あのキュリー夫人です。 1934年の今日、7月4日に亡くなっています。(7/4は、アメリカの独立記念日で もあります。)
キュリー夫人は、2度もノーベル賞を受賞(物理学、化学)した凄い人であると、 よく知っているつもりでしたが、ネット(ウイキペディア他)を見ましたら、知ら なかったことがいっぱい書かれていました。ネットページも膨大で、その多くを ご紹介することはできませんので、それらから感じたポイントを記してみました。
キュリー夫人(1903年最初のノーベル賞(物理学)受賞の頃 ) (ウイキペディアより)
マリア・スクウォドフスカ(マリ=結婚してキュリー夫人)は,1867年にワルシ ャワに、数学・物理の教鞭をとる科学者の父、女学校校長の母に生まれました。 学者・教育者の家庭に生まれますが、当時帝政ロシア下で、体制に反発した父は、 職を奪われ土地を追われる身となり、彼女10歳くらいからは不遇の人生を送るこ とになるのです。
1883年に高校を優秀な成績で卒業するも、当時女性には進学の道は開かれてい なかったため、のんびりと田舎暮らしの中、家庭教師をしながら農工博物館の実 験室で科学研究の技能習得に努めたそうです。 1891年には、マリはパリに移り、 当時、女性でも科学教育を受講可能な数少ない機関の1つであったソルボンヌ大学 (パリ大学)に入り、名前を「マリア」からフランス語風に「マリ」と書き、物理、 化学、数学を学び、2年後には物理学の学士資格を得たのです。 卒業後、マリはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を 得るようになるも、相変わらず屋根裏の貧乏生活を続けながら、その中で貯蓄し 奨学金を全額返納したとあります。
16歳の頃の彼女 (ウイキペディアより)
一方、ピエール・キュリーは35歳にして、電磁気学方面での実績を上げており、 「キュリーの法則」につながる基本原理を解明したり、天才との呼び声がかかる も勲章を断り、薄給の中で無心に研究に打ち込んでいた。 そんな頃、1894年の春、二人は教授の誘いで出会うのです。もちろん磁気など の学術的な話題の取り持ちだったようですが、これが縁で翌年、二人は質素な 結婚式を挙げるのです。祝い金で購入した自転車に乗ってフランス田園地帯を巡 る新婚旅行に出発したとあります。 アパートの新生活が始まり、二人は、研究だけでなく家事も分担するなど勢い のある生活に入りますが、収入を得るため、中・高等教育教授の資格を取得する などの忙しい毎日を送るのです。 そして、二人して鉄鋼の磁化についての研究 論文を仕上げるのです。
ピエール・キュリー (ウイキペディアより)
夫妻は、倉庫を改造した粗末な実験場を作り、そこで放射能の解明に取り組む のです。いろんな元素の中に原子そのものから放射物質を発する元素があること を突き止め、その放射を「放射能 (radioactivity)」そしてその元素を「放射性 元素」と命名したとあります。
さらに、マリの探究心はとどまることを知らず、1898年,夫妻は、ウラン鉱石 の分析を始め、ポロニウムなる新元素を発見し、続いて激しい放射を発するラジ ウム元素を発表するのです。 しかし、学会の反応は冷ややかで、新元素の証明を求められ、そのためには純 度の高い元素の塊を生成する必要があったのです。資金力もなく、途方に暮れる 中、これを突破する努力が注がれるのです。
劣悪な環境と過酷な作業、逼迫した家計を賄うための教職の多忙は夫妻の健康 状態にも悪影響を及ぼすなか、マリは少しずつ着々と進む作業に希望を見出し、 1トンの鉱石から分離精製できたラジウム塩化物は 0.1グラムにしかならなかった が、放射性元素は着々と濃縮され、やがて試験管や蒸発皿から発光が見られるよう になったのです。 マリはこれを「妖精のような光」と形容したとあります。 1902年3月には濃縮に効果的な試薬を発見し、これを用いて精製した試料のスペ クトルがラジウム固有のものであることを突き止め、夫妻は純粋ラジウム塩の青い 光に感動します。 夫妻は、有意な純粋ラジウム塩を得るまでに11トンの鉱石 (ピッチブレンド)を処理したことになるのです。
苦境の中で進められた研究結果を夫妻は逐一学会に知らしめ、1899年から1904年 にかけて32の研究発表を行い、多くの科学者に影響を与えるとともに、原子物理学 に一足飛びの進歩をもたらしたのでした。 また、新元素ラジウムは、学問対象にとどまらず、産業分野にも有用性が明ら かとなります。キュリー夫妻は、ラジウム精製法に対する特許を取得せず公開し、 ラジウムの工業的生産が自由に行われ、医療分野(がん治療)への道を開いたの です。
1903年、夫妻そしてベクレル教授とともにノーベル物理学賞を受賞し、マリは、 女性初のノーベル賞受賞者となりました。賞金の7万フランは一家の経済状態を救 ったほか、金銭的に恵まれない知人や学生たちのためにも役立てられたとあります。 その後も、次々と成果を発表し、各方面からの栄誉を受けますが、1906年に夫 ピエールを事故で亡くしてしまいます。パリ大学は、ピエールのために創設した 物理実験室をそのままマリに引き継ぐこととし、マリは、新たな重い荷を背負う ことになるのですが、これを見事に成し遂げてゆくのです。パリ大学初の女性教 授が誕生するのです。
その後も各方面から資金援助を受け、研究を進め、1907年には「放射能概論」 を出し、ラジウム放射能の国際基準単位を定義する仕事も行い、この単位は、夫 妻の姓から「キュリー」(記号:Ci )と名づけられました。 このような栄光を 受け、1911年、科学アカデミー候補になると、周囲から誹謗中傷をうけることと なりフランスアカデミーと袂を分かつことになるのです。 しかし、1922年には、 パリ医学アカデミー会員を認めるのです。フランスアカデミー会員となるのは、 なんと、1979年になるのです。 1911年の12月、落ち込むマリの下に、2度目となるノーベル化学賞受賞の知らせ が入るのです。理由は「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質および その化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」 として新元素発見を取り上げて評価されたのです。
第1次世界大戦では、X線による医療現場への普及を図り、自らも指揮を執って 病院を回り負傷者治療に威力を発揮したそうです。そこには、かつての物静かな 研究者の姿はなかったとあります。マリが設置したレントゲン設備は、病院や大 学など200箇所に加え、自動車20台となり、47歳のマリは、自らも解剖学を勉強し、 自動車の運転免許を取得し、故障時に対応するため自動車整備についても習得し たそうです。 その後、マリは、アメリカなどを訪問するなど世界的な活躍をするなか、マリ の娘夫妻がノーベル化学賞を受賞する喜びにあうのです。 しかし、次第に体調不良を訴えるようになり、1934年7月4日の夜明け前に亡く なるのです。長期間の放射線被曝による再生不良性貧血が死因であるとあります。 1934年頃(晩年) (ウイキペディアより)
随分長くなりましたが、本当に一途な優れた研究者であるわけですが、普通の 生活をしながら、苦境に向かいながらも積極性と ち密な頭脳、懸命な努力を惜し まなかった人と思います。 時代の圧力にも、逆らうのではなく克服しながら、 むしろ時代を変えてゆく、そんな力さえ感じるのです。素晴らしい人だったので すね。
キュリー夫人と放射性物質 VIDEO