三浦雄一郎氏のことです。
少し前に届いた会報に、三浦さんが、2014.9.26に、北海道大学クラーク会館で講演をされた時の講演録が
掲載されていましたので、そこから抜粋してご紹介したいと思いました。
今年は、各ゲレンデとも雪が多いと聞きます。この時季スキー好きの皆様には心を躍らせていることでしょう。
最近のスタイルは、もちろん2枚板のスキーが普通ですが、いわゆる “スノーボード” という幅広の1枚板に
横向きに両足を載せて滑るタイプで、服装もカラフルで奇抜ながらのものが多く見られます。
オリンピック種目にもこの種の競技がいくつかあり、珍しく思ったりしました。
三浦さんの講演は、9月にありましたが、恐らくこの時季でなければ時間が取れないのでしょうね。
82歳にしてなお、トレーニングに励んでいるとのことです。
(ネットより)
私ごとで恐縮ですが、30年近く前に、勤務地であった石川県に河内村という人口1,200人ほどの村があり、
そこのお若い村長さんと親しくしていた頃、この村の山に 三浦雄一郎氏設計・監修のスキー場を開くということで、
そのスキー場オープンイベントに協力することになりました。
スキー場は、“金沢セイモアスキー”(現、白山セイモア カナダのマウント・シーモアに因んで)といい、
オープン初滑りに三浦さんが招かれたのでした。 で、私たちが協力したオープンイベントは2つありまして、
一つは、金沢セイモアスキー場ゲレンデを、三浦さんが滑る姿を、金沢のメイン 香林坊の大和デパート前広場の
大画面に、衛星ライブ中継したのです。 当時、日本でも通信衛星を打ち上げ、災害時にも通信が確保できるように
していましたが、これを今回は、スキー場オープンイベントに活用したのです。 もちろん臨時の手作り設備として
構成し、この地にも衛星通信システムが活用できることをPRしたのです。
香林坊ステージでは、三浦さん他のスキー映像の合間に、地元奥様連中の清らかなコーラスライブがあり、
寒い中、舞台衣装で頑張っていただいたのでした。時に、町中の話題となり、新聞にも取り上げられました。
このイベントに協力したもう一つは、オープニングのために大勢の若者を集める事でした。
当時、私のところでは、19~23才くらいの地元女性の会を作っていましたので、そのメンバーに声をかけ、
“金沢セイモア1泊ジョイ” を企画しました。 河内村村長には、ロッジ1泊と、1日リフト券を無料としてもらいました。
スキー場開きも無事に済んだ夕方、ロッジは若者で大変なにぎわいようで、食事の後のディスコパーティでは、
三浦さんも大喜びで、もともとはパーティにはチョコット出て帰られるところを、あまりの楽しさに予定を変更して、
その日はもう1泊されたのでした。
金沢セイモア オープニング(1987.12.19)
楽しいパーティの夜
その後、ニュースにもなった “80歳エベレスト登頂成功” の偉業を成された三浦さんも、当時のこんな愉快な
遊び好きの側面を発散されたのでした。今回、この講演録を読んで、今また懐かしい当時が想い出されました。
前置きだけで終わるかと、心配でしたが、以下に講演録を抜粋します。
三浦雄一郎氏は、1932年に青森で生まれ、子供の頃は病弱でしたが、お父さんが宮城県スキー連盟の
会長であったことなどから、小学生のころから蔵王でスキーを楽しんだそうです。 高校時代には、青森県代表の
スキー選手として、国体はじめ全日本選手権などに出場し、高校選手権では3年連続優勝したそうです。
北大を受験すると決めてからも、冬休みもスキーの大会と合宿で、いつ勉強するのかと先生に心配されました。
受験に向かう時、折角札幌に行くんだからと、スキーを担いで行き、試験までの1週間近くを叔父の家に世話に
なりながら藻岩山でスキーをやったりしました。 入試に “滑る” は禁句ですが、運よく合格したのでした。
入学式の前の春休みに北大スキー部の合宿を聞きつけて、入学前に既にスキー部に入部したのです。
で、入学式当日は、新入生の中で雪焼けした顔で目立っていたといいます。
北大では、同級生に作家の渡辺淳一がいたそうですが、彼(三浦)は、獣医学部に進み、国家試験には合格した
そうです。 北大を卒業して、そのまま助手として勤めるうち、学長の秘書と結婚しましたが、研究室に閉じこもる
ことが性に合わず、26歳で北大を辞職しました。
オリンピック選考会で、青森代表になりますが、出場枠の問題で抗議したため、オリンピックどころかアマチュア大会に
出場できないなど、アマチュアスキー界から永久追放されます。 それからが厳しいトレーニングが始まるのですね。
立山で歩荷のアルバイトをして足腰を鍛えた。 すでに学生時代に最大70kgの荷を担いでいましたが、
ここでは、100kgの荷物を担いで、朝4時に美女平を出発し、夕方弥陀ヶ原や雷鳥沢などに荷物を運んだそうです。
この歩荷を7~8年続けたそうです。 休日にはもちろん剣岳の平蔵谷や八つ峰の長次郎谷で山スキーを楽しんだ
のでした。
1962年に、アメリカでプロスキー選手権が開催されるという記事が目に止まり、“アマチュア大会はダメでも、
プロの大会なら” と応募して、オリンピックのメダリストたち世界の一流選手が出場する中、いきなり8位に
入賞しました。 その賞金を元手に、帰りは、ヨーロッパ各地を周遊し、世界スキー武者修行をしたそうです。
そして、思いはキロメータランセ(スピードスキー競技)出場に移り、1964年のイタリア大会に東洋人で初参加
したのです。 最終レースでは、マッターホルンの3,820m地点から40度の急斜面を時速140~150kmで滑降し、
時速172.08kmの世界新記録を出したのでした。
同じ1964年に、パラシュートを装着して富士山から直滑降したことは有名ですね。 そして、1970年には、
エベレストの8,000m地点からスキー滑降をしたのでした。その後、世界7大陸最高峰から滑降を達成したのです。
しばらく目標を失っていたら、この人でもメタボになり、血圧が高く、動脈硬化が進行し糖尿病なども併発し
余命3年と宣告されたそうです。 しかし、一念発起して再びトレーニングを開始するのでした。足首に1㎏ずつの
重りを付け、背中に10㎏のザックを担いで1日中過ごしたり、時には、両足に10kgずつ付けたりし、食生活も
改善しました。 そうして、2003年 70歳でエベレスト登頂に成功し、2008年には75歳で再び成功しました。
“次は80歳で” と思っていた矢先に、ジャンプに失敗して、骨盤、大腿骨を骨折し半年寝たきりになりましたが、
絶対にエベレストに登るという強い気持ちのお蔭で、1年足らずで松葉杖で歩けるようになり、トレーニングを
再開したのです。 足首に1㎏ずつ付ける他、登山靴に鉄板を差し込んで重くし、ザックには20~30kgの錘を
入れたりしました。 こうして迎えた2013年、ベースキャンプに到着するまでの行程がリハビリになったのか、
5月23日世界最高齢の80歳22日でエベレスト登頂に成功したのでした。
最後に、「まさに、Boy’s be ambitious わが北大の建学の精神です。この言葉を心に、私自身もこれから
さらなるチャレンジを続けたいと思います。」 と結ばれています。
気さくな、ユーモアたっぷりな人柄の中に、たぎる思いがいつまでも宿っているのですね。
今日は、関東平野部でも朝から雪が舞っていて、窓外は一面真っ白にお化粧されています。