蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

東京支部総会´16  (bon)

2016-10-29 | 日々雑感、散策、旅行

 今日(10月29日)は、高校の同窓会東京支部の年次総会が、昨年と同じ会場、大手町サン
ケイプラザでありました。 私の卒業した高校は、大阪にありますので、全体の同窓会の
年次総会は、毎年6月に大阪で行われていて、東京のそれは10月~11月に実施されています。
 この、東京支部の総会は、すでに60年以上の歴史を持っていますが、高校の同窓会の支部
としては珍しいかもしれません。

 今年も、学校長、同窓会長、東海支部長の来賓をお迎えして、和やかな雰囲気のなか、
総会議事は短時間に済んだ後、ご遠来頂いた新任校長先生のご挨拶での学校紹介では、従来
の学区制が廃止されたこともあり、全学919名のうち、男子生徒は300人女子は600人の割合に
なり、トイレの改築計画を促進したり、硬式野球部員が集まらず、他校との合同チームを編成
するなどの問題が生じているという、私たちの時代は男女丁度半々でしたから、信じられない
状態が生まれているのでした。 また、同窓会長からは、話題の真田丸がごく近傍であった
ことなど、懐かしいお話に、一同高校時代にタイムスリップした感じで、各自の当時の若かり
し頃の想い出にしばし引き戻されたのでした。

           新任の校長先生のご挨拶
            


 私たちの同期生の出席は、毎年ダントツの出席数を誇っていますが、今年も13名が出席し、
久しぶりに会う同期を交えて楽しいひと時を過ごしたのでした。

 会食の後は、同じ卒業生で9期後輩が率いる尺八演奏がありました。 「竹つれづれ」メン
バーによる5重奏などが行われました。 自作曲のオリジナル曲をはじめ、アイリッシュ
ハープ、ギターを交えて、よく知るエーデルワイス、エデンの東、演歌風雪流れ旅、ダッタ
ン人の踊りなどプログラムにも工夫が凝らされ、しばし、静かな、深みのある尺八の音色に
会場は吸い込まれて行きました。尺八のハーモニーの素晴らしさを改めて認識しました。

尺八5重奏                馴染ある曲も
  


   震災支援のチャリティーで、母校女子セーラー服を模したオリジナルTシャツ提供
            
 

 終了後は、同期だけで近くでお茶し、懐かしい話題に花を咲かせて、お開きとなりました。

         同期の皆さん
            
                      (大手町ビル地下にて)

 

 明日(10/30)は、蓼科農園“大収穫祭”に行ってきます。大阪からのメンバーを交え、
こちらでも大いに盛り上がることでしょう。


              昨年は、更地になっていた逓信博物館跡には建設工事
            


 

 

 

 

 

 

 

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原子力の日  (bon)

2016-10-27 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日(10月26日)は、「原子力の日」だったのです。 もはや風化?した感じが・・。

 1956年10月26日に、国際原子力機構に参加した、そして1963年の同日に茨城県東海村に
設置された動力試験炉(日本原子力研究所)が日本で初めて原子力発電に成功した・・その
日を記念して、翌年(1964年:昭和39年)7月の閣議で、原子力の日が制定されました。

 原爆で壊滅的な被害を被ったこの国で、原子力を扱う(利用する)ことに対して、何より
国民に対してどのように理解を求めるか、そして事業として推進できるかの議論を経て、
原子力の平和利用が叫ばれて、クリーンなエネルギー確保、そして安心・安全を広く国民に
浸透させる方策が必要であったのでしょう。 原子力の日の制定によって、特にこの日を
中心に、原子力に関係する機関や企業等で記念行事が行われていたのでした。

 ネットなどを検索していますと、1978年の科学技術庁のポスターが目立っていました。

     科技庁のポスター
          

 なぜ女性の姿なのか、よく理解できませんが、新しいエネルギーを訴えているのでしょう。
毎年、このようなイベントが行われていたと思いますが、2008年締め切りの第15回ポスター
コンクール募集(文科省、経産省主催)を見ると、その後の大惨事を経た今、なんとも
白々しい、むなしい思いが胸をよぎります。

        文科省募集(原子力の日ポスターコンクール)
                     

 そもそも、1955年には原子力基本法が成立し、翌年には原子力委員会が設立しました。
初代委員長は読売新聞社主だった故正力松太郎氏で、委員の中には、あの湯川秀樹博士の
名前もあった(その後辞任)とか、当時「原子力」は「科学技術の象徴」であり、「未来の
エネルギー」の象徴だったのですね。 原子力で動く21世紀のロボット「鉄腕アトム」が
人気者だった時代なんですね。

 そして、あの忌まわしい3.11。2011年3月11日の東日本大震災が発生したのです。
福島第一原子力発電所は、炉心溶融(メルトダウン)など一連の放射性物質の放出をとも
なった最悪のレベル7(深刻な事故)に分類される原子力事故が発生したのです。この震災
で停止した原発は11基だったそうです。定期検査で停止中が21基あり、稼働中が22基でし
たが、その後、一時期定期検査に入るなどして稼働中原発 0となりました。

 福島第1原子力発電所事故では、多くの方が避難を余儀なくされ、今なお10万人に及ぶ
方々が避難されているそうです。放射能で汚染された地域は、すぐには回復されず、何十年
もかかるといわれています。 あの、ウクライナ北部のチェルノブイリで発生した原発事故
(1986年)から30年経った今なお 当時5万人が生活していた街は強制避難で廃墟のままとな
り、無人の土地となった現地一帯は、野生動物の宝庫と化しているという。

 原発の安全神話は、木っ端みじんに打ち砕かれてもなお、原発稼働に向けた取り組みが
行われています。いつまでも火力発電に頼ることもできず、一方では、温室効果ガス低減が
必須でもあり、何よりも、原発そのものを中止することができない事情があるようでもある
のです。しかし、この問題は、たとえ、すべての原発を即座に停止したとしても、使用済み
核燃料の保管処理の問題がある以上、大きな災害が発生すれば同様な問題が生じることと
なるのでしょう。
 福島原発の廃炉処理について、その費用は当該社負担の方向とされていますが、それには、
40年とおよそ10兆円の費用が掛かると、気の遠くなるような試算がなされています。

 3.11を受けて、翌年、2012年に、環境省外局として独立させた、原子力規制委員会が発足
し、より安心・安全の観点から原発を監視するようになりましたが、これまで事故を繰り
返してきた、もんじゅ(高速増殖炉)に対して、これを運転する日本原子力開発機構の組織
能力が不適当とし、これに代わる運営主体を明示するよう文科省に提案しました。 これを
受けて、現在廃炉を含めた検討が進められています。仮に、運転再開するとした場合、修復
に16年もかかり、費用は数千億円と試算されているという。

 

 また、福井県にある運転開始から40年を超えた高浜原子力発電所の運転延長に向けた
審査の対応にあたっていた、40代の男性社員が4月20日、出張先の東京のホテルの部屋で
自殺しているのが発見されましたが、ちょうどその日に安全審査が合格したそうです。
原子力規制委員会が行う安全審査対応による長時間労働による過労が原因だと認定されて
います。 これまで、原発の寿命は原則40年と定められていました。

 原発は、エネルギーのベースロードなどと言って、その基本であるとの認識を推進して
いますが、いずれの時期にか、これらの問題は収拾がつかないほどになり、日本だけでは
なく地球規模で大きな問題となる・・徐々にその方向に向かっていることが理解できた
としても、さしあたり わが身の近辺に大惨事は起こらないとの勝手な解釈のもと、平穏で
安全な環境を前提として、日々私たちは生活し 身近な事象に一喜一憂している・・のですね。 
そんな割り切りができるって素晴らしいことなのでしょうか? しかし、そうでなければ
生きられないのですね。

 原子力の日に当たって、改めていろいろと考えさせられたのでした。

 

 

 

 

 

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市民農園´16秋  (bon)

2016-10-25 | 日々雑感、散策、旅行

 また、市民農園の話です。

 時々、チョコチョコッと耕したり、除草したりしているだけですが、春に植えたジャガ
イモは6~7月頃の収穫一番乗りで、夏野菜など(キュウリ、トマト、なす)は、夏場が
盛りで、今は整理されて、冬越ししたタマネギ、ニンニクは7月頃に収穫したりと・・
小さな(15㎡)の市民農園は、一年中次々と畝を回転しながら、季節を楽しんでいます。 
 こんな状態ですから、連作を嫌う作物などに注意するため、このわずかな畝と植え付け
野菜をパソコンで管理しています。 各畝を、春、秋に分けて、それぞれ何を植えたか・・
そんな管理です。 まるでパズルを解くような感じに似ています。

 この秋の状態です。

 青首ダイコン              聖護院ダイコン  
 


 ダイコン2種(青首と聖護院)は、順調に成長しているようです。9月15日に種まきをして、
月末に2本立ちに、そして10月8日に1本立ちにして、それから2週間ちょっとの状態です。 
昨年は、青首と三浦を播きましたが、若葉の頃から今一つ元気なく、やはり大きく育ちません
でした。失敗の原因もつかめていないまま、今年を迎えていますが、この状態を見ると何とか
うまく育ているようでホッとしています。 聖護院ダイコンは初めて試してみるのですが、
もしうまく収穫出来たら、千枚漬けなど作ってみようかと思っています。

