奈良時代の超有名な歌人、大伴家持がなぜここに出て来るか? 718年頃の生まれだ
そうですが、亡くなったのは、785年8月28日(旧暦)とあり、それに、万葉歌人という
以外に、かなり波乱に富んだ人生を生き延び、最後は中納言まで昇進を遂げる苦労人の
有能な頑張り屋だったようで、そのあたりをかいつまんで覗いてみたいと思ったのでした。
大納言大伴旅人を父として、由緒正しい家柄に生まれます。父が大宰府に赴任していた
ため、家持は小さい頃はこの地に住んでいて、13歳ころに父親と共に京に戻ってくるので
すが、帰京した翌年に父親が亡くなり、若くして家持が一家を背負うことになります。
大伴家持
(ネット画像より)
歌人としての、彼のことは少し後まわしとして、先ずは、波乱に満ちた、政争を生き
延びた大伴家持像を、足早に見てみたいと思います。
20歳頃に、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属して天皇
の雑役や警衛に当たる官)として朝廷に出仕します。
その後、正六位上、従五位下と昇進して、746年、宮内大輔(律令制の次官)になり、
この年、越中守として赴任するのです。当時の最高権力者である橘氏が新興貴族の藤原氏
を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説があるようです。
越中国には、5年在任しており、公私ともに充実した日々を送っていたと思われます。
従五位上(軍隊で言えば大佐?)に昇進しますし、万葉集への自歌223首(家持総歌数
473首の約半数)を詠んでいます。
帰京し、少納言となり、続いて兵部少輔、757年には兵部大輔となりますが、橘氏事件
に絡み 因幡守(従五位下相当)に左遷され、764年には、藤原氏の報復人事により薩摩守
(従六位下相当)に大きく格下げされるのです。770年には、正五位下(少将?)となりま
すが、従五位上から正五位下まで、ナント21年もかかり、772年、従四位下になるまでに
23年を要すのです。
大伴家持の昇進推移を、勝手にグラフ化してみました。(意味の有無は不問)
『 官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしてお 、大伴氏の氏上としては恵まれ
ていなかったことがうかがわれます。 橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原
氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。 家持は一族を存続するため、
ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあったよう
で、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けて
いたことを、『万葉集』に残した歌(4465・4468など)からうかがうことができます。』
(高岡市万葉歴史館、大伴家持の生涯と万葉集より)
JR高岡駅前広場の大伴家持像(富山県)
(ウイキペディアより)
鵜坂神社境内の碑 (富山駅から5㎞)
(今年7月に三究会で訪問した時の写真です。)
その後6年間は、途中 相模守、伊勢守などの地方勤務もありますが、ま、順調に昇進し
778年に正四位下、続いて参議、781年には春宮太夫となり、とうとう正四位上から同年の
うちに従三位となりますが、直後に、氷上川継の乱連座の疑いから、解官されるのですが、
これはすぐに復位されて翌年(783年)中納言の職を得るのです。時に66歳の頃です。
持節征東将軍として陸奥方面の責任者となりますが、785年に亡くなります。享年68歳と
あります。
埋葬も済んでいない 死後20日余り後、藤原種継暗殺事件に首謀者として関与していた
ことが発覚し、除名され、領地没収のうえ、実子の永主は隠岐に流されてしまうのです。
その後、20年以上も経った 806年に、旧の官位(従三位)に復位されたそうです。
他人のことで、しかも大昔のことを とやかく吟味してみても仕方のないことですが、
遥か奈良時代においても、人の社会は、現代の組織社会と殆ど似ているのだな~と感心
した次第です。
ところで、有名な万葉集について、簡単に整理しておきますと、万葉集4516首のうち、
473首が家持の歌で、上述しましたが越中守在任の 5年間が最多で 223首、それ以前が
14年間で158首、越中守以降 8年間で92首詠んでいます。つまり、759年に因幡守に赴任し
た新年の歌会までで終わっています。
『この歌のあと家持の歌は残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどう
かもわかりません』とありました。
また、百人一首にあります
『かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける』は、万葉集には入集して
いないのです。
この歌は、おふくろの好きな札の一つでした。もう一つは、古今集からの 凡河内躬恒
『心当てに 折らばやをらむ初霜の 置きまどはせる白菊の花』でした。
(ウイキペディアより)
もうこれで終わりますが、最後に、大伴家持作詩、信時潔作曲の『海ゆかば』について
触れておきます。
大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲で、放送は1937年
(昭和12年)10月13日から10月16日の国民精神総動員強調週間に「新しい種目として」行
われたとの記録がありました。 大本営発表が玉砕を伝える際に、必ず冒頭曲として流さ
れたそうです。 どこか耳の奥に聞いた覚えが残っています。
『陸奥国に金を出す詔書を賀す歌』の一部分で、そのあたりを引用します。
『・・大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば
水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ と言立て
丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は
人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げ
る・・ 』
お疲れさまでした。
明日(9/1)から、蓼科農園での作業がありますが、私は、ジョージ骨折のために
自宅待機することになりました。