今日は朝から蒸し暑く、予報では午後雷雨があるといっていましたが、
今しがた(午後2時半ころ)、すごい雷とたたきつけるような雨がガラスに
当たっています。室内の簡易気圧計では、なんと988hPを指していました。
「来ぬ人を 松帆の浦の夕凪に 焼くや藻塩の身も焦がれつつ」 (藤原定家)
新勅撰和歌集にあり、小倉百人一首にも登場している恋歌ですね。 この松帆の浦は、兵庫県
淡路島の先端、明石海峡に面した岩屋に属した松帆崎のことで、古来から交通の要所でもあった
景勝地で、潮待ち、風待ちの 地として有名であたそうですが、今は、明石海峡大橋がかかったこと
でもあり様変わりしているそうです。 今年5月に、この地で、高校同期の喜寿の会を開催しました
折には、明石海峡大橋を通過し、洲本で宿泊し、福良港から渦潮を見たり、花さじきに立ち寄り、
この松帆の浦には寄らずに帰路についたのでした。 ウイキペディアなどによると、松林が付近一帯を
覆う景勝地で、勝海舟が設置した砲台跡(国の史跡)や岬の西側には、明治4年以来の歴史を持つ
江崎灯台があるそうです。
松帆の浦
(ネット画像より)
淡路島といえば、古事記ではイザナギ、イザナミノミコトが日本列島を作った最初の島であると
されていたり、ちょっと特異な感じもしないではないですが、昨年、2015年に、銅鐸7個が完全な姿で
発見されました。 実際には、南あわじ市の建設資材加工工場の砂置き場で見つかったそうですが、
この砂が松帆地区の耕地で採取したことから「松帆銅鐸」と命名されています。
銅鐸は、弥生時代中期から後期末(前世紀~後2世紀頃)に近畿を中心とする地域で、その集団に
とって最も重要な祭りに用いられたと考えられる青銅製の鋳物の祭器で、東限は、静岡、長野、石川で、
西限は、九州を除けば 高知、愛媛、広島、島根あたりだそうです。今回の発見は、島根39点、
滋賀24点、神戸市14点に次ぐ数で、数十年に一度の大発見だというのですね。
今回見つかった松帆銅鐸は弥生時代中期に製作された古い段階の銅鐸で、この内、大きい銅鐸が
最も古い 全国でもまだ11点しか出土していない菱環鈕(りょうかんちゅう)式という段階の銅鐸だ
そうです。
松帆銅鐸
(南あわじ市HPより)
難波洋三氏(奈良文化財研究所埋蔵文化センター長)によれば、「銅鐸は、個人墓から出土せず、
多くは集落から離れた山の斜面から出土し、水耕栽培が本格的に始まった弥生時代に最も重要な祭りが、
農耕の祭りであったと考えられることや、銅鐸を飾る絵画の分析などから、銅鐸は個人の持ち物ではなく
集団が保有した祭器で 農耕祭祀に使ったと推定されている。」 また、「銅鐸は、釣鐘に似た形を
しているが、梵鐘のように外を打って鳴らしたのではなく、ヨーロッパの鐘のように中に棒(舌=ぜつ)を
吊り下げ、揺り動かして鳴らしました。」とあり、今回発掘された銅鐸には、7個すべてにこの舌
(ぜつ)を伴って発見されていたのだそうです。
また、難波氏の記事から、なぜ松帆なのか? については、「古代には、瀬戸内海は中国や朝鮮半島の先進の文物や情報などが西(九州あたり)から東へもたらされ、その見返りの物品が
東から西へ運ばれていく、重要な東西交通路でした。淡路島は、そのような瀬戸内海の東端、
畿内の入り口に位置していました。さらに淡路島は、摂津・播磨と四国を結ぶ南北の海上交通路にも
臨んでいます。つまり、淡路島は東西と南北の交通路が交わる要衝の地に位置していたのです。」と
されています。 難波氏の専門的見地から、この松帆銅鐸の発見は、これまでの銅鐸に関する多くの
研究課題のうち、銅鐸の使用法、埋納時期、一括して埋納した意味など重要な論点について解明が進む
と期待されているのだという。これらについてさらに専門意見が述べられており、最後に、
「松帆銅鐸は、古代史の謎を解決する糸口を与えてくれる重要な資料です。」と締めくくられています。