 長ネギ                  ネギを真ん中に左が聖護院、右青首です 
 


 こちらも初めて植えた長ネギです。 春3月に種をまき、7月に畝に定植しました。 
近所の畑の人が、定植時の苗の扱い方を教えてくれたりして参考になりました。 写真は、
3度目くらいの土寄せ状態ですが、もっと高く土寄せしてもよいかもしれません。霜がおりて
甘さがぐっと増す寒い時季に収穫したいと期待しているところです。このように、心待ちして
いる間が最も楽しい時なのかもしれません。

        サトイモ (葉がだいぶん倒れています。) 
         


 蓼科と同じ時期に植えていますから、(先刻、蓼科農園で試し掘りして豊作を確認して
いますから)、こちらの平地では、もうすでに掘り上げてもよいのかもしれません。
昨年も豊作で、もう少し葉が黄ばんできた頃に掘り上げましたから、もうちょっと我慢して
みようと思っています。少ししか作っていませんが、近所の人も楽しみにしているので、
できるだけ上品質に・・などと思っている次第です。

        ブロッコリー   
          
 

 先月(9月)11日に、蓼科から持ち帰った苗5本を植えたところ、苗がしおれた感じでした
ので心配でしたが、そのうち3本が生還し、うち1本は、虫に食べられて坊主状態に・・。
ですので、写真は、2本の元気な姿をご紹介しています。ちょっと成長が遅いのかもしれません。

 ほうれんそう(奥にしゅんぎぎく)    しゅんぎく  
 

 

 1つの畝に、半分ずつ種まきしました。 間引きしないでも良いようにと、できるだけまばら
に蒔いたつもりでしたが、かなり混雑しています。もう少し大きくなれば、間引きした方が、
その後の成長には良いでしょう。寒冷紗をかけています。

         ピーマン   
         

 ピーマンは pookyさんが作った苗をいただいて、6月に植えました。 4本あります。
今年は、4本とも立派に成長して、果実も市販並みの しかし新鮮そのものが収穫できています。
4本もあれば、3日毎に収穫できますから、おすそ分けも大丈夫です。昨年も、同じように
しましたが、1本しか育だちませんでした。

         小かぶ  
            

 寒冷紗もかけないまま、今月半ばに筋蒔きしました。発芽の状態を見ると、厚く蒔きすぎ
ていたりして、あまり心を入れずに作業をしたことがよく表れているようで、ちょっぴり
反省しているところです。これこそ、10㎝間隔ぐらいに間引かないと、いけないでしょうが、
どうも間引くのが苦手です。 ならば、種まき時にもっと配慮しておくべきだったですね。

 

 珍しいものもなく、ただありきたりの野菜ばかりですが、こんな他愛ない日常を過ごすこと
ができる幸せに感謝するべきでしょうね。何かを育てたり、関心を持って接する対象がある・・
そんな自分だけの小さな世界があることに感謝しています。 
 今月末には、蓼科農園の“大収穫祭”があります。大勢が集まり、賑やかに・・
楽しみです。

 

 

 

 

 

 

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霜降  (bon)

2016-10-23 | 日々雑感、散策、旅行

 今日、10月23日は、霜降です。“そうこう”と読みます。“しもふり”ではありません。
二十四節気の18番目で、太陽黄経が210度のときで、10月23か24日頃です。露が冷気によって
霜となって降り始めるころで、楓や蔦が紅葉し始める頃ですね。テレビでも、紅葉前線など
といって観光地を紹介しています。
 この日から、「立冬」(11/7)までの間に吹く寒い北風を木枯らしと呼ぶ・・とありますが、
実感としては、もっと冬の感じのような気がします。

 霜降は、昨年は10月24日でした。このあと、2019年、23年が24日で、それ以外は23日とな
ります。 どうでもよいことですが、2028年から63年までは、ずっと23日なのだそうです。

 七十二候では、

   初候
    霜始降(しも はじめて ふる):霜が降り始める(日本)
    豺乃祭獣(さい すなわち けものをまつる):山犬が捕らえた獣を並べて食べる(中国)

   次候
    霎時施(こさめ ときどき ふる):小雨がしとしと降る(日本)
    草木黄落(そうもく こうらくす):草木の葉が黄ばんで落ち始める(中国)

   末候
    楓蔦黄(もみじ つた きばむ):もみじや蔦が黄葉する(日本)
    蟄虫咸俯(ちっちゅう ことごとく ふす):虫がみな穴に潜って動かなくなる(中国)

と、平均的な気候を表していますね。 昔は、これらの暦によって、農作業の目安にしていた
のですね。稲類は、既に刈り終える、マメ類も収穫する、春咲き球根などの植え付けを始め
る・・など、農事歴を作成していたのです。

 ところで、霜が降りる・・日本語では、霜が発生することを、「霜が降りる(おりる)」
「霜が降る(ふる)」といいますね・・ 霜が降りる気温は、その周辺の温度が0℃以下で
あることが条件だそうですが、通常、気温は地上から1.5mの高さで観測した温度です
から例えば、気温が3℃と発表されていても、地面の温度は0℃以下になっていることが
あるのですね。このような現象が、この時期には起こり易い・・農業はもちろん、花や植物
の栽培にも霜は要注意ですので、大事な節気です。なので、農作業では、霜対策をするなど
が必要なんですね。

 蓼科農園では、サツマイモを植えていますが、月末に収穫祭を計画していて、その時に、
みんなでサツマイモ掘りをしようと半分残しておりますが、先日の作業の時、既に霜注意報
が出ていたというので、大事なサツマイモ(植わった状態で)の上に、大きなビニールシー
トをかけて対策としました。

  霜対策(簡易)2種 (ともに、ネット画像より)
        
 (用土の袋を円筒にして支柱にかぶせる)  (ペットボトルの上側を利用)


 ネットには、空気と接触している物体の表面の温度が霜点(温度が0℃以下のときの露点の
こと)よりも低くなると、空気中の水蒸気が昇華し、物体の表面に微細な結晶構造を持つ氷
が成長する。この結晶のこと、あるいはこの現象自体を霜と言う。着氷現象の一種である。
地中の水分が凍ってできる霜柱(しもばしら)とは異なる。 
とありました。難しいですね。

 この時期に最初に発生した霜を初霜(はつしも)、最後に発生した霜を終霜(しゅうそう)
などといいますが、農作業では、この霜の被害は大きいので、まだ秋の段階で降る「早霜
(はやじも)」や、もう春になっているのに降る「晩霜(おそじも)」が特に注意が必要に
なるのです。農家では、霜注意報に敏感になります。霜が毎朝降りるような冬の時期には霜
注意報は発表されません。また、夏も近づく八十八夜・・(現在の暦では5月2日ごろ)の
時期の言葉として「八十八夜の別れ霜」(忘れ霜、泣き霜)というものがあり、この時期ま
で霜が降りることがあるようで農作業には注意せよ、ということを意味している とありま
した。

  ・・・ 

 百人一首でお馴染みの・・

   心あてに 折らばや折らむ 初霜の

          おきまどはせる 白菊の花 

                 凡河内躬恒(29番) 『古今集』
               (おうちこうちのみつね)

 ネット訳:「もし手折(たお)るならば、あてずっぽうに折ってみようか。
     真っ白な初霜が降りて見分けがつかなくなっているのだから、白菊の花と。」
                  (置く=霜が降る、降りる)
            (ネット画像を加工しました。)

 

 

 

 

 

 

 

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御茶ノ水  (bon)

2016-10-21 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日の東京は良いお天気で日中は27~8℃という暑さでした。北海道では初雪が降った
というのに・・。

 久しぶりのランチの会は、お茶の水界隈の散策でした。お昼前に、JR御茶ノ水駅・聖橋
口で待ち合わせて、まずは早めのランチとなりました。 久しぶりでもあったせいか話題が
尽きず、食後のコーヒーを入れると有に2時間のランチだったのです。 久しぶりといっても、
しょっちゅうメールでラグって(話して)いるにも拘らずです。不思議ですね・・。メンバー
の中の最高齢者(89歳)のH氏は、今もって矍鑠とされていて、その昔、この界隈に住んでい
たというだけあって、大変物知りで、お話も泉のごとく出てくるのでした。 界隈の歴史的な
事柄だけでなく、健康医学、教育関連、映画・TV技術などと大変な知識家で、まるで“お茶
の水博士?”みたいな方で、一同大いに盛り上がってしまいました。

聖橋(現在、長寿化工事が行われていました。)  御茶ノ水駅(JRとメトロ) 
 
                    (上がJR、下はメトロ丸の内線、その下は神田川)

           


 ランチの後は、お目当ての「湯島聖堂」に向かいました。聖橋を渡ったすぐのところを右に
石段を下りた森が孔子廟で、大きな楷(かい)の木が植えられて、その奥には立派な孔子像が
建てられていました。湯島聖堂は、1690年5代将軍、徳川綱吉によって建立された孔子廟で、
後に幕府直轄の学問所となります。昌平坂学問所(昌平黌)とよばれ、東京師範学校(現在の
筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学) の源流となっているのですね。
「日本の学校教育発祥の地」とされているそうです。 学問成就を叶えてくれるとあって、
近くの湯島天神(湯島天満宮)と並んで、時季には大賑わいとなるそうです。都心のど真ん中
にありながら、閑静なたたずまいを残し重厚な雰囲気を醸していました。若い外国人も訪れた
りしていました。

 孔子廟(大成殿)            孔子像 
 

 

 湯島聖堂を出て、本郷通りを渡ったところに「神田明神」があります。入口鳥居脇には
老舗の甘酒屋があり、菓子なども売っていたので、飴を買いました。

 神田明神は、正しくは神田神社で、江戸3大祭りの一つ「神田祭」で有名ですね。神田明神
の歴史は古く、1300年を遡るそうですが、平将門の乱(935年)で敗死した将門をこの地の傍に
葬られましたが、その後(1300年ころ)神田神社の相殿神として祀られたとあります。
江戸時代には、総鎮守として尊崇されたそうです。境内は思ったよりは広く、平日だというの
に、多くの人が参拝に来ていました。

