013-07-01 | 日々雑感、散策、旅行

 トヨタが世界に100台限定で、100万円/台の自転車を発売した。
一昨日(6/29)の読売オンラインの記事から引用すると、

「 自動車向けに開発された技術や素材を使った高級自転車で、ブランドのイメージを高める狙いだ。
 トヨタ自動車は世界100台の限定で、“レクサス”ブランドをつけた100万円の高級自転車を売り出した。
舗装した道路向けのロードバイクで、最高級スポーツカー“レクサスLFA”の車体に使った素材をフレームに採用した。
変速機やホイールは、高品質の自転車部品を手がける日本のシマノ製を使い、本格的な自転車レースでも十分使えるという。 
 ドイツ勢ではBMWが約40万円のロードバイクを販売している。ポルシェは約45万~約81万円、
メルセデス・ベンツが約46万円の自転車を日本で販売している。」

   トヨタ自動車が今回販売したレクサスブランドのロードバイク

       (読売オンラインより)

 

  折しも、一昨日(6/29)から7/21まで、“ツール・ド・フランス”が開催されている。
今年は第1回(1903年)から数えて丁度第100回にあたる記念大会です。
全長21ステージ、3,403.5kmを走破する過酷なレースで知られていますが、古くから自転車の技術開発と競技を発展させて来た
歴史があります。 現在では、平均時速40kmも出るそうです。各ステージを走破した時間が最も短い選手に“マイヨ・ジョーヌ”と呼ばれる
“黄色のジャージ”が与えられ、最終ステージの終了時点で“マイヨ・ジョーヌ”着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。

  マイヨ・ジョーヌ
       

 

 ところで自転車はいつ頃発明されたのか? 
例によってネット調べをしてみましたが、特にはっきりした記録がなく、1813年にドイツで“足けり式”の自転車が開発されたのが
どうも最初らしい。 蒸気自動車が1801年、蒸気機関車が1804年に発明されたといいますから、自転車はこれよりも新しいことになります。
今から200年ほど前なんですね。 現在のような“ペダル式”は1893年スコットランドで、さらに近代の自転車のようになったのはイギリスで1879年に開発されたようです。日本には、明治の初め頃フランスの量産機種“ミショー型”(Michaux)だそうです。

 ペダル式自転車
      (日本自転車文化協会) 

 

 私が子供の頃、自転車は遊びやお使いなど・・かなり重宝していましたね。 
当時、業務用とかで“運搬車”などと呼ばれた自転車があり、重くてハンドルも子供にはやや幅広すぎる感がありました。

 小学6年の頃(1951年?)知り合いのお兄さんと一緒に、自転車で大阪(上本町2)から、明石さらにはフェリーで淡路島の
“岩屋”まで遊びがてら行ったことがありました。  

 朝まだ暗いうちに出発して、神戸の港で休憩したりしながら国道2号線を南下し、明石まで来て、何となく岩屋にわたり
(当時関西汽船で確か片道10円)明石の生きたタコをタコツボごと買って、再び2号線を戻り(約400kmを走り)自宅に着いたのは
既に日が暮れていました。

小学生の私にとっては、少々ハードな体験でしたが、こんなことを思い出してしまいました。

 

 少し前、サントリーが100万円のウイスキーを限定で発売し、瞬く間に完売したニュースがありましたが、今度は、トヨタの“自転車”でした。

そういえば、トヨタと東大が共同開発したロボット宇宙飛行士“KIROBO”が、8月に打ち上げ予定のロケットに乗り込む
というニュースがありました。なんでも、宇宙飛行士を和ませる“話し相手”になるという。

身近な自転車からの話題でした。

 

Bicycle in Copenhagen

最も先端的な都市の一つである、Copenhagenの中心部では、通勤などの交通移動手段
として自転車が使われており、自動車が見当たりません。近郊都市からの電車通勤にも自転車をそのままのせることが許されております。mak 



 

Bicycle in Amsterdum
<!-- Bicycle in Amsterdum -->

 

 

 

 

 

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