 神田明神鳥居              境内  
 

 

  午後の暑い最中でしたが、来た道を戻り再び聖橋を渡って、ニコライ堂に向かいました。
この側は、これまでに何度も通ったことはありましたが、このように立ち止まり写真を撮っ
たり、中に入ったりしたのは初めてでした。正しくは、「東京復活大聖堂」というのだそう
です。復活?とは、すなわち、“キリストの復活”を記憶する大聖堂なんですね。 日本に
正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライが建立したことから
“ニコライ堂”と呼ばれ親しまれていますが、聖ニコライを記念した聖堂との意味ではない
とあります。また、ロシア正教会の聖堂でなく、あくまで、日本正教会の聖堂なのだそうです。
実施設計の担当は、あのジョサイア・コンドルなんですね。

 ニコライ堂               正面   
 

 

 余談ながら、「ニコライの鐘」を作曲した、古関裕而は、ニコライ堂の聖歌指導を務めた
作曲家の門下生だそうで、 また、ユダヤ人にビザを発行したことで知られる杉原千畝も
かって、ここニコライ学院で教鞭をとっていたそうです。

 

 季節はずれの暑い秋の午後、のんびりと都心の散策を終えて、近くでお茶し、またまた
長い談笑を繰り返して、ようやくお開きとしました。特に、どこというでもなく、極めて近
場で、よく知るところも このように、じっくりと話しながら巡る楽しさをかみしめた一日
でした。ランチ処を含めた企画設定に感謝して・・。 


          

 

 

 

 

 

 

 

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ウーバ―・イーツ  (bon)

2016-10-19 | 日々雑感、散策、旅行

 以前に比べると、体力はガタ落ちで、蓼科農園などでも疲れますが、まだ、足腰は大丈夫で、
自力で歩けています。  ところが、世の中の動きというか、特に技術・・ITなどに関しては、
既に蟄居の状態で、完全に老人となってしまいました。 ケイタイは未だ、ガラケーですし、
眼鏡は、近場用専用も、さらに最近ではハズキルーペなどというものを側に置いたりもしている
有様です、トホホ・・。

 こんな状態ですから、掲題の“ウーバー”なる言葉も、初めて知ったようなことで、全く
お恥ずかしい限りです。  昨日の読売新聞朝刊に、「ウーバ―・イーツ好調」の見出しで、
なるほど・・と思った次第です。

 ウーバー・イーツというのは、“料理の出前サービス”で、配車サービスを本業としている
アメリカのウーバーテクノロジー社の日本法人「ウーバージャパン」がこのほど(今年9月29日)
東京、渋谷区および港区の一部でサービスを開始したというのです。 どのようなサービスかと
いえば、ネットによれば『加盟しているレストランの料理をスマホの専用アプリから注文すると、
このサービスに登録している「パートナー配達員」が指定した住所に商品を届けてくれるという
ものだ。利用者がウーバー・イーツが提携しているレストランから好きなメニューを選ぶと、
配達員に連絡が行き、自転車や原付きバイクなどで商品を届ける仕組みになっている。』 とい
うのです。これまで、“出前”をするときは、お店に電話をかけて注文しますが、お店が分から
ない時などは、何かで調べるとか煩わしい手間がかかります。スマホアプリで、簡単に手元で
検索して、メニューなども見ながら注文できれば、いつもの場所でなくても注文ができますね。
レストランなどのお店側にとっても、馴染みでないお客からでも注文が採れるし、パートナー
配達員がいるので、出前で人出が取られることもないわけで、たしかにすぐれものかもしれま
せんね。で、新聞記事によると、サービスのスタート後これが好調だというのですね。
レストラン等は150店以上加盟しているようで、1日50件も注文が入るなど大変良い滑り出しだと
いっています。

         ウーバー・イーツ
          (ネット画像より)


 このサービスのコンセプトは、IT(スマホアプリ)によって、需要者と供給者をうまく
マッチングさせ、その上配送サービスまで連携させるという点で、新しい技術を活用したビジ
ネスモデルとして脚光を浴びています。『レストランにとっては、新規顧客にアプローチする
機会が増えるのに加え、新規投資なしでデリバリービジネスに参入できるメリットがある。
配達はUberのパートナー配達員が担当するため、ドライバーや車両などの初期投資が不要で、
固定費を増やさず出前に参入できるというわけだ。既にデリバリーをしている店も、配達圏を
広げたり、配達コストを削減するなど、収益の改善が期待できる。』 また、『 パートナー
配達員はスクーターや自転車、徒歩などで配達し、Uberからの支払いは週単位で行われる。
現時点での配達員は男性85%、年齢は20~40代が多いが、シフトや場所にとらわれずに柔軟に
働けるメリットから、学生や女性、早期リタイア世代の配達員も増えると見ている。
』と評され
ています。

 ウーバー・イーツ「UberEATS」は 今年1月のカナダを皮切りに規模を拡大し、現在はサンフ
ランシスコ、パリ、ロンドンなど、7カ国33都市で展開してきており、東京は8カ国34都市目な
のだそうです。

 しかし、課題もあるようです。お店と関係のない配達員が食品を届ける・・というのは、
なんだか安心できないですね。サービス上は、店舗がすべて責任があるのだそうですが、配達
員をどこまで信頼できるか、個人的にもやや躊躇するところですね。 配達員の交通事故やその
他の事故は誰が責任を持つのか? また、注文者が満足できなかった場合のクレーム先は、
どこになるのか?など解決しなければならない事項は多そうです。

 

 そもそもウーバー「Uber」とは、アメリカの企業「ウーバー・テクノロジーズ」社が運営
する、自動車配車サービスで、現在は世界70カ国・地域の450都市以上で展開しており、日本
では、2013年11月より台数限定でのトライアルサービスを行い、2014年8月より東京都内全域で
本格的にタクシーの配車サービスを開始しているのです。(知りませんでした。)

 「ライドシェア」というそうですが、利用者はあらかじめサービスに登録して、スマホの
専用配車アプリを使って、ウーバーに加盟しているタクシー(含むハイヤー)会社を開いて
車のタイプなどを決めて、GPSで表示される自分の現在地から近くにいる車を選ぶのです。
 簡単な操作で、スピーディーに車を手配することができて、正確な時間と場所で、迎えに来
た車に乗り込むことができる。乗車後は、あらかじめ登録したカードによって料金を決済します。
また、ユーザーは乗車したドライバーに対する評価ができるようになっていて、ドライバーの
運転マナー、接客態度の向上につながっているといいます。

 2010年の創業からわずか5年で、50カ国259都市以上に進出しており、2015年の予約売上は
108億4000万ドル(約1兆3000億円)と推定されています。現在の企業価値はおよそ5兆円にも
のぼるといわれています。

 このビジネスモデルが、「シェアリングエコノミー」HPにありましたので、以下にコピペ
しました。 上でも述べましたが、あたらしい技術(スマホ+ネット)によって、既存サービス
をより効率的に実現し、利便性を高める、つまり新しいサービスとして実現しているのですね。

      ライドシェアのビジネスモデル
       
シェアリングエコノミーHPより)

 

 ついでに、シェアリングエコノミーHPに、次のような記事がありましたので、興味深く
再掲させていただきました。

『「新しいビジネスモデルの競合が市場に参入することで、既存の企業が減衰する現象」を
「Uber症候群」と言い表すようになりました。世界各国で展開されているUberによって、
業界が変容していく過程を受けてできた言葉です。「ウーバライゼーション」とも呼ばれて
います。

 アメリカでの事例ですが、2016年1月にサンフランシスコ最大のタクシー会社が、日本の民事
再生法に該当する倒産の手続きをするニュースがありました。
 
事故による多額の賠償金や乗車率の低下、Uberなど配車アプリサービスとの競争激化が原因
だったとされています。乗客を奪われただけでなく、ドライバーがUberやLyftに流れて運転手
の確保が困難になったことも要因の一つにあったようです。

 このように、ウーバライゼーションで既存産業が圧迫される可能性があるのは、何も自動車
交通業界に限った話ではありません。
 
UberのようにITを駆使して、サービス・アイテム・空間など様々なジャンルのモノを、ユー
ザーが必要な時にシェアできるビジネスモデルは、「シェアリングエコノミー」と呼ばれ、
注目されています。シェアリングエコノミーは、購入・消費中心の経済活動を、共有へシフト
させているのが特徴です。

 すでに知名度の高い民泊サービスAirbnbの他、着ていない衣服を貸し出すStyle Lend、家事
などの雑務代行サービスTaskRabbitなど、バラエティに富んだサービスがローンチされています。
日本でも、次々とシェアリングエコノミーのビジネスモデルが生まれています。
 
今後IT効率化によって、新しいビジネスモデルに既存産業が侵食されていくかもしれません。』

  

 また、2015年10月4日、リサイクル可能な衣類を回収して東北に届けるというチャリティー
イベント「UberRECYCLE」を開催したそうです。イベント期間中、対象エリア内でウーバーの
アプリを開くと、配車に加え「RECYCLE」メニューが出現し、前日に講習を受けてドライバー
アプリをインストールしたボランティアドライバー(一般人)が自家用車で向かい、衣類を
回収するというイベントだったようです。

 2016年5月25日、トヨタ自動車とライドシェア領域における協業を検討する旨の覚書を締結
したともありました。

 まったく、関連はありませんが、ネットを見ていると、UVERworld(ウーバーワールド)と
いうのがありました。こちらは、滋賀県出身の日本の6人組ロックバンドでした。2000年頃
デヴューしたとありました。

 

 

 

 

 

 

 

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川越まつり  (bon)

2016-10-17 | 日々雑感、散策、旅行

                  昨日は、プロ野球クライマックスシリーズ・ファイナルステージで
      日本ハムが勝ち、いよいよ日本シリーズは、セ・パ両リーグ優勝チームの
      広島ー日ハムの決戦となりました。楽しみですね。また、昨日は、日本オー
      プンゴルフで、松山英樹が安定したゴルフで国内メジャー初優勝に輝きました。  
      さわやかでした。

 

 先の土・日(15~16日)は川越まつりでした。古い蔵造りの街並みに繰り広げられる祭りは、
例年大勢の観光客で賑わいます。 埼玉県川越市は、都心から40分~1時間程度のところに位置
し、西武新宿線本川越駅、JR/東武東上線川越駅そして東上線の川越市駅を加えて、中心
市街地に3つも駅があり、車でも関越自動車道川越IC、国道254などが通過する県内3番目の市
です。
 昨日の、日本オープンは、この近く入間市のゴルフ場でしたし、12日には、首都大停電を起
こした電力ケーブル火災は、国道254脇の新座市付近の洞道施設で これもエリアです。 この
火災は、ちょうど蓼科農園からの帰路、国道254の下り前方に、ピンポイントから立ちのぼる
黒煙が黙々と空高くまで伸びるのを見ながら走行したのでした。
 前置きばかりで、記事が終わってしまいそうですが、川越は私が埼玉県に住み着いてから、
親しみのある街の一つとなっています。

 

 本題の川越まつりは、1648年、当時の川越藩主、松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿・獅子頭・
太鼓等を寄進し、祭礼を奨励したことに始まり、その後、華麗な行列が氏子域の町々を巡行し、
町衆も随行するようになったとあります。この祭祀、祭礼が「川越まつり」の起源となってい
ます。関東では数少ない山車の引き回しの祭りです。江戸時代には、“踊り屋台”が当時の
花形として人気があり、現在も、演じられています。 また、祭りの夜の見ものとして“曳っ
かわせ”があり、双方の山車が繰り広げる光景は、幻想的な夜の街を演出するのです。

          川越まつり
           (ネット画像より)
             (蔵造りの街を練り歩く・・)


 川越は、新河岸川の舟運によって、リアルタイムに入ってくる江戸の風流、風俗を取り入れ
ながらこの祭礼も大いに発展したといわれています。360年以上続くこの祭りは、2005年に
「国指定重要無形民俗文化財」に指定されています。

 そもそも、川越は、武蔵野台地の北端、荒川と入間川が市内で合流する地理的な要衝で、
平安時代には豪族の河越氏が興り、鎌倉幕府で権勢を誇り、室町時代に太田道灌によって
「河越城」が築城されるなど、江戸時代以前は江戸を上回る都市で、「江戸の母」と称され
たといいます。 江戸時代に入り、舟運で、江戸と直結した物流の要衝ともなり、この地は、
武蔵国一の大藩としての格式を持ち、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保など大老・
老中クラスの重臣や越前松平家が配され、商工業や学問の盛んな城下町となったのです。
「小江戸」(こえど)の別名を持つています。今でも、“小江戸川越”などと言っています。
また、国から「歴史都市」に認定されており、戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残って
いて、市内の観光名所などに、年間約620万人もの観光客が訪れる観光都市となっているのです。

          川越のシンボル 時の鐘
            (川越市HPより)


 川越藩によって殖産政策が遂行され、農産物や絹織物・工芸品など市場競争力のある特産品
開発がなされたとあり、中でも、狭山丘陵での河越茶(狭山茶)、武蔵野の開墾地のサツマイ
モの栽培が盛んとなり、舟運で江戸に出回ったサツマイモは川越芋と呼ばれ「栗よりうまい
十三里」というフレーズと味の良さで「イモの町」のイメージが定着し、今でもその名残があ
るのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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鉄道の日  (bon)

2016-10-15 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日(10月14日)は、鉄道の日で、記念日の一つです。もともと、鉄道省によって、大正
10年(1921年)10月14日に「鉄道記念日」として制定されたのでした。 日本初の鉄道が
開業したのは、明治5年(1872年)9月12日に、新橋~横浜(現、汐留~桜木町)間29kmであり、
式典では、明治天皇のお召列車が区間を往復したとあります。この日が、新暦で10月14日に
あたるのと、大正10年のこの日に、鉄道開業50周年を記念して東京駅に鉄道博物館(初代)が
開館したことを記念して、鉄道記念日が制定されたのでした。

 しかし、新橋~横浜間の鉄道は、既に明治5年5月7日(4か月前)に仮開業という形で1日6~
10往復で運行されていました。 明治3年頃より、具体的な鉄道建設の測量が開始され、工事
を経て実際に蒸気機関車がレールの上を走る“陸蒸気”(おかじょうき)に、人々は大変な
驚きと新時代到来を感じたことでしょう。
 開業時の全区間の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘であったそうです
が、下等運賃でも米が5升半(約10kg)買えるほど高額なものであったといいます

          浮世絵に描かれた開業当時の鉄道(横浜)
           (ウイキペディアより)

 

 1949年には、日本国有鉄道が出来、記念日はそのまま国鉄の記念日となり、民営化(1987年)
後も引き続きJRグループの記念日として祝われてきましたが、1994年には運輸省により、より
広くすべての鉄道事業者が祝う記念日として「鉄道の日」と改称されたのでした。 
 第1回鉄道の日には、当時102歳の長寿双子姉妹きんさん・ぎんさんが一日東京駅長を務め、
東北・上越新幹線ホームで新潟行き「Maxあさひ309号」の出発指示合図を行ったとありました。

 今も、この日を前後して、全国的にイベントが開催されていますが、日比谷公園では、今年
10/8~9に 第23回鉄道フェスティバル が開催され毎年大賑わいだそうです。

 

 そもそも、イギリスのジェームズ・ワット(1736~1879)が蒸気機関の改良型を実用化し、
産業革命の進展に大きく貢献し、それが蒸気機関車として1825年、イギリスのストックトン -
ダーリントン間で貨物鉄道の運行が開始され、その5年後にリヴァプール - マンチェスター
間に旅客鉄道として開業したとあります。日本人がこれらのことを知ったのはそれから10年
後の1840年代なのだそうです。 
 そしてさらに、10年以上経った、1853年にロシアのプチャーチンが長崎に来航した折に、
船上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せたのが始まりで、翌年にはペリーが2度目の来航
をした折に、大型の模型を幕府に献上したそうです。日本の役人を屋根に乗せて時速約20マイ
ル (32km) のスピードで走ったとの記録があるそうです。 これらに刺激を受けて、田中久重
(からくり儀右衛門)が全長27mのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させているのです。
 それやこれやで、鉄道熱はますます盛んになり、明治2年(1868年)には、北海道の炭鉱で、
鉄板で補強した木のレールを使用し、牛馬で運行した鉄道?がありました。その後、本格的な
鉄道敷設計画が提案されますが、具体的になったのは明治維新後間もなくであったとあります。
それでも、当時、欧米列強諸国による植民地化が進んでいることもあり、慎重論もあったそう
ですが、国民の近代化に向けた動きから、鉄道の建設は本格的となったのです。 そして、
首都東京と港のある横浜の間、29kmの敷設が明治2年に決定したのです。

 鉄道発祥国のイギリスの技術力を評価し、イギリス人技師を建築師長に据えるなどお雇い
外国人を招き、本格的工事が始まったのでした。 枕木などは、経費、工事の点から木材製
とし、橋梁も木製と決め、軌間は当時の輸送量を勘案し、費用削減、カーブの多い状況な
どから狭軌が採用されたのだそうです。 日本の築城技術が、これら敷設工事に高い評価が
あったそうです。

 また、ちょっと奇異に思えるのですが、鉄道が当時の日本人にとっては未知のものであった
ことから、線路を敷設することに、多くの反対運動があり、結局、薩摩藩邸などがあった芝 -
品川付近では、築堤を海上に築き、その上に線路を敷く方法がとられたりして、全線29kmのう
ち、1/3にあたる約10kmがこの海上線路になってしまっているそうです。

 幾多の困難を克服して、線路工事が完成し、停車場などの整備も順次進められ、明治5年5月
7日の仮開業にこげつけたのですね。機関車など車輌はすべてイギリス製であったそうです。

         開業時に輸入された1号機関車(後の国鉄150形)
            (ウイキペディアより)


 明治5年といえば、その12月2日(旧暦。新暦では12月31日)に天保歴が廃止され、新暦に
変更されたために、開通(10月14日)して間もなくの鉄道の発着時刻の対応を迫られることに
なったのです。 大変な混乱だったでしょうね。 その後、鉄道は急激に発展し、列車本数が
増える他、明治29年には急行列車が導入されるなどによって、“列車ダイヤ”の必要性が生じ、
ここでも、イギリス人技師「ページ先生」の出番となるのです。(ページ先生、当ブログ
2011.12.30ご参照)

 鉄道の日 から、ちょっと深入りしてしまいました。 鉄道ファンの方には、まだまだ物足
りない内容ですが、日本の鉄道は、1906年に、鉄道国有法が可決され、大手私鉄17社を買収し
翌年国有化が完了したのです。その後も、鉄道は目覚ましい発展を遂げ、東海道新幹線をはじ
め 日本中に新幹線が開通し、1987年の民営化後は、列車そのものも快適さが増し、豪華列車
なども登場しています。 今国会では、自民党議員の質問に、“日本中の新幹線網構築につい
て、持論を展開していました。すなわち、先の北陸新幹線を延長し、山陰、四国を中心とした
網構想が提案されていました。”さらに、リニア―へと夢はまだまだ広がって行くのでしょう。


 記事アップの時刻が、遅くなったおかげ?で、夕方東の空に大きなお月様を見ました。
旧暦9月15日の月で、一昨日は“十三夜”だったのでした。満月は、明日です。

         旧歴9月15日のお月様 
             
                    (2016.10.15、17:40頃 東10度)

 

 

 

 

 

 

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収穫祭準備´16  (bon)

2016-10-13 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 天候不順が続いていた中、蓼科の10/10~12は、抜けるような秋晴れではありませんでした
が、畑作業には丁度良いお天気で、除草、試し掘り、ネット除去など順調な進捗で、余裕の中
で予定作業を終了することが出来ました。

 まだ刈り終えていない周りの田圃は、こぼれるような黄金色した稲穂がたわわに実り、豊か
な秋の景色が続いていました。畑のコスモスもまだ咲き乱れていて、これで2ヶ月にわたって
畑を飾ってくれています。

  
    畑に向かう                  コスモス健在 


 試し掘りのつもりで、取りかかったサトイモは、地上の葉はまだ青々としていたので、どう
かな? と、案じながら掘ってみると、なんと! 大きな株には、たくさんの子芋が土に隠れ
て付いていたのです。 大きめの株には、30個以上もついているなど、すでに大豊作でした。
あの、小さな1個の種イモがこんなに大きく、たくさんの子芋になるとは・・、まさに天地の恵
みなんですね。 4畝のうち、1畝だけ掘り上げて、後は収穫祭でのお楽しみとしました。掘り
上げた1畝だけでも、有に500個を超える小芋が収穫できたのではないかと思います。 

  
                  サトイモ掘り


 昨年不調だった、サツマイモは、地上の葉の茂りは昨年よりはるかに元気で大きく密集して
いますが、肝心のイモそのものの出来はどうか? この時期だとまだ少し早いかも・・など
不安を抱えながら掘ってみると、何と! こちらも大きなサツマイモが出てきました。次の株も、
大きなベニアズマの赤い色が地中に顔を覗かせていました。この時点で、こんなに成長している
サツマイモに一同驚いたのでした。 翌日、畑のたき火でホイールに包んだ熱いホクホクの焼き
芋は、ほど良い甘味でとても美味しくいただきました。 秋の日差しの中、掘り上げた焼き芋を
その場でいただく、素朴の中にも深い喜びと満足を覚えるのでした。 pookyが、“霜注意報が
出ていた”というので、2畝の半分を掘り上げ、残る半分は次回の収穫祭でのお楽しみに取り
置き、上部にはビニールシートをかけて霜よけをしておきました。

   
                 


             
              取りたての焼き芋に満足


 今年を振り返ってみますと、7月上旬のタマネギ、ニンニク、下旬のじゃがいも、9月のスイカ
の豊作にびっくりし、かぼちゃもまぁまぁ、そして今回のサトイモ、サツマイモなど、どれも
上質で大量収穫でき、上々の年となりました。この他、例年好調のビーマン、パプリカ、なす、
トマト、ダイコン、タカノツメ、ラディッシュ、春菊、ミズナなどなど・・
みんな大満足でした。
 始めての、ごぼう、にんじん もまずまずでした。今年は、総じて雨が多か
たのと、温暖化
の影響なのでしょうか?

 外から観察するだけですが、黒豆も例年より大粒で、実成りも良い感じで来ています。収穫が
楽しみです。

  注目ポイントとして・・・

・スイカが、今回(10/10)時点でまだ2個畑に出来ていて、うち1個はしっかりとしていまし
たので持ち帰り切ってみると、中は赤くしっかりとしていました。早速食してみましたら、
やや、食感が頼りない感じですが、甘みもありまぁまぁでした。

・サツマイモ・・・大きくずんぐりした型でしたが、例年のような表面のゴツゴツ感がなく、
中身もきれいで、掘り立てでも甘味もあり上質でした。植え付け時に、コーヒーのドリップ
カス、緑茶カスを土に混ぜこんだのが良かったのか?

 こんなことを話し合う余裕も生まれてきたのでした。

             
         雲の上の八ヶ岳 左から横岳、阿弥陀岳、権現岳


 下旬の収穫祭会場(?)予定の場所は、ジャガイモを掘り上げ(7月)た跡を設定しており、
今は畝にはすべてに雑草が茂っていました。畝間の防草シートを剥がしたあと、これら雑草を
刈り、会場予定場所は準備できました。

 スイカ、かぼちゃを鹿から守るために囲っていたネット(50m)をはずすと、何だかスッキリ
と広々とした感じになりました。このコーナーの土壌はあまり良くなく、今回限り?で見放す
予定でもあったのですが、このような成果が出てしまうと、また思い直して来年もまた対象コー
ナーに残るかもしれません。

 

 前回(9月)に蒔いたタマネギの種からは、細い芽が延びていました。今後の気温、寒さで
うまく成長するか気にかかりますが、寒さが来る前に もみ殻、稲わらを施し、ビニール覆いを
かけ、様子を見守ることとしました。例年、タマネギは、pookyが、練馬で苗作りしたものを
畑に植え付け冬越しをしていますが、もし、種(直か)蒔きで成功するのであれば、かなりの
省力化がはかれることになります。

 同時期に植えた、ニンニクは、黒マルチの4~5cmの穴から2~30cmほどの葉が出ていました。
昨年より大きなタネを植えましたから、出来栄えを期待しているところです。

           

 

 今回の予定作業は、無事完了し、いよいよ今年最大のイベント「大収穫祭」を月末に迎える
準備が整いました。振り返ると、夏前あたりから、毎回、その時の野菜を大量収穫をしてきて
いますから、最終の次回は、特に“大収穫祭”と命名し、大阪方面のメンバーも参加予定で
大いに賑わうことでしょう。
 今からワクワク・・楽しみです!!

             
                  出来上がり 


  

    お楽しみ、オートスライドをアップしました。(5分強あります。)

 



 

 

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体育の日  (bon)

2016-10-10 | 日々雑感、散策、旅行

今日10月10日は体育の日です。

「体育の日」は、昭和39年(1964年)の東京オリンピックの開会式が行われた10月10日を
記念し、昭和41年(1966年)に国民の祝日として制定されました。 最初の体育の日も
10月10日の月曜日だったそうです。 平成12年(2000年)からは、「ハッピーマンデー制度」
の適用によって、10月の第2月曜日とされています。 たまたま、今年は、それが、10月10日
(月曜日)となっているのですね。

 体育の日とは、祝日法によれば、「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」という
主旨だそうで、気候も良くなり運動会や各地で催しものが開催されたりしています。

 1964年の第18回東京オリンピックの時は、暑い夏の開催を避け、夏季五輪としては、やや
遅い10月の開催と設定されたようですが、最近では、IOCは、夏季五輪は、7/15~8/31の
期間に設定するという前提を設けているため、2020年東京オリンピックは、暑い夏、7/24開幕、
8/9閉幕の開催とされています。IOCがなぜこの期間を設定しているかについては、定かでは
ありませんが、アメリカなどのTV放映による収入(放映権収入)が一つの決め手になっている
とか・・?

 10月に入っても、真夏日があったり・・と、昨日まで、お天気はちょっと不安定でしたが、
今週は、涼しい秋晴れが続くとか・・の予報で、いよいよ行楽地も賑わうでしょう。 また、
運動会や秋祭りなどの行事も各地で賑やかに繰り広げられることでしょう。

 子供の頃、やや肌寒さを覚える運動会には、まだ青いミカンがおやつの中に入っていて、
見た目には、酸っぱそうなのに、皮をむくと、香りが一面に広がって、口に入れるとそれほど
酸っぱくなく、運動の合間に美味しい思いをしたことを思い出します。 運動会は、最近では、
春に行われる(NHKテレビで、66%の小学校で春実施といっていました)ところもありますが、
私などは、秋が来ると運動会シーズンと刷り込まれているのかもしれません。 孫たちの運動会
も、中学あたりまでで、それ以上になると、呼ばれなくなるし、何やら大人びたりしているので、
小学校の時のような感動はなくなるのですね。

       
             



 今日はこれから、蓼科農園に出発します。 今月末に予定している収穫祭の準備で、事前
に収穫祭のためのカマドを畑に作ったり、場所の整理などの作業があります。その他には、
タマネギ苗などの植え付けや除草、そして近隣から稲わらを分けてもらったりの仕事があり
ます。 9月初めに蒔いた、葉物野菜の状態なども確認したいところです。

 お天気もまずますで、秋たけなわの蓼科に行ってきまぁ~す!

<余談です。> アメリカ合衆国では「コロンブス・デー」を由来として、10月の第2月曜日
に多くの州で祝日となっているとありました。

 

 

 

 

 

 

 

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神楽坂研究(4)  (bon)

2016-10-08 | 日々雑感、散策、旅行

 急に秋らしく、涼しくなって来ました。 今年は、つい先ごろまで夏日が続きましたね。
北海道では、既に大雪山には冠雪があり、冬が到来しました。

 神楽坂研究(3)に続いて、間髪を入れず、(4)が届きました。神楽坂が好きだった
夏目漱石を引き合いに、神楽坂ウーマンのあれこれに及び軽妙なタッチの大変面白いエッ
セイです。 早速アップします。

 前置きは、そこそこにして早く本題に入りたいと思います。

 

******若さんの 神楽坂研究(4) 夏目漱石と神楽坂ウーマン*********

 

夏目漱石は神楽坂大好きでした!
 

 

生家周辺風景と早稲田大学 明治27年毘沙門天鳥瞰図 毘沙門天前の賑わい 夏目漱石(1867-1916)

 

 神楽坂の大ファンだった夏目漱石と現在神楽坂に在住の神楽坂ウーマンについて書いてみました。

  今年は、夏目漱石没後100年、来年は生誕150年と記念の年が続きます。早稲田(牛込馬場下横町=新宿区喜久井町)で生まれ、40歳から亡くなるまで早稲田南町に“漱石山房”  と呼ばれた自宅に居住してからは、作家に専念 数々の作品を生み出しました。自宅から神楽坂までは徒歩10-12分、途中の宋柏寺の隣の鰹節屋の女将さんを好きになって日記にもたびたび登場させたりしています。若いころから晩年まで漱石にとって縁(エンターテイメント、飲食、色気)の深い、大事な街でした。

  夏目金之助(俳号:漱石)は生後すぐ養子に出され、8歳(明治8年)の時、養父母離婚に伴い夏目家に戻り市谷柳町の市谷小学校(現愛日小学校)に転校、その後、明治21年第一高等中学校本科第一部(文科:後の東京大学教養学部)に入学、正岡子規と同級になりました。 二人の交友は漢詩文を通じて始まりました。子規は「七艸集(ななくさしゅう)」漱石は房州旅行の紀行詩文「木屑録(ぼくせつろく)」です。子規は漱石の稀に見る天賦の才能を称賛し、漱石を第一等の友「畏友」と呼んでいます*¹。

  一方で漱石は、東京中の寄席めぐり、特に神楽坂の寄席に夢中になっていました。近くに増え始めた肴町の芸者屋通いも熱心でした。花街発展途上の明治の神楽坂では、学生さんもウエルカム! 後々、学生の身分では遊ぶ金にも限界があり、芸者との駆け落ちや、心中などの問題が重なるにつれ全盛期には花街では学生お断りになりました。 漱石が松山中学の先生になったのは、好きになった芸者さんとの手切れ金の借金返済のために高給に惹かれて行ったという説もあります。かなりの遊び人(プレイボーイ)だったのかもしれません。

  大久保通りと早稲田通りの“坂上”交差点の手前にある先生御用達の日本最初の原稿用紙発売で有名な“相馬屋”の前の地蔵坂に“吾輩は猫である”の文中や、自らの談話に良く通った寄席として“和良店亭(わらだなてい)”がありました。 近年、地蔵坂はミシュラン・ビブグルマンの店が2軒、居酒屋3軒、和食・小料理屋、焼き物専門店、中華・餃子2軒などの他に新人飲食店進出がめだつ楽しい坂道横丁に進化しつつあります。 2002年惜しまれて閉店した、フルーツパーラーと洋食の田原屋(毘沙門天右隣)は漱石先生のお気に入りでした。息子たちを連れてきてテーブルマナーなどを教えていたそうです。 近くにいた泉鏡花、尾崎紅葉など文人も多数来ていました。戦後も地元の人や学生に人気、水谷八重子(文京区春日)や歌舞伎役者もひいきにしていました。

  漱石が寄席通いしていた頃、神楽坂に演芸場は5軒ありその後も繁盛していましたが、空襲で焼失。そんな伝統を復活させようと2011年改築した(隅研吾デザイン研修)牛込の鎮守、赤城神社であかぎ寄席 が始まり60回を超える定期開催。明治時代、境内の貸席「清風亭」で坪内逍遥が寄席を開いた縁もあり、落語評論家、山本益博(グルメ評論でも著名)がナビゲーターとして若手と一緒に落語の楽しさを発信しています。彼の奥様で衣装作家の姉妹が私の元部下の奥様。そして故郷札幌の幼馴染で著名な建築家M君が時々赤城寄席に来ているので聞いてみると、山本氏は札幌東高校卒業でした。間接的ですが山本ご夫妻とはご縁があるようです。

  漱石生誕150周年を記念して、新宿区は「漱石山房」と呼ばれる自宅のあった早稲田南町に来年9月開館を目指し記念館を建設中です。ちょうど9月からは、NHK土曜ドラマで「夏目漱石の妻」がスタートしました。これから来年にかけ色々特集されるのが楽しみ。それにしても100年たっても人気ある作家ってすごい!

 
   文具“相馬屋”   漱石お気に入りオムライス 赤城神社の寄席  仮称「漱石山房記念館」

 

神楽坂ウーマンのワーク・ウエイ
 
  神楽坂在住約10年の独身OL、Sさんのオフィスは大手町。毎朝夕、真夏、雨以外はウオーキング通勤(40分)です。70代横綱で大学院生”日馬富士“が通う外堀通り市谷田町の法政大学ビジネススクールの前の新見付橋から坂道を上ると一口坂交差点。 ソフトバンクの孫社長は、突如7月Googleから後任として数百億円でヘッドハントした副社長を”社長続投に欲が出た“と解任。孫さんが10億円損してから、ベンチャー魂で一気に駆け上がったソフトバンク創業地は九段南(一口坂の南側、パワースポットかも)です。 靖国神社方面に左折、九段上の漱石が漢学を学んだ二松学舎を通り過ぎ、北の丸公園を抜け、竹橋から内堀沿いを大手門に到着。 Sさんは乗馬とジムでシェープアップしたホットパンツが似合うスマート・ビューテイ。 通勤最後のルートは、皇居の緑とお濠の水に囲まれ、大手町、丸の内のビジネスマンや外人出張者に超人気のジョギング・エリアと重なります。  

  80年代後半、ニューヨークの早朝見かけた通勤OLはジョッギングシューズを履いていました。(今もそうだと思います)オフィスでハイヒールに履き替えるとのこと。理由は歩道や、メトロの階段などが凸凹しかも、雨や降雪時ヒールのある靴では滑りやすく問題が多いようでした。それに比べると都心の道や、地下鉄はNYよりは圧倒的に上質です。 昔電車の中で何度かヒールで踏まれました、スニーカーだったら我慢できたのにと思います。

 

スニーカー通勤が流行る!

  2014年6月New York Timesが“スニーカーの時代が来る”と特集。すでにパリコレ・ランウエイではスニーカーでモデルが闊歩、デザイナーブランドのジーンズはおしゃれの定番です。同様に、男女ともにスニーカーもスポーツジムを飛び出し町中(まちなか)ファッションの定番になってきました。スマートカジュアルを超えたドレスコードとして認知されつつあるようです。
 一昔前、アッパーイーストサイドの高級レストランは、スニ-カー客は目立たない席ににしかつけなかったのに… 今はと書いています。少なくともウエブベースでの業界では認知されオフィスでもOK。ちなみに、“NYC, Office Woman ,Foot wear”でGoogle images検索すると革靴とスニーカーはほぼ互角の登場です。3.11直後、自転車通勤が一時期急増しましたが元に戻りました。
  千代田区はコミュニテイサイクルシステムをつくりエコ&クリーンな街を目指しているようです。健康のため、目的の駅の1駅手前から歩く人も多くいますので、男女ともにもっとスニーカー通勤が多くなってもよい気がします。(予言)



B.Frankの着こなし 神楽坂Sさん   スポーテイに!  NYCのオフィスでも! 大手門タワー(新) 

 


大手町にあのAMANが登場!星野リゾート東京も!


AMAN RESORTS BALI アマンダリメインプール AMAN TOKYO(大手町) 星の屋東京(大手町)

 

  サラリーマン時代、広岡監督の西武が優勝した1982年(S57)までの5年間、私は大手金融機関担当営業でした。大手町は、都市銀行、生保、長期信用銀行などの金融センターなので良く訪れました。当時は、ビルの高さは9階建が限度。今や、丸の内、大手町エリアは上を向いて歩くとニューヨークマンハッタンです。2015年大手町のど真ん中に(富士銀行本店跡、みずほ丸の内中央支店)、AMAN TOKYO*²ホテルがオープンしました。
 長野オリンピックの年1998年だったと思います。バリ島でインターネットのカンファレンスの時、某大手国際キャリア米国法人社長と意気投合、夕方から一泊だけ高原のウブドウ地区にあるアマンダリに移動。プールサイドのガゼボにバトラーサービスで、若手も呼んでのデイナーは贅沢な一時になりました。 段々畑と熱帯雨林に囲まれた高原の景色に溶け込むコテージのデザイン、レイアウトは完璧でした。 メインプールはInfinity edge(シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズの天空と一体に見える屋上プールも同じ)対岸の熱帯雨林が水面に映り込む絶景を堪能しながら、露店風呂の雰囲気を漂わせる粋な演出を楽しみました。

 神楽坂のチーズバーの人気店長だったEさんが突如AMAN TOKYOに転職、1年後アシスタント・マネージャーにビッグ・プロモーション! 人気高級ホテルカフェ勤務だけに新人育成もふくめかなり多忙。 東西線神楽坂に近いマンションなのでドアツードア30分切る通勤が可能なのはアドバンテージです! 本人曰く面接のときに“君は目力(めじから)あるね”といわれたとのこと…先日行きつけの地蔵坂のお店で神楽坂に縁の深い、元宰相の秘書Iさんに彼女を紹介したら“君目力あるね”と同じ第一印象! 仕事柄ワインとチーズについてはソムリエ目指しただけに、かなり味力(みりょく)のゴルフ大好き、目力美人です。

  大手町に日本のリゾートホテルの雄、星野リゾートがオープンしました! 世界のAMANと日本の星野の一騎打ちの大手町戦争なのか、大手町の付加価値を更に高める化学反応が起きるのか? オリンピックに向けての都心高級CITY-Hotelブーム幕開けなのか見ものです。 AMANリゾートは2013年イタリア、ベニスの250年の歴史を誇る超高級ホテルを買収、翌年CNNニュースが“世界のセレブ垂涎の七つ星、アマン・カナル・グランデでジョージクルーニーが数億円かけて1週間結婚式と披露パーテイ…”と報道。“究極の隠れ家”と世界中のセレブに支持される素敵なホテルグループですから今後も目が離せません。

 

CANAL GRANDE(外観)ジョージクルーニーCANALGRANDE(内部)ゴルフ大好きYさん 目力は隠しています

 

神楽坂のお店とバーは、自宅の延長線!

  狭くても都心に住むメリットは、何と言っても職住近接(30-40分以内の通勤)。3.11以降、職場から徒歩帰宅できるのも家族の絆として重要だと、湘南の自宅売却し、狭くても神楽坂に移転してくる人が増えています。  

  牛込神楽坂地区は武蔵野台地(標高30m前後の安定した地盤)にありお店のボトル落下被害もほとんどありませんでした。徒歩圏内においしい、楽しい、くつろげるお店があることは狭くて、小さい住居の問題点をカバーしてくれます。 独身、共稼ぎ(DINKS=Double income no kids)を問わず重要なポイントです。
 神楽坂周辺は銀座、新橋、六本木のような顧客密度が高く、大声でしか話が通じないお店は稀です。60-70年代の高度成長のとき不動産関係の人は“タンス捨てても都心に住めば値上がりのメリット享受”できるということで小さいマンションをローンで購入。高金利でも、利息の倍以上の値上がりが続き、超借り得時代でした。史上最低金利でデフレから抜けようかという今、どうもミニバブルが、周辺のマンションで発生しているようです。

  話はとびます、「間違いだらけの車選び」の著者故徳大寺有恒は、晩年ワンボックスカーの普及を見て日本のモータリゼーションの世界に夢はなくなったと嘆き廃刊宣言。しかしワンボックスカーはますます普及発展、今や、企業の社長・役員専用車そして舛添前知事、小池新東京都知事公用車として大昇格です。人気の要因は、リビング・ダイニング・ルーム・エクステンション(狭い家から飛び出し、ファミリーで温泉、キャンプ場そしてBBQに自由に、広範囲に移動し異空間と時間をエンジョイ)と天井高な居住性が魅力です。 神楽坂周辺に住み、徒歩圏にあるお店(バー、レストラン、居酒屋...)は、マイ(アワ)・バーチャル・ダイニング+バーです。飲酒歩行は泥酔しない限り、トラ箱のお世話にならず、免許取り消しにもならないのでほろ酔い歩きも安心です。(笑)

  今年うれしいニュースは、勝沼の老舗ワイン醸造所ルバイヤートのプテイ・ヴェルド2012が伊勢志摩サミットで食事に供されたワインの一つに選ばれました。東京のお店は毘沙門天裏の袋町、山梨日川高校で小説家、文壇の大御所林真理子の同級生の大村さん(三男)がオーナーです。ルバイヤートの向かいは、ワインと肉で人気の“29*³”。二階のフロア、カウンターにサッカーで二松学舎推薦入学の赤坂育ちの長身ワイルドT君が迎えてくれます。 軽子坂上り切ったところの女性に人気のシャンパン・バル・ヌメロ・サンクのオーナーは、流氷で有名な北見紋別出身のダンデイSさん、今や神楽坂に5軒経営、それぞれ個性がありいろいろな場面に合わせた飲み方ができます。毘沙門店の横道、三ツ星石かわのはす向かい、パラドール・ド・カグラのオーナー・シェフは熊本に縁の深いTちゃん。(熊本地震救援募金中)一人でも家族でも、会社の打ち上げでも予算とメニューを柔軟に対応してくれる人気のフレンチ(イタリアンでも和でもOK)です。
 今回登場のSさん、Eさんは彼氏募集中、T君も彼女募集中です。良い人がいたら一報ください、よろしくお願いします(笑) つづく

 

29(Twenty Nine) プテイ・ヴェルド2012(完売) ヌメロ・サンク   パラドール・ド・カグラ

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

*1 参照Express3、2016年3月号、「子規と響く」文(俳人・評論家)斎藤愼爾

*2 アマン東京はグループ最初のシテイホテル。伊勢志摩合歓の里(アマネム)も開業。京都も開業準備中。

*3 東京でカリフォルニア料理の店で3年以上延命は"29“が初めて(5年+)。肉料理にこだわりがあります。でも予算はお手頃。バイト男子は代々早大生、東京理科大生です。

若林成明著

 

 

 

 

 

 

 

 

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六曜  (bon)

2016-10-06 | 日々雑感、散策、旅行

 “ろくよう”または“りくよう”と読みます。 大安とか仏滅・・のあれです。

 旧暦時代の暦は、日付、曜日、二十四節気、七十二候などの科学的、天文学的な事項が書か
れるほか、日時・方位などの吉凶、その日の運勢などを表す歴注のひとつに、この六曜があり
ます。

 先日(9/28)、FBで、『友引が決まらない。葬儀業界を震撼させる2033年旧歴問題』の
記事を発見したと教わり、そういえば、旧暦の2033年には、8月から、11月の間に一月しか入ら
ないという問題があり、9月か10月のどちらかがなくなる・・という事態が発生するのです。
         詳しくは、当ブログ「閏(うるう)9月と十三夜」(2014.10.27)をご参照ください。 
そんなことから、何となく引っかかっている“六曜”について、まとめてみました。

 ウイキペディアによれば、六曜は元々は、1箇月(≒30日)を5等分して6日を一定の周期とし
て、それぞれの日を区別するための単位として使われたそうで、そもそもは中国で生まれたと
言われています。 しかし、いつの時代から暦として確立されたかなどについては定かではない
ようで、一説に諸葛亮が発案したなどの俗説があるようですが、全くの根拠はないとのことです。

           (ネット画像より)


 日本には、14世紀、鎌倉から室町時代あたりに伝来したとされ、その後名称など、少しずつ
変化しながら、19世紀初頭に現在の形になり、幕末頃には、民間の暦にさかんに記載されるよ
うになったそうです。

 六曜には、ご存じ、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口 の6種類の曜があります。これらは、
その日の吉凶や運勢などに関連付けられ、人々は、例えば、「仏も滅するような大凶日」の意味
をもつ“仏滅”は、六曜の中で最も凶の日とされ、婚礼などの祝儀を忌む習慣があり、 逆に、
「大いに安し」の意味の“大安”は、六曜の中で最も吉の日とされ、何事においても吉で、成功
しないことはない日とされ、特に婚礼は大安の日に行われることが多いほか、自動車の登録日や
納車日、建物の基礎工事着工日や引渡日をこの日にするという人も少なくない とあります。
 また、冒頭の“友引”については、「凶事に共を引く」との意味で、友引の日には、葬儀場は
休業する習わしがありました。最近では、休業しないところもあるようですが、それでも気に
する人がいるようです。 本来、仏教とは何ら関係がないのですね。 しかし、吉凶に関して、
今日でも、何かと“ゲン担ぎ”する人がいますね。

 明治時代には、吉凶付きの暦注は迷信であるとして、政府はこれらを一切禁止したそうですが、
実際にはこの統制も押し切ることは出来ず、現在のカレンダーなどには殆ど六曜が記載されてい
ます。とくに、勝負事に関する内容が多く、このため、公営競技の予想紙等には、現在でも日付
欄とともに掲載されています。

 考えてみると、あまり根拠もはっきりしないままに、昔から続いている習慣?みたいな感じの
六曜は、最近では、カレンダーは勿論、手帳などにも記載されたりして、今日に於いてもなお
影響力があるのですね。 結婚式は大安が良い、葬儀は友引を避けるなど、主に冠婚葬祭など
儀式に結びついて使用されています。

 

 ところで、この六曜は、旧暦の月日によって決まっているのです。先勝、友引・・などのそれ
ぞれの意味は割愛しますが、旧暦の毎月1日の六曜は 次のように固定されています。
(閏月は前の月と同じになります。) 
そして、先勝→友引→先負→仏滅→大安→赤口 の順で繰り返すのです。

                     

 また、旧暦の月日から計算で、次のように六曜が決まります。すなわち、旧歴の月と日の
数の和を6で割り、その余りから決まるのです。

         

 たとえば、旧暦の
        1月1日は、1+1=2, 2÷6=0あまり2 →先勝
        3月3日は、3+3=6, 6÷6=1あまり0→大安
        5月5日は、5+5=10, 10÷6=1あまり4→先負
         ・・・

 などとなり、これで計算して行きますと、お釈迦さんが死んだ日とされる2月15日は、必ず
仏滅(2+15=17、17÷6=2あまり5で仏滅)となりますが、これは全くの偶然なん
だそうです。仏滅という字面からなにやら、“仏陀が入滅した”などと解釈され易いですね。


 最後に、これまで私自身、“どうしてだろう?”と思っていた部分について、明らかになった
ことをメモしておきます。 なぁ~に、簡単なことなんです。 疑問に思っていたことといいま
すのは、日にちの下に記された、六曜が、その順番に繰り返すのですが、ある日突然、その順序
が崩れて(飛んで)しまうということなんです。
 日付に六曜が割り当てられることを「配当」というそうですが、この配当は、六曜の順に進み
ますが、上で述べましたように、1日(ついたち)については、それぞれ月に固定されていますから、
順が飛んでしまうのは、旧暦の1日の時に起こるのですね。 

         

 今月(10月)は、1日が丁度新月(朔)ですので、新暦も旧歴も同じ1日となります(旧暦は
9月1日)が、新暦の10月31日は、旧暦では10月1日となりますから、ここの所で、六曜が10月1日
→仏滅 となってしまい、先負がなくなる(飛んでしまう)のです。 
 新暦のカレンダーの上で、規則正しく循環していた六曜がある日突然途切れたり、同じ日の
六曜が年によって、月によって異なっていたりする。このことが神秘的な感じを与え、これも
六曜の人気の要因の一つともなっているというのです。


        今年も咲いてきました マユハケオモトです。(六曜とは無関係です。
           (2016.10月)

 

 

 

 

 

 

 

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日本女子オープン  (bon)

2016-10-04 | 日々雑感、散策、旅行

       ノーベル賞、3年連続の受賞に輝きました。生理学・医学賞を単独受賞し      
      た、東京工大 大隅栄誉教授は、自然科学3賞では22人目、単独では3   
      人目という快挙で、大変誇らしく思います。子供の頃、ノーベル賞受賞と
      いえば、ずっと湯川博士一人しかいませんでした。

 

 話は変わって、昨日(月曜日)の朝刊、スポーツ欄は、優勝者、史上初のアマチュア 
畑岡奈紗選手(17歳)の話題で大賑わいでした。
(日本女子オープンゴルフ選手権2016
(第49回)栃木県、烏山城カントリークラブ二の丸、三の丸コース)

 最近は、とんと見なくなったゴルフ中継を久々にじっくりと楽しみました。ニュースで、
前3日間トップを走る 弱冠15歳のアマチュア 長野未祈選手の話題を伝えていたからで
した。 最終日の最終組は、当然、長野でしたが、やはり最終組の重圧からか、
前日までの
自分ではないと思えるほど冴えが見られず、惜しくも10位で終わりました。
 その5組前にスタートした畑岡は、とても17歳とは見えない落着いたプレーを続け、
積極果敢な攻めのゴルフを展開し、スタート時点のトップとの4打差を見事に逆転し、並み
いるプロを抑えて 初優勝に輝いたのでした。 すごいことです。

         日本女子オープンゴルフ’16優勝者
          (JGA HPより)


 長野のキャディーを務めたのは、お父さんで、 畑岡のキャディーはお母さんで、時折
見せるティーグランドなどでの会話や目配せに家庭で見るそれと思わせる感じでリラックス
していたようでした。

 畑岡と一緒の組で回っている イ・チヒ(韓国)は、かってこの覇者でもあり、アウト11
番のショートホールでは、見事なワンバウンドのホールインワンをやってのけたのです。
録画再生でなく、リアルタイムのホールインワンをしっかりと見たのは初めてでしたが、一瞬
“ドキッ”としました。 イ・チヒは、このホールインワンでトップと1打差の2位となり、
上位を伺いながらの堅実なプレーで不気味でしたが、コース1の難ホールの17番、490
ヤード、パー4は、解説者の森口裕子が言っていたように、ティーグラウンドからは、左の林
がせり出し、右手にはクリークが蛇行した大変狭い打ち下ろしで、そんなイ・チヒも、左に大
きく曲げて林に打ち込んでしまい、このホールDボギーで戦列から落ちてしまうのです。

 一方の畑岡は、このため長い待ちに入っていましたが、なんと、2オンに成功し、このホー
ルをパーで上がる。 最終ホールも第2打を川越えの打ち上げをダイレクトに攻め2オン。 
下りフックラインの難しいパットを沈めてバーディ(4アンダー)。 この時点でトップに
立ち後続を待つ。
 ここで、トップを走っていた3組後の堀琴音は、17番で痛恨のボギーで、畑岡と並んで3
アンダー。 堀琴音の最終ホール、1打ビハインドとなった堀は、力を込めて2オンするも
フックラインのロングパットを残す。 
 これが入れば、プレーオフ。 なんとしても入れたい強い気持ちが伝わってきます。惜しく
も、カップオーバーしてこの瞬間に、アマの畑岡の優勝が決まったのでした。

 この大会は、アマチュアが活躍したとありましたが、優勝者を含めトップ10に3人もの
アマチュアが入っています。優勝者17歳、4位16歳、10位15歳・・恐るべしですね。 
今や、小さいころからゴルフをやり、体格、環境にも恵まれて、アマチュアのレベルがぐっと
高くなり、プロフェッショナルと技術面ではそれほどの差がなくなってきたとみるべきなので
しょう。 出場選手もみな若い人たちで、ほとんど初めて聞く名前でした。 私らに馴染みの
ある女子プロは、メイン解説者の森口裕子、ラウンド解説の、小田美岐らで、すでに裏方に
なってしまっているのでした。
 

 日本も、大きく成長し、今や成熟社会に入り、スポーツ界においてもレベルが高くなってき
ている証かも知れません。

 ノーベル賞に代表されるように、科学技術面での活躍・業績も、いよいよ成熟の域に達して
きたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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都民の日  (bon)

2016-10-02 | 日々雑感、散策、旅行

昨日、10月1日は“都民の日”でした

 都民の日 というのは、ウイキペディアによれば、1898年10月1日(明治31年)に東京市は、
市長を持つ一般市となったことを記念して、1952年に「都民の日」を制定したとありました。
制定後は、学校を休日としたり、大東京祭を開催し、河童をモチーフとした“記念バッジ”を
発売するなど、かなり派手な展開をされたようですが、最近では学校も休みでないようですし、
特別なお祭りなどはないようです。動物園、公園など都内の20ほどの施設の入場料を無料とする
に留められているようです。 バッジは、発売後20年ほどで終了したようですが、このほど
(9/16に)、完結終了したマンガ『こち亀』(こちら葛飾区亀有公園前派出所)にこの
バッジが登場して広く全国に知られたそうです。

          かっての記念バッジ
            (ネット画像より)

 

 7月末に、大量得票で当選した小池知事は、都議会改革に取り組み、築地市場移転中止を決め、
華々しいリオでの閉幕で、オリンピック、パラリンピックの両開催旗を受け取るイベントに
参加された後、豊洲問題の報告書を宣言どおり一昨日(9/30)に議会で報告されました。 
“誰が、いつ、どこで何を決定したか、何を隠したか”のピンポイントでの原因は、判明しま
せんでしたが、静かなその口調には、大変強い、厳しさが秘められていました。つまるところは、
無責任体質、情報共有がなされていない 縦割り体質が浮き彫りにされたのです。築地移転は、
決まった話で 今回の問題は大きな混乱を招いていますが、この問題は、ただ築地問題に限った
ことではない、基本的な都政の問題であり、大手術の必要性を認める初期症状の一つであるよう
に思えます。

 突然、爆弾が降ってわいた都庁各組織は、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎであるのかも
知れません。短期間に調査を求められた報告書作成は、それこそ、担当者は寝ずの活躍だった
のでしょう。あからさまに事実を出すわけにも行かず、さりとて、理論的にしっかりとガード
されたものでなくてならず・・大変だったでしょうね。 私なども、このような窮地に追い込
まれた経験は幾度かありましたね。

 豊洲問題だけでなく、4年後のオリンピック準備に関わる費用についてもメスが入って、抜本
的見直し・・が指示されています。当初予算が何倍にも膨れ上がっていることを見直そうと
いうものですね。これも関連範囲が広く、時間制限のある中、大変な問題ですね。

 記者会見での、小池知事の口調や態度は、落ち着きと柔和なそぶりを見せながら、グッと
腹に響くような強い指摘が矢継ぎ早に発せられるのです。どこかの、党代表の甲高い、ちゃら
ちゃらした批判(提案)とは大きな違いを感じます。

 この際、東京都の成り立ちを調べてみました。(ウイキペディアを参考にしました。)

 古代、534年の武蔵国造りの乱、939年の平将門の乱に始まり、中世、1333年には、新田義貞
が分倍河原・関戸で鎌倉幕府軍を破り、1457年太田道灌が江戸城築城、1603年徳川家康が征夷
大将軍に任じられ江戸幕府を開くとあります。 江戸時代には、明暦の大火(1657年)、赤穂
浪士討ち入り(1702年)、江島生島事件(1714年)、桜田門外の変(1860年)そして、大政奉
還(1867年)と変遷し、明治に入り、東京府を設置し、江戸城を中心とした地域のほか、周辺
地域の統廃合、統治組織の変更などを繰り返して、明治5年、神奈川県の多摩郡を、同8年には、
埼玉県足立郡を編入し、1878年(明治11年)には、静岡県から伊豆諸島の移管、さらには小笠
原諸島の移管するなど次第にその形態が整えられつつあり、昭和7年には、東京市、35区が形成
される。そして、昭和18年、東京府と東京市を廃止し、東京都が設置されたのです。
 第2次大戦後、壊滅状態の東京区部を、人口などを平均化するとの視点から、35区から23区に
再編され現在に至っているのだそうです。

 東京都は、人口1360万人超、職員数(警察・消防など全職員)16万5千人超、予算規模13兆円
で、インドネシア、韓国など国家規模に匹敵するというのです。その頂点に、小池知事は立って
いるのですね。

 都民の日に因んで、都民でもない まるで関係の無い老人ながら、密かにエールを送りたい
気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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